くよくよしないで前を向く。
東京在住の女性A様から「鬱っぽくて死ぬことを毎日考えてしまう。友達に話しても一般論で慰められてしまうから、坂爪さんにお会いしたい」とご連絡をいただいた。私の正しい使い方である。五年前に母を失い、最近父が亡くなった。兄弟がいないので、天涯孤独の身になった。いつもは元気に暮らしているけれど、たまに、どうしようもなく力が入らなくなることがあって、悲しみに暮れてしまう。A様は、そのようなことを言った。
誰かを失って悲しいのは、その人に会えなくなることだけではなく、その人といた時の自分にも会えなくなることだと思う。誰かを好きになることは自分を好きになることだから、誰かを失うことは自分を失うことでもあるのだと思う。繋がれた手は、どちらか一方が力を抜いただけでは離れない。片方が手を離しても、片方が手を繋ぎ続けていれば、握手は続く。関係は続く。関係性が終わるのは、どちらも手を離した時であり、自分さえ手を離さなければ、関係性は続く。愛は、続く。
大切にしていた食器が割れる。好きな会社をクビになる。親しい人を亡くす。健やかな身体が病気になる。思い入れのある土地が災害に遭う。愛着のある家から追い出される。喪失が与えるダメージは大きく、驚きに思考は停止する。だが、喪失は、必ず、何かのメッセージを残す。この出来事は、何を教えようとしているのか。死は、その人が残すことのできる、最後の贈り物だと思う。大切な人の死は、何を教えてくれたのか。喪失を通じて教えられたことは何か。心が失くしたものを嘆いている時も、魂は手に入れたものを喜んでいる。教えを生かす限り、大切な人も生き続ける。
A様は言った。父親は、自分の生きたいように生きる姿を見せてくれた。健康に長生きすることだけが人生ではないということを、言葉ではなく態度や生き方で見せてくれた。早過ぎる死だと嘆く人たちもいたけれど、私には大往生だと思えた。みんながそう思ってくれなかったことが、悲しかったのだと思う。悲しむのではなく、喜んで欲しかった。悲しんでいるばかりでは、父親が浮かばれないと思った。だけど、自分がそれをできていなかった。悲しんでばかりで、喜ぶことを忘れていた。父親の死は、私に「好きなように生きなさい」と教えてくれた。悲しみを愛に、さみしさを優しさに、喪失を力にすることを教えてくれた。
死んだ人は遠くに行ったのではなく、いよいよ近くに来たのだと思う。死者は生者の一部となり、生者は死者の一部となる。自分が喜ぶと死者も喜ぶ。自分が悲しむと死者も悲しむ。自分が美味しいものを食べれば、死者も一緒に美味しいものを食べることができる。自分が見たい景色を見に行けば、死者も一緒に見たい景色を見ることができる。だから、悲しみに浸ることは違うと思う。それは、誰も幸せにしない。悲しみに浸り、暗く生きてしまったら、周囲の人も困らせてしまう。見捨てられる恐怖や、拒絶される恐怖や、一人になってしまう恐怖を、死者の愛が照らす。悲しみの影は消え去り、喜びの光に包まれる。死んだ人を殺してしまってはいけない。死んだ人は、生きている。くよくよしないで前を向く。喪失は、私たちに「好きなように生きなさい」と教えてくれている。悲しみの涙は、出会えた喜びの涙になる。
おおまかな予定
10月14日(火)東京都世田谷区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


凄い素敵なメッセージです。 ありがとう。
もう,素敵すぎる。