こんにちは。長文になりますが、ご容赦ください。
あくまで私の見解です。
サティヤ・サイ・ババについて論じる際にまず問うべきは、日本人がインド社会やヒンドゥー哲学、宗教観に対して、どれだけの知見と寛容性を持っているかという点です。
この基礎理解や、聞く姿勢を欠いたまま語れば、どんな説明も誤解を拡大させるだけです。
そして、その誤解の矛先が最終的に向かうのは──いつも「当事者」です。
週刊文春や文藝春秋、女子SPA!などに掲載された、藤井風とサイババの関連を扱う記事は、一見“リベラル”な啓蒙の顔をしていながら、視座があまりに一方向的です。
つまり、「我々の方向こそ正しい」という立場から語られている。これこそが、私が常に警戒すべきだと言っている“偏見”そのものです。
私自身、個人的な学びや、仕事を通じたインドコミュニティとの関わりの中で感じるのは、サイババという人物、そしてその現象は、早計に白黒をつけられるような存在ではないということです。
むしろ、「日本人として判断を下すのが難しい人物」と位置づけるのが妥当でしょう。
そのうえで、宗教嫌悪が根強い日本社会では、どうしても脅威として映りやすい──これが、もっとも穏当で現実的な落としどころかと思います。
そして同時に自省すべきは、この反応が日本人特有のバイアスであるという点です。
一部の知識人やライターは、自分たちの「啓蒙性」に絶対の信頼を置きすぎています。揺らぎも、逡巡もない。
しかし、それこそが啓蒙主義が新たな宗教として機能しはじめる瞬間です。
ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(SJW)という言葉が示すように、正義が教義に変わると、そこには暴力が生まれます。
また、「宗教的要素を作品に持ち込むこと自体が説明責任を伴う」という発想も、普遍的なものではありません。
たとえば、Brandon Flowers(The Killers)はモルモン教徒、Princeはエホバの証人です。
両者とも作品に信仰の要素を部分的に取り入れていますが、「カルトだ」「説明しろ」と糾弾されたことはありません。ただ、プリンスは一部モロ過ぎるアルバム作品があるので、どうなんだこれ?という反応は出ていました。しかし、糾弾的な反応ではありません。
アメリカでは、表現の自由と信教の自由が明確に線引きされているためです。
音楽的な是非を問う声はあっても、ヒステリックな反応にはならない。冷静な批評が成立しています。
とはいえ、アメリカも決して寛容一色ではありません。イスラムに対しては厳しい視線が向けられることも多く、そこにもバイアスがあります。
ヒップホップの中にはネイション・オブ・イスラムの思想が息づいていますが、実際、それを理由に誤解や批判を受けたアーティストも少なくありません。
つまり、どの国も程度の差こそあれ、宗教と社会の関係には偏りがあるということです。
宗教やスピリチュアルに警戒するのは自由です。
しかし同時に、自分の「啓蒙性」もどこから来ているのかを警戒すべきです。
ヨーロッパ的理性や教養を絶対視することも、別の意味で“信仰”になりうる。
その線を自覚しない限り、私たちは「宗教を批判しているつもりで、啓蒙という宗教を信じている」状態に陥ります。
千葉雅也先生ではありませんが、皆さん、学び続けることを通じて「来るべき馬鹿」を目指しましょう。
本来の啓蒙というのは、そういうものだと思います。
──つまり、説明すべきは藤井風ではありません。
そう思う、私たち自身の認識です。
Quote
Mizuho.H
@_keroko
Replying to @aoismith2nd
はじめまして。スピリチュアル(正確にはスピリチュアリティ)と結びつけるのは問題はありません、またサイババについてどう責任を負うのかな、というのは私自身も疑問に思うところでもあります。
ただそれ以外を混ぜているのは本当にいただけないと私も思います…まあ難しい概念なんですが。