「死ぬ前にもう一度聴いておきたい曲」邦楽編 その1
もう間もなく「日本大震災」が発生する。「多分、生き残れないだろうなぁ⋯」なんて考えると、死ぬ前にもう一度聴いておきたい曲やアルバムが鮮明になる。「もう一度聴いておきたい曲」というのは、自分の心と体に深く刻まれている曲だ。過去に何度か聴いて「良かった」というレベルのものではない。筆者もアルバムやシングルを何千枚と買って音楽を聴いてきた人間だが、それでも身体に深く刻まれている名曲というのは100曲くらいだろうか。まぁ数えたことはないので分からないが、日本大震災が来るまでに書けるだけ書いておこうと思っている。
「DOWN TOWN」/シュガーベイブ
もはや何千回聴いてきたか分からないが、日本のロックの中でも昔も今もずっと「異質な輝き」を放っている名曲中の名曲である。今では日本のロック創世記の名曲という文脈で語られてはいるが、はっきり言って1975年にシュガーベイブを本気で聴いていた人たちなんていうのは、本当に数少ない音楽マニアの話で、後年に「シュガーベイブに影響を受けた」なんて言うミュージシャンたちも色々と現れたが、その8割はウソだ(笑)。きっと格好をつけてそう言わないといけないと思い込んでいるだけだと思う。
なにせ出してすぐにレコード会社のエレックも倒産しちゃったし、タツローさん本人が「印税をもらった記憶がない」というくらいで、当時、このシングルが何枚売れたのか、シュガーベイブの「SONGS」が何枚売れたのかなんて誰も知らないからだ。東京生まれの筆者ですら、シュガーベイブを雑誌で見たことなんかなかった。まぁシュガーベイブが登場した雑誌はあったろうが、それは一部のマニアな若者たちの世界で、「週刊明星」や「週刊平凡」には登場した記憶などない(笑)。まぁ、それは「はっぴえんど」も同じだが。
「DOWN TOWN」が発売されたのは1975年4月である。この時代はまだまだ暗かった。なにせ2年前の秋からオイルショックだったし、この年の同じ4月にはベトナム戦争がやっと終わったところで、「中核派書記長内ゲバ殺人事件」が起きていた頃だ。ヘルメット被ってタオルで顔を隠してゲバ棒降っている大学生もまだまだ残っている時である。ヒットしたテレビドラマだって中村雅俊の『俺たちの旅』で、汚いパンタロンのデニムに下駄をはいた長髪ルックが流行りで、ドラマも決して明るくなかった。
流行した曲も子門真人の「およげ!たいやきくん」、布施明の「シクラメンのかほり」、バンバンの「『いちご白書』をもう一度」、沢田研二の「時の過ぎゆくままに」、細川たかし「心のこり」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」に「スモーキン・ブギ」。トドメはさくらと一郎の「昭和枯れすゝき」。どれも暗い(笑)。子供だましの「およげ!たいやきくん」はどうでもいいが。明るいヒット曲はキャンディーズ「年下の男の子」くらいで、ユーミンだって「あの日にかえりたい」だ。
が、一方でコーラスとして山下達郎、吉田美奈子、大貫妙子が参加している「ルージュの伝言」はなんとかオリコン45位に食い込んでいる。松任谷正隆が「山下達郎がコーラスに参加していなかったらこんなポップにならなかった」と後年に語っているように、ユーミンもまだ暗かったし、シュガーベイブも売れてないからコーラスの仕事をやっていたわけで、そんな世の中がまだまだ暗かった1975年に「Down townへ くりだそう Down townへ くりだそう Down townへ くりだそう」と何の意味もないフレーズを連呼する明るいポップ・ロックが売れるわけがないのだ(笑)
その意味で、大滝さんがナイアガラ・レーベルの最初のアーティストとして、自分自身じゃなくてシュガーベイブを先にリリースした意味は大きい。この時に出していなかったら、シュガーベイブの作品は何も世にでなかったはずで、売れようが売れまいが形にして世に出してくれた大滝さんには感謝しかない。なにせ、分数和音やフラット5th、シャープ9thといったコードプログレッションを多用するし、コーラスに重点を置いた音作りでほんの一部の超音楽マニアからは支持を得たものの、あくまで1970年代初頭のサブカル・ロック・シーンでの中でも、同じようなスタイルのグループは他には全くいなかったからだ。
だって歌詞を見れば何の思想もないのが歴然としているのだ(笑)。それこそが「DOWN TOWN」の最大の衝撃だった。「えっ、なにコレ?」である。これこそが「異質」の正体で、よくぞ伊藤銀次さんはこんなフレーズを思い浮かんだなぁと感心するばかりだ。歌詞をよくみて欲しい。本当に何の思想もないことが分かる。当時のまだまだ暗い世相なんて何も反映していないのだ(笑)。それだからこの曲は昔も今も「異質」であって、J-POPには入れてはいけない曲なのである。だって、全然違うのだから。
伊藤銀次さんのインタビューで知ったのだが、「DOWN TOWN」は当時シュガー・ベイブの事務所があった新宿区笹塚のビル……今もある昭和なボウリング場「笹塚ボウル」が入っているビルのマンションの一室で生まれたという。この京王線の笹塚という街は今も明るくない(笑)。朝までやっているカフェもコロナで潰れてしまった。残念⋯。よくぞこんな暗い街で生まれたのだなと感心してしまう。
最初は、銀次さんが作った「Down townへ くりだそう」しかなかったが、そこにタツローさんがは曲を聴きながらどんどん他のパートを作っていって短い時間で完成してしまったと言っている。キング・トーンズが15周年記念のアルバムを制作するために作られた曲だったが、結局は採用されずシュガーベイブが出した、それもナイアガラから出したというのにも因縁を感じる。時代を超える名曲が生まれる瞬間というのは、いつも予定通りにいかない時だ。
この何の思想も感じさせない名曲が、筆者に与えた影響は大きい。高校生の頃、6日間を過ごして、ヘトヘトになった時に1週間をクリアするには、この明るい曲を土曜の夕方に聴いて「土曜の夜にはDOWN TOWNへくりだして明るく楽しく過ごそう!」という思想を持てたからだ(笑)。全然思想ではないが、この「何の思想も持たない思想」というやつが、後年の自分の形成に非常に役立ったと思っている。右とか左とか真ん中とか関係ないのである。そんなことより人生を楽しむということなのだが、筆者の場合は右にも左にも真ん中にも行ける変幻自在な人間だが、そんな人間になれたのは「ノンポリ」というポリシーを持ったからだ(笑)。
まだまだ時代は暗く、筆者が全然興味を持てなかったフォーク全盛の時に生まれた曲だからこそ、「日本にも楽しい音楽があるんだ!」と思わせてくれた唯一の曲が「DOWN TOWN」だった。筆者の兄は大のフォーク好きで、この1975年につま恋で開催された日本初の大規模野外オールナイトライブ『吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』に感動していたが、筆者は全く興味が持てなかった。兄には申し訳ないが、全然カッコいいとは思えなかった。その反動もあって、「絶対フォークは聴かない」と誓った頃に出会った曲だからこそ、50年も聴いてこれたのだと思っている。
1975年から現在まで変わっていないのは、「DOWN TOWN」と「ペヤングソースやきそば」が好きなことだ(笑)。初期衝動から今まで続いているのだから、好きなのでる。この素晴らしい曲を作ってくれた伊藤銀次と山下達郎、シュガー・ベイブの皆さんには感謝、感謝、また感謝だけだ。この曲とともに50年を過ごせたことを誇りに思っている。
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今回大地震来なかったら、狼少年みたいになっちまうかもしれやせんが平気なんですかい?
わたしらはそんな風には思いませんが、その、「おねぇちゃん」連中に、、、
songbird85
2025-10-13 19:32:36
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