アイヌ(河川の文化)の故地は北東北ではないか?(増補版)
北東北に沼宮内とか腐る程アイヌ語地名があって、通説的には石狩平野に始まる後北式土器の本州への伝播で、北海道から北東北にプレアイヌが移動したと考えられていると思いますが、私は逆に北東北がアイヌの故地で、北海道に移動して、石狩平野の一派が勢力を増して後北式土器を「同族の地」に南下させたと考えています。
一つに、東北地方の古墳文化人は倭人だと考えており、その北上の勢いから、後北式土器の南下程度で短期間でこれほどの地名は残せないと考えているからですし、二つに後北式土器の南下の理由が同族への伝播でなくては理解が難しいと考えているからですし、三つに北東北の縄文文化が豊かで、北上することがあっても、南下してきた勢力に駆逐されることがあるか疑問だからです。
そしてこれを裏付ける証拠があったことが、本日2025年10月7日のX上の議論で判明しました。それが北海道のイノシシ形土製品です(見出し画像は動物形土製品 | 市立函館博物館デジタルアーカイブ)。
北海道と本州の間の(津軽海峡に引かれる)プラキストン線はかなり強力で、イノシシは北海道には棲息しないんですが、イノシシ形土製品は縄文時代後期から晩期にかけて、北海道から関東地方にかけて散見されます。北海道でアイヌが生まれたとすると、イノシシ形土製品を産み出すのは無理であるはずです。逆に北東北こそアイヌの故地であれば、北海道に渡っても、イノシシ形土製品を残すのは(或いは北海道の同族に文化を波及させるのは)理解できます。学芸員の方の指摘だと、これが力の象徴としての熊の祭祀に転換するのではないかということです。こういう文化は産み出すには身近にいる動物でないと困難でしょうが、一度産み出したならば、身近にいない動物であっても保持され得ることは、容易に理解できます。人は想像上の生き物でさえ、文化として造形します。実際に存在している動物なら言うまでもありません。ただ、これは関東にもアイヌがいたことを示す証拠にはなりません。イノシシは関東にもいて、隣接する民族が文化を共有した可能性は否定できないからです。
2025年10月12日追記)「アイヌ学入門」(講談社現代新書2304 2015/2/19 瀬川拓郎)とかに猪の祭祀が熊の祭祀に転換するのではないかという指摘があるようです(未確認)。猪文化の拡散は要注意ですね。
後北式土器文化(函館市/函館市地域史料アーカイブ)によれば、①続縄文時代後半期には、その初めには道央に限られた後北式土器が、やがては全道一円に進出するとともに、東北地方南部まで分布域を拡大した。②続縄文時代前半期には海岸線に沿って遺跡の分布がみられたが、後半期には河川沿いに遺跡が分布する傾向を見せることから、この時期になって海洋での漁労・狩猟活動から、河川での漁労活動に生産手段が変化したと考えられる。・・・ということのようです。
私が思うに、この河川の文化のルーツが北東北(+渡島半島?)ではないかと思います。縄文文化は河川の文化と言われるからです(水を得るため、河川沿いに集落が形成されたとされる)。私が思うに河川の漁労は二次派生的な文化で、農耕文化の拡散で集落の人口を維持する為、飲料水を得やすい河川沿いに集落を形成した、或いはもっと直接的に農耕に水が必要である為に河川沿いに集落を形成したような気もします(本土の縄文集落が河川沿いに形成された理由も、農耕の存在が見落とされている気がしてなりません)。
具体的にプレアイヌの農耕とは何か。恐らく、アイヌの農耕と同じく主体は雑穀(ヒエ、アワ、キビ、ソバ)栽培なのでしょう。沙流川流域では河原や中州に「ピクタトイ」と呼ばれる川洲畑を作り農耕を行っていたようです。これは遺物が残り難いと思われ、盲点になっているはずです。なお、岩手県は伝統的な雑穀生産に取り組んでおり、全国の生産量の6割を占めます。
いずれにせよ、北海道の縄文文化が海の文化だったとすると、本土の縄文文化とは別系で、河川の文化のアイヌ文化のルーツには成り得ないのではないかと思います。なお、アイヌ語地名の代表格のナイとかペツは河川を表す地名だということは良く知られていられているところです。
江戸時代のアイヌの遺伝子の分析で、アイヌは本土縄文、北海道縄文、オホーツク文化人(大陸シベリア人)との混淆だとする研究があるとの指摘をいただきました。ただ一般論ですが、言語の拡散と遺伝子の融合は乖離して起こる可能性は十分あると思います。例えばインドに印欧語族がいますが、外見はインド色が濃いです。アイヌ語が北東北から北上して北海道に拡散することと、3つの文化集団(大陸シベリア・北海道・本土)が遺伝的に融合するのは矛盾しないと考えます。なお、ご紹介の研究が正しいとして、大陸シベリアの遺伝子は通説的に考えるとオホーツク文化人に由来するのでしょうが、山丹交易に関わる可能性も考えられ、その辺は何とも言えない(保留したい)ところではあります。
大和に圧迫されて蝦夷が北上したのかという質問をいただきましたが、大和の圧迫もあったかもしれません。ただ、大和との交易の強化でプレアイヌの文化が強化され、北海道に拡散していった(在来系を駆逐した)可能性も考えています。時期的には(続縄文時代後半期に)後北式土器が(南下だけでなく)北海道にも広がるところが画期になるかと思います。ただ石狩平野で生まれた後北式土器を起点にするのではなく、北東北・渡島半島人の北上で後北式土器が生まれたような感じがあり、もっと遡ってルーツを調べた方がいいような気がします。何もないところから石狩平野に自生的に強い文化が生まれたと思えないところがあります。
秋田には猪がいないとのご意見をいただきました。確かに猪は雪に弱いとされますが、近年では(秋田を含む)豪雪地帯にも出没するようです。縄文時代中期後半以降に寒冷化するまでは、今より温暖だったと思われ(縄文海進)、(北海道は兎も角)猪がもっと北にいた可能性はあると思います。寒冷でも(豪雪地帯ではない)太平洋側にはいたかもしれません。いずれにせよ、その動物がいないところで、その動物の文化が生まれる訳ありませんし、受容もそう簡単ではないと思います。
参考記事)縄文農耕はあった|古墳時代史解題
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