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いまドストエフスキー 5 ロシア正教の異端派  加速主義とは?

A.分離派と異端派 
 これを読むまで知らなかったことだが、ロシアは東ローマ教会の伝統を継ぐロシア正教が、ロマノフ王朝の帝政以来国教として定着した国で、西欧カソリックのキリスト教とは違うけれど、一大勢力を誇っている、と思っていた。しかし、じつは異端派の存在も小さなものではなかったらしく、ドストエフスキーの生きた19世紀後半のロシアでは、「鞭身派」と「去勢派」などの動きが活発だったという。しかし、旧ソ連の時代に、ロシア正教会は共産党政権から迫害もうけたが生き延びた。
 ロシア連邦の中で最大の正教会だがその正確なデータはないという。ソ連時代でさえ4000万から5000万(ローソクの売り上げ数から割り出す)の信者と言われていた。現在、ロシア連邦内に7500万(NHK)とも1億近くとも(タイムス97年)。ウクライナ(信者3500万)、ベラルーシなどの独立国家共同体の正教会も何らかの形でモスクワ総主教庁に帰属する形だが、国家と結びついているのが特徴なので、今のウクライナ戦争などではモスクワとの距離を深めているという。
 教会階位のトップである総主教の管轄地域が「モスクワ及び全ロシア(Русь)」と定められているのは、ロシア人以外のスラブ系諸民族及び少数民族でも洗礼を受ければ、ロシア人(Русские)とは言わないまでもロシア国民(Россияне)とみなした歴史があるからという。現在ロシア正教会には主教職に約160名(国内85名、ウクライナ37名、ベラルーシ10名、その他の外国22名)、司祭・輔祭職に約2万名が在籍し、約150の主教区に所属している。 それぞれの主教区は複数の教会からなる教会管区を構成し、司祭が管区長を勤める(ロシア正教会では、神父・司祭・牧師のどの用語も使うが、呼びかけの時は神父を用いる)。以上がロシア正教の概略だが、異端である鞭身派とか去勢派という異端のセクトは、かなり過激な主張をもっていたという。

 「正教会から離反した人々は、時とともに、教会容認派である「有僧派」と教会否定派のよりラディカルな「無僧派」との二つに大きく分れ、さらにその周辺には数多くのセクト(異端派)が点在していた。異端派のなかで最大の派閥を誇っていたのが、鞭身派(フルイストウイ)(хлыст)と呼ばれる一派である。ダニール・フィリッポフを始祖とするこのセクトは、ロシア国内にすみやかに勢力を広げ、十九世初頭には、非公式ながら、信者数百万人を数える一大勢力を形づくっていた。その理由はいくつかある。そもそも「キリスト教(フリストゥイ)」とみずからを名乗る彼らは、儀礼の際にたがいの体を縄などで打ちあうなどしながらエクスタシーを得ることに由来し、正教会から「キリスト派」ならざる「鞭身派」と蔑まれていた。ラジェーニェと呼ばれる儀式は、一種の性的乱交と化し、著しい退廃を生んだ。そうでなくても、楽しみの少ない農村でこのセクトが、性のタブー視の姿勢にもかかわらず、一種のユートピアと同一視されたのは不思議ではなかった。
 こうした流れに抗し、コンドラーチー・セリワーノフという人物を開祖として開かれたのが去勢派(скопец)である。
 最近ロシアで出たパンチェンコの研究「ロシア民衆文化における反性性」によると、去勢派が誕生し、その運動が加速的に広まっていった理由の一つに、ほぼ同じ時期に、ユダヤ教の異端派たちが、ロシア中部の各地で去勢を実行していった事実が挙げられるという。一種の「相乗効果」が起こったのだ。
 去勢派たちのラディカルな信仰の源にあったのは、いうまでもなく、原初的なアダムとイブの神話的な楽園への回帰であり、原罪の回避であり、「罪なき」、天使のような身体を取り戻したいという願望であった。そのための方法として去勢があった。
 入信者は、当初、かならずしも去勢が義務づけられていたわけではなかった。それぞれが独自の戒律をもつ「船」と呼ばれる共同体では、去勢を受けるか否かは入信者の自由意思に委ねられていたところもある。ただし、去勢を受けること、ないし、去勢者であることは、同じ共同体のヒエラルヒーのなかで、「漕ぎ手」「白いキリスト」と呼ばれ、上位を占めるための不可欠な条件であった。去勢派の信徒たちは、じっさいにその数が、十四万四千人となった暁に、一気にそれが加速されるはずだと信じていた。ちなみに、この数は、ヨハネの『黙示録』で、イスラエルの十二の部族から一万二千人ずつ、全部で十四万四千人の選民が神によって額に「印」を押された逸話に由来している。
 共同体の儀式で、じっさいに去勢を行なったのは、その道の達人(マステル)や老婆であり、彼らは、求めに応じて、村から村へ、「船」から「船」へと渡り歩いた。場所は、都市部の一般市民の住居が舞台となることもあれば、蒸風呂、あるいは穀物乾燥小屋で行われることが多かったとされる。
 先ほど、神によって額に「印」を押された選民について触れたが、ロシア語で去勢手術は、いっぱんに焼き鏝などを意味する「ペチャーチ」の語で表され、他にもたとえば、「白くすること」の意味に用いられる「ウベレーニエ」、「清潔さ」を意味する「チストター」の象徴的な名称で呼ばれることが多かった。
 去勢手術は、男性の場合も、女性の場合も、それぞれに小と大の二つの段階があった、ちなみに、男性の場合、睾丸は「地獄の泉」と、ペニスは「奈落の泉」と呼ばれていた。「第一の」段階の去勢は、ペニスの切断を、「第二の」ないし「皇帝の」と呼ばれる去勢は、睾丸の摘出まで含むものであった。ただし、もっとも流布していたのは、「第一の」去勢であり、他方、ごくまれに、「第三の」去勢の例として、胸の筋肉を削り取る例もあったとの記録が残されている。去勢手術により女性ホルモンの分泌がうながされた結果生じる胸のふくらみを不浄とみなしたためだろうか。
 他方、女性においては、主として五つの段階の去勢があり、乳首に焼き鏝をあてたり、切断したりする方法、乳房を切除する方法(一つないしは両方の乳房)、また、大陰唇の上部と小陰唇および陰核を切断する例で、なかでも去勢派入信の際にもっとも流布したのは、前者の両方の乳房を切り取る例だったとされる。いずれにせよ、出産には直接的には影響が及ぶことがないように配慮されていたと思われる。
 しかし、こうした直接的に性とかかわる器官の去勢のほかに、身体のさまざまな部分に焼き鏝を当てたり、傷をつける例も補足的に行なわれた。その場合、刺青のように、皮膚に十字形の傷をつけることで、「天使の位階」に属する信徒を聖別化した。
 去勢には、純粋に宗教的な動機もさることながら、ほかにさまざまな世俗的な動機が伴った。たとえば、コレラの流行や貧困や飢餓に苦しむ農奴たちが、性を罪深いものと感じ、生殖を避けるために去勢する例もあったとされる。
 先のパンチェンコによれば、去勢の手術にともなう苦痛に耐える際、信者たちは「キリストは蘇りたまえり」を連呼するのだが、その連呼は、磔上でのキリストが嘗めた苦しみに同化するという高尚な動機に従っていたわけではなく、先ほども述べた去勢派の教祖コンドラーチー・セリワーノフが、スノフスカという村で受けた鞭による拷問での苦しみへの同化が根本にあったのだという。
 すでに述べたように、去勢派の問題は、ドストエフスキーの関心を、ぬきさしならぬアクチュアリティでもって領有した。その理由についてはいずれふれるが、何よりも『カラマーゾフの兄弟』とのつながりで興味を引くのは、「清潔さ」こそが最も重要な救済の手段とみなされ、キリストと十二人の使徒たちの十三人の聖人たちがすべてみずから去勢していた、と真剣に信じられていることである。キリストの去勢という「事実」に対する信仰は、もちろん聖書にある一般的な記述に由来していたことはいうまでもない。
 ちなみに歴史上、去勢派にかんする記述がはじめて現れるのは、1772年7月、場所はオリョール県(この場所の名前はしっかりと記憶にとどめておいていただきたい)のことで、当時のエカテリーナ二世が、「ある新しい種類の異端」の調査のためオリョール県に係官を遣わしたのが、そもそものきっかけである。十九世紀になると、鞭身派とならんで去勢派も、皇帝権力を脅かすほどの無視できない存在となり、時のニコライ一世は、去勢派の信徒をシベリア流刑に処したほどであった。興味深いのは、去勢派は地上の肉欲を退けるかわりに、宝石や金品を崇拝して、蓄財に励むものが多く、表向きは、一般の正教信者以上に熱心に祈り、蓄財の一部を教会に寄進していたことである。ちなみに「去勢する」(скопец)と「貯蓄する」(скопец)は同じ単語である。
 国教である正教から分離した人々の数は不明だが、ドストエフスキー自身も深くかかわったペトラシェフスキーの会の主宰者ペトラシェフスキーは、1849年の逮捕の際、分離派の数をじつに七百万人とし、1867年に革命家のオガリョフは、「ありとあらゆる政府の迫害にもかかわらず、わが国では人口のほとんど半数のうちで分離派が保持されている」と書いている。これらの記録には多少誇張も含まれていると思われるが、内務省の調べによると1820年代には少なくみつもって百万人の分離派がいたとされ、十九世紀末にはその数は二百万人近くに上っている。ドストエフスキーと同時代の1850年代に行われた調査では、モスクワの北、ロシア中央部に位置するヤロスラヴリ県の三分の一が分離派であったとの記録が残されている。公式の統計と実数には大きな違いがあったとされ、潜在的にその数倍という恐るべき勢力を誇っていたのである(ただしこの数値では、分離派と異端派の区別が明らかではない)。
 アレクサンドル・エトキントの研究によれば、「十九世紀の後半、鞭身派はロシアの人口でいうと、その広がりにおいて、正教会と古儀式派(分離派――筆者注)につぐ第三番目の宗教となっていた」という。
こうして、ロシア民衆とロシア社会の隠された部分に光が当てられ、都市の知識人たちにその恐るべき実態が広く知られるのは、農奴解放後間もなくのことだった。
 「農奴解放」から五年後の1866年は、分離派の誕生から二百年目の年にあたっていた。その年に起こったカラコーゾフ青年による皇帝暗殺未遂が、分離派や異端派による世俗権力の抹殺を意味するものとかりに理解されたとしても不思議はない。
 こうして性に対する極度のタブー意識をもった「鞭身派」「去勢派」の二つの異端派が競合し、勢力を増していくなかで、ロシア社会は深い秘密を隠しもつにいたった。とりわけ去勢派の勢力増大は少子化の危険をはらむものであったので、国力の弱体化を恐れた皇帝権力は、初めての「異端派狩り」に乗り出した。これが1844年のことであり、この年は同時に、二十三歳のドストエフスキーがデビュー作『貧しき人々』を書き始めた年でもある。
 ドストエフスキーはもともと、内向と開放の二進法的なリズムで行動する作家だった。落ち込めばとことん落ち込み、調子づけば、どこまでも驕りたかぶる一面をもっていた。そうした彼の青春時代の性体験をめぐって、興味深い洞察力を示しているのが、二十世紀イギリスの歴史家E・H・カーである。彼は、ドストエフスキーがかなり早い時期に女性体験をもち、性的な抑圧からは解放されていたと推測している。異端派に対する弾圧がつよまるなかで、旺盛な精神力の持ち主であるドストエフスキーのなかに、「去勢派とはなにか」という関心がにわかに迫り出してきたとしても何ら驚くにはあたらない。異端派への関心は、ドストエフスキーの衒学的対象ではけっしてなく、それ自体が彼の内面のドラマをくっきりとなぞるものであった。
 すなわち「鞭身派」と「去勢派」の双方への関心が、「堕落した父=皇帝」と「去勢派=農奴」との分裂・対立というロシア文化史の基層と深く関りがあることを発見したとき、ドストエフスキーの文学は、恐るべき地平を切り拓くにいたった。以来、「鞭身派」と「去勢派」、「性」と「反性」の分裂というテーマは最後の『カラマーゾフの兄弟』にいたるまで、連綿と彼の小説世界の基本を形づくる重要な要素となるのである。
 そこでわたしはふと現代社会に目を向けてみる。
「性」のタブーをめぐって、「堕落した父」と「去勢派」が繰り広げる世界は、グローバリゼーションの時代にあって、「堕落した父」=アメリカと「去勢派」=イスラームとの戦いと驚くほど似てはいまいか。インターネットによる情報のグローバル化は、多元的な価値観を根こそぎ破壊し、世界を一元的な砂漠に変えようとしている。解放と開放の流れは、一つの国家がいかに規制をかけ、自己防衛に努めようとも、有効な歯止めとなることはない。イスラーム原理主義をとなえる人々が感じる危機とは、自分たちの精神世界が“壊される”恐怖だが、その恐怖すら、ゆくゆくは取り除かれていくことになるのだろう。正直なところわたし自身この一元化に不気味な恐怖を感じ、ドストエフスキーの小説と、十九世紀後半のロシアのテロリズムの世界が、今後の世界の行方を解き明かす大事なヒントになるのではないかとまで空想することがある。
 ドストエフスキー後期の小説で描かれる主人公たちは、その多くが本質において「テロリスト」としての資質を負っている。しかもその「テロリスト」が、異端派の流れを汲んでいる事実を見のがすことはできない。
 『罪と罰』で高利貸の老婆アリョーナらを斧で殺した元大学生ラスコーリニコフも、キリスト教異端派の家庭で育った青年である。『白痴』の女主人公ナスターシャを殺すロゴージンも去勢派の末裔であることが暗示されている。『悪霊』に登場する革命家ピョートルは、政府転覆のために去勢派の利用を考えていた。『カラマーゾフの兄弟』で堕落した父フョードルを殺すのは去勢派のスメルジャコフである。また『カラマーゾフの兄弟』の続編すなわち「第二の小説」では、『私の主人公』アレクセイ・カラマーゾフみずから、きびしい性的タブーに縛られた異端派へ走った可能性がないでもない。では、ドストエフスキー自身はどうであったのか。」亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』文春文庫、2007、pp.82-91. 

 身体を痛めつけることで宗教的エクスタシーにいたる教義。いろいろな宗教には激しい修行や生死すれすれまで鍛える宗派があるが、なんだかここまでくると、神秘主義的狂信の世界に見えて、一般の信者には到底ついて行かれるものとは思えない。だが、ドストエフスキーの小説である種の狂気を秘めた人物が登場しているのは、そのような宗教の影響があるのだろう。亀山氏はそれを「テロリスト」と呼び、現代のアメリカ的な合理主義に対して暴力的に対抗するイスラム原理主義にまで言及する。多少飛躍があると思うが、確かにこういう読みもできるところがドストエフスキーなのだろう。


B.accelerationism?
 20世紀後半に、東の社会主義国家が崩壊して、アメリカ的グローバル資本主義が世界に蔓延した結果、われわれが地球で豊かに生き延びる方法は、資本主義経済システムのさらなる合理化高度化を極限まで追求するほかない、という言説が支配的になった。しかし、地球環境は資源の枯渇や温暖化などでそんな楽観的見通しは正直嘘っぽくなり、むしろこの先には資本主義の破綻がくると考え、ならばこの傾向に逆らうのではなく、極限まで加速してしまおうというのが「加速主義」というものらしい。

 「加速主義化する日本: 神戸女学院大学名誉教授・凱風館館長 内田 樹 
 ある講演会で大阪の維新政治十五年の総括を求められた。行政、医療、教育どれをとっても大阪市府の現状は高い評点を得られるものではない。だが大阪での維新の人気は圧倒的である。なぜ政策が成功していない政党を有権者は支持し続けるのか。維新政治に批判的な人たちは有権者が維新政治の実態を知らないからだという解釈を採っている。大阪のメディアが維新の広報機関と化しているので、有権者は維新政治が成功していると信じ込んでいる。だから、真実を知らしめれば、評価は一変するはずだと言うのである。そうだろうか。私は違うような気がする。
 大阪の有権者は大阪で何が起きているかちゃんと知っているのだ。それは日本の未来を先取りしているということだ。大阪は実は「トップランナー」なのである。公務員は減らせるだけ減らす。行政コストは削るだけ削る。社会福祉制度のフリーライダーは一掃する。学校教育では上位者の命令に従うイエスマンをつくり出す。これらはアメリカの「加速主義者」たちが主張し続けてきたことといくつかの点で重複する最新の政治的主張なのである。
  • * * 
 加速主義というのは2010年代アメリカに登場してきたホットな思想である。資本主義はすでに末期を迎えている。人類は「ポスト資本主義」の時代に備えなければならない。だが、「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって、資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。
 映画を倍速で観る人たちが多数派を占めつつある時代にふさわしい思想だと思う。結果の良否はどうでもいい。結果を今すぐこの目で見たいという欲望のあり方は私にも理解できる。「棺を蓋いて事定まる」とか「真理は歴史を通じて顕現する」とかいう考え方は「ことの良否が定まるまでには長い時間がかかり、生きている間には結果を見ることができないかもしれない」という人間の有限性の自覚に基づいている。当然「そんなの嫌だ」という人もいるだろう。自分が今していることの意味は今すぐ知りたい。判定を「後世に待つ」というような悠長なことには耐えられない、と。
  • * * 
 この加速主義的傾向は今社会のあらゆる領域に広がっているように思われる。「世界標準は…なのに、日本だけが取り残されている」とか「バスに乗り遅れるな」というタイプの定型句は政治的立場を超えて頻用されている。気候変動についても、金融危機についても、原発再稼働についても「待ったなし」だと人々は言う。そのことに私はいささかの不安を覚えるのである。
 加速主義的傾向が支配的な社会では「スピード感」がすべてを押し流し、浮足立った気分を煽る人たちが世間の注目を集める。そうして焦燥に駆られて採用された政策がいかなる結果をもたらしたかの事後的検証には人々はもう興味を示さない。未来を早く知りたいという焦燥感は私にも理解できる。だが、過去を振り返り、失敗から学習する習慣を失った人たちの前に明るい未来が開けることはたぶんないと思う。」東京新聞2023年3月19日朝刊、5面社説・意見欄「時代を読む」。
 
 念のため「加速主義」とは何か?をWikipediaで引くと、以下のような説明があった。
 「政治・社会理論において、根本的な社会的変革を生み出すために現行の資本主義システムを拡大すべきであるという考えである。現代の加速主義的哲学の一部は、広範囲にわたる社会変革の可能性を抑制する相反する傾向を克服することを目的として、脱領土化の力を特定し、それを深め、急進化することを目的としたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの脱領土化の理論に依拠している。加速主義はまた、資本主義を深化させることは自己破壊的な傾向を早め、最終的にはその崩壊につながるという信念を一般的に指す言葉でもあり、通常は侮蔑語として用いられる。すなわち、テクノロジーの諸手段を介して資本主義の「プロセスを加速せよ」、そしてこの加速を通じて「未来」へ、資本主義それ自体の「外 the Outside」へと脱出せよというメッセージである。 
加速主義理論は、互いに相違する左翼的変種と右翼的変種に分けられる。「左派加速主義」は、例えば社会的に有益で解放的な目的のために現代の技術を再目的化することによって、資本主義の狭義の範囲を超えて「技術進化のプロセス」を推進することを試みる。「右派加速主義」は、おそらく技術的特異点(シンギュラリティ)を生み出すために、資本主義それ自体の無限の強化を支持する」

 ふ~ん、でもここで内田樹氏が考えているのは、もっと単純で破れかぶれともいえる米国流加速主義で、それを日本にもってくるとさらに、後先考えないバカバカしいネオリベ神経症的破壊衝動になってしまう、と批判している。大阪で維新がやっていることは、確かにそういうことなのかもしれない。
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