毛利輝元と側室・二の丸殿について
今回は毛利輝元と側室・二の丸殿(児玉元良の娘・清泰院)について呟いて行こうと思う。毛利輝元は毀誉褒貶激しい人物であるが広島の街を作り上げ、また毛利氏の体制が国衆連合の盟主的な立場で旧来のままであった中で中央集権化を成し遂げるなどの功績があり、調べれば調べるほどとても興味深い人物である。輝元もまた事績などは様々な媒体で既に触れられているのでここでは個人的に興味を持った事柄に焦点を当てて触れていきたい。
<略歴>
毛利輝元は天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として誕生した。母尾崎局は毛利氏の主君大内義隆の養女(内藤興盛)であり、輝元は義隆の養外孫にあたる。永禄6年(1563年)8月、父・隆元が亡くなったことから幼くして祖父元就後見の元当主となる。元亀2年(1571年)6月に元就が死去するまで二頭体制となり、元就死去後は叔父である吉川元春と小早川隆景という「両川」に支えられながら主体性を発揮していく。元就生前は織田政権とは友好関係にあったが国境を接するようになり、また義昭の毛利領国下向が決定打となり対立。最後は不利な状況になるも本能寺の変で信長が急死したことにより和議を結び、その後継政権である豊臣政権とも紆余曲折はあるも国境画定により安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、隠岐と備中西半分、伯耆西半分の領有で決着する。その後は豊臣政権に臣従するも四国征伐では伊予領有を主張し認められる(小早川隆景に与えられる」など一定の影響力を保持した。
官位面では天正16年(1588年)7月25日に従四位下・侍従となる。28日には早くも参議に転任し清華成を果たして武家清華家の一員となる。文禄4年(1595年)1月6日には従三位・権中納言に転任。これにより宇喜多秀家や前田利家に官位面でも並びうる政権でも屈指の高位高官に昇り、また豊臣政権の中枢を担う五大老の一員となる。
五大老としては当初は小早川隆景と合わせて筆頭の徳川家康に次ぐ立場も秀就誕生による秀吉娘婿の秀元嫡子辞退、隆景の死去等で重要度は低下し、結局政権次席は前田利家に譲ることとなる。
秀吉死去後の政局では五大老の一人として参画。この際浅野長政を除く四奉行と誼を通じている。
関ヶ原の戦いでは三奉行の誘いに応じて上坂。主に西国一円の領有化を狙い積極的に行動するも東軍が岐阜城を落とし決定的有利となったことから講和(事実上の降伏)し、120万石の太守から防長二カ国29万8千石に減封となる。
その後出家するも事実上の当主として当主秀就を後見し、家中で独立性の高い国衆の粛正・統制と有力一門である秀元と吉川広家を巧みに家中に取り込み毛利氏の体制を旧来の国衆の盟主的立場からの脱却と中央集権化に成功する。
こうして長州藩の基礎を築いた後、寛永2年(1625年)4月27日に萩で73歳で病没し、その生涯を閉じる。
<毛利氏と豊臣政権その① 婚姻関係>
毛利氏は豊臣政権から見て比較的畿内に近い位置に領国を持つ大大名であり、当然重視するとともに関係を強化するために婚姻関係を何度か結んでいる。
具体的に見ていくと
羽柴秀勝(信長四男、秀吉継嗣)と輝元養女
吉川広家と秀吉養女・容光院
毛利秀元と秀吉養女・大善院
小早川秀秋(元秀吉継嗣、羽柴一門筆頭格)と輝元養女・古満姫
である。
このうち羽柴氏継嗣である羽柴秀勝と輝元養女の婚姻は後の豊臣秀頼と徳川秀忠娘・千姫の婚姻と似た立場にあり、仮に秀勝が夭折せずに羽柴家当主となれば輝元は天下人の岳父となる可能性もある大変重要なものであった。しかし秀勝は婚姻後一年で夭折し改めて吉川広家と秀吉養女容光院が婚姻するものの容光院もまた早逝してしまう。
三たび毛利氏継嗣である毛利秀元と秀吉養女大善院の婚姻が成立するものの成立直後に輝元の実子松寿丸(後の秀就)が誕生するなど毛利氏と羽柴氏の縁戚関係はすれ違いの連続となり、これが後述するように毛利氏が五大老の中で徳川に次ぐ立場から前田に抜かれる要因の一つになったと思われる。
また小早川隆景の養子となった羽柴秀俊(小早川秀秋)は隆景養女ではなく輝元養女と婚姻したことからも前例と同様に毛利氏と羽柴氏の縁戚化の一環であったと推測するが、隆景死後に事実上毛利氏一門から分離し、また輝元養女古満姫とも慶長4年(1598年)9月に秀秋と他の女性(妾か、正式に認可されていないため側室とは異なる)とに庶子が産まれたことを契機に離縁するなど関係強化に結びついたとは言いがたい。
結果的にすれ違いが多く有効であったとは言い難いながらもこれだけ羽柴氏と多く婚姻関係を結んだ例は稀であり、それだけ豊臣政権及び秀吉が毛利氏の存在を重視していた表れであると言える。
<毛利氏と豊臣政権その② 五大老の中での立ち位置>
輝元は秀次事件後に成立した武家清華家の有力大名が連署する「御掟」五ヶ条及び「御掟追加」九ヶ条の6人に名を連ね、後に五大老(この時点では六大老)と呼称される豊臣政権内の最有力大名の一人となる。この時点で毛利氏は一門で同じく六大老に名を連ねた小早川隆景とセットで徳川に次ぐ有力大名筆頭格と見做されていた。これは毛利氏の石高が徳川に次いでいたことと前述のように畿内に近接する大大名であること、また当時から才人と名高く秀吉からも高く評価された隆景や、同じく秀吉の娘婿であり気に入られていた逸話も残る秀元の存在等複数の要因が組み合わさっての事であった。
しかしその後小早川隆景の死去や秀就誕生により秀元の継嗣辞退及び取り決めによる所領分配で毛利氏当主として羽柴氏縁戚の立場の喪失が重なり、政権内での地位は低下していったと思われる。事実秀吉遺命時は官位面でも前田利家が権大納言と輝元ら他大老の権中納言より高位に昇り、また家康と並び後見人として事実上の「二大老制」とすら称される強い権限を得た。
これに関して毛利氏及び輝元の見解は定かではないが秀元の所領分配問題で「大老として同格である徳川家康」に介入された事も含め心情的に鬱屈としたものがあったことが想像出来、これが後の西軍決起の一因となった可能性がある。
<毛利輝元の身長・体格>
武将の身長や体格を推測する方法は甲冑の胴高が挙げられる。毛利輝元所用の「紅糸威胴丸具足」は胴高35cm、「鶉韋包紫糸威仏胴具足」の胴丈は34.5cmと分かった。具足胴高38cmの政宗は159.4cmなので輝元の身長は155cm前後と推測する。肖像画を見る限り身長は平均よりやや低いながらもガッチリとした西国太守に相応しい堂々とした体格であったように思う。
<側室・二の丸殿について>
二の丸殿は元亀3年(1572年)、毛利氏の家臣・児玉元良の娘として誕生する。当初は杉元宣に嫁ぐも輝元が二の丸殿を奪い側室とする(これを了承せずにいた元宣は粛正される)。これは輝元の太守としての驕りが招いた事件であり、当主としての資質に欠ける所業であると言える。
その後一度は隆景に折檻され諦めるものちに二の丸殿と関係を改めて結び、文禄4年10月18日(1595年11月19日)に秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日(1602年10月17日)に就隆を出産している。輝元の側室となった後は正室南の大方を恐れたという通説と異なり、継嗣生母として娘の婚姻相手の希望を輝元に伝えるなどそれに相応しい立場にあった。
慶長9年(1604年)8月1日、山口で病死する。この際南の大方により萩に入れなかったと言われるがこれは誤りで、当時輝元は萩入城前で同じ山口におり、最後まで継嗣生母として、輝元側室として尊重された立場であった。
以上のように毛利輝元及びその側室である二の丸殿について気になった点を述べてきた。毛利輝元は五大老としての立場や内政など興味深い点が多々ある人物なのでまた個別に呟いて行ければと思う。


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