yamanekoさんが来遠の折、本宿の宝領社を巡り、その後に金勢神社に立ち寄ったが、その金勢さんに行く途中の道路脇にあった社。その時には、稲荷さんか何かだろうと言って通り過ぎた神社が本日の柏崎熊野。この辺りに、熊野さんか何かの神社があっても不思議ではないのだがと言いつつ、見つけることかなわず。

一如さん曰く熊野ってる私だが、仲間達と作った神社データブックを再確認すると、ちゃんと載っていた。何をやっているのかと自分に言い聞かせながら、再度、足を運んだ次第。
狭い境内には、熊野大権現と稲荷大明神が並んである。例祭日は旧6月15日
昔、光岸寺が火事にあったとき、この熊野さんが鷹になり、その翼を広げて火事が家にこないように追い払ったという謂れのある社である。
現在の建物は70年前に再建されたもので、以前は現在地より山側にあったが、改良工事に伴い移したものである。(山際ばかり見ていて社がありそうだと感じた私の勘ははずれていなかった)
また、この熊野さんは、取材当時(H15)88歳になるおばあさんから聞いたところによると、この方の前に3代あり、それ以前からのものであると言う。(察するに江戸時代には在ったことになる。)栃内周辺の場合、光岸寺が火災にあっている為なのか、青笹の方々と違って何代続いているという確実なところがよくわからない場合が多い。

この熊野さんの道路を隔てた南側の住宅敷地内の木立の中に社が見える。以前にそのお宅の方に聞いたところでは、八幡様であるとのこと。かつて、この社にはしし踊りの頭が置いてあったという。いつの頃のものかはわからないとか。
この辺りで踊られていたしし踊りということから推察すると和野しし踊りではなかったかと思われる。
土淵には、似田貝神楽、柏崎しし踊り、飯豊神楽、野崎神楽、山口さんさが残っているが、消えた郷土芸能もまた多い。和野しし踊り、足洗川しし踊り、柏崎神楽、芸能ではないが裸参りなど。隣の青笹が神楽一団体、しし踊り一団体のみになってしまったことを考えると、まだ、良いほうなのかもしれない。
最後に、ここの熊野さんでもかつては神楽が奉納されていたという。別当は佐々木姓である。
一如さん曰く熊野ってる私だが、仲間達と作った神社データブックを再確認すると、ちゃんと載っていた。何をやっているのかと自分に言い聞かせながら、再度、足を運んだ次第。
狭い境内には、熊野大権現と稲荷大明神が並んである。例祭日は旧6月15日
昔、光岸寺が火事にあったとき、この熊野さんが鷹になり、その翼を広げて火事が家にこないように追い払ったという謂れのある社である。
現在の建物は70年前に再建されたもので、以前は現在地より山側にあったが、改良工事に伴い移したものである。(山際ばかり見ていて社がありそうだと感じた私の勘ははずれていなかった)
また、この熊野さんは、取材当時(H15)88歳になるおばあさんから聞いたところによると、この方の前に3代あり、それ以前からのものであると言う。(察するに江戸時代には在ったことになる。)栃内周辺の場合、光岸寺が火災にあっている為なのか、青笹の方々と違って何代続いているという確実なところがよくわからない場合が多い。
この熊野さんの道路を隔てた南側の住宅敷地内の木立の中に社が見える。以前にそのお宅の方に聞いたところでは、八幡様であるとのこと。かつて、この社にはしし踊りの頭が置いてあったという。いつの頃のものかはわからないとか。
この辺りで踊られていたしし踊りということから推察すると和野しし踊りではなかったかと思われる。
土淵には、似田貝神楽、柏崎しし踊り、飯豊神楽、野崎神楽、山口さんさが残っているが、消えた郷土芸能もまた多い。和野しし踊り、足洗川しし踊り、柏崎神楽、芸能ではないが裸参りなど。隣の青笹が神楽一団体、しし踊り一団体のみになってしまったことを考えると、まだ、良いほうなのかもしれない。
最後に、ここの熊野さんでもかつては神楽が奉納されていたという。別当は佐々木姓である。
神楽に関わらず、郷土芸能は、奉納する先があって成り立っていたものだと思います。野崎神楽は、どこだったんでしょう?金勢様側の熊野だったのではと思ったりもしています。ただ、野崎には、加茂神社(地元ではカマシラと呼んでいますが)があり、この神社とアクティー向かいの加茂神社と関わりがあるといわれています。また、三重県伊勢の神楽がそれぞれの組によって霞場が決まっていたことと、遠野の修験者の方々が明治以降も神楽を奉納する先が決まっていたことから、霞場と檀那場は、神楽奉納先と元々は一致していたものと考えられます。権現様と言われる獅子頭を神様として祀っていたことからも推察できます。