205.第6章「平成の東映」
第9節 東映のイベント事業 ⑤東映「キャラクターショー」の始まり
「東映事業推進部門」の収益の柱に東映「キャラクターショー」があります。
今回は、遊園地やスーパーなどでお馴染みの東映「キャラクターショー」始まりの歴史を紹介いたします。
1.「キャラクターショー」の始まり
1954年、東宝が公開した円谷英二による特撮映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督)が大ヒットしました。
ここからアメリカの「キングコング」に対抗できる日本の本格的「怪獣映画」が始まります。
シリーズ化した「ゴジラ」はキャラクターとして低年齢層の子供たちの人気を集め、着ぐるみの「ゴジラ」が映画キャンペーンなどの実演ショーに登場しました。
1966年にはTBSで円谷特技プロダクションが制作した『ウルトラQ』がヒット。続けて放映された『ウルトラマン』もブレイクし、「怪獣ブーム」が興ります。
円谷プロやTBSは、ウルトラマンや怪獣の着ぐるみを遊園地や百貨店での展示やショーに使い、多くの子供達が家族と共に集まりました。
こうして円谷プロからいわゆるヒーロー着ぐるみによる「キャラクターショー」が始まります。
2. 東映東京制作所制作「仮面ライダーショー」
1971年4月、毎日放送(MBS)と東映の製作で東映東京制作所が生田スタジオにて制作した『仮面ライダー』(1971/4/3~1973/2/10)がスタートし、2号ライダーの登場で大ブレイクしました。
その中で東映東京制作所は、第18話・19話のロケ撮影の宿泊先のヘルスセンターでタイアップとして出演メンバーの大野剣友会による初めての「仮面ライダーショー」を行います。
7月の大阪ロケの際、MBSの放送局があった千里のミリカスポーツでMBSが主催した「仮面ライダーまつり 仮面ライダーが来た!!」は、キャパシティを越える多くの観客が集まり、警察が出動するほどの騒ぎとなりました。
東京では、豊島園にて初めて「仮面ライダーショー」が行われ、続いて池袋の百貨店と大成功を収めます。
その後、後楽園ゆうえんちで定番化し、制作所の的野屋宗平を窓口に大野剣友会が制作するショーは、全国各地で開催されました。
大阪のMBSがキー局ということもあり、それまで関西地区では高視聴率でしたが関東地区では振るわなかった視聴率が、「仮面ライダーショー」の始まった夏終わりから関東地区でも急上昇します。
3. 東映芸能・相原芳男「キャラクターショー」システムの確立
〇 東映芸能「キャラクターショー」スタート
1971年11月、東映テレビ企画営業部長の渡辺亮徳(よしのり)が東映芸能(株)を兼務することになり専務に就任しました。
12月、渡辺は、関東支社時代の部下相原芳男を東映芸能に異動させます。
翌1972年1月5・6日、東映芸能は神田共立講堂にて有料にて「仮面ライダーショー」興行を開催。東映芸能初の「キャラクターショー」は、舞台劇のような内容で、宣伝も行き届いておらず、大赤字に終わりました。
興行に懲りた相原は、この興行の後、クライアントに販売する入場無料の販促イベントとして「キャラクターショー」を販売するべく準備を進めていきます。
〇「キャラクターショー」制作方針の確立
相原は、ショーの内容や編成など興行実績を見込めるショーのつくり方は何もわからなかったので、毎日のように生田スタジオまで通い内田有作所長と相談を重ねるとともに部下の上原将昭たちと撮影現場を見学に行き、見よう見まねで内容を検討していきました。
本格的なアクションを伴う公演では、わずかな時間でも被り物を着た演者たちの息が上がります。
そこで、基本は1日2公演1回30分として、内容もアドリブや掛け合い、笑いの要素を取り入れることでショーに(演者の体を休める意味で)メリハリを作り、30分間を子供たちが退屈せずにもたせる内容を作り上げ、実演を積み重ねることで、編成人数から基本料金など、ショーの効率的な流れを練って行きました。
初めはテレビの本物の出演者たちに音声テープを吹き込んでもらって、それに各キャラが動きを会わせるようにしました。(完パケ)
しかし、各会場の広さや作りが違い過ぎて、とても音声に合わせた演技はできず、きっちりとした台本やテープを作ることは止め、出演者の動きに台詞を担当する者がその場で台詞をあてる形を生み出します。(アテレコ)
当時は俳優養成所が東映芸能の傘下だったので、当初、台詞をあてるのは養成所の研修生にアルバイトでやってもらっていました。
キャラクターたちのアクションは、大野剣友会やジャパン・アクション・クラブ(JAC)、その他劇団などからメンバーを集め、ある程度は彼らに任せる体制を作り、複数の会場で公演を行うため5~6班のチームを稼働させました。
悪の戦闘員がMCを演じるという形式は、出演者以外のMCをキャスティングすると、その分の人件費が派生するため、予算の節約の意味で、敵役の誰かがショーのMCを兼ねることにしたことから生まれ、ショーの初期から始まっています。
これが思いもよらず好評を得て、この形式でショーが続きました。
〇「キャラクターショー」着ぐるみ
子供たちの眼は非常に鋭いですから、「テレビで見るのとは違って、マスクからひとの髪の毛が出ている」とか、衣裳の隙間から「生身のひとの身体が見えた」などとすぐに悟られてしまいます。
「テレビで観る本物のヒーローがここに来ている」という子供の夢を壊さないように、神経を尖らせあらゆる工夫をし、スーツ、着ぐるみや衣裳は、撮影所がテレビ用に使用するものと同じ衣裳制作会社に発注しました。
〇「サイン入り色紙販売」
また現在もキャラクターショーで販売しているサイン入り色紙は、版権部から許諾を受けた商品で、ショーを始めた当初から販売しています。
「仮面ライダー」は石ノ森先生の絵でしたが、後に主役の写真に変わりました。
色紙の裏に学校の時間割表を擦り込もうか、バッジも付けようか、などという意見もあったのですが、ヒーローのサインだけで結局余計なものを加えない色紙、というシンプルな形に落ち着きました。
〇 全国で販売代理店制度の導入
「キャラクターショー」は人気が高まり、全国各地から要望を受けるようになりました。
しかし東京で作ったチーム、パッケージをそのまま地方に派遣するには、交通費や宿泊費を加算しなければならず、かなりの経費がかかるので、商売としての発展性もありません。
そこで、全国に営業所を作って、出演者をそれぞれの地元の劇団の俳優たちで賄うため、販売代理店制度の確立に乗り出しました。
各地の劇団を調査したところ、劇団にはキャスティングはともかく営業まで頼るには、難しいことが分かってきました。
そこで営業業務と出演者のキャスティング業務は、別個に発注することにし、アクションチームは劇団員たちでは賄いきれないので、大学の運動部に声をかけさせたりして、徐々に各地の体制が固まっていきました。
そして、全国の支社所在地を中心に、管理(ショースケジュール)、営業(ショー及び関連商品販売)、制作(ショーキャスティング・演出)といった部門が一体となって各作品のキャラクターショーを行うことを条件に、全国にキャラクターショーの販売代理店の組織を作っていきます。
ショーの需要は益々多く「キャラクターショー」の人気は爆発的なもので、遊園地、百貨店、スーパー、商店街等では、販売促進イベントとして無くてはならない催事として注目されてきました。
〇 他社アニメ『アルプスの少女ハイジ』ショーの制作販売
「キャラクターショー」を続けていくと、波があって、中には人気のない作品も出てきます。
そうした場合、クライアントには別のショーを提案出来るように実写番組以外の作品も考え、まず目を付けたのが1973年に放送された大人気アニメ作品『アルプスの少女ハイジ』でした。
この年の12月で「ハイジ」の放送が終了することがわかっていたのですが、8月頃にアニメ制作会社「瑞鷹(ズイヨウ)エンタープライズ」の高橋茂人社長にショーの権利の委譲を頼みに行き、先方は当初難色を示されましたが、1カ月ほど日参して説得しやっと許諾を得られます。
そこでショーの構成を練ることになったのですが、これまで苦労してノウハウを培ってきたアクションものとは違い、「ハイジ」という作品の性格上、内容も演出もこれまで作ってきたものとは全く異なるメルヘンチックなものにしなくてはならないため、ショーの作家から衣裳から根本的な見直しをしなくてはならず、パッケージ制作スタッフを一新しました。
さらに、アクションやアドリブに頼ることができないので、きっちりとした台本を作りアニメと同じ声優さんによる「完パケ音声テープ」を作る必要がでてきます。
そこでテレビのアフレコ収録現場に乗り込んで、声優さんの声を収録。テレビとショーでは“間”が違ってくるので、収録の際はそれを鑑みながら細かく指示をし、編集は「瑞鷹エンタープライズ」にお願いしました。
しかし一つ問題がありました。2Dであるアニメを着ぐるみとして立体にすると、正面の顔は似せられますが、横や後ろ姿にはどうしても違和感が出てしまい、各キャラクターの着ぐるみの制作には本当に苦労しました。試行錯誤を繰り返し、何とかアニメサイドのOKをもらってから急いで造形物を完成させ、1973年10月から20班体制で「ハイジ」の「キャラクタショー」の稼働を始めました。
これは大変な人気を呼び、12月にアニメの放映が終了し翌年1月からは次の作品が放映されたにも関わらず、その後1年に渡って売れ続けます。
その後も他社系の『母をたずねて三千里』、『フランダースの犬』と立て続けにヒット作のショー公演権を取得することが出来ました。
また、安定した業績を得るため相原は、「仮面ライダー」などの実写作品以外のアニメ作品の版権を東映動画から買い、動画作品と両方で売る体制も取ることで新たなショーのラインナップを揃えて行きます。
〇『秘密戦隊ゴレンジャー』ショーの大ヒットと販売代理店の拡大
1975年4月、全国でテレビ放送局のネット系列の転換が実施され、これまでNET系(現・テレビ朝日)系列だったMBSがTBS系に、逆にTBS系だったABC(朝日放送)がNET系列に換わりました。
これまで人気を博してきた「仮面ライダー」シリーズの放映も関東ではNETからTBSにチェンジすることになり、NETは東映に「仮面ライダー」に代わる作品を依頼。そこから石森章太郎原作『秘密戦隊ゴレンジャー』が誕生します。
「5人揃ってゴレンジャー!」の名乗りでテレビに登場した5人のヒーロー「ゴレンジャー」は、子供たちの心を捉え大ヒットしました。ここから「仮面ライダーシリーズ」と並ぶ「スーパー戦隊シリーズ」が始まります。
相原は早速「ゴレンジャーショー」を制作し、全国各地で一大ブームとなりました。
「ゴレンジャーショー」の大成功は、「キャラクターショー」のメニューの強化に大きく貢献します。
〇 「東映芸能」黒字転換
1975年2月に俊藤浩滋が退任し、渡辺亮徳が代表取締役専務となった東映芸能は、「ハイジ」の例のように東映作品だけでなくテレビの人気作品を中心に他社作品の公演権も積極的に取得しました。
販売促進催事では、「キャラクターショー」の公演会場はいつも大盛況で、スポンサーの信頼も増大します。
その結果、東映芸能は1976年下期には黒字会社に転換することが出来ました。
また、販売代理店を全国各地に10社ほど作った東映芸能は、すべての販売代理店を管理、統括する体制を続けて行きます。
〇 「東映芸能ビデオ」発足
1977年2月1日、東映芸能は、興行、金融、遊技場、喫茶店(葬儀社は撤退済み)を経営していた東盛商事と合併、新しい東映芸能として発足することになり、社長は岡田茂、副社長が渡辺亮徳で相原が常務となりました。
なお(旧)東盛商事の金融貸付業部門と興行部門を分離独立し、興行部門と金融部門を引き継いだ(新)東盛商事は、相原が社長を兼務。金融部門のサラリーローンの閉店準備と売却、興行部門の撤退作業を行います。
続いて1977年8月1日に東映芸能と東映ビデオが合併して、東映芸能ビデオ㈱が発足しました。
その間も東映芸能が組織化した「キャラクターショー」部門は着実に実績を積み重ね、その市場は全国規模に発展。発足当時10店だった販売代理店網は、全国で20店を超えるまでに拡大します。
公演会場では、玩具やカレンダーなど関連商品の販売、主役との撮影会や色紙のサイン会等を行い、好調に成績を上げました。
全国で人気を集めた「キャラクターショー」は、東映歌舞伎に代わる東映芸能の事業の柱に成長しました。
4. 東映映像事業部「キャラクターショー」管轄、全国販売管理システム本格稼働
1980年3月1日、相原を始め東映芸能の「キャラクターショー」部門の担当者が東映の本社映像事業部に異動。新たに芸能事業室が立ち上がります。
〇 「キャラクターショー」東映映像事業部管轄、全国組織化
「キャラクターショー」の売上は映像事業部が計上することになり、これによって支社の映像事業部が各地域で業務を統括することになりました。
北海道は仙座覚、中部は山田完、関西は足立精宏、九州は橋本芳久がそれぞれ担当となり、ここに全国組織が確立します。
本社の映像事業部芸能室長となった相原は、関東、東北地区の責任者となり、東京ドームを始めバンダイ、講談社、明治製菓等の大手スポンサーも担当。これまでの「キャラクターショー」代理店は、該当する地区の支社映像事業部傘下に入り、各支社ともそれぞれ従来通りの条件や支社独自の条件で代理店契約を締結しました。
「キャラクターショー」の全国組織が確立されると同時に各支社毎の特色も出て、より密度の高い営業が出来るようになり成績も上昇します。
1978年、「キャラクターショー」の生みの親である東映東京制作所・生田スタジオが役割を終え閉鎖しました。
その結果、「戦隊シリーズ」などの制作業務の他「キャラクターショー」販売制作業務も、東京撮影所にある東映テレビ・プロダクションに移管されます。
映像事業部芸能事業室に異動した相原は、テレビプロの担当者と話し合い、販売料金やスケジュールなど互いに調整を図って行きました。
〇「キャラクターポーズ」全国研修会
東映芸能時代、「キャラクターショー」の制作およびは販売は各地の代理店にある程度お任せ状態にせざるを得ませんでした。
東映映像事業部が担当し、各支社がそれぞれの管轄地域を管理するようになると、ショーの制作、販売について全国の統一を図るべく代理店や制作チームへの指導体制を強化することが必要とされます。
そのため、毎年新しい番組が始まる前に、ショーの主だった出演者を東京に招聘して、アクションを熟知した出演者や指導者による研修会を実施。また、指導者を各地方に派遣し、近隣地域のチームメンバーを体育館に集めて全員参加の「キャラクターポーズ」研修会も行いました。
その中でも「戦隊シリーズ」の名乗りのポーズについては、研修の際、何より力を入れました。
どこのショーでも、ヒーローたちがテレビで決めるものと少しでも違うポーズを取られたら、子供たちはそれを敏感に気づき、「夢」が一気に壊されてしまいます。
渡辺亮徳からは、「戦隊シリーズ」のメンバー5人の一人ひとりの名乗りについて「これは歌舞伎の白浪五人男からヒントを得て作り上げたもので、どこの公演でも完璧にコピーしてもらわなくては困る」とよく念を押されていました。
現在でもショーの制作には、番組世界から逸脱するような演出は絶対しないように心掛けさせ、出演者にも厳重に注意するように指導しています。
大阪での研修会の際には100名を優に越える各代理店代表のチームのメンバーとともに名古屋地区からもメンバーが集まり、お互い競い合うように演技を学び、その際、サイン色紙へのサインの仕方なども指導。
バブル期には、各代理店に声をかけグァム島やハワイへ出かけての研修会もありました。
5. 大型「キャラクターショー」の定番化
〇 東京ドームシティアトラクションズでの戦隊ショー
1971年から「仮面ライダ―ショー」を開始した後楽園ゆうえんちは、1976年から「仮面ライダーシリーズ」に代わり「ゴレンジャーショー」を開催します。
1978年には、東映から離れ、後楽園ゆうえんちのオリジナルキャラクターを主役にした東京12チャンネル(現・テレビ東京)『UFO大戦争 戦え! レッドタイガー』の番組スポンサーとなり、「レッド★タイガーショー」に取り組みました。
これに対し東映は、東映フライヤーズの元代表だった東映エージエンシ-の田沢八十彦を窓口として後楽園ゆうえんちに新戦隊の魅力を武器に営業をかけます。
その結果、翌1979年からスタートした新戦隊『バトルフィーバーJ』の番組スポンサーとなってもらうことができ、ここから後楽園ゆうえんち×東映エージエンシー×東映による「バトルフィーバーJショー」が始まりました。
以来、東映芸能から東映映像事業部、東映事業推進部と管轄が変わり、後楽園ゆうえんちが東京ドームシティアトラクションズとなった現在まで後楽園名物「スーパー戦隊ヒーローショー」は途切れることなく続いています。
〇 ホールでの「キャラクターショー」
日本国内でホールのような大きな会場でショーを行う場合、当初は有料興行ではなく、スポンサーによる無料招待という方式でした。
最初は東映エージエンシー田沢から紹介された読売ファミリーサークルをスポンサーに関東近辺の都市を中心に始めました。
1987年、かねてより東映エージエンシーの担当を通じて申し入れていた講談社の子供向け雑誌の販促用企画が具体的になり、「講談社夏のこどもまつり」が決定します。
全国の6大都市プラス広島の7都市で「光戦隊マスクマンショー」をメインに3部構成の台本を作り、各支社の映像事業部が運営とキャスティングを担当しました。
東映エージエンシーは、子供たちに配るお土産袋の商品をスポンサーから集め、お土産付きのショー公演は各地で大盛況となります。
6. キャラクターショー海外公演の始まり
海外におけるキャラクターショーは、主催する現地プロモーターが買取る形で始まりました。
そして当地のテレビ放映のプロモーションとして、基本的にはプロモーターが来場者から入場料を取る興行として行われています。
〇 ハワイ公演
『人造人間キカイダー』がハワイの放送局「KIKU TV」で放映され、大人気を得ていました。
アメリカでは子供向け番組の暴力描写の規制は厳しいものでしたが、「キカイダー」は人間ではなく“機械”が悪を退治する、という設定を強調したことで、規制を受けずに放送され、人気を博したようです。
「KIKU TV」から依頼を受け、ホノルル・インターナショナル・センターでショーを開催しました。これが東映「キャラクターショー」最初の海外公演でした。
しかし「キカイダー」のショーは30分間のものしかなく、それでは時間が短すぎるということで、「殺陣田村」の演し物を付け、合計60分のショーに仕立てて開催しました。
現地の在留邦人に大人気となり結果、エルヴィス・プレスリー以来の大入り満員となったのです。
1984年には宮内洋も出演した「仮面ライダーV3ショー」も行いました。
〇 インドネシア公演
二度目の海外公演は、1987年に日本貿易振興会を通してインドネシアからオファーを受け、ジャカルタで開催されました。
「大戦隊ゴーグルVショー」を行うことになり、それにあたって番組に素面で出演している俳優も登場させることを条件として言われたため、ゴーグルブラックを演じていたJAC所属の春田純一に出演を依頼。さらにスケジュールの調整ができたJAC所属の大葉健二にも出演をお願いし、大葉主演の「宇宙刑事ギャバンショー」も併せて実施することとなります。
しかし問題はショーの長さでした。先方は、有料公演にするには90分ほどの公演時間が必要だと言いましたが、「ゴーグルV」と「ギャバン」のショーは、いくら長く引き伸ばしても、合わせて1時間が限度。そう伝えたら、何でもいいからあと3、40分のショーを追加して欲しいと言われました。
あとの時間は現地の歌手の歌謡ショーか何かでいいのでは、と現地のスタッフに提案したのですが、逆に日本側で手配して欲しいとお願いされます。そこで世界中の誰もが知っている名作物語の「シンドバッドの冒険」を提案したところ、了承を得ました。
インドネシア側との打合せで分かったのですが、現地では「ゴーグルV」や「ギャバン」のテレビ放送は一切なく、ビデオにより大人気になったとの事で、出演している日本の俳優をキャスティングすればショーの成功間違いなしと言います。
半信半疑ながら契約も成立し、直ちにショーの構成・台本の制作を始めました。
台本はすべてインドネシア語に翻訳、インドネシアのアクターによるセリフの録音、日本側でBGMの制作等、日本とインドネシアで分担して完パケテープを作ります。
キャストは日本10名、インドネシア15名。セリフを録音したアクターは、同じ役で出演させることにしました。
準備は4ヵ月に及び、8月29日に成田から大量の荷物と共に出発しようとしたのですが、小道具の武器などを見せなければ通過させないと、荷物検査で足止めを食います。検査官の前で梱包を解き、ウレタンで作った武器をすべて見せてやっとOKが出て、出発に間に合いました。
ジャカルタ空港では、広場でインタビューと主役の撮影会等マスコミ用サービスをした後、パトカー先導でホテルのウエルカムパーティー出席等息つく暇もなく歓迎を受けます。
翌日は軍隊のジープに分乗し、市内パレード、孤児院、病院の慰問、戦勝記念塔の参拝などが一日中行われ、春田と大葉はどこでも大人気でした。
8月31日から3日間は、両国のアクターとスタッフ全員と、ジャカルタ国立大学日本語科の学生&OB10名が通訳として参加、約50名が早朝から深夜までリハーサルを行いました。
そして9月3日より始めたジャカルタ最大の1万人収容の体育館での「SAMURAI ROBOT」公演は、チャリティを含め全11回公演を休日なしの連日で公演し、あまりの人気に軍隊が警備を担当していました。
各公演のフィナーレでは、ヒーローと客席でお別れの主題歌コーナーがありますが、お客さんが皆日本語で歌っています。不思議に思いましたが、通訳の説明ではビデオに収録されている歌が日本語で歌われているので、そのまま覚えています、とのことで一同納得しました。
インドネシアでは、1993年に「仮面ライダーブラックショー」も行い、これは新たに開局した民放のキャラクター第1号とのことでした。
その後も「戦隊シリーズ」「仮面ライダー」に加えオリジナルの「ニンジャショー」も含め、1996年まで公演は続きました。
〇 香港公演
香港のプロモーターが後楽園のショーを観て、香港での開催をゆうえんち事務所に問い合わせが来たため、相原が呼ばれ話し合いをしました。
しかし香港には「キャラクターショー」に適したホールがなく、香港に近い中国領の深圳(シンセン)のホテルに巨大な野外ステージを作って「宇宙刑事ギャバンショー」を行うことになり、スタッフ・キャストを引き連れて現地入りしました。
政府の査察を受けるため、ショーの前日にゲネプロまでおこなったのですが、ちょうど現地の雨季にあたっていて、翌日の公演初日から豪雨が止まず、結局全日程の公演が中止となりました。相手側の買取の興行であったため、東映としては損はなかったのですが、香港のプロモーターは本当に気の毒でした。
この後の1995年、今度は香港の別のプロモーターから代理店を通して「美少女戦士セーラームーンショー」の依頼を受け、東映動画の担当者と東映の吉元央がプロデューサーを務め、開催が決まります。
やはり香港にはキャラクターショーに適したホールがなく、結局サッカー場でショーを行うことになり、この時もプロモーションとして、キャストが乗った二階建てバスが香港市内をパレードしました。
様々な苦労はありましたが、「セーラームーン」公演も大成功しました。
この後も現在に至るまで、アジア各国で「キャラクターショー」公演が開催され、いつも人気を博しています。
7. 相原芳男の功績
「キャラクターショー」は、子供たちが身近に会える「ヒーロー」であり、これまで長きにわたり数多くの子供たちの夢を育てました。
「キャラクターショー」は、玩具と共に「仮面ライダーシリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」の人気を支える原動力となっています。
そのシステムは、半世紀を越えた現在まで、相原が確立した形をほぼ踏襲してきました。
東映の経営に大きく貢献してきた「キャラクターショー」。
業界で「天皇」と呼ばれた相原芳男は、2016年1月に84歳で逝去しました。


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