悲劇の美談として語り継がれる会津戦争の白虎隊
「白虎隊の7名が飯森山で自害を決行し、6名が死亡したという。敵に捕まり生き恥を晒すよりは、武士の本分を明らかにするために自刃を決行したとされる。白虎隊は、薩長土佐藩中心の新政府軍と徳川幕府軍との戊辰戦争の中で、会津戦争で起こった悲劇の美談として伝わっている。そこには隠された真実があると感じる。」
ウィキペディアによると、会津若松市は、福島県の会津地方東部に位置する市で、会津地方の中心都市です。江戸時代には会津藩の城下町として盛え、現在でも鶴ヶ城や白虎隊など、歴史上の事物が観光資源として有名です。会津盆地の南には会津高原と呼ばれる山間地が広がっており、尾瀬などの観光地が点在しています。

市域の西側を阿賀川が流れているほか、市の東側は猪苗代湖に面しています。内陸であるが奥羽山脈以西に位置しているため、水系も日本海側であり、冬には豪雪地となります。会津の地は、水の場所であることが分かります。1589年、伊達政宗のもとで勢力を拡大する伊達氏が蘆名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地としました。しかし翌1590年、豊臣秀吉の奥州仕置により黒川は伊達氏から取り上げられ、代わって蒲生氏郷が入封します。
蒲生氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行い、7層楼の天守を有する鶴ヶ城に改築しました。1862年、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、尊王攘夷派志士の取り締まりや京都の治安維持を担いましたが、長州藩を筆頭とする倒幕派(後に明治政府軍となる)の恨みを買うことになります。1868年に戊辰戦争が勃発すると、会津藩は攻撃の対象とされた会津戦争となります。
明治政府軍は若松城下にまで侵攻し、白虎隊の自刃などの悲劇が起き、城下町の大半が灰燼に帰しました。戊辰戦争(1868年-1869年)は、王政復古を経て明治新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦です。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。最終的には、明治新政府が同戦争に勝利します。
国内に他の交戦団体が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなります。会津戦争(1868年)は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いです。
現在の福島県会津地方が主戦場となりました。白虎隊は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、16歳から17歳の武家男子を集めた部隊です。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいた他、幼少組として13歳の少年も加わっていました。会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られますが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きました。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めましたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、本来は城下町防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍しました。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことでしたが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入されました。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされます。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たりましたが、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出ています。8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びました。
この時、深刻な負傷によりこれ以上はもはや戦えないと悟り、結果として7名が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が死亡しました。唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留めました。 1928年(昭和3年)に刊行された平石弁蔵『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって、白虎隊は若松城周辺から上がる煙を見て落城したと誤認し、自決を選んだという認識が一般に広まりました。
白虎隊の会は2011年、落城誤認説は誤りであるとする説明文を飯盛山に建てました。入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したとみられています。白虎隊は、新政府軍対幕府軍の戊辰戦争の中の会津戦争で起こった悲劇の美談として伝わっていますが、何か引っかかるものがあります。唯一の生存者の「飯沼貞吉」はキーパーソンだと感じました。
《白虎隊の真実について調べてみた【美談ではない】》には「京都守護職就任にともなう臨時支出は約22万両にもなった。当時の会津藩における会津・江戸での年間経常支出が約12万両だったので、この金額はまさに藩を潰しかねない支出である。」「会津藩家老・西郷頼母(たのも)は、どう見ても勝てぬ戦と悟り、松平容保に降伏を進言するが、容保は徹底抗戦の構えを崩すことはなく、西郷の言葉は聞き入れられぬまま新政府軍との戦いが始まった。」
「会津藩は、鳥羽伏見の戦いの後、軍の体制をフランス式に変え、精神論ではなく戦力を重視するようになる。」「これは「仕組まれた悲劇」であった。そもそも、江戸の無血開城がされた時点で、会津藩の敗北は決まっていた。 何しろ、最高司令官がいないのだ。装備は旧式、資金もない。」と記されています。「会津藩主・松平容保が戦いに突き進んだ」「軍の体制がフランス式」「装備は旧式、資金もない」がヒントになったのです。(つづく)
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市域の西側を阿賀川が流れているほか、市の東側は猪苗代湖に面しています。内陸であるが奥羽山脈以西に位置しているため、水系も日本海側であり、冬には豪雪地となります。会津の地は、水の場所であることが分かります。1589年、伊達政宗のもとで勢力を拡大する伊達氏が蘆名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地としました。しかし翌1590年、豊臣秀吉の奥州仕置により黒川は伊達氏から取り上げられ、代わって蒲生氏郷が入封します。
蒲生氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行い、7層楼の天守を有する鶴ヶ城に改築しました。1862年、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、尊王攘夷派志士の取り締まりや京都の治安維持を担いましたが、長州藩を筆頭とする倒幕派(後に明治政府軍となる)の恨みを買うことになります。1868年に戊辰戦争が勃発すると、会津藩は攻撃の対象とされた会津戦争となります。
明治政府軍は若松城下にまで侵攻し、白虎隊の自刃などの悲劇が起き、城下町の大半が灰燼に帰しました。戊辰戦争(1868年-1869年)は、王政復古を経て明治新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦です。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。最終的には、明治新政府が同戦争に勝利します。
国内に他の交戦団体が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなります。会津戦争(1868年)は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いです。
現在の福島県会津地方が主戦場となりました。白虎隊は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、16歳から17歳の武家男子を集めた部隊です。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいた他、幼少組として13歳の少年も加わっていました。会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られますが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きました。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めましたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、本来は城下町防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍しました。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことでしたが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入されました。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされます。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たりましたが、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出ています。8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びました。
この時、深刻な負傷によりこれ以上はもはや戦えないと悟り、結果として7名が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が死亡しました。唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留めました。 1928年(昭和3年)に刊行された平石弁蔵『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって、白虎隊は若松城周辺から上がる煙を見て落城したと誤認し、自決を選んだという認識が一般に広まりました。
白虎隊の会は2011年、落城誤認説は誤りであるとする説明文を飯盛山に建てました。入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したとみられています。白虎隊は、新政府軍対幕府軍の戊辰戦争の中の会津戦争で起こった悲劇の美談として伝わっていますが、何か引っかかるものがあります。唯一の生存者の「飯沼貞吉」はキーパーソンだと感じました。
《白虎隊の真実について調べてみた【美談ではない】》には「京都守護職就任にともなう臨時支出は約22万両にもなった。当時の会津藩における会津・江戸での年間経常支出が約12万両だったので、この金額はまさに藩を潰しかねない支出である。」「会津藩家老・西郷頼母(たのも)は、どう見ても勝てぬ戦と悟り、松平容保に降伏を進言するが、容保は徹底抗戦の構えを崩すことはなく、西郷の言葉は聞き入れられぬまま新政府軍との戦いが始まった。」
「会津藩は、鳥羽伏見の戦いの後、軍の体制をフランス式に変え、精神論ではなく戦力を重視するようになる。」「これは「仕組まれた悲劇」であった。そもそも、江戸の無血開城がされた時点で、会津藩の敗北は決まっていた。 何しろ、最高司令官がいないのだ。装備は旧式、資金もない。」と記されています。「会津藩主・松平容保が戦いに突き進んだ」「軍の体制がフランス式」「装備は旧式、資金もない」がヒントになったのです。(つづく)
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