環境省の特殊疾病対策室長のときに環境大臣と患者団体の協議の司会を担当したことがある
昨年の5月1日に水俣市で開催された令和6年度水俣病犠牲者慰霊式に、出席してきました。
その夜に、水俣市や水俣病資料館の語り部の方々、熊本県、環境省、新潟県、新潟市といった行政の方々、マスコミ・ジャーナリストの方々との懇親会に出席し、翌日は椎葉村に帰っておりました。
椎葉村の実家で、水俣病犠牲者の慰霊式の後の環境大臣と患者団体との協議において、マイクを途中で切ったという新聞記事を見ました。
この話は炎上して、環境大臣が水俣市を訪問して患者団体に謝罪するという事態となりました。
私は、環境省の特殊疾病対策室長をしていたときに慰霊式2年連続出席して、式典後の大臣と患者団体の協議の司会を担当しました。
私が司会をした頃は、裁判で国と争っている患者団体と、早急な政治救済を求める患者団体とがいて、患者団体の発言時間はみな同じになるようにしており、一つの団体が長引くということはなく、ほぼ時間どおりに発言は終わっていました。
司会をして、苦労したということはありませんでした。
毎年5月1日の式典の日に水俣に行って、新聞記者さんや、患者団体の方々、水俣市や熊本県、環境省、チッソなど、かつていろいろとあった人々に会うのが楽しみになっていました。
時間が経過すると、なんとなく「同志」のように思えて、心が通じ合うような関係になっていたのです。
水俣市内のカラオケで、村下孝蔵さんの「初恋」を歌うのが定番でした。
ちなみに村下孝蔵さんは、水俣出身です。
チッソの工場の正門近くにあった映画館が、村下孝蔵さんの実家でした。
五月雨は緑色 悲しくさせたよ一人の午後は
放課後の校庭で走る君がいた
遠くで僕はいつでも君を探してた
浅い夢だから 胸をはなれない
大ヒット曲「初恋」は、村下孝蔵さんが通っていた中学校時代のことを歌にしています。
初恋の「君」とは片思いのまま終わったそうで、今は鹿児島市に住んでおられるそうです。
少年ジャンプで連載された「すすめ!!パイレーツ」をはじめ「すとっぷ!!ひばりくん!」などの漫画で有名な江口寿史さんも水俣出身です。
江口さんは、漫画家はやめて、今はイラストで活躍しています。
新聞記者とよく飲んだ居酒屋には、江口寿史さんが即興で壁に描いた女性の絵があります。
私が、環境省で水俣に通っていたときの水俣市長さんは、江口寿史さんの担任の先生をしていた方でした。
市長室には、江口寿史さんのイラストが飾られていました。
今の水俣市のポスターや市職員の名刺には、江口さんのイラストが使われています。
小学生の頃に、学研の「科学」という雑誌で漫画を連載していた内山安二さんも水俣出身。
代表作は「コロ助の科学質問箱」です。
ネットを調べて見たら、「1972年の創刊ながら、根強い人気があり電子書籍で復活」とありました。
さらに、歴史家の徳富蘇峰、小説家の徳富蘆花の兄弟も水俣出身です。
この兄弟は、ロシアの文豪のトルストイとも会っている大物です。
皆さんも、一度、水俣を観光してみてはいかがでしょうか。
風光明媚で食べ物もおいしいです。
チッソの水俣工場を造ったのは、野口遵です。
東洋のナイアガラと呼ばれる鹿児島県の曽木の滝に発電所をつくって、その電力で肥料を造りました。
五ヶ瀬川の河口に工場をつくって、アンモニアを生産しました。
これが、現在の旭化成延岡工場です。
ちなみに、旭化成の「旭」は、平氏を倒した木曽義仲からとっています。
木曽義仲は平家にかわって都に入り、その権勢から「旭将軍」と呼ばれました。
しかし、後白河法王を始め朝廷での評判が悪く、源義経に法王から義仲を討てという命令が下ります。
そうして、宇治川の合戦で義経に攻められて討たれてしまいました。
木曽義仲の墓のある場所の近くに、最初の工場を建てたことから、旭化成と名付けたのです。
いろいろな歴史を知ると、世界が広まって見えます。



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