公明党の惨敗を“自分たちの責任”と考える学会員はどれほどいるのか? 創価大卒ジャーナリストが語る「創価学会が公明党を見限る日」
学会活動の“外部委託”化
それにしても令和の時代の今、改めて振り返ると、平成の初め頃ともいえる1996年当時に学会員として選挙活動に携わった創価大学の学生たちは、負け戦という選挙結果を自分たちの責任、今日の言葉でいえば「自分事」として捉えていたことがわかる。 ところが今は違う。敗戦となれば、その責任は公明党と候補者にあると考えられる時代だ。いざ選挙となっても、「池田先生がお作りになられた政党の候補者だから」という理由だけで学会員たちも命は張れないし、張らない。 かつて学会活動といえば熱心にやればやるほど忙しくなったという。学会組織のうち丁目単位から県、全国レベルまで日々の活動を報告したり、仏法を勉強する座談会をはじめ、大中小の集会が多々ある。人によっては、これに機関紙の配達、集金、拡張活動もこなす。折伏と呼ばれる新規入会者の勧誘も行わなければならない。いざ選挙となれば、ここに選挙活動が加わる。 近年、この「忙しすぎる」学会活動が内部で見直され、機関紙「聖教新聞」の配達を大手新聞社に委託するなど、徐々に、学会活動における事務の「アウトソーシング化」が進みつつあるという。 この新聞配達は学会員たちの間では人格者が行う者として知られているが「任命されるだけの人物ではありたいが、実際の任命はできればご勘弁を……」といった声も漏れ聞こえてくる。
選挙活動の軽減
忙しさ、煩雑さといえば選挙活動などはその最たるものだ。加えて「労多くして功少なし」。せっかく、学会員たちが汗を流しても候補者は落選、公明党は目立たずでは、さすがに応援のし甲斐がない。 こうした状況が続くとやはり学会員といえども人である。信仰への不信へと繋がり、これが転じて学会から離れていく者も出てきかねない。この点は学会上層部もきっと危惧していることだろう。 そうすると機関紙のアウトソーシング化に続く、次の「学会活動軽減化」の対象となるのは選挙活動ではないだろうか。もっとも選挙だけをやめるわけにはいかない。 票の取れない公明党を見限り、学会が打ち立てた政策を実現に動いてくれる既存の政党を直接支援する形を取ると見るのが自然だ。 もっとも今の学会はかつてほどの勢いはない。だが、こと選挙となると絶対的に安定した固定票がある。わざわざ公明党で選挙運動を行い、学会員たちに負担を強いるよりも、政党との選挙協力で済ませるほうが、学会員たちへの負担は軽減されよう。結果、学会の組織力は保たれる。