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<戦後70年・支配した国、強制の記憶>/3 遺族会会長の戦後処理
橋本龍太郎元首相は、戦争の後始末がライフワークだった。同世代で、これほど熱心だった政治家はあまり見当たらない。
厚生行政を専門にしたのは、父・龍伍氏の影響だ。官僚出の龍伍氏は、吉田茂元首相の引きで政界入り。自ら体に障害を抱え苦学したことから「政治は弱者のため」が信条だった。戦没者遺族援護で吉田首相と対立し、厚生相を辞任。日本遺族会から絶大な信頼を得た。
2世議員の橋本氏も援護に打ち込んだ。最初の海外渡航は戦没者の遺骨収集。アジア・太平洋各地に足を運んでいる。外遊先にかつての戦地があれば、慰霊巡拝を心掛けた。
沖縄にも思い入れが強い。幼くして母を亡くし、屈折していた龍太郎少年に一番優しかった従兄は、沖縄で戦死している。
決戦に備え、軍の要請で沖縄から本土へ強制疎開する途中の船が撃沈され、学童ら1400人余が犠牲となった対馬丸事件。父の遺言もあり、記憶の継承に終生、奔走した。
遺族会会長就任や靖国参拝、首相として官僚らの慎重論を振り切り決断した米軍普天間飛行場返還合意は、こうした取り組み一つ一つの延長だった。どのこだわりも、具体的なエピソードに裏付けられたきっかけがあり、先にイデオロギーや理念があったのではない。
靖国参拝を「一人一人の心の問題」と説明する言い方を、広めたのは小泉純一郎元首相でも、初めに口にしたのは橋本氏らしい。
無類の読書家だった橋本氏は、史実の知識も深かった。細川護熙元首相の「侵略戦争」発言に保守派が反発すると、橋本氏は「侵略・植民地主義と言われても仕方ない」と認めた。満州事変(1931年)より早く「対華21カ条要求(15年)の頃から道を間違えた。日中戦争は無謀だった。遺族会の大多数はそう思っている」とも語った。「自存自衛・アジア解放の戦い」という右派の論理とはまったく違う。
村山富市元首相は戦後50年談話を出す前、橋本龍太郎通産相には文案を届けた。橋本氏は一読「これでいい」と即答。一つだけ、文中に「敗戦」と「終戦」が交じっていたのを「潔く敗戦に統一した方がいい」と注文した。
二人は長年、衆院社会労働委員会の与野党理事を務め「トンちゃん」「龍ちゃん」と呼び合う間柄。村山氏は地道に遺族に寄り添う橋本氏の戦争観を熟知していた。橋本氏の重みが、自民党内の不満や異論も封じた。
村山談話を、旧社会党の首相による左派思考の産物と見るのは偏見である。そこには戦後保守の分厚い経験知も、合流している。<文・伊藤智永>
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