| 東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (3) |
| 第十六師団と捕虜 ―その2 「投降後の逆襲」― |
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東中野氏は、「捕虜ハセヌ方針」の意味を「最悪の事態を解消するための緊急避難命令」に過ぎないと決め付け、第十六師団、ひいては日本軍が、基本的には「国際法」を守った人道的な捕虜取扱いを行う軍隊であるかのように読者に印象づけようと試みました。 その延長として、東中野氏は、「第四章 紫金山北麓や下関の京都十六師団」の中に「投降後の逆襲」と題する節を4つつくり、「降伏後も実は戦意旺盛、いつ隙を見て襲ってくるかわからない、恐ろしい敗残兵のイメージ」を定着させようと試みます。 氏は、「捕虜とした敗残兵」がこんなに危険なものであるならば、「捕虜はせ」ずに殺害してもやむえない、と言いたいのでしょう。 しかし原文と東中野氏の紹介を読み比べると、必ずしも東中野氏望む結論を導きだせるとも限らないことがわかります。以下、氏が根拠とする4つの具体例を見ていきましょう。
最初の事例は、六車正次郎少尉の証言です。余談ですが、六車少尉は「百人斬り競走」の野田少尉の戦友で、野田少尉のために「百人斬りの歌」をつくった、と伝えられます。 (百人斬日本刀切味の歌 参照)
さて、これだけ読むと、読者は間違いなく、この事例は六車少尉の直接体験であろう、と錯覚します。しかし実際には、この話は「直接体験」ではなく、「城外掃蕩に任じていた小隊長」からの伝聞でした。
東中野氏がなぜ「伝聞情報」であることを隠したかは、容易に想像がつきます。 氏は、「外国人の報告する事例」に対して、しばしば「伝聞であり信頼性がない」という評価を行います。その一方で自分が「伝聞情報」を「確定した事実」として取り上げるのでは、明らかな自己矛盾です。 氏としては、読者にこのような「自己矛盾」の印象を与えることを避けたかったのでしょう。 *念のためですが、私は、「伝聞情報」だから信頼性が低い、とは考えていません。証言の信頼性は、証言者の資質、証言の状況、証言内容等によって総合的に判断されるべきものであり、信頼できる情報源からの信頼できる情報であれば、十分に「史実」として認定できる可能性はある、と考えています。 ただし「伝聞」である以上は、「聞き違え」「伝達ミス」のリスクが伴いますので、細部についてまでの事実認定には慎重になるべきでしょう。 この事例については、証言の状況、証言の内容を考えて、事件の概要については一定の信頼性を付与することが可能でしょう。 しかし、「暴れだし」た動機が本当に「日本軍が少人数とあなどった」ことだったのかどうか。六車氏の「伝聞」の伝え方が正しいかどうかという問題もありますし、たとえ正確であったとしても、これ自体小隊長の「推察」であるにすぎません。捕虜が反抗してきた具体的な状況もはっきりせず、ここまでの断定を行えるかどうか、微妙なところです。 いずれにしても、「伝聞」であることを断らず、証言者本人の体験であるかのように紹介することは、フェアな態度であるとは言えません。
東中野氏の、次の事例です。
元の文と、東中野氏の「解説」を比較してみましょう。 古山一等兵は、敗残兵が「反抗した」と述べています。それを東中野氏は、いつのまにか「反撃に出た」という言葉に置き換えてしまいました。前者であれば単なる「捕虜の反抗」ですが、後者では「軍隊としての組織的抵抗」というイメージが強くなります。 そして次の文では、ついに「立ち上がって反撃してきた」とまで話が大きくなってしまいました。東中野氏は、明らかに古山証言の「自説に都合のよい方向への拡大解釈」を行っています。 それはともかく、東中野氏は気がつかなかったようですが、この事例は実は、部隊名(三十三連隊第六中隊)、場所(太平門)、状況を考えて、板倉由明氏が紹介する次の事例と同一のものであると思われます。
「逓信隊」が得た捕虜が、「太平門」を守備する「第六中隊」に引き渡されたとのことです。古山一等兵の話は、その「引き渡し」後の出来事であると思われます。(堀手記は捕虜が「遁走した」と書きますが、古山証言では「大変な被害が出たと思われます」となっています。太平門外で大量の死体が目撃されていること (『「捕虜ハセヌ方針」をめぐって』記事中「「大なる壕」の使い方」の項参照) から考えると、おそらく古山証言の方が正確なものでしょう) 東中野氏は「拘束された投降兵が第六中隊の指示に従おうとはせず、反撃に出た」と書きますが、これでは「実はまだ戦意旺盛だった投降兵たちが日本軍を攻撃した」かのようなイメージを読者に与えてしまいます。 しかし上の文を素直に読むならば、捕虜たちは、折角降伏したものの、殺されるのではないかという不安感が高まってきて、思い余って逃走のために手榴弾を投げつけた、と解釈するのが自然でしょう。 少なくとも、古山氏の表現は「反抗」であり、軍隊の組織的行動を連想させる「反撃」というのは、東中野氏の「作文」であるに過ぎません。
古山元上等兵の語る事例が、もうひとつ、続きます。
『魁 郷土人物戦記』の記述を、確認します。
東中野氏は、「事例2」と「事例3」を完全に別々の事件として扱っています。しかしこれは、おそらく同一の事件であると思われます。 「第十六師団通信隊」が得た捕虜を、太平門を守備する「第六中隊」が引き継いだ。殺されるのではないかと動揺した捕虜が、守備隊に手榴弾を投げつけて逃走しようとした。「事例2」「事例3」は、その一連の事件の一部として読むのが、自然です。 東中野氏はこの同一性に気がつかず、わざわざ「違う事例」として記述しているわけです。 *余談ですが、東中野氏がこれを「事例2」とはまた別の事例と考えているのでしたら、東中野氏がこの文章からどうして「拘束中の投降兵」の仕業と判断できたのか、不思議に思うところです。 ついでですが、「久居三十三連隊の第二機関銃中隊長であった島田勝巳大尉が「小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた」 (「証言による〈南京戦史〉⑨」五頁)と証言するように、投降兵は日本軍の警戒が弱いと見ると手榴弾などを使って反撃に転じることがよくあったのであろう。」というのも、東中野氏の「拡大解釈」です。
島田氏の証言は「隠し持っている」までで、「投降兵が手榴弾を使って反撃」した、などということは一言も語っていません。 東中野氏は、 「懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた」という証言を、むりやり「投降兵は日本軍の警戒が弱いと見ると手榴弾などを使って反撃に転じることがよくあったのであろう」と「翻訳」してしまったわけです。
この節は、「投降後の逆襲 和平門外にて」との副題がつけられています。しかし、どこが「投降後の逆襲」なのか、何度読んでもさっぱりわかりません。一応、この節の全文を引用します。
さて読者は、この節から、「投降後の逆襲」事例を見ることができたでしょうか。 前半は、和平門において「激昂せる兵」が投降してくる「俘虜」を「片はしから殺戮」した、という事例です。後半は、まだ投降していない敗残兵との戦闘により、「援兵を請ふ伝令」が司令部にひっきりなしに来る、という事例です。 いずれも、「投降した敗残兵が投降後に反撃した」という話ではありません。 *なお前半の事例は、激戦の最中にやむえず投降兵を殺した、というものではなく、「激昂」のあまりの殺戮であることにご注意ください。東中野氏が描き出そうとする「人道的な日本軍」のイメージに、明らかに反する事例です。 どうも東中野氏は、一部の戦線で敗残兵が投降してくる一方で、他の戦線では依然として敗残兵と激戦中であった、と言いたいようです。それであれば、「投降後の逆襲」という標題は、タイトルに偽りあり、と言わざるを得ません。 なお参考までに、木佐木少佐日記の元の文を紹介しておきましょう。木佐木少佐は、何をおおげさに報告してくるんだ、とあきれているわけであり、東中野氏が「激戦の最中」であることを印象づけたいのでしたら、この日記の引用はかえって逆効果であると思われます。
つまり、東中野氏が「投降後の敗残兵の反撃」として挙げる四つの事例のうち、「事例2」=「事例3」では、投降兵は逃亡目的で「反抗」した可能性があり、日本軍に対する「戦意」までを読み取ることはできません。 「事例1」は細部の状況がわからない伝聞情報であり、事例4はそもそも「投降後の敗残兵の反撃」ですらありません。 東中野氏は、「隙あらば日本軍に対する攻撃をたくらむ戦意旺盛な投降兵」のイメージをつくりあげようとしていますが、上の資料からそこまでの断定を行うことは困難でしょう。 また、例え少数のそのような投降兵が存在したとしても、それは大量の敗残兵を「捕虜にせ」ずに殺戮してしまうことを正当化する材料には到底なりえません。 (2007.9.24)
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