〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富谷教会 週報
年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』
聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)
降誕節第8主日 2015年2月15日(日) 5時~5時50分
礼 拝
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 56(主よ、いのちのパンをさき)
交読詩編 23(主は羊飼い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ルカによる福音書9章1~17節
説 教 「五千人に食べ物を与えたイエスの奇跡」 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2月22日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分
聖 書 ルカによる福音書4章1~13節
説 教 「荒れ野の誘惑
2月18(水)の「灰の水曜日」から受難節に入ります4月4日(土)まで続き、4月5日(日)に、イースター「復活日」を迎えます。「灰の水曜日」の呼び名は、深い悔い改めや悲しみを表現する灰で、信徒の額(ひたい)に十字のしるしをした教会行事に由来しています。「灰の水曜日」から始まる40日と6回の日曜日を合わせた46日間が、キリストの苦しみと十字架の死を思い起こす受難節です。
本日の聖書 ルカによる福音書9章1~17節
使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。 11群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。 16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
本日の説教
今日の聖書の箇所には、主イエスが、二匹の魚と五つのパンで五千人もの人々を満腹させたという出来事が記されています。この物語は、到底ありえない話として決め付けてしまう人もいると思います。聖書の中には、たくさんの奇蹟物語が記されていますが、その中でもこの奇蹟物語は、まさに信じられないことが起こった奇蹟であり、キリストを信じる者にとってもつまずきの石となるものです。
そんなことが本当に起こったのだろうかという疑問から、次のような合理的な解釈が生まれました。イエスのもとに集まった人々は、イエスの神的オーラ(独特な雰囲気)に心動かされて、自分たちの衣服の中とか、旅行用の袋とかに隠しておいた食べ物を取り出して、互いに分かちあったので、みんなが食べるのに十分であった、という解釈です。
また別の解釈によれば、この食事は象徴的かつ霊的なものであったので、それぞれが、食べ物のほんの一かけらを分かち合って受け取った時に、肉体的な飢えではなくて、霊的な飢えが満足させられた、という解釈です。しかしながらこうした説明は両方とも、超自然的な出来事を報告しようとしている福音書に出てくる物語に対して正当な扱いをしているとは言えません。
この供食(きょうしょく)の物語は四つの福音書すべてに記されている唯一の出来事です。恐らく、この奇跡の物語は最初の教会にとって、忘れられない大切な救いの物語として、その心に深く刻まれたのだと思います。教会はこの出来事の中のイエスに、まことの救い主としての姿を見出したのです。
それでは、聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。
イエスは十二人の弟子に、神の国を宣べ伝える任務を果たすために、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす権威と力を与えて、使徒として派遣しました。宣教の旅には、お金や食料や予備の服などを携行せず、全面的に神に依存しなければならないと、イエスは指示しました。十二人は、イエスに命じたように、「まさかのための」安全装備もしないで、軽装で出かけていきました。
彼らは神殿に仕えるレビ人のように、人々による歓待と援助とを当てに出来ました(民数記18・31、コリント一、9・13~14)。もし彼らが金銭や余分な備えを持って行けば、神に対する彼らの信仰や、人々のするもてなしへの信頼が欠けていることが明らかになり、人々からの信頼を失ってしまいます。使徒たちは、イエスに遣わされて出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで説教し、人々を癒しました。このことが、9章1~6節に記されています。
「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」(ルカ9・10)
イエスは十二人から宣教の報告を受け、彼らを連れて群衆から離れベトサイダに退きました。食事をする暇もなかったためしばらく休むためでした。また祈りと回復のためでもありました。ベトサイダは、ペトロやアンデレやフィリポの故郷です(ヨハネ1・44)。ガリラヤ湖の北東の岸にある町です。その町から更に離れた「人里離れた所」に移動したのです。
「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。」(ルカ9・11)
そのことを知った群衆はイエスの後を追いました。集まった大勢の群衆を見て、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコ6・34)、この群衆を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を癒しておられました。
「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。』」(ルカ9・12)
群衆は、人里離れた所におり、日没がせまっていました。十二人はイエスのそばに来て、群衆を解散させ、宿や食べ物を見つけるために近くの村や人里に行かせるように、言いました。イエスが癒しと説教を止めれば、群衆は帰ると思ったのです。十二人は人々への純粋な気遣いを示したのです。
「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』彼らは言った。『わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。』というのは、男が五千人ほどいたからである。」(ルカ9・13)
イエスは十二人に、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子たちに与えた権威と力で、食べ物を与えるようにと言われたのです。しかし、弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と答えたのです。パンと魚というのは、ガリラヤの庶民の食事の基本でした。五つのパンと二匹の魚だけでは、男だけでも五千人もいる人々の食糧には、無いにも等しいことは明らかです。近くの村に行ったとしても、五千人分の食糧を調達することは不可能です。その食糧を買い求める金もありませんでした。(一人に二百円のパンを買ったとしても、五千人分だと、百万円になります。200円×5000=1.000.000円)
「イエスは弟子たちに、『人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい』と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。」(ルカ9・14、15)
弟子たちには出来ないことが分かったイエスは、人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさいと、弟子たちに命じました。一組五十人ぐらいが、百組できたことになります。弟子たちは、そのようにして全員を座らせました。この座る姿勢は、ユダヤ人の食事をとる姿勢にさせたことになります。<座らせた>の原語は、ルカ24・30の<席についた>と同じです。
「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」(ルカ9・16)
イエスは、<五つのパンと二匹の魚を取り(パンを取り)>、<賛美の祈りを唱え(感謝の祈りを唱え)>、<裂いて(それを裂き)>、<お渡しになった(与えた)>という言葉は、主の晩餐のときと同じ、聖餐式で使う言葉が語られています(ルカ22・19)。イエスが人々に食べ物を与えたとき、弟子たちはそれを人々に配る奉仕をしました。
「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」(ルカ9・17)
なんと、すべての人が食べて満腹しました。残ったパンの屑を集めると十二籠もありました。十二人の一人ずつの籠に相当します。決してたくさん残ったのではありません。だが、少しでも残ったということは、十二分の食糧であったということです。
この「五千人に食べ物を与えた」物語は、どんなことを伝えようとしているのでしょうか。 1.この物語は、荒れ野において神がイスラエルの子らへ、マナを与えられた、モーセの時代の物語を想起させます(出エジプト記16章、民数記11章)。 2.また、この物語は、エリヤ(列王上17・8~16)およびエリシャ(列王下4・42~44)の話を思い起こさせます。飢餓のときにエリヤは寡婦(かふ)とその子供が一握りの粉と少量の油で長い間パンをつくって食べることができるようにしました。 預言者エリシャも、召使いに、百人の人々に大麦パン二十個と穀物を食べさせなさいと命じたが、召使いがそれを配ったところ、彼らは食べきれずに残しました。召使いの役目とイエスの弟子たちがパンを配る役目とが似ています。 3.この物語は、私たちが持っているもの、私たちが提供しなければならないものが、たとえ五つの小さなパンと二つの乾燥させた魚でしかないとしても、神はそれを用いたもうということを読者に想起させます。いかなる献げ物であっても、小さすぎて神が用いられない、などということはないということです。 4.またこの供食は、主の晩餐(ルカ22・19、24・30)を先取りしています。イエスと共なる食事は、見えざる神の国の到来の見えるしるしです。 5.群衆への供食は、宣教とは別のことではなく、イエスは人間の肉体的・精神的な必要にお応えになったことを伝えています。
実は、この五千人への供食は、パンを魚を群衆に配った十二弟子たちにとっても、どうしてこのようなことが起こったのか、理解できない出来事でした。マルコによる福音書6章52節には、弟子たちは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなったいた」とあります。五千人もの大勢の人々に少量のパンで満腹させるという普通の人間では不可能なことが、イエスによって実現したことは、イエスが神的存在として預言者以上の者であることを示しています。しかし、そのことは弟子たちに分からなかったのです。この出来事の後に、ペトロは、弟子たちを代表して、信仰を言い表しました。「あなたはメシア、生ける神の子です。(マタイ16・16)」この供食の奇跡は生ける神の子であるイエス・キリストのよってなされた恵みの食事だったのです。
旧約聖書では主なる神はしばしばイスラエルの牧者(羊飼い)にたとえられていますが、イエスはここで神的な力をもって大群衆を教え、養う大牧者として登場しているのです。「何を食べようか」と思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」とイエスは教えられました。その教えの通り、救いを求めて集まった群衆に、必要な糧(食事)を与えられたのです。「日毎の糧」を私たちの祈りに応えて、与えたもう御神に感謝するとともに、神には何でも出来ないことはないことを改めて、この奇跡を通して示されました。


