工場長と衝突して強制帰国
1990年12月。念願のタイ赴任に胸を躍らせ、井口はバンコク近郊サムットプラカーン県の工場地帯に降り立った。製造技術を身につけた彼を、会社は「戦力になる」と送り出していた。
日本・タイ・台湾の三社合弁で設立されたタイ工場。現地に到着して、井口は唖然とした。コンクリートの匂いが立ち込める真新しい床に並んでいたのは、見たこともないアメリカ製や韓国製の機械が数台だけ。停電や断水は日常茶飯事で、製造ラインはまともに動いていなかった。
任務は「貿易部門の立ち上げ」。だが商品がなければ話にならない。井口は工具を握り、独断で修理に没頭した。その背中に、日本人工場長の怒声が飛ぶ。
「勝手な真似をするな!」
「一体いつになったら動き出すんですか!」
井口も食ってかかり、両者は激しく衝突。夢見たタイ生活は、工場長との大喧嘩で早くも居場所を失う。わずか1年足らずで帰国を余儀なくされた。
諦められず、再びタイへ
井口が早々に戻ってきたことに、本社の経営陣も社員も驚いた。賃貸アパートはすでに引き払い、帰る場所もない。そこで井口は、本社上階の会長室に勝手に寝泊まりし、社内ホームレスさながらの生活を送った。
夕方になると「お疲れさまです」と他の社員と一緒に退社するふりをし、夜中に窓から戻り、会長室に布団を敷いて眠る。レンタルショップで借りたビデオを観たり、銭湯が閉まった夜はシンクで足湯をしたり――そんな日々が続いた。
ある晩、忘れ物を取りに戻った部長が、会長室から漏れるビデオの音に気づく。ドアを開けると、布団にくるまった井口がいた。
「一体何をしているんだ!」
問い詰められた井口は、「そっちこそ何なんですか!」と逆ギレ。その裏には、仕事も居場所も失った彼なりの訴えがにじんでいた。それでも諦めず、「もう一度タイで勝負したい」と主張し続ける。やがて専務の計らいで、ODA(政府開発援助)の海外技術者派遣制度を活用する道が開かれた。
語学と技術の試験に合格し、1992年春。井口は再びタイへ向かった。
技術で信頼を勝ち取る
タイ工場に復帰後、最初に挑んだのは、木軸に文字やイラストを印刷する「オフセット印刷機」の修理だった。
全長4メートルの印刷機は、海外製の中古で設計図もなく、誰も動かせぬまま倉庫の隅で埃をかぶっていた。
「無理だ」と首を振る声を背に、井口は汗だくで分解に挑んだ。錆にまみれた金属ローラーを磨き、劣化したゴムを取り替え、日本から取り寄せた部品を組み込み、電気系統の不具合を解消していく。
1か月半後。鉄の塊が低い唸りを上げ、ベルトが回転を始めた瞬間、工場にどよめきが走った。
そこからは修繕の日々。木を削り、芯を組み込み、塗装し、ロゴを印字する――。いくつもの装置がかみ合ってこそ、一本の鉛筆は生まれる。どれか一台でも止まれば生産は立ち行かない。
井口は、止まっていた製造ラインを一つずつ動かし、安定的に稼働させていった。
翌年、鉛筆の年間販売本数は1700万本に達し、わずか1年で3倍に急増。日本向けの大口出荷にも応えられるようになり、周囲の目は一変した。
「この男、本気だ……」