ポリタス

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  • Photo by Matt Paish(CC BY 2.0)

「さまよえる民主主義」から脱却するために

  • 椿昇 (京都造形芸術大学 美術工芸学科教授)
  • 2015年8月17日

2014年4月に90歳で他界した私の父は、大阪船場の商家の末っ子として生まれました。尋常小学校を卒業して、しばらくテーラーの丁稚奉公をしたあと、傾いた旅館業に見切りをつけて満州に渡ります。全満州2000人の受験戦争を勝ち抜いてハルビン鉄道学院に入学したものの、関東軍が戦争に突入。チチハルマンチュリーなど極寒の地で電線を敷設する作業をしていたようでしたが、あっという間に戦況は暗転。ロシア軍の参戦もあって、命からがらの逃避行が始まったそうです。同僚と敗走する関東軍の食料倉庫から米を盗んで飢えを凌ぎ、ロシア軍が占領した街の下水に首まで浸かりながら潜伏。飛行機を奪ってなんとかコロ島の引き揚げ者に紛れ込んで帰国した後、つてを頼って国鉄に再就職を果たし、新幹線の車掌をしながら比較的静かな余生を送りました。


Photo by 南満洲鉄道株式会社

今も存命する母は、宮崎県の延岡高等女学校で優秀な学生リーダーであったらしく、極めて厳格な戦争教育を受けた女性という空気を周囲に漂わせていました。子どものころ、出征兵士を見送る写真や、千人針や、軍事教練の様子を写した写真のアルバムが普通に僕の視界に入る場所に置かれていましたし、椿家初の男子への期待もあってか、重苦しい儒教的な重圧が常に彼女の背筋にしっかりと固定されているかのようでした。母がこだわり続けた教師への付け届けや慇懃な姿勢は、激変する時代のなかに取り残されてゆくかのようでしたが、それは86歳の今をもって厳格に保たれています。


Photo by 毎日新聞社

私は、朝鮮戦争がやっと休戦を迎えようとする3カ月前にその両親の長男として京都で生まれました。第二次世界大戦の終結からまだ8年しか経ておらず、空襲を免れたといえ、京都の街は煤けた荒屋が林立する荒廃した町並みであったと記憶しています。

大分機関区の助役を務め、50歳で恩給をもらい始めた祖父、孫とは口をきくことのない曾祖母が奥座敷に鎮座し、明治以来の天皇皇后の肖像写真と神棚が部屋の空気を押し殺すように陰鬱と佇む家庭でした。祖父は毎朝必ずその写真に頭を垂れてから一日を始め、神棚に柏手を打つ姿は私が長じても何ら変わることはありませんでした。


Photo by ひでわくCC BY 2.0

若いみなさんは奇異に思われるかもしれません。スマートフォンに金縛りになって世界と仕事をこなす私の前半生が、まるで歴史の断片を見るかのようであったのですから。この薄暗い京都の家のなかでは、まだ戦争は続いていましたし、家族の誰もが心のなかでは敗戦を受け入れていないかのようでした。居候していた従兄弟は『』という戦闘機の掲載された雑誌を熱心に読んでいましたし、その後小学校で熱中したプラモデルは「大和」や「武蔵」そして「紫電改」や「隼」や「ゼロ戦」でした。そこには反戦という意識も機運もまったく存在していませんでしたし、あまつさえ軍歌もよく流れていたのです。そして、現在では考えられないことかもしれませんが、私の親も親族も中国人や朝鮮人に対して極めて失礼な表現で侮蔑する言葉をよく口にしていたのです。もちろんそれは被差別部落の人々に対しても同じ有り様でした。


Photo by Ashley Van HaeftenCC BY 2.0

では、このように差別的な発言が家庭で日常的に交わされ、まったく平和教育の片鱗もなかった私の家庭から、なぜ比較的リベラルな思想を持った私が育っていったのか、その謎について考えてみたいと思います。

結論から申し上げましょう。私は物心ついたその瞬間から説明不可能な理由によって、家庭環境に疑問を持っていたということなのです。

幼いころから、とにかく親が中国人や朝鮮人の悪口を言うことに生理的な嫌悪感を持っていたということです。本当にこれをどう説明して良いものか苦慮しますが、記憶が誕生したその前後からずっと他人の悪口を聞くことを嫌悪していたのです。そのような会話が始まるとそっと席を外して近くを流れる疎水の道をあてもなくうろうろしたり、庭で工作をするような子どもでした。この事実を前にすると、長く教育に携わって来た人間として、大きなパラドックスを覚えざるを得ません。教育(家庭も学校も)という行為が、遺伝子にインプリントされた基本プログラムをどこまで加筆修正できるのかということなのです。

また、怖しいことで想像したくはありませんが、私と逆のパターンで平和を愛する家庭で育っても、記憶の誕生時点から好戦的で破壊衝動に溢れる個性があるのかもしれない――そんなことも十分想定可能なのではないでしょうか。その場合に、私が排外的な思想を持った家庭で育ちながらも、静かに逆の方向へと進んでいったことと真逆の個性が育っていくことをどう防げば良いのだろうと思うのです。また、この事実は単純に親のDNAを引き継いだから近似するということでもなく、もっと遠い時代の遺伝情報も含めて複雑な過程を経て個が形成されているという事を如実に示しています。


Photo by Ryan SommaCC BY 2.0

もちろん教育が無意味であるなどと申し上げているのではありません。しかし、いかに十全なる平和教育を行おうとも、人間の意識の底流には教育の及ばない生理的反応が潜んでおり、それが周囲の環境の変化によってリベラルにもサディスティックにも出現することを忘れたくはないのです。

いくら平和教育をしたからと言って平和な社会が続く保証はどこにもありません。またいかに好戦的なリーダーが現れたからと言って、すべての人々が雪崩を打って付き従うわけでもありません。そのように外部の影響だけが人格を形成するのではないと知った時に、私は不安より大きな安堵感を得るのです。それは世界がどのように動こうとも人類が話し合いによって少しずつ困難を克服して来た道筋を信じても良いという気になれるからなのです。それが愚鈍と言われようと遅いと言われようと「民主主義」と呼ばれる話し合いを尊重するシステムなのだと確信しています。

しかしながら少なからず懸念も見出されます。若い学生のなかには、ジャーナリズムやネットの垂れ流す二項対立の劇場型思想に洗脳され、リベラルな学生たちに限って「もう日本は戦争に向かっている」とか、「川内原発が再稼働しておしまい」だとか、極端で悲観的な考え方に陥りがちなことが気にかかります。良きにつけ悪しきにつけ反応が短絡的で映像文化の影響を強く受けた反応型に傾きつつあることが気がかりです。


Photo by 朝日新聞社

平和教育とは何でしょうか。歴史や政治などの情報を詰め込んだからと言って、それが成果を上げるはずはありません。戦争の悲惨さを伝える写真を見ても、それも一過性の抑止力にしかならないでしょう。インターネットでの調べ学習などは論外です。情報の多さが思考を深める手助けをしてくれるとは限らないことはもはや明白です。

とにかく一方的にたくさんの情報を垂れ流して与え続ける今の教育手法は、個が独立して思考する力を奪うことには貢献するものの、自分の頭で考え抜く力を徹底的に破壊することに加担するのみです。

あえて物心がつく瞬間の幼児のように、外部からの情報に頼らずシンプルに、「なぜ人は人を殺すのだろう」「宇宙の端はどうなっているのだろう」というような抽象的な問いに向かって、自分の言葉で考えぬくほうが、時代の歯車を強引に廻そうとする大きな声に惑わされなくなる人格を形成すると確信します。

私ならば、ここで大きな決断を行います。文部科学省が国立大学からリベラル・アーツを排除し実学重視で国際競争に打ち勝つことを狙ったあの短絡的な判断を白紙撤回するという決断です。


Photo by Nicholas WangCC BY 2.0

最後にレッジョ・エミリアの児童教育を主導しているカルラ・リナルディーさんと雑談した時にお聞きしたエピソードをお伝えしておきましょう。なぜレッジョは幼児教育を重視しているのかという一点についてです。

彼女は言いました。レッジョの市民はムッソリーニというファシストに扇動されてしまったことを強く反省し、「デモクラシーを守るためには、幼児期から相手の話を聞いて討論する習慣を日常化しなければならない」と。

この思想によって、戦後まもなく創立されたとのことでした。驚くべきことに5歳の子どもたちは毎朝自分たちで集まり、今日どんなワークショップをするべきか話し合いをしていたのです。ペタゴリスタという哲学の教師とアトリエリスタという美術の教師、そして技官の3名は、あくまでも彼らの議論を尊重してアドバイスをする役に徹していました。

いま我が国民がチャレンジするべきは、憲法改正でも原子力発電所の輸出でも、まして軍需産業の育成でもありません。世界に冠たる日本国を築く一歩として「日本型民主主義とは何か」という議論を開始することです。

「人の話を聞く」
「自分で問いを生む」
「自分の言葉で考えぬく」

この単純極まりない3つの行動を飽くことなく幼児期から繰り返すほかに、平和な社会を持続する手立てはないように思います。未来は明るくも暗くもありません。未来は国民ひとりひとりが明るくする義務を負うに値する「何か」なのです。


Photo by Riedelmeier

著者プロフィール

椿昇
つばき・のぼる

京都造形芸術大学 美術工芸学科教授

日本を代表するコンテンポラリー・アーティストの一人であると同時に、卓越した教育者でもある。また、アートの新しい可能性を探る新しい実践も数多く、妙心寺退蔵院の襖絵プロジェクトや瀬戸内国際芸術祭のエリアディレクターとして「醤+坂手港プロジェクト」などを手がけている。新著に『シェルターからコックピットへ 飛び立つスキマの設計学』(産学社)。

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  • 視点
  • Photo by 初沢亜利

戦後70年のいま私たちが目指すべき新東京五輪

  • 椹木野衣 (美術批評家)
  • 2015年8月17日

アジア太平洋戦争から70年を迎える今年、私たちが生きてきた「戦後」と呼ばれる時代について、かつてない論議が起きています。南方での凄惨な玉砕、島民に多大な犠牲を強いた沖縄戦、そしてヒロシマ、ナガサキへの2度の核攻撃を経て終戦を迎えた同じこの夏には、かつての戦争について改めて振り返り、その実相の解明と、歴史的な省察を促す企画が目白押しです。いまある日本の社会が、その過酷すぎる礎のもとに築かれてきたことを思えば、当然のことと言えるでしょう。

それにしても、なぜ「70年」なのでしょうか。まるで「戦後100年」を迎えたかのような騒ぎではありませんか。あるいはなぜ「戦後50年」に、このような気運が盛り上がらなかったのでしょうか――私には、そのことが、ずっと不思議でした。

むろん、集団的自衛権の行使を可能とする新安保法案への世論の高まり、沖縄の辺野古への基地移転をめぐる国と県との攻防、1964年の東京五輪に続く2020年の新東京五輪をめぐる迷走など、「戦後」について、今年に入り、近年稀なほど、深く問い直すべき諸問題を抱えることになったのが拍車を掛けているのは、言うまでもないでしょう。


Photo by t-mizo(CC BY 2.0

けれども、より本質的には、戦後70年という年に、日本がこのような大きな岐路に立たされたことの背景には、次のことがあるように思えるのです。

70年という時の経過は、程度の差こそあれ、私たちに与えられた生涯の時間に、ほぼ一致します。たとえば、敗戦を迎えた1945年にこの世に生を受けた赤ん坊は70歳となり、その人がなしとげてきた生の総体が総括される晩年を迎えています。これにならえば、戦後70年とは、戦後という区切りが、いよいよ、その終盤を迎えようとしていることを意味します。これは、なにも比喩ばかりではありません。

戦後について考えるには、たとえば戦後100年と言われるとき、人に天与された時のスケールとしてはいささか大きすぎます。しかし、80年であっては遅すぎ、60年では早すぎる。戦争をじかに体験している者と、戦争について知らずに育った者と、戦争とはまったく無縁に生まれた者――彼らが共通の卓上で意見を交わすには、戦後70年というのは絶妙なタイミングであり、なおかつ最後のチャンスなのです。


Photo by L'oeil étrangerCC BY 2.0

そんな希有な年であるにもかかわらず、日本は、いま、かつてない危機のもとに置かれています。4年前の2011年3月11日に起きた大震災の余波と後遺症から、なお抜け出せずにいるからです。とりわけ、東京電力福島第一原子力発電所で起きた3基の原子炉のメルトダウンと、広範囲にわたり拡散した放射性物質から古里を追われた人たちの行く末には、依然、はっきりとした展望が見つかっていません。

つまり、私たちはいま、新東京五輪という新たな飛躍への希望と、未曾有の復興への途上という重い課題が交錯する時代に生きているのです。ところが、新五輪が復興の象徴として語られる一方で、建設費や資材の高騰、そのための人員の不足、そして、東北の復興などどこ吹く風の、反面的な祝祭的高揚によって、新五輪は東北の復興を後押しするどころか、実質的に遅延させ、その現状を忘却の淵にさえ追いやりつつあります。

2兆円を超えるとも言われる新五輪のための国家予算があるなら、なぜ、これを東北の復興に注ぎ込まないのでしょうか。もとより私は、新五輪の誘致・開催そのものに反対の立場でした。案の定、すでに新国立競技場をめぐる悲喜劇だけでも、とんでもない額の公金が消えています。東北の復興を考えれば、どぶに捨てるような愚策です。しかし不幸中の幸いというか、首都の中心には、旧国立競技場の取り壊しによって、広大な空き地が生まれました。


Photo by PIXTA

どうせ新東京五輪を開くのであれば、メイン・スタジアムの新設は既成の施設を使うことで断念し、かの神宮の地には、津波被害や原発事故で古里の家や土地を失った、20万人にもおよぶ人々のために復興の特別区をもうけてはどうでしょうか。そのことで、なによりもまず、被災者の方々の居住と生活を安定させ、五輪にまつわる仕事への就労機会を優先的に受けることができる、抜本的な東北の再生計画に充てるのです。いまなお過酷な現実のもとにあり、未来など見ようにも見ることができない人たちが、新東京五輪の華やかな様子を、首都から遠く離れた仮設住宅のなかで、テレビを通じて視聴することが、どうして復興などと言えるのか。私にはまったく解せません。本当にそれが、戦後70年という、先の例にならえば人の一生にもなぞらえうる記念すべき年に、日本のさらなる未来のために、私たちが共有すべきヴィジョンなのでしょうか?


Photo by Jean-Pierre DalbéraCC BY 2.0

国難の渦中と呼ぶべきこの時期に、新東京五輪などというものがありうるとしたら、それは、あの大震災の被災者たちが、傍観者などではなく、本当の主役となって築き上げるべきものです。そのためにも私は、新国立競技場は建設せず、更地となった神宮の一等地には、震災の避難者20万人のための、新たな五輪と真の復興を束ねて進めるための、一大拠点を作ることを提案します。そして、新しい未来のための国家プロジェクトが、ほかの誰でもない、未曾有の震災の被災者たちの手で築かれるという、かつてない五輪開催の姿を、世界中から日本を訪ねる人々や、それを視聴する地球の津々浦々の市民たちに、わが国が真に誇るべき姿として届けることができたらと、切望します。

著者プロフィール

椹木野衣
さわらぎ・のい

美術批評家

1962年(昭和37年)、埼玉県秩父市生まれ。90年代初頭より東京を拠点に広範囲にわたる批評活動を始める。主著に1991年『シミュレーショニズム----ハウス・ミュージックと盗用芸術』(洋泉社)、1998年『日本・現代・美術』(新潮社)、『「爆心地」の芸術』(晶文社)、2005年『戦争と万博』(美術出版社)、2010年『反アート入門』(幻冬舎)ほか。代表的なキュレーション展に村上隆、ヤノベケンジら参加の「アノーマリー」(レントゲン藝術研究所、1992年)、戦後美術の「リセット」を試みた「日本ゼロ年」(水戸芸術館、1999年)ほか。2015年には600頁超の大著『後美術論』(第25回吉田秀和賞、美術出版社)、初の書き下ろし+新書『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書)、会田誠との共著『戦争画とニッポン』(講談社)、『日本美術全集・19 拡張する戦後美術』(責任編集、小学館)を上梓。本稿で触れた「Don’t Follow the Wind」展公式カタログも同年、Chim ↑ Pomとの編著で河出書房新社から刊行されている。現在、多摩美術大学教授。

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  • Photo by Urawa Zero(CC BY 2.0)

死者と生きる未来

  • 高橋源一郎 (作家・明治学院大学国際学部教授)
  • 2015年8月18日

これから書く文章の中には、読者のみなさんにとって、不愉快に感じられる箇所があるかもしれない。そのことをお許し願いたい。

わたしは大学を卒業していない。入学したが、わけあって大学を離れた。親や友人との交際も絶って、肉体労働をしながら、小さな小さな世界で生きた20代だった。

20代の終わり頃、腰を痛め、肉体労働もできなくなった。妻子とも別れ、養育費を送る身だったのに、金を稼ぐ術を失った。おまけに、ひどいギャンブル依存症になっていた。つてをたどり、やれる仕事は、他人にはいえないようなものでもやった。その一つが「女衒(ぜげん)」だった。簡単にいうなら、売春の斡旋である。

インターネットなどなかったから、三流夕刊紙に、内容をほのめかした広告を出す。男たちが電話をかけてきて、その男たちに女の子を紹介する。そんな、ヤクザがやっている商売の一番下っぱの仕事をした。わたしは、もっぱら新大久保のラブホテルに女の子を届ける役だった。ホテルの部屋の前まで行き、金を受けとり、女の子を渡す。明らかにおかしい男もいた。酔っぱらいもヤクザも。だが、それは、わたしの知ったことではなかった。

首を締められた子も、後ろ手に縛られ、犯されるようにやられた子も、いきなり注射をうたれた子もいた。幸いなことに死んだ子だけはいなかったが。

高校生の女の子がひとり、紛れ込んできたことがあった。学生証を見たから、間違いはなかったと思う。なぜ、そんなところにやって来たのかわたしは知らなかった。わたしは、いつものように、ラブホテルの部屋の前まで行き、ドアを開け、金を受けとった。男は、最悪より少し上という感じだった。わたしは、女の子を男に渡し、すぐ近くの、事務所という名の荷物置き場のような部屋で待ち、90分後にホテルに戻った。女の子は青ざめた顔つきになっていた。

わたしたちは、「事務所」に戻り、迎えの車を待っていた。そのとき、女の子が、なにかを呟いた。

「あたし……」
「なに、なにいってんの?」とわたしは訊ねた。女の子はもう一度はっきりいった。
「あたし、魂を殺しちゃった」

それから、女の子は、持っていた小さなポーチに左手を入れ、剃刀を出し、右の手首に当てて引いた。切ったのは静脈で、だから、血は噴出することもなく、けれど大量に流れ出した。わたしは、剃刀をとりあげ、ごみ箱に放り込んだ。そして、女の子の右手を持ち、高く掲げ、トイレに向かい、そこまで女の子の手を持ったまま歩いていって、タオルを見つけ、出血している場所の少し下で固く縛った。女の子は、反抗することもなく、ことばを発することもなく、人形のようにおとなしく、わたしについて来た。それから、その縛った手をまだ高く掲げたまま、「上」に電話をした。すぐに、「上」の連中がやって来て、わたしの不注意を叱りつけ、そのまま女の子をどこかへ連れていった。その女の子とはそれ以来会っていない。

そのすべてが愚かしいようにわたしには思えた。なによりわたしが驚いたのは、わたしが少しも、その女の子に同情していなかったことだった。わたしは、その哀れな女の子を痛ましいと思うべきだったのだろう。けれども、わたしには、そんな感情が少しも沸いてはこなかった。「自分には関係のないことだ」というのが正直な気持だった。いや、まるで、当てつけのように、目の前で手首を切ったその女の子を、わたしはどちらかというと憎んでいたように思う。それから、なお2週間、わたしは「女衒」を続け、その後やめた。それから35年、新大久保には近づかなかった。わたしが作家としてデビューしたのは、その2年後だった。

それからも、時々、わたしは、その女の子のことを考えた。

どうして、わたしはなにも感じなかったのだろう。どうして、同情ではなく、腹立たしい思いがしたのだろう。手首を切ったことではなく、「魂を殺しちゃった」といった、その、まるで小説の中のセリフみたいなことばを使ったことに、憎しみを抱いたのかもしれない。なぜなら、彼女には、確かに、そのことばを使う資格があるように、わたしにも思えたからだ。そして、そのことばによって、わたしを責めているように、思えた。

それは、ちょうど、「あの戦争」の被害者が語る「戦争の悲劇」を前にして、わたしが感じる居心地の悪さにも似ていた。「あの戦争を繰り返してはならない」といわれるとき、感じる、「でも、自分には関係のないことなのに」という思いにも似ていた。反論しようのない「正しさ」を前にして、「正しいから従え」といわれたときのような、やる瀬なさにも似ていた。

だが、問題は、そこにはなかったのかもしれない。わたしには、なにかが決定的に欠けていた。ただそれだけの話なのかもしれなかった。

作家になって、しばらくして父が癌で亡くなった。父は放蕩と無能で家族を何度も路頭に迷わせた人だった。わたしはほとんど父を憎んでいたので、病院に着いて、ベッドで微かに瞼を開けて死んでいる父を見ても、なんの感慨も浮かんではこなかった。それから、ほどなく、父と別居していた母も亡くなった。そのときにもほとんど、わたしはなにも感じなかった。弟や妻は泣いていたが、わたしは、そんな彼らを不思議そうに眺めるだけだった。彼らは、わたしにとって生物学的な父や母にすぎず、そして、すべての人間がそうであるように、死んでいった。ただそれだけのことのようにわたしには思えた。もちろん、わたしも、そうやっていつか死んでゆくだけのことなのだ。

わたしは作家を続け、その作品の中で、あるいは、エッセイの中で、「他人」の境遇や悲惨さに心を動かすことばを書きつけたこともあった。けれども、書きながら、「それはほんとうだろうか」と思った。わたしが、政治や社会について発言することを用心深く避けてきたのも、そんな、わたしの本心を気づかれるのが恐ろしかったからなのかもしれない。

ほんとうに、みんなは、世界の悲惨に憤ったり、この国が犯した恐ろしい罪を憎んでいるのだろうか。本心から、そんなことが思えるのだろうか。わたしには、疑わしいように思えた。というより、そんなことは、どうでもいいことのように思えた。

そして、わたしは、いろんなことを忘れた。父も母も、あの女の子のことを思い出すこともなくなった。

 

 

8年前のことだった。わたしはバスルームで、3歳の長男に歯を磨かせていた。

そのときだった。わたしは異変が起こったことに気づいた。

バスルームの鏡に父が映り、わたしを凝視していたのである。

わたしは、一瞬、恐怖にかられ、叫び出しそうになった。無視し、忘れようとしたわたしを恨んで、父の亡霊が出現したと思ったのだ。だが、すぐにわたしは自分の間違いに気づいた。そこに映っていたのは、父の亡霊などでなくわたしだった。いつの間にか、わたしの容貌は父と酷似していた。そのことに、うかつにも、そのときまで、わたしは気づかなかったのだ。

わたしは、その愚かしい間違いに、失笑した。なんてことだ。馬鹿馬鹿しい。

その瞬間、わたしは、それまで一度も体験したことのない不思議な感覚を味わったのである。鏡に映っているのが父だとするなら、その父に歯を磨いてもらっている長男は、わたしではないか。そう感じたとき、体が裂けるほどの痛みがわたしを襲った。ほんとうのところ、それは、痛みではなく悲しみだったが、あまりに突然だったので、痛みに感じられたのだ。

長い間忘れていた父の記憶が、どこか深いところから甦り、噴き出すのを感じた。

会社が倒産し、夜逃げをして、極貧の生活をしていた頃、「おかしが食べたい」といいだした5歳のわたしのために、深夜、何時間もかけてリンゴを鍋で煮ていた姿、あるいは、6歳の頃、やはり突然夜中に発熱したわたしを背中にかついで30分以上かかる医者のところに運んでくれた姿が、わたしの中で甦った。父は、幼い頃、小児麻痺を患い、歩くことはきわめて困難だったのだ。

わたしは21世紀の東京で子どもの歯を磨いていたが、同時に、半世紀前、父親に歯を磨かれている幼児でもあった。

わたしは父を忘れていたが、父はわたしを忘れてはいなかった。そんな気がした。父はわたしの中で、ずっと生きていたのだ。わたしは、父がその幼児に、すなわちわたしに抱いた、溢れるような感情の放射を、半世紀たって再び、浴びせられたように思った。それは、わたしが、なによりいとおしく思っている子どもへの感情と同じであった。

気がつくと、長男が不思議そうにわたしを見つめていた。

「ぱぱ、どうしたの?」と長男はいった。
「なんでもない」とわたしは答えた。
「なんでもないよ」

そのときから、わたしと過去の関係は変わったように思う。

わたしは、ずっと、過去というものを、「死んだ」もの、「終わった」ものだ、と思っていた。だから、その「過去」というやつのことを思い出すためには、わざわざ、振り返り、遠い道をたどって、そこまで歩いていかなければならない、やっかいなものだった。

そうではなかった。「過去」は死んではいなかったのである。

わたしたちが生きる、この現在は、過去が生み出したものだ。遥か、視線を上げると、わたしたちの周りにあるもので、過去と無関係なものは一つもないのである。一つのコップ、一枚の紙ですら、かつて誰かが、もうこの世には存在しない誰かが、全力で作り上げようとしたものの果てに生まれたものなのだ。

いや、わたしもまた、同じではなかったろうか。わたしのことばづかい、わたしの癖、わたしの感覚、それらもまた、わたしが勝手に生み出したのではなく、わたしを愛してくれた、父や母や、そんなすべての人たちが語りかけたことば、感情、によって刻みこまれたものにちがいないのだから。

そんな当たり前のことに、どうして気づかなかったのだろう。

書斎のわたしの机から見えるところに本棚が幾つもある。その一つには古い文庫ばかりが並んでいて、それはすべて、遠い過去に死んだ人たちによって書かれたものだ。だが、頁をめくると、そこには、いま生きている、どんな人間が話す、書くことばより、明瞭で、寛容で、静謐なものに満ちていることを、わたしはよく知っている。

なにかを知りたいとき、誰かの声を、心の底から聞きたいと思ったとき、わたしは、生きている人間よりも、その本の中で、いまも静かに語りかけている彼らの声を聞きたいと思う。だとするなら、わたしにとって、ほんとうに「生きている」のは、どちらの声なのだろうか。

今年の6月、わたしは、70年前に戦死した伯父の慰霊に、フィリピンに出かけた。伯父とは、もちろん一度も会ったことなどなかった。伯父は、昭和16年に慶応大学を卒業した、フランス文学とフランス映画が好きで、内気な、さらに付け加えるなら「戦争が嫌いな」青年だった、と父から聞いた。伯父は、昭和20年、フィリピンに渡った。フィリピンには60万余の日本軍兵士が向かい、武器も食糧もない戦いの中で、およそ50万人が死亡し、その遺骸は、フィリピンの原野を埋めた。伯父もその中のひとりであった。

父や祖母は慰霊の旅を熱望をしていたが、果たすことはできず、わたしがその代わりを務めたのである。

最大の檄戦地となったルソン島・バレテ峠の、北に向って、すなわち遥か日本に向って建てられた慰霊碑の前で、わたしは、長い間、瞼を閉じ、頭を垂れていた。

そのとき、わたしは、伯父が、いや無数の死者たちが、わたしをじっと見つめているような不思議な思いにとらわれたのである。

人は、最後の瞬間が近づくとき、なにを考えるのだろう。彼らは、死が目前に迫っていること、そして、それから逃れることが不可能であることを知っていた。そのとき、彼らの脳裏になにが浮かんだのだろう。それがなにであるかは決してわからないであろう。けれども、それを想像することは可能であるように、わたしには思えた。なぜなら、彼らもまた、わたしと変わらぬ、ふつうの人間であったであろうから。

彼らは、遠く日本にいる、家族を故郷を思っただろう。わたしが立ち尽くしていた、北ルソンの風景は、想像していた熱帯のそれではなく、不思議なほど、日本の山野に似ていた。

そして、わたしには、伯父が、彼らが、そのとき、戦いのない、死に脅かされることのない、平和に満ちた未来を想像したに違いないと思えた。死んだ仲間の肉をむさぼるほどの飢えに晒されながら、それでも生き抜いて、その未来にたどり着けたら、と薄れゆく意識の中で、思ったのではないだろうか。

そして、彼らが切望した未来とは、いまわたしたちが生きている「現在」のことなのだ。わたしが、彼らの視線を感じたのは、わたしの「いま」が、彼らが想像し、憧れた「未来」だからだ。70年前、フィリピンの原野から放たれた視線は、長い時間をかけて、わたしの生きる「現在」にまでやって来たのである。

慰霊とは、過去を振り返り、亡くなった人びとを思い浮かべて追悼することではなく、彼らの視線を感じることではないだろうか。そして、その視線に気がつかなくとも、彼らは、わたしたちを批判することはないだろう。「過去」はいたるところにあり、見返りを求めることなく、わたしたちを優しく、抱きとめつづけているのである。

そう思えたとき、わたしは、70年前ではなく、70年後の未来を思った。彼らが、未来を見つめたように、わたしも未来を見つめたいと思った。まだ生まれてもいない、わたしたちの家族の末裔を想像しようとした。その未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように、祈らずにはいられなかった。もしかしたら、慰霊とは、死者の視線を感じながら、過去ではなく、未来に向って、その未来を想像すること、死者と共に、その未来を作りだそうとすることなのかもしれない。いま、わたしには、そう思えるのである。

 

 

最近、あの女の子のことを、また考えるようになった。あのとき、あの女の子は、なにを考えていたのだろう、と思う。あの女の子は、なにを見ていたのだろう。

彼女の目に、心を閉ざした、機嫌の悪い、無口で、視線を合わそうとはしない、30歳近い、男の姿が映っている。

彼女は、深く傷ついていたのだと思う。けれど、それにもかかわらず、目の前の、不機嫌な男に、声をかけずにはいられなかったのだ。その男もまた、傷ついていることを彼女は感じていたのだろう。そして、手を伸ばそうとしたのだろう。不器用なやり方ではあったけれど。残念なことに、男は、なにも気づかなかったのだが。

著者プロフィール

高橋源一郎
たかはし・げんいちろう

作家・明治学院大学国際学部教授

1951年(昭和26年)、広島県尾道市に生まれる。1969年、横浜国立大学経済学部入学。1977年、同学部満期除籍。1981年、小説「さようなら、ギャングたち」でデビュー。主な作品に、「優雅で感傷的な日本野球」(1988年、三島由紀夫賞)、「日本文学盛衰史」(2001年、伊藤整文学賞)、「さよならクリストファー・ロビン」(2001年、谷崎潤一郎賞)。2011年4月から、朝日新聞で論壇時評を、2012月4月から、NHKラジオ第一で「すっぴん!」金曜日のパーソナリティを、それぞれ始める。2015年5月、4年分の論壇時評を収めた「ぼくらの民主主義なんだぜ」を刊行した。