庄司浩平 小説「なつのさくら」
社会人4年目の夏、坂田浩は高校時代からの友人と共に居酒屋に集まっていた。そこで「宮内さくら」という懐かしい名前を耳にし、高校時代の記憶がよみがえる。秘密のノートに書き連ねた「バケットリスト」、宮内との出会い、そしてふたりで過ごしたひと夏の思い出……。それらすべては「生きる理由」を探すヒロにとって、かけがえのないものとなっていたが――。俳優としても活躍中の庄司浩平が、約1年の歳月をかけて完成させた青春ストーリー。
「そういえばこの前宮内に会ってさ」
突然ノリの口から出てきた名前に、僕は驚いてむせた。
7月の2週目、木曜日。華金の一足先に新宿の居酒屋に集まったのは、高校時代からの悪友であるノリとケンである。社会人になってからまた連絡を取るようになり、2年ほど前からは年に4回、大体季節ごとに集まって現状報告や懐かしい話をする会を開いている。このクソ暑い中、鉄板焼きが有名な居酒屋に連れてこられた僕は大して好きでもないレモンサワーをちびちびやっている。うずらのピリ辛和え、枝豆、もろきゅう、タコの唐揚げを男三人で早々に蹴散らし、本命の粉物は感動するほどの味ではなく、まあ居酒屋クオリティの一品だよなと思いつつなんだかんだ腹にするりと通っていった。
気がつくと年齢は26を数え、二人と出会って10年以上経っているという事実にびっくりする。まだまだ20代半ばのため体力の衰えは心配いらないかと思いつつ、とはいえ5年前とかと比べると脂っこいものやアルコールへの耐性は徐々に失ってきて、正直もう限界が近い。高校時代の話に十分花を咲かせ——話すことはいつも同じでバスケ部の大会での大逆転劇と顧問の先生のモノマネ、当時好きだった子に告白して見事に振られたノリ、修学旅行でホテルの部屋の壁を何故かパンチして穴を開け、ありえないくらい怒られたケン、が主なラインナップである——、今の仕事の状況や転職、恋人との関係がどうだの周りで結婚する奴が出てきただのとありきたりな社会人トークも一周した。
時刻は22時半。明日も当然社会の歯車として朝から電車でもみくちゃにされなければならないのでそろそろお開きムードになっていた矢先の、さっきの会話である。
「おお、久しぶりに聞いた名前だなぁ」
「いやいや何言ってんだよケン、お前の元カノだろうが」
「どこでさくらと会ったんだよ」
むせる僕を気に留めることもなく、ケンはやや興奮気味にノリを問い詰めた。
「客先で横浜まで行っててさ、その帰りにメール送りながら歩いてたら女の人とぶつかりそうになったのよ。スミマセン~つって顔見たらなんか見たことある顔で」
「それがさくらだった、って? そんなマンガみてーなことってあるんだ」
「いや俺がびっくりよ。なんか今横浜に住んでて、フリーランスでデザインとかやってるらしいわ。てかケン、お前宮内のことまださくらって呼んでるのフツーにキモくね? 別れたの何年前だよ」
「いいだろ別に」
ケンと宮内は高1の夏頃から高2の冬まで付き合っていた。悔しいがケンは友達贔屓を抜いてもハンサムだし、宮内に関しても学年の男たちが無粋な「誰が可愛いトーク」をすると必ず出てくるような人だったから、いわゆる美男美女カップルとしてそれなりに有名だった。
ノリが店員を呼んで、会計をする。支払いは毎回ローテーションで回していて、今回は僕だった。
「ヒロ、サンキューな」
「ご馳走様」
二人は口々に言って、店を出た。
「ううん。いつもより安くてちょっと申し訳ないくらい」
帰る方向が二人と違ったので、店先で別れることになった。
「じゃあ、また秋にだね」
手を挙げて僕は言った。
「おう、じゃあなヒロ」
ケンがそう言って、夜風が気持ちよさそうにふらふらと歩き出した。ノリもそれに続いていく。ふとノリが何かを思い出したようにこっちを向いた。
「あ、そうだ。宮内がさ、『ヒロ君元気にしてるかなぁ』って言ってたわ。お前ら接点あったっけ?」
どきりとする。短く息を吸って、僕はいつもと変わらない、客観的に見て穏やかな表情を平静を装って作る。
「いや、特にないよ。ノリを見て、たまたま思い出しただけじゃないかな」
「ま、そうか。じゃ気をつけて帰れよ」
走ってケンを追いかけるノリの後ろ姿を見送りながら、自分の背中に汗が伝うのを感じた。
23時を過ぎても乗車率は200%で、必死に手すりに捕まりながら電車と人の揺れを耐え忍ぶ。残業終わりの疲れた顔がいくつも電車の揺れに任せて左右に振られるのを見ると、普段の自分もああなのかと少し嫌な気持ちになった。
ポケットから何とかスマホを取り出し、SNSを覗く。AIが随分とおせっかい焼きなようで、可愛い女の子がフィルター強めの画面上でニコニコ踊る動画ばかりを流してくれる。どの子も曲調に合わせて表情をコロコロと変え、コメント欄はそれらの表現力や単純にルックスを褒め称える文字で溢れているがこれだけ閲覧数があるとやはり悪口も散見される。
「いいよなこいつらは、生まれ持ったものだけで評価されてよ」「女はおっぱい揺らしてちょっと踊ればいいんだもんな、人生イージーモード」など言いたい放題である。自分が持ちえる武器で、かつ勝算のあるフィールドを見つけてしっかりと結果を残している。それだけで僕は画面上の彼女たちを優秀な人間であると思うが、とはいえ誹謗中傷をしている人が、自分自身を惨めだと劣等感を抱く気持ちもなんとなくわかる。どうすれば彼女達のように綺麗な笑顔を作れるんだ。
ずっと考えないようにしていたはずなのに、ノリの口から出た宮内さくらの名前を聞いた途端「あの時間」が甦ってきた。宮内に、急に会いたくなった。彼女は今どうやって毎日を生きているんだろう。僕はいまだに毎日を生き延びるのに必死だ。
ブーッ。バイブレーションが小さくスマホを揺らし、DMの通知を知らせる。見る専門でわずかな友人のみフォローしている僕にDMが来るのは大変珍しい。通知ボタンをタップすると、“Sakura”というアカウント名からだった。
「久しぶり、お元気ですか? 宮内さくらです。ごめんなさい、ノリ君に聞いて勝手にアカウント教えて貰っちゃいました。もしよかったら、今度お茶でもどうですか?」
最寄り駅に滑り込んだ電車は、人間たちを次々と吐き出していく。押し出されるように改札を通った僕は、自らを落ち着かせるように深呼吸をした。そして、つい先ほどまでのメッセージのやり取りを見直しようやくリアリティを覚え、高揚感と少しの緊張感が身を包む。
僕は汗が滲んだ手でスマホをポケットにしまった。来週の土曜、宮内に会う。
*
「坂田浩くん、さ。バケットリスト作ってるでしょ」
初めて宮内に話しかけられた内容は、よりにもよって誰にもバレたくないことだった。
放課後、バスケ部の練習が終わりいつも通りチームメイトのノリ・ケンと連れ立って校門を出たが、駅に着く頃に夏休み前最後の小テストに必要な教材一式を学校に置いてきたことを思い出した。以前までならまぁいっかとなるが、ぼくも高校2年生。期末テストは夏休み明けとは言え、受験のことを考えるとそろそろ内申点も意識しなくてはいけない。ということで二人にまた明日と言いながらダッシュで教室まで戻ってきたら、何故か他のクラスの宮内さくらがいたのだ。
黄昏時のわずかな光が窓から差し込む電気の消えた教室。そこにたたずむほの暗い女子の輪郭は一瞬幻かと思うようだった。ぼくが思わずあげた「わっ」という声に彼女は驚く様子もなくこちらを視認すると、一瞬目を見開いたような顔をして近づきながら話しかけてきた。
ぼくはケンのこともあり一方的に彼女のことを知っているが、向こうは恋人の友達、いわゆるただの男子生徒Aに過ぎないぼくのことを知るわけもない。知るわけもない彼女がなんでぼくの秘密を——つまり、彼女の言葉を借りれば“バケットリスト”のことを知っているのか全く検討がつかない。
「えっ。な、なんのこと」
とりあえずしらばっくれてみるが、こっちを見る宮内の視線は痛いほどまっすぐである。
「誤魔化さなくていいよ、さっき中身全部見たもん。バケットリストを題材にした映画を観たことあるけど、本当に作ってる人初めて会ったよ! でも全然大したこと書いてなくてちょっと笑っちゃった。こういうのって普通『世界一周する!』とか『スポーツカー購入!』とか、ちっちゃくても『バンジージャンプする!』くらいが定番じゃないの」
宮内は首をすくめて言った。
彼女が観たという映画はぼくも観ていて、実はその映画のおかげで《生きているうちにやりたいことリスト》のことをバケットリストということも知った。ハリウッドで製作されたそれは日本でもリメイクされたが、話の規模がかなり縮小されていて結局途中で観るのをやめたことを思い出す。
誤魔化しきれないと悟ったぼくは、彼女を直視できずに視線を彷徨わせた。放課後の掃除があったはずなのに、床にはちらほらホコリが落ちていることに気づく。黙っていることが認めている証拠だと思い、軽く息をついて腹を括る。
「……なんで見たんだよ」
ぼくは言った。
「普通に落ちてた。親切心で拾ったんだから、むしろお礼を言って欲しいくらいだよ。それでまあ、開いて落ちてたから、ね? ちらっと中が見えて、そしたら面白いこと書いてあったからあれやこれやとめくっちゃったってことね」
悪びれる様子もまるでないようにそう言って、宮内は見慣れた薄水色のB5ノートを差し出す。筆記体で書こうとして微妙にうまくいかなかったHiro Sakataという雑な字が目に入り、恥ずかしくなって奪うように受け取った。
なんてことだ。ノリにもケンにも、もちろん親にも見せられないようなことがたくさん封印されているノートが、まさか宮内に見られるなんて。今更遅すぎる気もするが動揺を一応隠そうと、ありがたいことに拾ってくださったノートをバッグにゆっくりと入れ咳払いする。まぁ、よく考えれば彼女はぼくのことを知らないのだから、この一件も別に大した問題ではないのだ。
「あ、ありがとう。……えー、それでは、さようなら」
丁寧なお辞儀(最敬礼は45度である、という知識はあるが今回はできるだけ深い方がいいと判断し120度くらいまで攻める)をして流れるように回れ右。ここは自分の教室なのにまるで初めて上がった友達の家のような緊張感だ。さっさと帰るに限る。が、立ち去ろうとした瞬間後ろから腕を摑まれた。
「にぁっ」
予想だにしない事が起こると、人は自分でも聞いたことのない不思議な声が出ると知った瞬間である。振り向いた先の彼女はなんだか楽しそうに笑っていた。
「……な、なんでしょうか」
「私もやりたい、坂田くんのバケットリスト埋め」
8月末、夏休みの大半を部活とバケットリスト埋めに使ったぼくは当然のように宿題をたっぷり残していた。宮内とは、あれから週に2~3回会って、一緒にバケットリストの項目をこなしていった。実行するのは二人でもどちらか一人でもいいことにした。そっちの方がスムーズに数をこなせるという至ってシンプルな理由である。
ただ、二人の場合はクラスメイトや友達に見つからないよう細心の注意を払った。ぼくらの間には恋愛的なものがあるわけでもなく、他の想像しうる特別なカンケイ——例えばとんだ悪巧みの共犯者だとか、実は血の繋がっていない兄妹だとか——も当然全くない。あえて関係性を言葉にするとすれば“ただの同級生”なのだが、ノリや何よりケンにもし見つかった時なんと説明すればいいかわからないし、彼に内緒で宮内と一緒にいることに言いようのない多少の罪悪感を持っていた。もっとも、注意を払っていたのはぼくだけで、宮内はまるで気にするそぶりも見せなかったが。
『そばをナイフとフォークでいく』
『カップ麺の麺の本数を数えてみる』
『シチューに福神漬けを合わせる』
など、個々人で出来るものは割とすぐ実行に移せた。『誰かに伝染するまで創作の挨拶を続ける』というリストは宮内がバイト先で“おはよーグルト”で達成したり、『赤ちゃんを抱っこしたお母さんに睨めっこを挑んで勝利する』という自分で書いておいて意味がわからない項目も偶然優しい人に出会って完遂した。『美術館でモダンアートを理解する』『日陰ぼっこをする』は二人でトライしたがどちらも結果は芳しくなかった。
他に達成したものや元々一人でやっていたものも合わせて24個のリストが埋まった。学校が始まり次第『マラソンの授業でケンとノリに一緒に走ろうと誘って本当に最後まで一緒に走り切る』『学食の麻婆豆腐をナンで食べてみる』『お昼の放送のリクエストコーナーで通っていた小・中学校の校歌を流す』あたりを攻めていこうと話し合ったのがつい2日前のことだ。
そして今日は宮内がやりたがった、
『かき氷をキーンとせず食べ切る』
を達成するために、池袋駅のフクロウ前で11時に集合することになっている。いつも通りぼくが約束の10分前に着き、宮内は2分遅れてやってきた。
「おっ、エラいねえ今日も。時間にルーズな人は信用失うからねぇ」
「じゃあ宮内は絶賛信用度低下中だ」
「何言ってんの。女の子ってのはわざと時間に遅れたりするものだよ」
宮内はそうめちゃくちゃな物言いをして、ぼくを、というかぼくの全身を前かがみになって舐めるように見た。
「な、何」
「いや〜? なんかいつもと服装変わらないなって思って」
「それの何が悪いんだよ」
ぼくはムッとして自分の格好を見てみる。スポーツ用っぽい生地の無地の白シャツとベージュの短パン。ファッションに明るくないのでこの組み合わせのよさは正直わからないが、だからといって悪いところも特に無いように思える。
「別に悪いなんて言ってないじゃない。でもまあ、いつもと違うヒロくん見られるかなってちょっとだけ期待してたから」
宮内は口角をあげて言った。
「なんだそれ」
ぼくは困惑した。
「ほら、今日の私を見て何か言うことは無いわけ?」
宮内は少し離れて、両手を広げてこっちを向いた。
「……いつも通りだと思います」
ぼくがそう言うと、宮内はわざとらしく眉をしかめてため息をついた。
「はぁ、そう言うところだよ。爽やかで夏っぽい、可愛いワンピース着てるね、とか無いわけ」
「ええ? 別に私服は今までも見てるし」
「まだこの服見せたことないよ。それに、今日は今までと違うでしょ」
「だから何がさ」
本当にわからなかったぼくは降参とばかりに手をあげて宮内に尋ねた。
「だって今日はさ、秩父まで行くんだから」
そう言って宮内は楽しそうに腕を振って歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ。え、それだけ?」
「ほらほら、早くしないと電車が出ちゃうよ」
用意した切符で改札を抜け、特急電車に乗り込む。池袋から目的地の秩父までは約1時間半。かき氷を食べるためだけに秩父に行くのはいささか大袈裟であるが、宮内曰く「天然の氷を使ったかき氷だとキーンとしないってバイト先のパートのおばちゃんが言ってた!」らしい。インターネットで調べるとなるほど確かに秩父は天然氷を使った絶品かき氷が有名であった。とはいえ条件を満たしたかき氷屋なぞ、もちろん大都会である東京にもある。そこにしようと言うと「都会のビル街だといろんな意味で頭キーンとするよ」とよくわからない理由でぼくの説得は失敗に終わり、今に至る。
「ごめん、切符払ってもらっちゃって」
ぼくは頭を下げた。特急料金はお小遣いでやりくりするにはなかなか厳しく、時間はかかるけど普通列車で行こうと提案したが宮内は「せっかくの夏休みのお出かけなんだから特別感が必要」と、結局ぼくの分まで切符を用意してくれた。
「いいのいいの、私バイトしてるからヒロくんより遥かにお金持ちだもん。あと、こういう時はごめんじゃなくてありがとうって言って欲しいなぁ」
一緒にバケットリストを埋めていくうちに、いつの間にか下の名前で呼ばれるようになった。ぼくは宮内呼びのままである。
「ありが、とう」
「ふふ、どういたしまして」
ただの同級生、それだけ。それだけなのに、ぼくの中で宮内とはそういう“同級生”とか“友達”とか、そういった普通の枠の外側で会っている、そんなような形容し難い関係になっていった。
他愛もない雑談を続け——と言っても主に宮内が喋ったことにぼくが適当な相槌を打つだけだが——、気がつくと車窓から見える景色が角ばった都会から丸みを帯びた自然へと変わっていた。
視界が鮮やかな緑に包まれる。モコモコとした雲は澄んだ青い空にぴったりだ。夏を感じさせるその彩りは、この時間を特別なものにさせるには十分だった。
『——間も無く秩父、秩父です』
あっという間に感じたのは、特急列車に乗っているからだけではなく、宮内が隣で楽しそうに笑っているからかもしれない。
処暑と言われる時期だがそれはあくまで二十四節気の話であり、昨今の日本の気候状況を鑑みるに8月の終わりはむしろ夏本番、今日も素晴らしい晴天に恵まれた。
「秩父へようこそ!」と書かれたカラフルな顔出しパネルを横目に、木目調で風情のある駅舎を出る。その瞬間、太陽の熱が頭に降り注ぎ灼熱の暑さに身を包まれた。少しの明順応が起こる。ゆっくりと目線を動かすと観光客だろう集団が向かっていく先は陽炎でゆらゆら揺れていた。
「ひゃー暑いねえ今日も」
宮内は手で顔を扇ぎながら言った。
「どうしよう、とりあえずお昼ご飯でも食べる?」
ぼくは宮内に尋ねる。電車でグミをつまんだりしたが、そんなもので男子高校生の腹を満たすことなど出来る筈もない。
「うーん、お腹減ったけど、せっかくだったら空腹状態でキンキンのかき氷を食べたいよねぇ。ヒロくんはどう?」
「異論はないね。じゃあさっさとかき氷屋さんに行こう、道はわかっているの?」
「せっかちだなあ。せっかく秩父まで来たんだからちょっとはこの空気感を楽しもうとかないわけ? まあでもお腹ペコペコだしとりあえず向かおうか……えっとね、30分かからないくらいで着くってさ」
「30分も歩くの!? やだよ死んじゃうよ」
「若いのに何言ってんのよ、だいたいいっつも部活で走ってるんだから余裕でしょうよ。むしろ帰宅部で体育以外運動してない私を気遣いなさいよ」
「バスケ部だから直射日光はアウェーなんです。ていうか若いのにってなんだよ同い年だろ」
「はいはいさっさと歩くよ」
宮内はぼくに喝を入れるように言うと、太陽に負けじと大股で歩き出した。ぼくは諦めるしかないと早足で追いつき並んで店に向かった。
若さのおかげか、それとも宮内がぼくに喝を入れてくれたおかげかスマホが示した所要時間より10分近く早く着いた。日陰のない道を歩いてきたため、二人して服も髪も汗に濡れた。途中、たくましい野草が生えた細道を通ったせいか脛が少しかゆい。
お昼時ではあるが、かき氷屋さんはまだ空いてたのでスムーズに入店。外の通りがよく見える、窓側の席に通された。宮内は座るなり迷わずブラインドを下げて陽の光と距離をおいた。「すみませーん」
店員のお姉さんを呼んであらかじめ調べておいた“ホンモノイチゴのかき氷”に練乳トッピングをひとつ頼む。
「うわーどうしよう。楽しみすぎて何故か緊張してきた」
頭を抱えて宮内はそう言った。
「意味がわからないんだけど」
汗のとまらないぼくはタオルを取り出して顔を拭いた。
「推しのアイドルに会えると思うとなんだか吐き気がする、それと一緒だよ」
「へえ、宮内は推しのアイドルがいるんだ」
「いやいないけど」
「なんじゃそりゃ」
汗が引くのを待ちながらのんびりしていると、ふと焦げたコーヒーの香ばしい匂いを感じた。メニューに目を通すと、このお店はかき氷だけじゃなく豆を厳選した深煎りのコーヒーも売りにしているようだ。ぼくはまだコーヒーの美味しさを理解できないけれど、奥から聞こえてくる豆を挽く音がなんだか楽しい。
「宮内はコーヒーって飲める?」
「飲めるよ、あっまいやつなら」
「なんだ」
「なんだって何よ、じゃあヒロくんは飲めるの?」
「飲もうとする姿勢は見せるようにしてる」
「屁理屈じゃんそれ」
「うるさいな、大人になるまでに間に合えばいいんだよ」
「まだまだ子どもだねぇ」
宮内はニヤついた顔で言った。
「だから同い年だろ」
ムッとしたぼくを宮内は気にするそぶりも見せず、代わりに「あっ」と声を漏らして目を輝かせた。
ぼくの背後に移った宮内の目線につられて振り返ると、待望のかき氷がそこにいた。
「お待たせしました。スプーンふたつ、つけておきますね」
先ほどのお姉さんが笑顔で去っていく。到着したかき氷は写真で見ていたよりずっと大きく、たっぷりかかったシロップとふんだんに載せられた夏いちごの組み合わせはまるで宝石のように輝いていた。
このお店はその味だけでなく量が多いことでも有名で、当たり前のようにひとつをシェアする選択をしたがよくよく考えてみると恥ずかしいことをしたかもしれない。気にしていることがバレるのも癪なので、さっさと食べることにする。スプーンを手にすると、すでにスプーンを指で挟んで手を合わせている宮内と目が合った。
「いただきまーす」
目の前に悠然といる氷山にまっすぐスプーンを差し込んだ。山盛りに掬ったかき氷をたまらず食べる。口にイチゴの果実味、何より氷の冷たさが一気に広がる。
「うわぁっ、うまっ冷たっ」
大量の発汗のあとにかき氷。極上である。二人してそのおいしさに唸る。
「ねえ、練乳かけていい?」
そう聞いておきながら宮内は、ぼくの返事を待たずにトッピングの練乳をかき氷の山頂からとろりとかけた。そして、頬張る。
「あまぁっ、うまぁっ」
思わず声が出たぼくは宮内と顔を見合わせ、笑った。
それからぼくらは喋ることを忘れ、ただひたすら食べ続けてあっという間にお皿は空っぽになった。底には仲よく泳ぐ2匹の金魚の絵が描かれていた。
「うわぁー、美味しかった! ただ美味しかったんじゃないよ、とんでもなく美味しかったよ」
宮内はそう言って満足そうに一息つくと突然ハッとした顔でこちらを見た。
「あっ……頭キーンとせずに済んだっけ、美味しすぎて完全に忘れてた」
「いや、そうだろうと思ったよ。ずっと恍惚の表情で食べてるから」
「ちょっと、食べてる顔見ないでよ。それでヒロくんはキーンてなったのならなかったのどっちなの」
かく言うぼくも、バケットリストのことをすっかり忘れペロリと食べ切った一人であった。正直に言ってもいいが、ここで彼女の機嫌を損ねる必要はないと思った。
「……ならなかったよ」
「ほんと! やったぁほら言ったとおりでしょ? やっぱり天然氷は違うのよ」
その後も宮内はどれほどこのかき氷が素晴らしかったかを熱弁し、ぼくもそれに相槌を打った。空っぽの胃袋に食べ物を入れたことで——ほとんど水分だがこの際どうでもいい——、ぼくらは明らかに饒舌になっていた。他の味やトッピングも美味しそうだの一人1個食べられたかもだのかき氷に完全に心を奪われた時間となった。いつの間にか店内は客でいっぱいになっていて、タイミングよく入れたのだとわかった。外で待っている人も見えるので、これ以上の長居はやめておくことにする。
上機嫌のまま会計を済ませ、外に出た。
「さ、じゃあ次は神社に行こっか」
てっきり目的を果たしたのだからもう帰るのかと思っていたぼくは、宮内の提案に唖然とした。
「お参りして、そのあと電車に乗って川の方に行ってみたいんだよね。長瀞っていう場所が川下りで有名らしくて、すごい迫力みたい。それも出来たらやりたいな。よーし、このかき氷パワーで体温が下がっているうちに行っちゃおう」
早口で喋りながら宣言通り颯爽と歩き出した宮内を止めるべく、ぼくは宮内の肩に手をかけた。
「ちょ、ちょっと待って。まだどっか行こうとしてるの」
「え、かき氷のためだけに秩父に来たと思ってたの?」
宮内はそう言ってとぼけた顔をした。
「そうじゃなかったの?」
ぼくの問いかけに返答はないまま、ただお互いに顔を見合わせる時間が少し流れる。すると宮内はきゅっと口角をあげた。
「せっかく来たんだから、かき氷だけじゃもったいないよ。それに、いつまた秩父に来られるかわからないでしょ? ヒロくん部活忙しいんだし」
「それは……そうだけど」
「でしょう。きっと楽しいよ、ほら行こう」
宮内はぼくの背中をポンっと叩き、スマホの地図を頼りに歩き出した。ぼくも仕方ないといった風にため息をひとつついた。
口元が緩みそうになるのを必死でこらえて、彼女のあとを追う。
辿り着いた秩父神社は大きな鳥居が待ち構えていて、神社仏閣にあまり興味がなくても厳かな空気が流れていることを感じさせた。木々から聞こえる蝉の合唱も心なしかいつもより軽やかだ。前を歩いていた参拝客が通りの端に寄って、鳥居をくぐる前に一礼する。ぼくらもそれに習って一礼して中へと足を踏み入れた。
入ってすぐに手や口を洗うところがあった。なんて名前だっけ、と思ったら近くに説明書きがあり、“手水舎”ということがわかった。中央に立てかけられた柄杓をふたつ取り、ひとつを宮内に渡す。
「ありがとう」
水を汲んで、左手、右手、そして口を清める。真夏の午後、手のひらに触れる水はひんやりしていて、「かき氷パワー」の効果が切れて再び火照りだした体に気持ちいい。こういう時のために教養って身につけておくべきだよなと得意げな気持ちになる。隣を見ると宮内も作法をもともと知っていたのか迷いなくやっていた。その自然な様子はずいぶん大人びて見えて、同時に自分がたった今とても子どもっぽい考えをしていたことを恥ずかしく思った。
口を清めるために彼女が落ちた髪を耳にかける。その仕草にドキッとして、思わずぼくは目を逸らした。
「よーし、これで神様に失礼がないね」
笑いながらハンカチで濡れた手を拭く彼女は、いつも通りの同い年の顔をしていた。
門をくぐると前方に本殿が見え、想像していたより色鮮やかな生き生きとした動物たちの彫刻が目を引く。
賽銭箱の前に並んで財布を開くと5円玉がなかったので仕方なく10円を取った。賽銭を入れて、鈴を鳴らす。澄んだ音が体の奥まで響いていく。手を合わせ目を閉じると、そういえば何を願うか考えていなかったことに気づく。薄目で隣で手を合わせている彼女を見るとやっぱり胸がざわついて、慌てて前に向き直り目を瞑った。
「ヒロくんは何お願いしたの」
拝礼を済ませて、宮内はこちらを向いた。
「——何も。宮内は?」
「んー、秘密」
「そっか」
「気にならないの?」
「気にならないことはないけど、秘密って言うなら聞かないよ」
「ヒロくんらしいね」
彼女のあとをついて本殿の周りを歩く。各方角の屋根にはそれぞれ別種の動物が彫られていて、その内の鎖に繋がれている大きな青い龍が目に留まった。全身を波打たせ目をカッと見開いたその顔はこちらに怒りを向けているようにも見えるし、助けを求めているようにも感じた。
「あ、『つなぎの龍』だ」
「宮内、知ってるの?」
「さっきの門のところにあった案内板に書かれてた。夜になると暴れちゃうから、鎖で繋ぎ止めてるんだって」
「へえ」
「なんか、ちょっと可哀想かも」
そう宮内は呟いた。
「でも、繋いでおかないと暴れちゃうんでしょ」
「うん。——でも、何か理由があって暴れてたのかも、って」
そう言って龍の顔をじっと見つめる宮内の横顔は、風に吹かれて髪が揺れるたびに寂しさのようなものが見え隠れした。
蝉の声がさんざめく。ふと空を見上げると塗られた龍のように空が青くべたついていた。
「なんとなく、そう思っただけ」
周囲から音が遠のき、消え入るような宮内の声だけが、ぼくの中で何度も響いた。
次の目的地ナガトロに到着し——駅の看板で『長瀞』という漢字がわかった——、宮内の希望通りライン下りをするために受付を探す。神社近くから乗った電車は1時間に2本しか出ておらず、想定していたより長瀞駅に着くのに時間がかかってしまった。
「受付は……あ、すぐそこにあるね」
「予約とかしてないけど、大丈夫かな」
少しの不安を抱えながらチケットの発券所に着くと、掲示板のようなものに“本日分は完売しました”の文字。
「あ……、もう終わっちゃってるっぽい」
「うわー! そうかぁ流石に甘かったか」
宮内はあっけらかんと笑った。
「夏休みだしそりゃそうだよね、来た時間も遅かったし。まっ、船に乗れないならせめて川のそばまで行ってみようよ」
川へ向かう道の案内板には“←岩畳”と書いてある。岩畳という天然記念物の存在は移動中にスマホで調べて知っていた。川の近くまでは行けそうだとわかり、二人で向かってみることにする。
川へと続く坂道は人が多く、ライン下りの人気が伺えた。前を歩く彼女は「川とか自然風景って、見るだけでも満足できるよね」と言っているが、本当はやっぱり船に乗ってみたかったんじゃないだろうか。
「——岩畳からの景色も、綺麗だよ、きっと……」
何か気の利いたことを言おうとしたが、緊張してしまい尻すぼみになったぼくの言葉に、宮内は驚いたように振り向いた。
「うん、絶対そうだね」
そう笑って、少し小走りで先を行く。サーっという川の音が、徐々に近づいてきた。
足を降ろして岩畳の上に座ると、岩の熱がズボンを貫通してじんわりと伝わってくる。そろそろ日も傾いてくる時間だが熱気は相変わらずで、それでも川面を渡る緩やかな風と木々から聞こえてくる葉擦れのさざめきが心地よい。
「きもちい~」
宮内はちょっと離れた位置で伸びをして、体全体で自然を感じていた。岩畳は結構高い位置にあり、そこから見下ろす川の流れは思ったより速い。ライン下りはもっと流れの速いところを進むらしく、それはもう派手なアトラクションになることは想像に難くない。
「この川ー、もう何百年もずーっと流れてるんだよねぇー」
川の流れる音と周りの人たちの声を意識してか宮内は少し声を張り上げた。確かにまぎれてしまいそうなくらい周りは騒がしい。
「そーだろうねー」
ぼくも同じように声を大きくする。
「この先もー、何百年も流れるのかなぁー」
「どうだろー。少なくとも、ぼくらが生きている間はー、流れているんだろうけどぉー」
ぼくの声が届かなかったのか宮内は静かに川を見つめていた。ぼくも再び川に視線を戻す。ふと自分が、自分たちが今大自然のど真ん中にいることを意識する。途端にぼくという存在がちっぽけなものに思えてくる。
「生きている間かあ」
ぎりぎり聞こえた宮内の独りごちた声。返す言葉を探したが適当なものは見つからず、結果的にぼくは聞こえなかったふりをして何も言わなかった。おもむろにこっちを見た宮内は、黙ったままのぼくの様子を気にすることもなくまた声を張った。
「もうちょっとしたらー、帰ろっかー」
何もわからないまま、何も摑めないままいろいろなことが過ぎていく。
けれど川の音だけが変わらずずっとそこにあった。生きていると、確かに感じた。きっと宮内も同じ気持ちを抱えている、そんな気がした。
長瀞から再び電車に乗り、帰りの路線まで歩ける場所まで来た。夕方の少し和らいだ日差しはつい数時間前に通った道を既に懐かしく感じさせる。ここは早い時間に閉めるお店も多いらしく、ちらほらとシャッターの降りた商店街をゆるい足取りで行く。
「いやぁ楽しかったね。今日は一緒に来てくれてありがとヒロくん」
「バケットリストを埋めたかったからね、こちらこそ思ってたより楽しんじゃったよ、ありがとう」
少し前を軽快な足取りで進む宮内は、どこでとったのかわからない猫じゃらしに似た草を持っていた。
「あのさ、なんか悪かったね」
ぼくは言った。
「え、何が? ヒロくんなんかしたっけ」
「いや、せっかくの夏休みなのにさ、ケンじゃなくてぼくとなんか。その、デート、みたいなこと……」
宮内はどんどん声が小さくなっていくぼくを見てイタズラっぽくにやつく。
「へえ、デートみたいだって思ったんだヒロくんは。でもそれ言ったら美術館に一緒に行ったりしたじゃない」
「いや! ……美術館はあれだけど今回はさ、がっつり遠出だし。なんかやっぱり、ケンにも悪い、かもって」
歯切れの悪いぼくの言葉を聞いた宮内の表情が一瞬翳ったように見えたが、宮内は何も答えず背を向けた。
ぼくらは無言のまま歩いた。余計な一言で困らせてしまっただろうか。何かかける言葉を探していると、突然目の前に猫じゃらし草が突き出された。
「わっ。なんだよ」
驚いて顔を上げると宮内は立ち止まりぼくを見ていた。つられて立ち止まると、さっきよりも彼女との距離が近くなる。
「……ヒロくんはさ。なんでバケットリストをやってるの」
「え?」
「ちゃんと聞いたことなかったなって。それに、書いてある事ってどれも大した事ないしちょっと変わってるじゃない? おはよーグルトも、赤ちゃんのママに睨めっこも面白かったけどさ、なんでだろうって」
その理由は、自分でもうまく説明できないものだった。だから、「なんとなく、暇つぶしになりそうだったから」とか適当に答えてもよかった。でも、ぼくは真面目に答えようと思った。宮内とぼくは、似ていると思ったから。性格とか話し方とか、そんな表層的なことじゃなく、きっとぼくと宮内さくらの根幹みたいなところが一緒なんだと信じていた。
恋人もいて、明るくて、誰からも愛されていそうな彼女は、けれど時折りすごく“つまらない”のか、それとも“寂しい”のか、とにかく何かに対して諦観した表情をするから。そんな宮内となら、ぼくが抱く焦燥感を一緒にやり過ごせると、いつの頃からか思うようになっていた。
「……バケットリストってさ、死が近づいてるとわかる人が、悔いなく生涯を終えるために作るものじゃん。でも、ぼくは違う。まだまだ長いであろう人生を、少しでも生きられるような理由を探してるんだ。生きるのが辛いわけじゃないよ、でも生きる理由がわからない時がある。世の中には、ぼくが想像してないような面白いことがきっとたくさんある。だけど、それを全部抱き抱えようとするのはあまりにも傲慢だし、第一ぼくはそんなことを実現できるような人間じゃない。だから、その面白いことの端っこを、食パンから落ちたパンくずをこっそり拾うように少しだけ味わうんだ。だから、大それたことをする必要はなくて、でもきっと大人になったら恥ずかしいこととか、ちっちゃくてもほとんどの人がやったことないこととか、そういうことを積み重ねてみたいんだ」
ぼくはうまく説明できないものを、それでもできるだけ慎重に言葉にした。
「パンくずをこっそり、小鳥みたいだね。……パンくずを拾い集めたら、明日を生きようと思える?」
宮内は小首をかしげていつもより低い声で言った。
「ずっとかはわからない。でもまあ、今のところはまた明日も、来週も、来年も生きていいかなって思う。恵まれた温室育ちの考えだって思われるかもしれないけど、ぼく一人が勝手にそう思う分には怒られないでしょ」
西に大きく傾いた太陽が、彼女の背中の向こう側から鋭く差し込んでくる。宮内は、猫じゃらし草をぼくに投げた。
「随分と未来に前向きだね」
投げられたそれはぼくに届かないまま、ぽとりと地面に落ちた。
未来に、前向き? そうじゃない。未来に前向きだったら、こんなことは必要ない。
「後ろ向きだから、少しでも前を向けるようにこんなくだらないことをするんだ。社会ってあんまりにもくだらないから」
「17歳のくせに、社会がなんたるかを知ってるんだね」
宮内の少し強い物言いが気に障ったが、だからといって何か言い返す言葉も見つからずぼくは黙るしかなかった。
街灯がぽつ、ぽつとつき始める。夏の西陽と比べて光が優しすぎて、ずっと先まで等間隔で続くそれはもうしばらく必要がなさそうだった。
ずっと胸に抱えてきたことを初めて吐き出して、少し楽になったような、あるいは何も変わっていないような、とにかく変な心地だった。ただ、自分の内側を覗かれたというその事実が、今まで蓋をしていた宮内への単純な疑問を猛烈にぶつけたくさせる。この答えを聞いたら、何かが決定的に変わってしまうと感じていたから。もう後戻りが出来なくなることが怖かったから聞けなかった。それでも、今、聞かないといけないと思った。そう思った。
「宮内は」
発した声は思ったより強かった。続きの音が喉に絡まったように出てこない。
逆光が強いのを言い訳にぼくは彼女の顔を見ずに、短く息を吸い、意を決して尋ねる。
「宮内は、なんでぼくとバケットリストをやってるの」
急に吹いた風がシャツを体に押し付ける。宮内の髪の毛がばらばらと宙を舞って思わずそちらを見るとやがて肩に落ちた。宮内は黄色だかオレンジだかよくわからない色をした空を見上げた。眩しさに一瞬首を傾け、手で陽を遮りながらまた光の方向を向く。
宮内は不意に口を開いた。
「私ね、ケンちゃんを好きになれないの」
思ってもみない返答に戸惑う。
「え?」
「さっき言ってた、ケンちゃんのこと」
「……」
「好きだよ、ケンちゃんのことは。一緒にいると楽しいし、大切に想ってくれてるんだなって伝わって嬉しいと思う。でも、これは恋愛的な好きじゃないの。もしかしたら気持ちが変わる日が来るかなって一緒にいるけど、きっと変わらない。変われないの、私が」
宮内の言っていることが、ぼくには理解できなかった。
「じゃあどうして、ケンと付き合ったんだよ」
宮内は少し考えるように目線を外した。
「……うーん、具体的にさ、なんでそうしたのかって理由は正直ない。でも、“誰かから求められる、必要とされる”ってことにしがみついてるの、私は」
求められたい、褒められたい、愛されていると実感したい。この気持ちはわからなくもない。ぼくにだって少なからずある。同時にそれは思春期ならではのもので、いずれ過ぎ去ると頭では理解している。でもそれをぼくの持ちうる言葉と経験値ではうまく説明できないから、彼女の今の感情を肯定も否定もしたくない。
「わかるような、わからないような感じだ」
「あはは、ちょうどいいね。私さ、自分が思っていることに反対とかされたくないけど同じくらい同情もされたくないんだよね」
「そうか」
「そう。だから、ありがとう」
そう言って宮内は前に向き直り再び駅までの道を歩き出した。
ひと足遅れたぼくはまた彼女との距離が開いてしまい、それを縮める方法がわからないまま歩き続けた。
駅は紫色の空の下、来た時とは違い少し物淋しい気持ちにさせた。近くの温泉に向かうのであろう観光客の姿やお土産を物色する様は、非日常という舞台を強制的に終わらせようとする黒子のようだった。ぼくたちは最初からその舞台の登場人物ではなかったのかのようにすんなりと改札を通過する。
宮内はホームのベンチに座り大きく伸びをした。ぼくはそばの自販機でお茶を2本買って、ひとつを宮内に渡した。ベンチには座らなかった。
「自分でもわかっているの」
宮内はつぶやくように先ほどの話の続きを話し始めた。
「これは大人になったらガキだったな~で済むやつだって。『ワタシにもそんな時があったわ』『若い証拠だな』『そんなことで悩んでられるのも、今だけの特権だぞ』——お母さんも、お父さんも、先生だって、大人はみんないつもありがたいお言葉をくれる。……きっとそう。5年もすれば、ううん、多分2年とか3年後にはくだらないことだったなって、なんであんなに重く考えていたんだろうってなるんだよ。でも私が生きているのは、今で、ここで、周りは友達と親と学校とで。これが全部で。だから、これらを材料にして生きていくしかないの。それが、最近とても苦しい。親が死んだとか、親友が転校したとか、突然貧乏になって食べるものに困るとかそんなことはないの。私はきっと幸せ。恵まれている。愛されてる。なのに、何かが足りないの」
溢れるように語られる宮内の心の内を、ぼくはただ聞くしかなかった。近くを走る子どもの姿がぼんやりと視界に入る。
「その足りなさを、宮内はバケットリストに書いたくだらないことで埋められるの?」
「くだらない悩みだと思うから、くだらないことで埋めているのよ」
「苦しいのに、くだらないのか」
「そう。ときどき、死にたくなる。理由なんてないの、ただただ死にたくなる日がある。真剣にそう思っているのに、同時になんてくだらないんだろうとも感じるの」
不意に、腕を引っ張られる。抗う間もなくそのまま宮内の隣に座らされたぼくは、今日何度も彼女から感じた寂しさのにじむ目を真正面から見た。彼女は、ぼくの手をそっと握った。
「そんな時に、ヒロくんのバケットリストを見つけたの。あの日も私、なーんか生きられないなぁと思ってて、そういう時に夜の教室ってぴったりなの。陰が濃くて、誰もいなくて、でも生命力が充満してる。命の輝きが溢れてる。汗臭くて、埃が潜んで。チョークの粉が壁を汚して、ときどき差し込む光がそれを星のようにキラキラさせて。死ぬなら私、ここがいいなって思った。それで、いろんな教室歩いてたらたまたま一冊のノートが落ちてた」
「それが、あの日……」
「そう。私ね、すっごく嬉しかったの。ああ、私だけじゃないんだって。だってそうでしょ? バケットリストは死ぬまでにしたいこと……そんなことをやる人は、死との距離が近い人に決まってる。だから私はあなたが教室に入ってきて、運命を感じた。……でも」
宮内はぼくの手を優しく離し、穏やかに笑った。
「さっきのヒロくんの話を聞いてね、わかった。ヒロくんと私は違うんだって」
「……なんで。違くないよ、一緒だよ、だから今日もこんな遠くまで来たんだろ」
「あなたは、生きる理由を探してる、私は死なない理由を探してる。これって同じようでどうしようもなく違うことだよ」
息が詰まった。わかり合えたと思ったのに。空虚感とか漂流感とか寂寥感とか、そんな言葉に当てはまらないぼくの抱えてきたものを理解してくれたと嬉しかったのに。この苦しくて重くて、黒くてでも目には見えない何かを一緒に背負い込んでくれると信じていたのに。
宮内はたまらなく安らかな表情で、ぼくを見つめている。けれどその静穏な眼差しがかえってぼくに何も言わせまいとした。呼吸が浅くなって、段々視界に何が映っているのかも曖昧になる。なんでここにいるんだっけ。なんで宮内はこんなことを言っているんだっけ。なんで、宮内とぼくなんだっけ。
それでも、何か言わないといけない。何か伝えないといけない。ぼくと宮内は、間違いなく、疑いのないくらい明白に一緒なんだと。一緒だと思っていた宮内に否定されるのをぼくはどうしても認めたくなかった。
電車がホームに入ってくる。吹いた風が目に染みる。構内アナウンスが遠いところで聞こえる。心臓の音が頭の中を叩く。待って、待って、待って。
宮内は立ち上がり、やっぱり少し寂しそうな、でも今まで見た中で一番の綺麗な笑顔をぼくに向けた。
「帰ろうか。明日があるんだから」
彼女の背中に手を伸ばす。こんなにも近くにいるのに、届くことはなかった。
*
約束の10分前にカフェに着くと、そこにはすでに宮内の姿があった。シンプルだがそつのない化粧に、やや長めのボブヘアとライトグリーンのワンピース。だいぶ時間が経っているのに、彼女には当時のおもかげがしっかりと残っていて、そこに大人の落ち着きと美しさが加わった印象を受けた。
「ごめん、待たせたね」
外の通りが見える窓が隣接しているそのテーブルは陽の光がよく差し込み、宮内の顔半分を照らしている。
席につき、お冷を持ってきた店員にアイスコーヒーを注文する。アイスティーだろうか、それを少し減らした彼女はゆったりと微笑んだ。
「久しぶり、ヒロ君」
「ほんと久しぶり。何年ぶりだろう、8年とかそのくらいか」
「随分と時間経っちゃって。もう20代も折り返しなんだからびっくりしちゃう。——今日は突然だったのにありがとう、この前偶然ノリ君と会ったから、つい懐かしくなっちゃって」
秩父に行った日を最後に、僕らは連絡も取らず会うこともなくなった。喧嘩したわけでも、会うのをやめようと話したわけでもない。ただ、自然とそうなった。その後も僕は一人でバケットリストの項目を増やし続け、ひとつひとつそれを埋めていった。彼女の様子はわからなかったけれど、高2の冬にケンと別れたという情報だけが耳に入ってきた。校内でたまにすれ違うことはあった。そのたび僕は彼女を見ていたが、決してその目が合うことはないまま、僕らは卒業を迎えた。
会わなくなっても、卒業しても、僕は宮内と過ごした時間をひっそりと、大事に抱えて今まで生きてきた。
「急でびっくりしたけど、でも、うん。どうしてるかなって思ってたから。……元気にしてる? 全然変わらなくて驚いたよ」
「本当? そういうヒロ君こそ高校生の時と全然見た目変わってないよ。雰囲気もそのままで、お店入ってきたらすぐわかったもの」
「はは、恥ずかしいな。まあうん、あんまり変わらないかも」
「まだノリ君達と仲いいって、凄いね」
「あいつらだけね。他のやつとは連絡すら取ってないけど」
「そうなんだ」
「宮内は?」
「高校時代の子とは会わないなあ。大学の友達何人かとはたまに会うけど、それもお互い生活が変わって難しくなってきた」
「普通そうだよな」
「大人になるとどうしてもね」
会ってなかった時間が嘘のように、軽快なリズムでキャッチボールが続く。
「あ、横浜でフリーでデザインの仕事してるって聞いたよ」
「そうなの。ここ1、2年は忙しくさせてもらっていて、ようやく軌道に乗ったってところかな。横浜もエリア選べば住みやすいし、悪くないところだよ。——ヒロ君は、今何しているの」
「中小で営業やってる、至って普通のサラリーマンだよ。毎日朝9時から夜7時くらいまで働いての繰り返しをもう4年もしてる」
「偉いじゃん。社会に出て働くって大変なことだって、大人になって初めてわかるよね」
宮内は苦笑して、汗をかいたグラスを指で撫でた。
「うん、ホントにね。ずっとこんな生活で、いまだにどうやって生きればいいかわからない日があるよ」
きっと宮内も、そうなんだろ。伺うように彼女を見た瞬間、手元が光った。左手の、薬指。宮内は僕の視線に気付いたのか、自分の手に触れて笑った。
「ああ、そういえばね。半年くらい前に結婚したの。周りだとだいぶ早めだけど、勢いと思い切りが大切って言うし、しちゃうかって」
ああ、そうか。宮内はもう僕と違うんだ。死にたくなる時があって、満たされたくて、どうにか死ななくていい理由を探していた彼女は、もういない。
「実はね、お腹の中に赤ちゃんがいるの。ちょうど安定期に入ったくらいで、まだ服の上からだとわからないと思うけど」
生きる理由があって、希望があって。それが、明日も来週も来年もあり続けるだろう人の目をしている。
「そっか、それはめでたいね。おめでとう。きっと宮内に似て素敵な子になるね」
「ふふ、ありがとう」
宮内さくらは、あの時の思いを忘れたんだ。あの時言っていた、これは大人になったらガキだったで終わる話。その通りだったというだけだ。宮内にとってあれは、とっくに過ぎ去った思い出のひとつになってしまったのだろう。
そうか、僕も誰かを求めていたのか。だから今でも、あの時の記憶をバカみたいに大切に抱いて。
「そういえばさ、いつ終わったの? バケットリスト」
宮内は、とっくに過去のものになった気持ちを懐かしむように僕に尋ねた。僕は一口も飲んでいないアイスコーヒーに目を落とし、誤魔化すように咳払いをした。
「もう昔のことだから、忘れちゃったよ」
僕だけが、まだ生きる理由を探している。
小説【なつのさくら】
庄司浩平(しょうじ・こうへい)
1999年10月28日生まれ。東京都出身。オスカープロモーション所属。2020年に『魔進戦隊キラメイジャー』(キラメイシルバー役)で俳優デビュー。以降俳優・モデルを軸に多方面で活動。2025年『仮面ライダーガヴ』(仮面ライダーヴラム役)、ドラマ『40までにしたい10のこと』(田中慶司役)で注目を集める。現在『NHK俳句』にレギュラー出演中。10月28日に2nd写真集『庄司浩平写真集 だから、ぼくは』を発売予定。
(公式HP:https://shojikohei.com/)(公式X:@shoji_kohei)
いつも温かい応援や感想をありがとうございます。
当アカウントでは、コメント欄への誹謗中傷やプライバシーに関わる投稿、作品と関係のない内容は予告なく削除させていただくことがございます。
ご理解とご協力をお願いいたします。




庄司浩平先生…!読み応えのある作品をありがとうございました。 情景や温度や湿度が手に取るように想い浮かぶ細やかな表現が素敵でした! そして、最後に浩さんも抱いたであろう喪失感と無力感と焦燥感がわたしにまで沁み渡りました。 浩さんとさくらさんは自分らしさがない、何者かになりたい…
読んでて儚い感じがしました。 自分が高校生の時を思い出しました。 さくらちゃんの気持ちもヒロの気持ちもわかるしさくらちゃんは会わなかった間に色々乗り越えたからこその今があって変わったいったんだなぁと思ったしヒロはまだそこから動けないジレンマ的な思いも感じました。
「飲もうとする姿勢は見せるようにしてる」、「そばをナイフとフォークでいく」のような言葉選びが好きです。ユーモアと大胆さと、少しの捻くれが面白くて愛おしいなと思いました。淡々とした語り口調に、曇り空のような憂鬱さと諦めたようなユーモアがにじんで素敵でした。応援しています。
20代前半です。 ヒロとさくらの互いの想いが交差しそうで交差しないところが、自分自身の経験と重なり、じれったさと甘さと、懐かしさを感じました。 また、将来へ漠然とした不安を抱えつつも、生きる理由と死なない理由という表裏一体ではない原動力でそれぞれ明日に向かう様子を、繊細かつ丁寧に表…