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桂枝雀師匠の「ラマルク進化論」
故桂枝雀師匠の落語を聴くのが大好きである。
生き急いだ(逝き急いだ?)この大天才の落語に出会えた事は、大げさに言えば私の人生の大きな収穫のひとつである。
師の「爆笑落語」を批判する向きも多いと聞くけれど、私は断然支持するものである。
渋滞中のフリーウェイや、ラスベガスまでの四時間半の道のりに枝雀師の噺を聞くのは、私にはなによりの楽しみ一つだ。
さて、落語には本編に入るまでの前フリとして「枕(まくら)」と呼ばれるものがある。
大抵は本編に関連したお話である「枕」でスタートして、そこから聴衆の興味を引き付けつつ本編に入って行くというのが落語のパターンなのは良く知られている通り。
枝雀師匠の得意な「枕」の中に、私が「科学まくら」と名付けたものが二つある。
一つは「リニア・モーター・カー」
この「枕」は「三十石」や「住吉駕籠」などの「旅もの」で聞くことができる。
師匠のハナシの面白おかしさを私の筆力でお伝えすることなどできるはずもないが、ちょっとだけ紹介してみると:
同極の電磁石(線路に敷き詰められた電磁石と車体の電磁石)で地面からわずかに浮かんだ電車ならぬ電箱(リニアモーターカーの車両には車輪が無いので、すでに「車」でない)が、ホンの少し前を異極にされることでちょっと前に引っ張られて「お鼻をゴツン」と打つ前にひょいっと「同極」にもどしてやれば、お鼻を打つ寸前に体勢を盛り返し、またホンの少し前を異極にしてやると前に引っ張られれてお鼻をゴツンしそうになって、また同極にしてやって盛り返す。
「ゴツンしそうになっては盛り返し」を繰り返しながら大阪から東京までギッタンバッコンしながら進んで行くという原理で、とても一時間や二時間で東京に着けるとは思えないというお話である。
で、もう一つが問題の「進化論」
「日和ちがい」、「雨乞い源兵衛」などの「天候もの」の噺で使われる「枕」なのであるが、これが実に「ラマルク的・獲得形質遺伝的」進化論なのである。
これを書くのに「枝雀・進化論」で検索してみたら、なんとばっちりとYouTubeに「日和ちがい」の「枕」だけアップされているでわないか!(著作権ヤバそうだけど)
ご覧になっていただければすむことなので私が解説する必要もないのだけれど、こんな話しである。
原初はアメーバみたいな単細胞生物が「ぼや~っ」と水に浮いてたわけですが、その中のうちの一匹が「もうちっとスマートに泳げへんかな」ってことで、なんか知らんうちに自分の意欲、というより「大自然そのものの意欲みたいなもの」に「もうちょっとなんとかせいや」とか言われたような、内からの声だったようなもんに押されつつ「はい、なんとかします」なんて言いながら「なんじゃかんじゃ」しだすわけです、と。
で、何億年か「なんじゃかんじゃ」してるうちにいつの間にか「お魚」なんちゅうもんになっていたと。
で、こんどはお魚のうちの一匹が「お、陸地があるなぁ」とか思ってちょっと上がってみたりしてみる、と。
ところがまだエラ呼吸しかできない、肺呼吸なんてとんでもない「不細工」なやつだから、ちょっと陸に上がってみては「苦しいなぁ」とか言ってポチャッとか水に戻る、と。
そんなんを何世代も何世代も繰り返してまた何億年かやってるうちに「必要に応じて」肺呼吸できるようなやつが出てきて、まずは両生類になって、爬虫類で完璧に水と縁を切る、と。
そのうち、トカゲのうちの一匹が「おっ、空があるなぁ」とか思って手をパタパタっとかやってみてジャンプしたりし始めるわけですな。
これ、いくらやっても無駄なわけですが、しかし「大自然の意欲」に押されて「う~、お父さんもやったからお前もやれ」とか言われて子供も「うん、ぼくもやるよ」とか言って、なんかわからんけど手をバタバタしながらジャンプしたりし続けるわけです。
で、また何千万年も何億年も(「数字はいい加減ですから勘弁してくれ」が必ず入る。とにかく「な・が・い!」ということです、と)やってるうちにそのうち骨が中空になったりしてついに「鳥類」になります、と。
こんな感じのコンセプトで爆笑の「枝雀進化論」はすすめられていく。
私はこの話をIshidaTsuyoshiさんの「石田のヲモツタコト」タンポポの Wisdom はいくつであるのが妥当か?や、どらねこさん、id:doramaoさん、とらねこさん、ええいッ、ややっこしい!さんの、とらねこ日誌ラマルク的な何かと素朴生物学などの記事を読みながら、そう言えば枝雀師の「枕」はラマルクだよなぁとヲモツタのである。
Ishidaさんのところや、どらねこさんの所で話されていた「子供たちにどう教えるか」という問題設定もともかく、私には一般の大人がどの様に進化論を認識しているのか、の方が気になった。
枝雀師匠の「ラマルク的進化論」は「落語の枕」として、私を含めた大人たちに全く問題なく受け入れられているように見える。
思い返せば、私がある程度「進化論」について少々の理解を深める事ができたのは、例に寄ってNATROMさんの
進化論と創造論~科学と疑似科学の違い~
に立ち寄りはじめてからである。
(こちらのサイトの進化論認識に於ける社会的影響力というのは大変なものがあるのではないだろうか)
それまではおそらく「自然選択」や「突然変異」や「獲得形質遺伝」なんかがごっちゃになっていたと思うのだ。
そもそもNATROMさんのところを読み出す前は「進化論」自体にそれほど興味を持つことがなかったから、「進化論」と言えば「猿が進化して人間になった」ぐらいの認識だったし、「一生懸命クビを伸ばして葉っぱを食べようとしているキリン」が真っ先に浮かぶほどの程度の低さで、自分がキチンとした理解をしているかどうかなんかどうでも良かったように思う。
で、おそらく枝雀師匠はラマルク・ダーウィンごっちゃの認識、即ちごく平均的な日本人の認識(とかってに決め付けてますが)だったのではないかと思う。
枝雀師匠という方は大変なインテリで、かつ、勉強家であり、もしラマルク的な進化論がほぼ棄却されていることを知ったならば、私は師匠のプライドからしても、この「枕」を使用なさることはなかったか、改訂版を作られた事と思う。
しかし、「ラマルク的な部分」、「擬人化」、「(地下猫さんがおっしゃるような)ア二ミズム的な世界観」抜きの「進化論」で落語の「枕」を作るのはこれは容易なことではなかろうと思うのだ。
それはやはり受容する側が「擬人化したもの」を歓迎するからであり、およそ「擬人化」のかけらも無い「物語」などおそらく誰も欲しないのではないかと思う。
このあたりに「ニセ科学」やら「オカルト」やら「スピリチュアル」やらを人が受容し易い理由があろうし、「水伝」なんぞまさに典型である。
「水」に「良い言葉をかけてあげよう」というとき「水」は完全に「人」に昇華されている。
で、この「枕」は「科学的に誤りだから問題とされるべき」なのだろうか?
そして、桂枝雀というビッグネームの影響力を考えた時、これは見過ごしてもいいものなのか?
師匠のCDやDVDには「こういう世界観の進化論は現在ではほぼ棄却されています」とかシールでも張るべきなのだろうか。
それとも「落語」だから「許される」べきなのだろうか?
大体、「落語」に対して「擬人化され過ぎてる」なんて批判を持ち込むのは野暮っていうより馬鹿だっていうべきだろう。
しかし、これは「物語」に入る前の「枕」であり、「進化論」に沿った話で笑わせようとする時に、「誤った進化論」に沿っていてもいいのかという疑問は残る。
私にはなにが正解なのか正直よくわからない。
本音は(科学的には誤っている、あるいは誤用であったりしても)「落語だから良い」であり、「物語だったら良い」である。
しかし、「枝雀進化論」を全て承知の上で楽しむのでなく、「意思の力で進化が進む」ことなどを信じていて、その「コンセプト」を枝雀師匠が面白おかしく語っているのだと思い込んでいたら、どうか。
そして、「物語なら良い」けれど、その物語を「事実」と取る人、取りたい人、あるいはそう思い込まされている人が世界の圧倒的なマジョリティと言う状況はどうなんだろう。
で、私の思いはどうしても「宗教」に向かって行くのである。
「水伝」や「血液型」よりも。
生き急いだ(逝き急いだ?)この大天才の落語に出会えた事は、大げさに言えば私の人生の大きな収穫のひとつである。
師の「爆笑落語」を批判する向きも多いと聞くけれど、私は断然支持するものである。
渋滞中のフリーウェイや、ラスベガスまでの四時間半の道のりに枝雀師の噺を聞くのは、私にはなによりの楽しみ一つだ。
さて、落語には本編に入るまでの前フリとして「枕(まくら)」と呼ばれるものがある。
大抵は本編に関連したお話である「枕」でスタートして、そこから聴衆の興味を引き付けつつ本編に入って行くというのが落語のパターンなのは良く知られている通り。
枝雀師匠の得意な「枕」の中に、私が「科学まくら」と名付けたものが二つある。
一つは「リニア・モーター・カー」
この「枕」は「三十石」や「住吉駕籠」などの「旅もの」で聞くことができる。
師匠のハナシの面白おかしさを私の筆力でお伝えすることなどできるはずもないが、ちょっとだけ紹介してみると:
同極の電磁石(線路に敷き詰められた電磁石と車体の電磁石)で地面からわずかに浮かんだ電車ならぬ電箱(リニアモーターカーの車両には車輪が無いので、すでに「車」でない)が、ホンの少し前を異極にされることでちょっと前に引っ張られて「お鼻をゴツン」と打つ前にひょいっと「同極」にもどしてやれば、お鼻を打つ寸前に体勢を盛り返し、またホンの少し前を異極にしてやると前に引っ張られれてお鼻をゴツンしそうになって、また同極にしてやって盛り返す。
「ゴツンしそうになっては盛り返し」を繰り返しながら大阪から東京までギッタンバッコンしながら進んで行くという原理で、とても一時間や二時間で東京に着けるとは思えないというお話である。
で、もう一つが問題の「進化論」
「日和ちがい」、「雨乞い源兵衛」などの「天候もの」の噺で使われる「枕」なのであるが、これが実に「ラマルク的・獲得形質遺伝的」進化論なのである。
これを書くのに「枝雀・進化論」で検索してみたら、なんとばっちりとYouTubeに「日和ちがい」の「枕」だけアップされているでわないか!(著作権ヤバそうだけど)
ご覧になっていただければすむことなので私が解説する必要もないのだけれど、こんな話しである。
原初はアメーバみたいな単細胞生物が「ぼや~っ」と水に浮いてたわけですが、その中のうちの一匹が「もうちっとスマートに泳げへんかな」ってことで、なんか知らんうちに自分の意欲、というより「大自然そのものの意欲みたいなもの」に「もうちょっとなんとかせいや」とか言われたような、内からの声だったようなもんに押されつつ「はい、なんとかします」なんて言いながら「なんじゃかんじゃ」しだすわけです、と。
で、何億年か「なんじゃかんじゃ」してるうちにいつの間にか「お魚」なんちゅうもんになっていたと。
で、こんどはお魚のうちの一匹が「お、陸地があるなぁ」とか思ってちょっと上がってみたりしてみる、と。
ところがまだエラ呼吸しかできない、肺呼吸なんてとんでもない「不細工」なやつだから、ちょっと陸に上がってみては「苦しいなぁ」とか言ってポチャッとか水に戻る、と。
そんなんを何世代も何世代も繰り返してまた何億年かやってるうちに「必要に応じて」肺呼吸できるようなやつが出てきて、まずは両生類になって、爬虫類で完璧に水と縁を切る、と。
そのうち、トカゲのうちの一匹が「おっ、空があるなぁ」とか思って手をパタパタっとかやってみてジャンプしたりし始めるわけですな。
これ、いくらやっても無駄なわけですが、しかし「大自然の意欲」に押されて「う~、お父さんもやったからお前もやれ」とか言われて子供も「うん、ぼくもやるよ」とか言って、なんかわからんけど手をバタバタしながらジャンプしたりし続けるわけです。
で、また何千万年も何億年も(「数字はいい加減ですから勘弁してくれ」が必ず入る。とにかく「な・が・い!」ということです、と)やってるうちにそのうち骨が中空になったりしてついに「鳥類」になります、と。
こんな感じのコンセプトで爆笑の「枝雀進化論」はすすめられていく。
私はこの話をIshidaTsuyoshiさんの「石田のヲモツタコト」タンポポの Wisdom はいくつであるのが妥当か?や、どらねこさん、id:doramaoさん、とらねこさん、
Ishidaさんのところや、どらねこさんの所で話されていた「子供たちにどう教えるか」という問題設定もともかく、私には一般の大人がどの様に進化論を認識しているのか、の方が気になった。
枝雀師匠の「ラマルク的進化論」は「落語の枕」として、私を含めた大人たちに全く問題なく受け入れられているように見える。
思い返せば、私がある程度「進化論」について少々の理解を深める事ができたのは、例に寄ってNATROMさんの
進化論と創造論~科学と疑似科学の違い~
に立ち寄りはじめてからである。
(こちらのサイトの進化論認識に於ける社会的影響力というのは大変なものがあるのではないだろうか)
それまではおそらく「自然選択」や「突然変異」や「獲得形質遺伝」なんかがごっちゃになっていたと思うのだ。
そもそもNATROMさんのところを読み出す前は「進化論」自体にそれほど興味を持つことがなかったから、「進化論」と言えば「猿が進化して人間になった」ぐらいの認識だったし、「一生懸命クビを伸ばして葉っぱを食べようとしているキリン」が真っ先に浮かぶほどの程度の低さで、自分がキチンとした理解をしているかどうかなんかどうでも良かったように思う。
で、おそらく枝雀師匠はラマルク・ダーウィンごっちゃの認識、即ちごく平均的な日本人の認識(とかってに決め付けてますが)だったのではないかと思う。
枝雀師匠という方は大変なインテリで、かつ、勉強家であり、もしラマルク的な進化論がほぼ棄却されていることを知ったならば、私は師匠のプライドからしても、この「枕」を使用なさることはなかったか、改訂版を作られた事と思う。
しかし、「ラマルク的な部分」、「擬人化」、「(地下猫さんがおっしゃるような)ア二ミズム的な世界観」抜きの「進化論」で落語の「枕」を作るのはこれは容易なことではなかろうと思うのだ。
それはやはり受容する側が「擬人化したもの」を歓迎するからであり、およそ「擬人化」のかけらも無い「物語」などおそらく誰も欲しないのではないかと思う。
このあたりに「ニセ科学」やら「オカルト」やら「スピリチュアル」やらを人が受容し易い理由があろうし、「水伝」なんぞまさに典型である。
「水」に「良い言葉をかけてあげよう」というとき「水」は完全に「人」に昇華されている。
で、この「枕」は「科学的に誤りだから問題とされるべき」なのだろうか?
そして、桂枝雀というビッグネームの影響力を考えた時、これは見過ごしてもいいものなのか?
師匠のCDやDVDには「こういう世界観の進化論は現在ではほぼ棄却されています」とかシールでも張るべきなのだろうか。
それとも「落語」だから「許される」べきなのだろうか?
大体、「落語」に対して「擬人化され過ぎてる」なんて批判を持ち込むのは野暮っていうより馬鹿だっていうべきだろう。
しかし、これは「物語」に入る前の「枕」であり、「進化論」に沿った話で笑わせようとする時に、「誤った進化論」に沿っていてもいいのかという疑問は残る。
私にはなにが正解なのか正直よくわからない。
本音は(科学的には誤っている、あるいは誤用であったりしても)「落語だから良い」であり、「物語だったら良い」である。
しかし、「枝雀進化論」を全て承知の上で楽しむのでなく、「意思の力で進化が進む」ことなどを信じていて、その「コンセプト」を枝雀師匠が面白おかしく語っているのだと思い込んでいたら、どうか。
そして、「物語なら良い」けれど、その物語を「事実」と取る人、取りたい人、あるいはそう思い込まされている人が世界の圧倒的なマジョリティと言う状況はどうなんだろう。
で、私の思いはどうしても「宗教」に向かって行くのである。
「水伝」や「血液型」よりも。
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Comments
ポケモンの進化は?
nobuさん
こんにちは、いらっしゃいませ。
コメントをありがとうございます。
>ただ、進化論を間違えて理解していたとしても、毎日の生活では全く問題ないのですよね。例えとしてはずれているかもしれないけど、原子核のまわりを電子が惑星のように円軌道を周っているモデルを正しい原子の姿と認識していたとしても日常生活では問題ないように。
いやぁ、これ仰る通りなんですよね。
で、私もここではなんか偉そうなこと書いてるわけですけど、他の分野のことで「誤った認識」をしてることなんか死ぬほどあるわけで、そういう物の方が間違いなく多いんじゃないでしょうか。
ただ、私が一つだけこうありたいと考えるのは、少なくとも誤った認識をしてることを確認したとき・できたときは自分の内部で訂正をちゃんと行おうぜ、ということでしょうか。
旧態然とした原子モデルを信じていようが、ラマルク的な進化論解釈をしていようが生活上何か問題が起きようはずもないのは間違いのないところだと私も思うのですが、ひとことで言っちゃうと「リテラシー」みたいなもんを身につけようと一人一人が悪戦苦闘するような社会でないと、私は幸せな社会にならないと思うんです。
まぁ、私見ですけれど。
コメントをありがとうございます。
>ただ、進化論を間違えて理解していたとしても、毎日の生活では全く問題ないのですよね。例えとしてはずれているかもしれないけど、原子核のまわりを電子が惑星のように円軌道を周っているモデルを正しい原子の姿と認識していたとしても日常生活では問題ないように。
いやぁ、これ仰る通りなんですよね。
で、私もここではなんか偉そうなこと書いてるわけですけど、他の分野のことで「誤った認識」をしてることなんか死ぬほどあるわけで、そういう物の方が間違いなく多いんじゃないでしょうか。
ただ、私が一つだけこうありたいと考えるのは、少なくとも誤った認識をしてることを確認したとき・できたときは自分の内部で訂正をちゃんと行おうぜ、ということでしょうか。
旧態然とした原子モデルを信じていようが、ラマルク的な進化論解釈をしていようが生活上何か問題が起きようはずもないのは間違いのないところだと私も思うのですが、ひとことで言っちゃうと「リテラシー」みたいなもんを身につけようと一人一人が悪戦苦闘するような社会でないと、私は幸せな社会にならないと思うんです。
まぁ、私見ですけれど。
私も同じスタンスです。
仰るとおりだと思います。
自分はある分野を突き詰めて考えることをしているわけではありませんから、できるだけ謙虚であろうと思っています。
科学を宗教の違いもそのあたりかなと考えます。科学は間違いに気付けば修正されますが、宗教はそうじゃない。勝手に物語(空想の世界)を創り上げ、それをリアルな世界に持ち込んでおきながら、現実の世界で間違っていると指摘されたことに対して、かたくなに拒絶する。(むしろ攻撃的でさえある)
仏教で頻繁にある法要(7日ごとに審判が下されるとか四十九日やらなんやら)も法事で稼ごうというわけじゃないのかもしれませんが、勝手に創り上げた物語であり、そういった作り話で亡くなった方を成仏させるなんて、私の見方からすれば、それこそ死者を冒涜するものだと思えます。
なんか愚痴っぽいコメントですみません。
自分はある分野を突き詰めて考えることをしているわけではありませんから、できるだけ謙虚であろうと思っています。
科学を宗教の違いもそのあたりかなと考えます。科学は間違いに気付けば修正されますが、宗教はそうじゃない。勝手に物語(空想の世界)を創り上げ、それをリアルな世界に持ち込んでおきながら、現実の世界で間違っていると指摘されたことに対して、かたくなに拒絶する。(むしろ攻撃的でさえある)
仏教で頻繁にある法要(7日ごとに審判が下されるとか四十九日やらなんやら)も法事で稼ごうというわけじゃないのかもしれませんが、勝手に創り上げた物語であり、そういった作り話で亡くなった方を成仏させるなんて、私の見方からすれば、それこそ死者を冒涜するものだと思えます。
なんか愚痴っぽいコメントですみません。
枝雀師匠の名誉のために
というほどのことでもないし、確証があるわけでもないのですが。
はじめまして、小米のころからのファン(というほどではないけど)なので一言言わずには。
枝雀師匠自身、かんべむさし、小松左京、堀晃氏ら関西SFの人々とかなり交流していらしたはずなので、当然ラマルク流の進化論は今となっては異端であることは承知の上での枕だと思います。ならなんで?というとたぶんおそらく、「こっちのほうがおもろいやないかい」ってことかと(笑)。
もうちょっとまじめにいうと、具体的に指定できるわけではないのですが、師匠の枕(にかぎらずねたもそうかも)には、正統を踏まえたうえであえて異端・俗説にのっかってその理屈を誇張することで笑いを引き出すみたいなところがあるような気がします。
なので、
> しかし、「枝雀進化論」を全て承知の上で楽しむのでなく、
>「意思の力で進化が進む」ことなどを信じていて、その「コンセプト」を
> 枝雀師匠が面白おかしく語っているのだと思い込んでいたら、どうか。
みたいな批判があっても、「そら、あんさん、落語をそのまま信じたらあきまへんがな」となるのが落ちかと。(まあ、あからさまにそう言ってしまうのも野暮なのでさらりと流されると思いますけど)
はじめまして、小米のころからのファン(というほどではないけど)なので一言言わずには。
枝雀師匠自身、かんべむさし、小松左京、堀晃氏ら関西SFの人々とかなり交流していらしたはずなので、当然ラマルク流の進化論は今となっては異端であることは承知の上での枕だと思います。ならなんで?というとたぶんおそらく、「こっちのほうがおもろいやないかい」ってことかと(笑)。
もうちょっとまじめにいうと、具体的に指定できるわけではないのですが、師匠の枕(にかぎらずねたもそうかも)には、正統を踏まえたうえであえて異端・俗説にのっかってその理屈を誇張することで笑いを引き出すみたいなところがあるような気がします。
なので、
> しかし、「枝雀進化論」を全て承知の上で楽しむのでなく、
>「意思の力で進化が進む」ことなどを信じていて、その「コンセプト」を
> 枝雀師匠が面白おかしく語っているのだと思い込んでいたら、どうか。
みたいな批判があっても、「そら、あんさん、落語をそのまま信じたらあきまへんがな」となるのが落ちかと。(まあ、あからさまにそう言ってしまうのも野暮なのでさらりと流されると思いますけど)
nobuさん
お返事遅れました。ごめんなさい。
>できるだけ謙虚であろうと思っています。
ですね。
宗教と科学の話は私の終生のこだわりごとの一つです。
またごぢょごぢょと書く事になると思いますが、またお付き合いください。
よろしくお願いします。
>できるだけ謙虚であろうと思っています。
ですね。
宗教と科学の話は私の終生のこだわりごとの一つです。
またごぢょごぢょと書く事になると思いますが、またお付き合いください。
よろしくお願いします。
ある父さん
コメントをありがとうございます。
仰るとおりなのかも知れません。
ただ、正解かどうかはわかりませんが、今回のような問題提議を受けた時に「こっちのほうがおもろいやないかい」で済ませるような枝雀師匠ではないと思う、というのが私の評価です。
> 枝雀師匠が面白おかしく語っているのだと思い込んでいたら、どうか。
は、師匠への批判というよりは、受けての問題として提出しています。
仰るとおりなのかも知れません。
ただ、正解かどうかはわかりませんが、今回のような問題提議を受けた時に「こっちのほうがおもろいやないかい」で済ませるような枝雀師匠ではないと思う、というのが私の評価です。
> 枝雀師匠が面白おかしく語っているのだと思い込んでいたら、どうか。
は、師匠への批判というよりは、受けての問題として提出しています。
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私もNATROMさんのところで勉強させてもらってます。例えばそれまでは「ウイルス仮説」なんて面白いなと思っていたのですが、トンデモに近いことを知りました。
多くの人は(創造論はともかく)ラマルク的進化説で進化論を認識していると思います。自分は大学(専攻は建築)の一般教養でたまたま「選択説」と「用不要説」を学ぶ機会(といってもテキストはちょっとした近代科学の読み物でして、ウォレスとダーウィンの先取権の話など書かれていました)がありましたが、ということは、進学していなければ学ぶことなく社会に出たいたことになりますよね。今頃「キリンの首は高いところの葉を食べるために伸びた」なんて自慢げに話していたかもしれません。
ただ、進化論を間違えて理解していたとしても、毎日の生活では全く問題ないのですよね。例えとしてはずれているかもしれないけど、原子核のまわりを電子が惑星のように円軌道を周っているモデルを正しい原子の姿と認識していたとしても日常生活では問題ないように。
何が言いたいのかわからないコメントになってしまいました。