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歴史修正主義と戦う為に

「女性は人類史においては常に被抑圧者であり、男性と同等の権利は与えられなかった」というのは真っ赤な嘘である。女性は人類史の大半において財産を所有し、男性と同等の権利を有していた。女性が男性に比べて「2級市民」だったという考え方は何の根拠もない主張である。以下古代文明から中世近代までの歴史を俯瞰し、そのうえで何故どのようにして「女性は人類史において常に犠牲者だった」という神話が虚構されたかについて説明する。

古代文明

まず単純な事実として古代4大文明、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明のうち詳細がよく分からないインダス文明を除く全てにおいて女性は男性と同等の権利を有していた。

・エジプト文明

古王国時代(紀元前2575年頃)以降、古代エジプトの女性は法の前では男性と平等であったことが明確に記録されている。というかそうでなければクレオパトラ女王は誕生しなかった。

女性は自己の名義で不動産および動産を取得、所有、処分する権利を有しており、ウィルバー・パピルスの研究によれば記録された土地の少なくとも10%以上を女性が所有していたことが明らかになっている。 

更に夫には扶養義務が課せられていた。当時のエジプトに家庭における権力関係が分かるのが「プタハホテプの指示」だ。

貴方が繁栄し、家を築き、妻を熱烈に愛するなら、彼女の腹を満たし、着物を着せなさい。香油は彼女の体を癒します。貴方が生きている限り、彼女の心を喜ばせなさい。彼女は主人にとって肥沃な畑です。法廷で彼女と争ってはならない。彼女を権力から遠ざけ、拘束せよ。彼女の目は、彼女が見つめる時、嵐となる。

後半の文章をもって「やはり女性は抑圧されてるじゃないか!」と思う方もいるかもしれないが、この法廷で争う云々は抑圧とは逆の事実を示している。それは女性が法廷で戦えるということは、女性が法的権利を有し、また戦う意志を持っていた証拠に他ならないからだ。実際エジプトの女性には民事訴訟を提起し、訴えられ、証人として、さらには陪審員として法廷に立つ権利が与えられていた。更には自らの意思で離婚を申し立て、持参金や共有財産を取り戻す権利も与えられており、女性と男性の法的権利や立場は同等以上であったことが明らかになっている。

また本筋ではないので簡単な解説に留めるが、この法的平等は、エジプト文化の中心概念である「マアト」(調和、均衡、正義)に根ざしていた。国民の誰かが人格を欠く社会は根本的に不均衡であり、マアトに反すると考えられたのである 。また強力な女神達…太陽神ラーを屈服されたイシス等…の存在も女性の地位を反映し強化していた。

更に女性は家の主人であり、働く事は少なかったが、女性が普通に商人や神官として働いていた記録が残っており社会的・法的制約は無かったと考えられている。それでも女性は少なかったのは、恐らく現代日本でフルタイム労働妻や理数系大学に進む女性が少ないのと同じ理由と考えられる。

・メソポタミア文明

ハンムラビ法典(紀元前1754年頃)やその他のメソポタミアの法は女性が男性とほぼ同等の法的権利を有していたことを明らかにしている。すなわち女性は財産を所有し、土地を売買し、事業に従事し、特定の条件下で離婚を申し立てることが出来たのだ。

1方で女性は抑圧されてたと主張する人間達はハムブラビ法典129条「人の妻が不倫をすれば、両者を縛って水に投げ入れる。ただし夫が妻を、王が下男を助けようとすれば許される」や143条「妻が常軌を逸した行状で夫を侮辱した場合は水中に投げ込まれる」を持ち出して、やはり女性は抑圧されてたのだ!と主張するかもしれない。

しかしながらよく見てみると、129条は不倫した妻がワンチャン助かる可能性があるのに対し間男(下男)は助かる可能性がほぼないのが分かるだろう。更に143条と対になるように127条には「女性を冤罪で告発し、立証できなければ、法官の前で額に烙印を押される」と男性のみに対する名誉損害の罰則がある。

またamtuと呼ばれる女性奴隷の存在をもって「確かに上流階級の女性は同階級の男性とほぼ同等の権利を持っていたが、下層階級の女性の権利はほとんどなかった」と主張する方もいるかもしれないが、この時代の下層階級が悲惨な扱いを受けていたのは男女限らない話である。

・インダス文明

記録が残っておらず詳細不明

・黄河文明

1番女性が好き放題やっていたとされているのが黄河文明だ。なにしろ黄河で栄えた文明…夏王朝と殷王朝はどちらも女性の暴虐を止められずに滅びたとされているからだ。特に殷王朝における妃「妲己」の暴走と王朝の滅亡は「封神演義」としてご存じの方も多いだろう。以下、簡単に封神演義の内容を紹介する。

殷の最後の王である紂王は、もともとは優れた王だったが、女神女媧に対して不敬な心を抱いたことで女神の怒りを買う。女神は紂王を堕落させ殷王朝を滅ぼすため、美しい女性「妲己」に千年を生きた狐の妖怪を乗り移らせ、紂王のもとへ送り込む。

紂王は妲己の妖しい魅力に完全に心を奪われ骨抜きにされる。妲己の言いなりになった紂王は忠実な家臣を次々と処刑し、「酒池肉林」のような贅沢の限りを尽くすなど、残虐非道を極めていく。

こうした世の乱れを正す為、仙人界の教主元始天尊は、弟子の姜子牙に「封神計画」を命じる。「封神計画」とは、今回の戦争で命を落とすことになる人間や仙人たちの魂を集め、天界の神々として新たに任命(=封神)するという壮大な計画だ。

姜子牙は殷を討ち新しい王朝を打ち立てようとする姫昌(後の周の文王)とその息子・姫発(後の武王)に仕え、軍師となる。

激しい戦いの末、姜子牙率いる周軍が勝利し、殷王朝は滅亡。紂王と妲己も最期を迎え、天下は周の武王によって平定される。そして姜子牙は「封神台」という場所で、戦いで死んだ365人の魂を神々の位に就かせ、「封神計画」を完了させる。

勿論史実は違う。令和における歴史考証では殷が滅亡したのは東方への遠征に固執している内に、西方で力を蓄えた周の武王が殷に不満を持つ勢力を結集して絶好のタイミングで反乱を起こしたからだ…というのが有力な説だ。妲己の存在とそれによる滅亡は「書経」において「紂王は女性の言うことばかり聞いている」という記述や、「史記」において「妲己を愛し言うがままだった」という記述があり、悪政の要因の1つではあったものの根幹もしくは主要因であったか?は否定よりの疑問が持たれている。

しかし、このような物語が口伝で継承され、当時の中国の大衆に真実と思われる程度には「ありそう」なことだったのだ。実際史学的にも殷王朝において女性は男性と同等の権利があったことが示唆されている。その最も顕著な例が武丁の妃である婦好だ。

殷第23代王武丁の妻である婦好は将軍・神官・領主だ。彼女は甲骨文字の記述では数千の兵を率いて異民族を討伐したと記録されており、また最高位の神官であったことも記録されている。更に彼女は自身の領地を持ち、そこからの税収を個人的な資産としていた。

1976年に彼女の墓がほぼ盗掘されていない完全な形で発見され、おびただしい数の青銅器や玉器などの副葬品が出土した。これは婦好が単なる王の妻ではなく、国家の重要人物として絶大な権力と富を持っていた動かぬ証拠である。

更に言えば、そもそも黄河文明の前文明である仰韶の半坡遺跡における女性の墓からは多くの副葬品が見つかる1方で男性の墓は粗末だった。また墓地全体の配置が特定の女性の墓を中心に血縁関係のある者たちがその周りに埋葬されているように見える区画があり、女性がとても大事にされていた1方で男性は雑だったことが明らかになっている。

これを持って中国の観光は「仰韶は母系社会だった。半坡遺跡はその証である」と宣伝すら行っている。これが正しいか?は断定出来ないが、正しければ男性は黄河周辺において凡そ2000年以上女性に抑圧されてきたと主張することが可能になる。

・古代文明まとめ

記録の不明瞭なインダス文明を除き、古代文明において女性と男性は同等の権利と地位があり、女性も社会の要職について個人財産を築いていた。大多数の女性は第1次産業に従事しており、社会運営に参画してなかったが、それは大多数の男性も同様である。そして男性には当時から扶養義務と徴兵が課せられていた

黄河文明の後にくる周王朝においては井田制と宗法が定められ、男性には女性の扶養義務と納税義務が明確に課せられた。また当時の大多数の男性=農民は兵農1致…平時には田畑を耕し、戦時には兵士になる…として当然の如く兵役が課せられていた。

メソポタミア文明においてはハンムラビ法典で男性の扶養義務が明確に規定され、また徴兵は王への義務として制度化された。「イルクゥ(ilku)」と呼ばれる制度は王が兵士や役人に土地(またはその使用権)を与える代わりに、軍役や労役の義務を課すものである。要はメソポタミアのパンピー男性において土地や財産を保有する事と王の命令に応じて出征する義務と直結しており、ハンムラビ法典には義務を怠った男性への罰が規定されている。

エジプト文明においてもやはり男性には扶養義務が課せられており、古代エジプト末期王朝時代からプトレマイオス朝時代(紀元前664年~紀元前30年頃)にかけてのデモティックと呼ばれる文字で書かれた契約書には以下のような記述がある。

筆者雑訳:夫は毎年1定量の食料、衣服、金銭を妻に供給することを約束した。これらは家財道具ではなく、妻個人の使用のためのものである。

https://www.trismegistos.org/tm/detail.php?tm=46108

また古代エジプトにおいて結婚時には契約書を交わしたが、それは愛情を誓うものではなく経済的な取り決めを記したものだった。

そして古代エジプトにおいては徴兵の代わりに労役(所謂ピラミッド建設等)が国民の義務として課せられていたが、案の定女性は免れていた。

ギザ台地の労働者墓地から発見された多数の人骨は殆どが男性のものである。そして骨には重労働による疲労骨折や怪我の痕跡が見られ、彼らが過酷な肉体労働に従事していたことが示唆されている。

https://www.researchgate.net/publication/303875906_Labor_and_the_Pyramids_The_Heit_el-Ghurab_Workers_Town_at_Giza

見方によっては女性は男性と同等の権利を持ちながらも、扶養義務や徴兵は免れているある種の特権階級だった。

前近代世界

このセクションでは法的規範から社会構造へと焦点を移し、女性の主体性や権力を決定づけたのは、ジェンダー単独ではなく階級、経済的役割、親族制度であったと論じる。

・中世ヨーロッパ

女性の大多数は農民であった。彼女たちの生活は過酷であったが、男性と共に畑で不可欠な労働に従事したことで、ある程度の実際的な平等性とパートナーシップがもたらされた。というよりハッキリ言えば、当時の農民は立場が弱く、騎士が戦争ばかり起こして畑を荒らしたり物資を略奪したり、更には騎乗試合の名目で農民の物資を略奪してたので、家族近隣住民1丸となって労働しなければならなかったのだ。端的に言えば、この時代の農民は男女共に人権がないという形で平等だった。

と言われるが、記録を詳しく追うとどうも違った様相が見えてくる。というのも中世初期において、法的な事柄について女性は男性に比してさっぱり言及されないからだ。それもそのはずで当時の法典…例えばサリ法典では自由身分の女性(妻)が窃盗などの罪を犯した場合、その賠償金 (罰金) の支払義務は夫にあると定められていたのだ。

これに対して「それこそが女性抑圧の証拠だ!女性は責任を負わない代わりに人格権もなく財産等も持てなかったのだ!」と言うだろう。しかしコレには2重基準があった事が明らかになっている。まず第1に財産権は女性に限らず家長以外の全て(男性含む)が規制を受けていたこと。第2に既婚女性はMorgengabeと呼ばれる婚姻代金(処女性の引き換え)という形で個人資産を保有出来ていたからだ。

そして略奪者である貴族の男女はどうか?というと、やはり女性貴族にも男性貴族同様の権力が付与されていたことが示唆されている。貴族女性は夫が戦争で不在の間、所領、家政、財政を管理した。またマグナ・カルタは寡婦の相続権と再婚しない権利を明確に保護していた。

それから中世後期にイギリスで世界史に名高い「コモン・ロー」が確立される。このコモン・ローにはカヴァーチュアという原則が定められており自身の財産に別個の権利を持つことが出来なかった…が、これにも2重基準があった。このコモン・ローは、その不備を補うために生まれた「衡平法」によって骨抜きになっていたのだ。衡平法の下では夫婦は別人格として扱われた。妻は夫を訴えることも、夫から訴えられることも可能だったのだ。

この仕組みについて超雑に説明すると、衡平法は妻が自分の財産を維持する為の「分離財産」という仕組みを認めていた。これは現代の「信託」に似ている。

・仕組み: 結婚前(または結婚後)に、妻の財産(親からの相続財産など)を信託に入れ、「妻個人のもの」として法的に分離した。これは結婚契約(婚前契約)によって行われるのが1般的だった。

・効果: この「分離財産」は、夫やその債権者から完全に保護された。財産から得られる収入は妻が自由に使うことができ、夫はそれに手出し出来なかった。

・事業収入も保護: 妻が結婚前から行っていた事業の収入なども、この仕組みで守ることが可能。

・裁判所の介入: 夫が妻を虐待したり、生活費を渡さなかったりした場合、衡平法裁判所が夫の財産の1部を妻の「分離財産」とするよう命じることもあった。

この分離財産は1部の例外ではなく1般的なものだったことが明らかになっている、実際に19世紀初頭の書物「A friend to the Sex」には、次のような不満が記されている。

最近では妻が結婚前と全く同じように自分の財産を完全に管理できるような結婚契約は珍しくない。さらに不公平なことに妻は自分の財産が山ほどあるにもかかわらず、彼女が作った借金はすべて夫が支払う義務を負う。夫は妻を養う義務もあるが、妻の財産には1銭も触れられないのだ。
(It is no uncommon thing, in the present times, for the matrimonial bargain to be made so as that the wife shall retain the sole and absolute power of her own fortune, in the same manner as if she were not married. But what is more inequitable, the husband is liable to pay all the debts which his wife thinks proper to burden him with, even though she have abundance of her own to answer that purpose. He is also obliged to maintain her, though her circumstances be more opulent than his

なんか何処かで聞いたような不満であるのは気のせいではないだろう。

・オスマン帝国

世界史でご存じの通り、この地域における中世は「女人天下」であった。オスマン帝国のハレムの女性達は男性達以上の並外れた政治権力を行使していたのだ。

代表的な人物が在位中のスルタンの母であるヴァリデ・スルタンであり、彼女はハレムで最も権力のある人物…即ち帝国全体でも最も権力のある人物だった。彼女は王朝の「再生産」を管理し、国事について息子に助言し、しばしば若いスルタンの事実上の摂政として行動した 。スルタンの正妃(ハセキ・スルタン)や世継ぎの母(カドゥン)も高い地位を享受し、スルタンへのアクセスや政治的同盟を通じて政治に影響を与えることが出来た。帝国の女性たちは、モスク、病院、その他の慈善施設に資金を提供する大規模な建築後援活動を通じて、その権力を公に誇示し帝国が名実ともに「女人天下」であることを示した。

ここでそれでも政治家は男性中心だった…という方もいるかもしれないが、この帝国においては女性は高い社会的地位につけなかったのではない。つく必要がなかったのだ。それなりの男性と結婚さえすれば、その夫や子供を通じて政治に介入出来るし、責任も男性に被せられる。女性は表向きの政治権力より影の支配者となることを選んだに過ぎないのだ(ていうか、ここら辺の事情は現代社会にもまんま当てはまる事は言うまでもない)。

https://www.scribd.com/document/471804561/The-Harem-A-Place-of-Power-for-Women-1

・江戸時代

そして我が国の江戸時代は、なんと世界史において「世界的にも稀な男女平等()の時代であった」と結論付けられている。というのも江戸時代においては庶民(商人、職人、農民)の女性はかなり多くの自由を享受していたが明らかになったからだ。

まず女性側から離婚を申し立てることは法的に認められた制度として存在していた。その代表例が所謂「駆け込み寺/縁切寺」だ。夫との離縁を望む女性が寺に駆け込み、そこで1定期間(2~3年)の奉公を務め上げると、寺が幕府の公認のもとで離婚を成立させてくれるという制度だった。

これに対して「でも男性は3行半で1方的に離婚出来た」と反論する方もいるかもしれないが、近年の研究においては3行半は夫が1方的に易々と離婚できる制度ではなかったことが判明している。まず離婚する男性には経済的ペナルティ…持参金の全額返還と手切金が課せられた。妻が嫁ぐ際に持参した持参金や嫁入り道具は妻の私有財産と見なされ、夫はこれらをすべて妻に返還する義務があったのだ。また場合によっては慰謝料や解決金を妻側に払う必要があり、これが手切金の語源となっている。また夫が離縁状を書いても親類や媒酌人が預かる事が多く、3行半は夫が妻を1方的に追い出すための道具というより「この女性との婚姻関係は正式に解消されました」という公的な証明書の役割を果たしていたのだ。

https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdfplus/10.1086/203592

財産権に関しても女性の私有財産が認められていたのは前述の通りだが、どうも妻…特に商人の家において…は「家の経営者」であった事が示唆されている。というのも我が国は世界でも稀に見る外国人からは完全に意味不明な男女平等制度「お小遣い制」を有する民族であるが、その原型は江戸時代にみることが出来るのだ。

元禄時代に活躍した作家である井原西鶴が商人達の成功や失敗を書いた「日本永代蔵」には、夫と協力して懸命に働き、家業を盛り立てる所謂「始末女房」が数多く登場する。彼女達は店を切り盛りし、そして金銭を管理し帳簿をつける。なかには浪費家の妻が贅沢のあまり店を傾ける話すらあり、女性が家の財産の裁量権を握っていたことが明らかになっているのだ。

また当時は見合い結婚が基本であるが、当人同士の相性や女性側の意向が重視される傾向にあり、同じく井原西鶴の記した浮世草子などには女性の振り回される男性の悲喜こもごもとした恋愛模様が描かれている。

これについて花魁や人身売買を持ち出して「やはり女性は大変な目にあっていたんだ!」と主張する方もいるかもしれないが、こうした女性の数以上に男性は丁稚や農村奴隷として悲惨な境遇に従事していた。詳しくはコチラ。

こうした事から「女性は抑圧されていたんだ!」と主張する方は、庶民ではなく武家に焦点をあてて武家社会の規範書である「女大学」を持ち出すのが常だ。女大学は…誰が作ったのか定かではないか、江戸時代の儒学者(有力候補は貝原益軒)が儒教思想に基づいて書いたものとされている。この中で最も有名なのが「3従の教え」だ。

1.幼い時は父に従い
2.嫁に行っては夫に従い
3.年老いては息子に従う

しかしながら「シグルイ」の原作者で知られる南條範夫が指摘するように武家社会の男性は、それ以上に過酷な主従を強いられていた。

「君、君たらずとも臣は臣たれ」…これが江戸時代の主従関係の根幹である。噛み砕いて言えば「例え主君が主君らしい振る舞いをしなくても、家臣は家臣としての務めを果たさねばならない」という意味で、忠誠は無条件かつ絶対的なものであった。主君が愚かであったり理不尽な命令を下したりしても、家臣はそれに従うのが当然とされていたのだ。主君の個人的な感情や気まぐれ1つで家臣の人生は容易に左右され。異を唱えることは「不忠」と見なされ厳しい罰が課せられた。

あの有名な「忠臣蔵」も、主君・浅野内匠頭が突如乱心して吉良義央に切りかかり、その罪を問われて切腹して赤穂藩が改易されたものの、その浅野内匠頭の為に失業者達が吉良義央の首を取るという話だ。

要するに江戸時代において武家の人間は総じて社会を回す歯車であり、個人意思を持つことなど出来なかった…というかその発想すらなかったのだ。

・アフリカや東南アジア

多くの植民地化以前のアフリカ社会は複数の権力中心を持つ異種階層システムの中で、男女間の均衡を目指すことが多かった 。女性は皇太后(例:アシャンティ王国)、女司祭、商人、女性評議会のメンバーとして大きな力を持っていた。更にガーナのアカン族のような社会は母系制であり、家系と相続は母方を通じて辿られた 。女性が普遍的に抑圧された未成年者であったという物語は、政治、宗教、生産における彼女達の積極的な役割を示す証拠によって明確に否定されている。

https://www.researchgate.net/publication/342664032_Women_in_Pre-colonial_Africa_Southern_Africa

東南アジアは母系制が顕著に存在した地域であり、スマトラのミナンカバウ族は世界最大の母系制社会であり、財産と家名は女系を通じて継承される。これらのシステムでは家系は母親を通じて確保される。

・前近代

中世ヨーロッパから近世のオスマン帝国、江戸時代の日本に至るまで、女性の地位や権力は単1の「ジェンダーによる抑圧」というレンズでは到底捉えきれるものではない。農民女性は男性と過酷な労働を分かち合う実践的なパートナーであり、貴族や商家の女性は財産を管理し、政治や経済に大きな影響力を行使した。法制度においてもコモン・ローのカヴァーチュアのような1見女性を無力化する原則は、衡平法のような対抗策によって骨抜きにされ、現実には女性の財産権を保護し、夫に経済的責任を負わせる「2重基準」として機能していた。

非西洋世界に目を向ければ、アフリカや東南アジアの社会では母系制が散見され、女性が権力構造の中心にいたことは明らかである。

1方で男性は古代から続くお約束の扶養義務や徴兵(労役)に加え、主君への絶対服従といった、過酷でしばしば命に関わる義務を負い続けてきた。歴史を通じて「2級市民」として扱われ、人格権よりも「家」や「国家」のための道具として動員されてきたのは、むしろ男性であったとすら言えるだろう。

近代:女性は常に犠牲者だったという神話の誕生

・19世紀フェミニスト

19世紀になり産業革命が起きると、それはこれまでの労働者階級の中に「金持ち」と「専門家」と「長時間低賃金労働者」という身分を産み出した。つまり産業機械の発達によって商工業が大規模化すると、当然に富裕の格差は広がり、更に「会計専門職」「機械専門職」といった人間を産み出した。

例えばこれまでの農業は家族や近隣住民総出で種まきから収穫まで全ての作業を行うのが普通であったが、工業の大規模化と発展に伴い1つの作業…機械メンテナンスや経理…に特化した専門家と、誰でも出来る仕事のみを長時間低賃金でこなし続ける労働者が求められ始めたのだ。

こうなると金持ちの妻は仕事を失う。経理や機械の勉強なんてしたくない、かといって長時間低賃金労働者と働くのも嫌だし、そもそも金を稼ぐ必要性もない。そこで彼女達は専業主婦となり社交や子供の教育やメイド虐めなどを始めたのだ。有閑階級独自の贅沢でくだらない文化の幕開けである。そして、それにも飽きた女性達が始めたのが社会運動…つまりフェミニズムだ。

彼女達は当時労働者階級の間で盛り上がっていた参政権運動を妨害し、「労働者階級ではなく賢く教養のある女性にこそ参政権を与えるべき!」と主張した(当然に女性でも労働者階級の女性の参政権には反対だった)。当時の彼女達のロジックは「ブルジョワ女性は家庭だけでなく国家に、家族だけでなく人種に奉仕する為に投票権を必要としてる」であり、自分達は投票権のある1部の貴族男性と同等かそれ以上に賢く教養があり洗練されていると認知していた。詳しくはコチラ。

彼女達のこうしたロジックは当然に女性からも受け入れられなかった。その最たるものが1910年に行われた女性参政権に関する討論会だ。この討論会の為に女性運動家は16年間に女性参政権に賛成する女性の署名を19万集めたが、なんと反対派は僅か18ヶ月の間に30万も女性の署名を集める事に成功した。

現代社会に生きる我々はコレがどういう事か?を直感的に理解するのは難しい。これは当時投票権などの完全な市民権は徴兵などの市民としての責任を負っている人だけに与えられた時代であり、投票権は権利であると同時に義務であると見做されていた為である。従って男性は女性を参政権から締め出すということは決してしなかった。問題は「女性全体が明らかに望んでいない責任を女性に課すかどうか?」だったのである。

・参政権

女性が抑圧されてきた証拠として頻繁に言及されるのが「女性には長い間参政権がなかった」だ。これ自体は間違いではないが、そこには重大な事実が隠れている。それは女性に参政権が無い時代は男性にも参政権はなかったという事実だ。

日本
男性普通選挙:我が国の投票権は1889年に生まれたが納税義務とセットであり、人口の1.1%(直接国税15円以上納める25歳以上の男性)しか投票権はなかった。1900年と1919年に引き下げられたが、それでも人口の5%程度であり、男性の普通選挙は1925年に達成された。

女性普通選挙:1945年に達成された。

英国
男性普通選挙:男性普通選挙は1832年、1867年、1884年の1連の改革法を経て1918年に実現した。

女性普通選挙:女性は1918年に30歳以上の女性に選挙権が与えられ(第1次世界大戦で男性が死にまくって人口の男女比が女性に偏った為)、1928 年に完全な参政権が達成された。

米国
男性普通選挙:財産所有要件を段階的に撤廃することで達成され、1870年にアフリカ系アメリカ人男性が参政権を獲得したことでほぼ達成された。

女性普通選挙:1920年に第19次憲法修正条項が可決され達成された。

オーストラリア
男性普通選挙:1894年から1908年にかけて植民地が男子選挙権を付与した後、1902年の連邦選挙で達成された。

女性普通選挙:1894年から1908年の間にオーストラリアの殆どの州で女性が参政権を獲得し、1902年に連邦レベルでの参政権が達成された。

ここら辺でやめるが、要するに多くの国で女性が投票権を獲得したのは、男性全員が投票権…普通選挙を獲得したのと同時期か直後ぐらいなのだ。長い歴史を通じて男性も女性も政治問題において発言権を持たなかった。普遍的な選挙権は男女双方にとって新しい概念であり、尚且つソコに男性対女性という対立は無かった。あったのは身も蓋もないことをエリート層対その他大勢対自分をエリートと勘違いした女性(フェミニスト)という対立である。エリートでも上流階級でもない人間にとって、男性であること(また女性であること)は何も意味しなかったのである。

実際女性が求めているのが平等ではなく自身の貴族化であることは、当時から指摘されていた。以下の文章は1913年に記されたものだ。

近代フェミニズムには2つの明確な側面がある。(1) いわゆる権利を求める明確な政治的・経済的側面。(2) 明確な要求や明確な主張ではなく、個々の事例における感情的な訴えの結果として生じた特権や免除を強調しようとする感情的な側面。しかしながら、このようにして世論が確立され、法における、そしてさらにその運用における、男性よりも女性を優遇する性差別主義として表れるようになった。
近代フェミニズムのこれら2つの側面は、必ずしも同1人物の中に併存するわけではありません。例えば女性参政権に反対しながらも、法律やその運用において感情的に女性優遇を強く主張する人がいます。1方で女性の政治的権利やその他の権利を強く主張し、女性に有利な現在の法の不平等を心から非難する人もいます(これはより稀ですが)。しかし原則として、この2つの側面は共存しており、「女性の権利」を主張する人々の大多数は、女性の特権の保持と拡大に等しく熱心です。実際「女性運動」の主張者の大多数は、女性を支配的な貴族の地位に転化させることを主な目的としていたようです。
(Modern Feminism rose slowly above the horizon. Modern Feminism has two distinct sides to it: (1) an articulate political and economic side embracing demands for so-called rights; and (2) a sentimental side which insists in an accentuation of the privileges and immunities which have grown up, not articulately or as the result of definite demands, but as the consequence of sentimental pleading in particular cases. In this way, however, a public opinion became established, finding expression in a sex favouritism in the law and even still more in its administration, in favour of women as against men.)
(These two sides of Modern Feminism are not necessarily combined in the same person. One may, for example, find opponents of female suffrage who are strong advocates of sentimental favouritism towards women in matters of law and its administration. On the other hand you may find, though this is more rare, strong advocates of political and other rights for the female sex, who sincerely deprecate the present inequality of the law in favour of women. As a rule, however, the two sides go together, the vast bulk of the advocates of “Women’s Rights” being equally keen on the retention and extension of women’s privileges. Indeed, it would seem as though the main object of the bulk of the advocates of the “Woman’s Movement” was to convert the female sex into the position of a dominant sexe noblesse. )

・被害者革命

これほどまでに明白な歴史的事実に反して「女性は人類史において常に被抑圧者だった」という神話は、何故これほど強固に信じられるようになったのか?その起源は1700年代にイギリスに住んでいたウィリアム・ブラックストン卿という人物が著した1つの資料「Commentaries on the Laws of England」から始まった事が判明している。彼は当時ヨーロッパで行われていた結婚形態であるカバーチャー制度について著した。

ブラックストンはコモン・ローの理論を正確に記述した。しかし彼は前述の衡平法が女性の権利に与えていた大きな影響を無視していた。後のフェミニストたちが、このブラックストンの偏った記述を歴史全体の真実として誤用した結果、「女性は常に無力な被害者だった」という歴史的神話が生まれてしまったのだ。

例えば彼はコモン・ローの解釈において財産権以外にも「妻への暴力が合法だった」とした。勿論男性は妻を殴ることは許されておらず、夫婦は家庭内暴力で相手を訴える事が出来、実際の裁判記録がそれを証明しているにも関わらず…だ。

これは英国人なら誰でも知ってる事であるが、他の国はそうはいかない。米国のフェミニストは彼の記述を文字通りに読み込み「女性は財産権がなく夫に殴られ放題だった」と解釈した。こう言ってはなんだが「女性解放」のための組織的な運動を開始した女性達や指導者達は、控えめに言っても法学を熱心に学んだ者ではなかったのだ。

例えば19世紀の女性運動における著名な法律家であり、立法機関における女性の権利擁護の傑出した弁護士であったエリザベス・キャディ・スタントン夫人は、1854年にニューヨーク州議会で行った演説で、結婚した時点で女性は「即座の民事上の死」に直面すると断言した。

法律家の女性がこの理解なのだから、他は…(或いは分かっていて敢えて衡平法を無視したのかもしれない)。女性運動家達は1854年アルバニーに集まり、ブラックストンの法解釈をアメリカの対応物の全体像として受け止めて、次のような決議を可決した。

この共和国においてさえ、女性が事実上支えられている立法および慣習全体の構造の根本的な誤りは、法の目から見れば夫と妻は1人の人間であり、その1人は夫であるという法の途方もない虚構である。野蛮の遺産であるこの虚構自体が、妻を夫の気まぐれな権威の無責任な道具とすることで、結婚関係を常に残酷にする傾向がある。既婚女性のこの堕落は、独身女性の自尊心と男性からの尊敬を傷つけることで、必然的に独身女性の地位を悪化させる。そして最終的な結果は、誤って保護と呼ばれる後見制度であり、女性の勤勉さは中途半端に抑えられ、愛情は軽視され、エネルギーは損なわれ、そして最も高貴な志さえも無駄な努力と倦怠感、そして後悔の中で無駄にされている

https://chnm.gmu.edu/exploring/19thcentury/womenandequality/pop_petition.html

この決議を契機に米国の女性運動家は「女性は長らく男性から抑圧されてきた被害者である」という方面にプロパガンダの舵を切った。例えば1858年に刊行され、女性運動家のバイブルとなった「女性の権利年鑑(The Woman's rights almanac)」にはブラックストーンの引用と共に延々と西洋における女性の不満やら古代における女性の下層民(当然男性の下層民には触れない)の扱いへの怒りの表明するなど、1貫して人類史を通じて女性が被抑圧者で犠牲者だったのか?を記している。

しかし、それでも「えっでも今女性はそんな扱いされてなくね?」というツッコミが誤魔化せなかったようで、女性の権利年鑑は以下のような歴史修正を行った。

前述の通り英国の慣習法は野蛮さを1歩も引いていないことは明らかである。しかしアメリカ合衆国では、女性に関するこの法律は、1848年最初の地方女性権利会議が開催されるまで、ほとんど変更されなかった。しかしそれ以来は毎年改善が見られ、女性権利運動を非難する人々でさえ、その成果の価値を認めている。
(Signs of the Times. 1857. It is obvious that the English common law, as above stated, is scarcely a step beyond barbarism. Yet this law remained almost unaltered in the United States, as respects woman, till the year 1848 – the year of the first local Woman’s Rights Convention... . Since then every year has brought improvements, and even those who denounce the Woman’s Rights Movement admit the value of its results.)

https://catalog.hathitrust.org/Record/101732362

これは繰り返し繰り返し引用され、フェミニストの中では揺るぎない事実となった。女性は歴史的に男性に従属してきたというテーゼが誕生した瞬間である。

この瞬間、歴史は書き換えられた。事実としてアメリカの各州では1848年以前から既婚女性の財産権を認める法律が次々と制定されていた。しかし、この「1848年まで女性は野蛮な状態に置かれていたが、我々の運動がそれを変えた」というプロパガンダは、運動の正当性と成果をアピールする上で極めて効果的だった。この自己賛美の物語は、その後1世紀以上にわたって繰り返し語られ、いつしか誰も疑うことのない「歴史の真実」として定着してしまったのは皆様がよく知る通りである。

結論:歴史の真実を取り戻すために

こうして見てきたように「女性は人類史において常に被抑圧者であり、男性と同等の権利は与えられなかった」という通説は、歴史的事実に基づかない、19世紀に特定の政治的目的のために創作された神話である。

この神話は20世紀を通じて学問、教育、メディアの世界に深く浸透し、現代における男女間の対立と不信を煽り、そして女子枠のような女性を優遇する為のイデオロギー的基盤となった。歴史の複雑で多層的な真実を「抑圧者としての男性」と「被害者としての女性」という、単純で誤った2元論に塗り替えられてしまったのだ。

歴史修正主義と戦うとは、この有害な神話に異を唱え、証拠に基づいた歴史の全体像を取り戻すことに他ならない。

それは古代文明から現代日本に至るまで、多くの女性が法的権利と経済的実権を握り、社会で力強く生きてきた事実を正当に評価することである。

そして同時に歴史を通じて大多数の男性は、参政権もなく、扶養、徴兵、労役、主君への絶対服従といった、過酷で命がけの義務を強いられてきた現実から目を背けないことである。

真の歴史とは、どちらかの性別が1方的に支配し、もう1方が1方的に支配されてきたという単純な物語ではない。それは階級や時代の制約の中で、男女がそれぞれ異なる役割と責任を負い、時には協力し、時には対立しながら、共に築き上げてきた複雑な人間のドラマなのである。

余談


この記事は歴史修正主義の基礎に絞って書いたものであり、広まる事に意味があるので無断改変以外の著作権を放棄します。引用、コピー、商用利用等はご自由に。


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コメント

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666

この文章を作り上げるのにどれだけの知識と労力がかかっているか メスには理解できないボリュームなのも◎ 構造化と全体最適の思考が欠損していると理解できませんからね さて、なぜこ…

3
令和のコペルニクスのプロフィールへのリンク

そもそもマリー・アントワネットは決して弱者では無かった それからベルサイユ宮殿は専ら貴婦人女性のために建設された そしてそこでは貴婦人のための洋服や香水や化粧品が開発された

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ノックス@

これイスラム教やユダヤ教、イギリス、フランスの場合もお願いします

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mochidon

なんか男性加害者女性被害者という簡単な二元論風の主張を見かけたら、このノートを貼り付けてやろうと思います。ありがとうございます。

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歴史修正主義と戦う為に|rei
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