平雅行

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平雅行
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日本中世仏教史の研究者(大阪大学名誉教授、京都先端科学大学名誉教授)。大学を離れると、どうしても社会とのつながりが切れますので、時々、身辺雑記をつぶやきます。連絡を希望される方はDMを。
Joined January 2022

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日本歴史で初の全国的内乱が勃発し、仏法は無力さを露呈した。その衝撃が、個性的で魅力的な数多くの思想家を誕生させた。しかし、現実の歴史過程では顕密仏教の優位性は全く揺らがず、むしろ焼け太りすらした。なぜ、そうなったのか? その事情を解き明かそうとしたのが『鎌倉仏教の中世』である。
The image shows the cover of a book titled "鎌倉仏教の中世" (Kamakura Buddhism in the Medieval Period) by 平雅行 (Hira Masayuki). The cover features a detailed diagram of a mandala or similar religious artifact, which is central to the book's theme. The text on the cover and the post discusses the historical context of Japan's first nationwide civil war, the ineffectiveness of Buddhism during this period, and the emergence of various thinkers. The book aims to explain why, despite these challenges, esoteric Buddhism maintained its dominance and even thrived. The post text provides context that this book delves into the historical and ideological shifts during the Kamakura period in Japan.
残念ながら仏教には、女性差別的性格があります。 仏教は女性を五障(仏などになれない)の存在と捉えていて、男性よりも罪深く劣った存在と考えていました。極楽に女性はいません。 そのため、女性が往生・成仏するには、変成男子(へんじょうなんし)といって、男に生まれ変わらなければなりません。
今の若手研究者はかわいそうです。目に見える成果をすぐに求められるからです。私は、鎌倉幕府の宗教政策の研究に取り組みましたが、それを具体的成果として提示するのに30年かかりました。でも、こうした「優雅」な研究が可能であったのは、私が安定したポストに就いていたからです。
大学時代の教え子でも、ある時期からメーカーに就職する学生が増えた。古代の日食や、幕府陰陽師で卒論を書いた学生が、一流の製造メーカーに就職するようになっています。 話を聞くと「理系の人間ばかりなので、文系の視点からきちんと意見を言ってくれる人材を求めている」と言われたとのこと。
私は1992年に母を亡くしました。その葬式の折りに、僧侶が変成男子の祈りを母に捧げるのを真横で聞いて、私は衝撃をうけました。 遠い昔のお話だと思っていましたが、その時点でも、男に生まれ変わって成仏するように、という変成男子の祈りを続けていた宗派があったのです。
ちなみに、悪人正機説が民衆蔑視と表裏一体であったという、そのいかがわしさは、女人正機説をみれば、よく分かります。 女人正機説は、阿弥陀仏が男性よりも女性の救済を優先するという考えですが、なぜ女性の救済が優先されるかというと、女性は男性より罪が重いからです。
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当時は夫婦別財といって、妻と夫の財産は独立会計です。妻は自分独自の財産と、その処分権をもっていて、女性の社会的地位はかなり高かった。そのことが飛鳥・奈良時代の人々が、仏教の女性差別観に関心を寄せなかった理由だと思います。 その歴史が大きく変化するのが平安時代です。
この女性差別を真正面から批判した思想家が道元です。「人間の罪深さや、仏法を願う気持ちに男女の違いはない」と道元は明言します(『正法眼蔵』礼拝得髄)。そして、女性の立ち入りを禁じた延暦寺などの女人結界を、「魔界」(悪魔の巣窟)と非難し、それを解体するよう主張しました。
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しかし飛鳥・奈良時代の日本社会は、仏教がもっていた女性差別観に関心を払わなかった。 日本で最初に正式に得度・受戒した僧は、百済に留学した善信尼という女性です。奈良時代でも尼たちは、男僧と同様に、国分尼寺で国の平和と繁栄を祈る国家祈祷に従事していました。
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きちんとした卒論を書ける学生は、人の意見を正確に理解し、そのうえで違う観点から自分の考えを提示することができます。歴史学や文学部は、こうした人材を社会に送り出しているのです。 大学での歴史学・歴史教育は、専門家を育てるためだけのものではありません。
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でも、今の若手研究者の多くは任期制ポストです。そのため、バントヒットのような小技の論文量産が求められます。そうしないとポストを失うからです。研究者として自己確立する最も重要な時期に、不安定な身分のまま小技の論文量産を強いられている。これは日本の学術研究にとっても、大きな損失です。
歴史学は私たちを自由にする。 日本中世は、現代とは全く違った異文化の世界です。そうした過去の歴史を学ぶことに、何の意味があるのでしょうか。中世は今からみると、変な世界です。きびしい身分制の時代で、宗教の役割も大きい。でも、当時の人々は自分たちの世界が普通だと考えていました。
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それは目的の1つですが、さらに重要な役割がある。 物事を、多様な視点から捉えることのできる人材、そして別の観点から意見をきちんと伝えることのできる市民を社会に送り出す、これが歴史学の大きな役割です。 文学部や歴史学は決して浮世離れした学部・学問ではない。私たちはそう主張すべきです。
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そのためも女人正機説を説いた文献は、女性の愚かさ、罪深さを執拗なまでに強調しています。男性の私が読んでいても、気分が悪くなるほどです。 女性を差別しながら救済する、これが女人正機説の本質です。法然や親鸞が、悪人正機説の克服を目指したのは、こうした差別的救済論を打破するためです。
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私たちが若手の時代も研究ポストの確保は難しかった。私が就職できたのは、33歳になってからです。でも、当時は任期制でなかった。そのためポストを得れば、じっくり研究することができた。独創的な研究であればある程、成果を出すには多くの時間を要します。
仏教では、出家すれば性別を超越した存在になるという考えと、出家したとしても尼は尼だ、という2つの考えがあります。 孝謙・称徳(2度天皇になったので名が2つ)は日本の女性で、皇太子になった唯一の人物です。女帝は他にもいますが、皇太子から天皇になった本格派の女性天皇は彼女だけです。
近年の大学は、どこも実学重視です。では、大学で歴史学を学んで何の役にたつのでしょうか。文学部の「学び」が、いったい何の役にたつのでしょうか。 大学人は胸をはって答えるべきです。 コミュニケーション能力の鍛錬だ、と。文学部では、卒論の執筆を通じてコミュニケーション能力を鍛えています。
鎌倉幕府が崩壊すると生き残った北条氏は遁世したが、1335年に中先代の乱がおきると、彼らの多くが幕府再興の夢にかけた。乱を鎮圧した足利尊氏は徹底的に落ち武者狩りを行った。そのためその後、生き延びた北条氏はごく少数だ。尊氏の妻登子は北条出身なので、尊氏は妻の一族を殲滅したことになる。
「祈れば何でも叶う」、中世人の神仏観はそういうものではない。むしろ「神仏は万能ではない」、これが日本の中世仏教の独特の考えだ。人間の力は不完全だけれど、神仏の力も完全でない。だから神仏への祈りと、人間のパワーを併せることで目的を達成しようとした、それが中世人の信仰の意味だ。
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私たちは、ほんの少し前まで、こういう時代を生きていました。 近年の仏教教団は、いずれも、女性差別については着実に改善を進めていると仄聞していますが、この一連の私のツイートが、各地域で頑張っておられる尼僧や女性信徒の方の後押しになることを願っています。
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800年前の歴史を学ぶことで、800年先の「未来からの眼差し」で今を見つめ直すことができる。「未来からの眼差し」を手に入れるために、過去の歴史を学ぶのです。 そうすることで、私たちは「いま」という時代に囚われた自分から自由になることができる。 歴史学は私たちを自由にする学問なのです。
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1984年に西口順子・大隅和雄先生を代表に「女性と仏教の研究会」が発足しました。その研究会で、ある尼僧が、戦後においても、八敬法のためにどんなにひどい尼僧差別が続いてきたか、涙ながらに語られたのを、今でも鮮やかに覚えています。彼女は日本に絶望して、海外布教に活路を見いだされました。
親鸞の思想分析に『歎異抄』を使うと、それだけで仏教学者から素人丸出しとバカにされます。でも、彼らは重大なことを見落としている。 「疑心の善人」という独特の善人概念が親鸞にある。正しい信心をもてない人を、親鸞は「疑心の善人」と呼んだ。だが、その反対概念が親鸞の著作では確認できない。
荘園の理解が難しいのは、実態の全く異なる土地制度なのに、同じ「荘園」という名で史料に出てくるからです。 古代にも荘園はありますが、住民がいないなど、中世の荘園とは性格が全く違います。中世移行期に登場する免田型荘園は、飛び地となった田地の集合体です。これにはなんと、領域がありません
日本社会は、双系制的要素がかなり強く残っていて、鎌倉時代の武士団でも、聟が嫁の一族に取り込まれることも珍しくありません。 また古代日本では、もともと正妻という観念がなく、律令制が「正妻」「妾」概念を持ち込んだことで、混乱が起きています。
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日本仏教は女性差別を先導し、それを助長する役割を果たしました。でも、それを批判し否定する思想も、日本仏教のなかから誕生したのです。
さて、ここで示した僧正の数にせよ、北条出身僧の数にせよ、無味乾燥な数値です。皆さんも「ふーん」と言って終わりでしょう。でも、このデータを提示するため、私は30年をかけました。膨大な史料を博捜し、数百人にのぼる僧侶の事績を、一人ひとり丹念に解明することで得られたデータがこれです。
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平雅行
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私は『鎌倉時代の幕府と仏教』第3章で、北条氏でプロの僧侶になった人物を網羅的に検出してみた。その結果は顕密僧が52名、禅僧が5名だった。旧仏教の僧侶は禅僧の10倍以上にのぼる。足利義満の息子だって、禅僧より顕密僧の方が多い。幕府や武士を禅宗に結びつける見解は、安直に過ぎるだろう。
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女性差別への批判は、近代になって初めて登場したのではありません。差別の否定を明言した思想家が鎌倉時代に存在していた。道元は仏教の教えの根源に立ち帰ることで、その批判精神を手に入れたのです。
鎌倉幕府が成立すると、運慶が鎌倉に招かれて東国に多くの遺品を残した。では、なぜ運慶なのか。父の康慶でなかったのはなぜなのか、美術史の世界で議論が重ねられてきた。 そのヒントとなる新たな史料がみつかった。2007年に紹介された『和歌真字序集(扶桑古文集)』紙背文書である。
尼の活躍のピークが、尼天皇であった称徳天皇の時代です。 しかし称徳の没後、朝廷は南都仏教の抑圧に向かい、そのとばっちりで尼も排除されてゆきます。最澄・空海が開いた天台宗・真言宗には、尼の養成システムがありません。 こうして尼は排除され、その役割も国家祈祷から洗濯に変わってゆきます。
日本中世は極端なまでの小さな政府の時代です。政府の力は弱く、治安維持すら、ままならない。そのため、私的な暴力が社会に蔓延しました。この時代の暴力の形は、武力的暴力と宗教的暴力の2つでしたので、それに対応して、見える敵、見えない敵から主人を守る、武士と護持僧が発達します。
「鎌倉仏教の代表的思想家の一人、明恵はかつてこう語った。『私に弟子はいらない。世間ではすぐに弟子をとって仕込みたがる者が多いが、弟子を仕込む暇があるなら、一生涯、自分自身を仕込めばよいのだ』。この点については、私もまったく同感だ。しかし私は明恵の言葉にもう一言つけ加えたく思う。
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とはいえ、800年後の私たちは、身分や宗教に囚われた中世の異様さを簡単に見抜くことができます。 とすれば、同じことは私たちについても言えるはずです。私たちは、今の世界が当たり前だと思っている。でも、800年先の未来の人がみれば、私たちの世界の異様さを容易に見抜くはずです。
ごくごく常識的な感想をつぶやいただけなのに、予想外のバズり方に驚いています。 ともあれ、日本が貧しかった時代は、額は少ないけれども、研究費は薄く広く配分された。それが独創的な研究を数多く生み出すもとになった。本当の意味での独創的な研究は、安定した研究環境からしか生み出されません。
顕密仏教は荘園支配に呪いを利用しました。1347年、高野山金剛峯寺は四季祈祷という法要を始めます。年に4回、それぞれ4日間の開催です。そして、この年からその法要が年中行事となりました。では、何を祈ったのか。まず、天皇の安穏と将軍の武運が祈られましたが、肝心なのはその次です。
顕密仏教が荘園支配に呪いを利用した話をしました。でも仏教の教えでは、呪詛は慈悲の精神に立脚していなければなりません。怒りの心で呪えば、呪いのパワーは自分に跳ね返ってくるからです。ですから、民衆への呪詛はあくまで、我欲に囚われた民衆を煩悩から救済するため、という建前になっています。
ある日、私は「鎌倉幕府の宗教政策研究」に10年の歳月をかけることを決心した。その課題を達成するには、鎌倉時代の史料に登場する、僧侶のデータベースを自分で構築するしかない。その基礎作業に5年をかける。そこで手始めに、鶴岡八幡宮の関係史料に登場する僧侶のデータをパソコンに入力した。
私たち歴史学徒は、自分の研究の普遍性・客観性を目指している。しかし、それでも私たちは、時代の影響をどうしても免れることができない。どんなに先入観を排したつもりでも、日本が貧しかった頃の研究者は、過去の民衆の貧しさにリアリティーを感じ、民衆生活の苦しさを歴史の実像と考えるだろう。
末法思想は政治思想です。政策転換を喚起する政治思想です。「今のままでは世界は末法に転落してしまう。その破滅から日本を救うには、劇的な政策転換が必要だ」。そう主張したのが末法思想です。 親鸞・日蓮らは末法思想を根拠に顕密仏教を否定しましたが、そういう考えは末法思想の少数派です。
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称徳天皇は歴史学的にみて、非常に興味深い人物です。「女に権力をもたせると、ロクなことがない」という、バカな女の象徴として長らく語られました。 それだけに、彼女の実像の解明と、その再評価は、これからの研究の焦点の1つとなるでしょう。
都出比呂志先生が亡くなられた。日本考古学を牽引してこられた先生は、研究者として最も油の乗った時に脳梗塞で倒れられた。この頓挫は、先生にとって言い知れぬほど無念だったに違いない。また、「次の文学部長は都出さんで決まりだ」と誰もが考えていたので、それは阪大文学部にとっても衝撃だった。
私は『鎌倉時代の幕府と仏教』第3章で、北条氏でプロの僧侶になった人物を網羅的に検出してみた。その結果は顕密僧が52名、禅僧が5名だった。旧仏教の僧侶は禅僧の10倍以上にのぼる。足利義満の息子だって、禅僧より顕密僧の方が多い。幕府や武士を禅宗に結びつける見解は、安直に過ぎるだろう。
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でも、律令制が定着してくると、政治の世界では女性であることが不利に働きます。そこで彼女がとったのが、出家による女性性の超越です。 称徳は日本の歴史でただ一人、出家した天皇でした。彼女は出家することによって性別を超越し、自分の足かせとなっていた女性性を離脱しようとしたのです。
規制緩和、民営化、役人の削減、地方分権の推進…。 今の話ではありません。10世紀、律令体制の破綻に直面した朝廷は、政策体系を劇的に転換しました。律令体制から王朝国家体制への転換のなかで採用された政策が冒頭のものです。 こうして、大きな政府から小さな政府への転換が進められました
密教僧の資格を正式に授ける儀が、伝法灌頂(かんじょう)です。そして後白河や後深草など、歴代法皇への伝法灌頂はこれまで、公卿をはじめ多くの僧俗が見守るなかで実施されました。ところが1327年、文観弘真から後醍醐天皇への伝法灌頂は秘密裏に行われています。なぜでしょうか。
肉食禁忌というと仏教の影響と言われがちだが、これは誤りだ。『令集解』によれば、肉食禁忌には僧尼令と神祇令(じんぎりょう)の2つがあり、神祇令で禁じられた肉は魚鳥を含まないという。つまり日本では、魚鳥まで含めた仏教の全面的肉食禁忌と、獣肉だけを禁じる神祇令の肉食禁忌が併存していた。
近年は「寄進地系荘園」の語をあまり使いません。地方の武士が、土地支配を安定させるため中央貴族に土地を形式的に寄進して実権を掌握した…、この説明が実態とあわないからです。 荘園の成立では寄進よりも、荘園認可の方がもっと重要なことが判明しました。認可を重視する学説を立荘論といいます。
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年貢を未納した民衆を呪うことが年中行事になっている…、この四季祈祷の史料を初めて目にしたとき、心が震えました。 中世の顕密仏教が抱えていた陰惨な実態。この歴史的現実に対する批判として、親鸞思想を位置づけることができないか。私の研究者人生が本格的にスタートしたのは、ここからです。
もともと「出家」と「遁世」は同じ意味だった。剃髪して得度することで、世俗生活を離れ仏道修行に専念することを意味した。そしてこうした同義での使用例は、古代から中世末まで豊富に存している。ところが中世になると、「出家」「遁世」を別の意味で使用する例が新たに登場してくる。
物事には必ず影と光の世界があります。仏教には中世の民衆生活に寄与した側面と、民衆を圧伏して服従させた側面があります。この2つの相互規定性が重要です。 現実はきれい事だけでは済みません。だから影の世界があるのですが、だけど、きれい事の世界がなければ、影の世界はたちまち崩壊します。
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年貢を未納した者、高野山の命令に従わなかった者、彼らの名を書き上げ、それを仏前に置いて、仏罰・神罰がくだるよう祈っています。自分たちへの反抗者を年に4回呪ったのです。同様の呪いは興福寺などでも確認できます。支配には飴と鞭が必要ですが、この呪咀が鞭にあたります。
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私も弟子などほしくない。しかし仲間はほしい。鋭敏な感受性と先鋭な問題意識をいだき、熱くきびしい議論を交わすことのできる若い友人がほしい。共に切磋琢磨し、ともに成長してゆけるような若い仲間がほしい…。」 以上は大阪大学時代に、文学部の新入生に贈った私からのメッセージです。
「神力・仏力も業力(ごうりき)には勝てず」、これは中世仏教の常套語だ。業力とは宿業(しゅくごう)の規定性をいう。日常的にどれだけ正しい生活をしてきたか、その努力(業力)が次の人生をほぼ決める。それに比べれば、神仏の力が関与できる余地は小さい、というのだ。これは別に難しい話ではない
密教は唐代に隆盛しますが、その後、中国では衰退します。それに対し日本では、院政時代に東密の野沢十二流、台密の谷流諸流が登場して、密教修法が異様なほど発達します。そして厭魅などの古代的呪いに取って代わりました。その意味では大陸仏教に存したものが、中世仏教で肥大化したと考えられます。
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刈谷の西念寺 釋行信
@sainenji_kariya
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先生、この「呪い」はチべットや中国仏教で既にあったとは思われますが、古代日本の祭祀にあった呪いの影響、つまり日本化によって「呪い」が前面に出たのか、渡来仏教内に既にあった「呪い」に影影か、どちらがより強く反映されてると考えるのが妥当でしょうか?
中世の妻たちが獲得した主婦権の実態を解明したのが、後藤みち子『中世公家の家と女性』(吉川弘文館)です。『実隆公記』『師守記』などの貴族の日記を丹念に読み解いた労作です。これらの日記から、家族関係を読み解くには最低10年は、その日記の世界に沈潜しなければなりません。
The image shows the cover of a book titled "中世公家の家と女性" (Medieval Court Nobles' Households and Women) by Michiko Goto, published by Yoshikawa Kobunkan. The cover features elegant, vertical Japanese text in black on a light beige background with a subtle wood grain pattern, framed by a thin black border. The post text by 平雅行 (@oioglff68jLiZ5p) highlights this book as a scholarly work analyzing the roles of medieval Japanese noblewomen, using diaries like "実隆公記" and "師守記" to explore family dynamics, requiring deep immersion in the texts for at least a decade. No platform watermarks are present, and the composition is clean and professional, reflecting its academic nature.
この問題は、悪人正機説をめぐる議論と関わってきます。親鸞思想を、悪人正機説として捉える見解と、それを否定する学説が対立しています。私は否定派です。 7世紀の唐代の学僧・迦才(かさい)は「浄土の教えは凡夫の救済が最優先だ」という、凡夫正機説を提起しました。
僧正は顕密仏教界で最高レベルの官位です。そこで私は、鎌倉で活動した僧正の人数の変化を調べてみました。源氏将軍時代、九条頼経時代、北条時頼・時宗時代、北条貞時・高時時代の4つに分けると、僧正の数は1→13→9→56と変動している。ここから幕府の宗教政策の推移が浮かび上がってきます。
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どんな研究もそうですが、本務をこなしながら、余暇や睡眠時間を削って行うのが私たちの研究です。ただし昔は、本務の仕事がゆるく余裕があった。 それに比べると、今の大学教員は本務がきつい。授業や雑務が膨大にあります。そこでの余裕のなさが、今の若手・中堅の研究者を苦しめています。
井上光貞は維新の元勲・井上馨の孫だ。鹿鳴館時代を演出した人物だけに、その家庭は西洋趣味で、井上は高校時代からトルストイやゲーテを愛読していた。 となれば彼が平泉澄の国粋主義を嫌ったのは当然だろう。そこで大学院では東大国史学に所属しながら、他学科の和辻哲郎を指導教官に選んだ。
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1336年、後醍醐と決裂した足利尊氏が入京を果たすが、その時に時宝の軍勢が尊氏に合流している。やがて室町幕府が成立すると、時宝は東大寺の寺務代に任じられ再び実権を握り、伊勢の南朝方を攻略した。尊氏に協力した赤橋登子と時宝の生涯は屈折に満ちている。 お願いです。誰か小説にしてください。
平雅行『鎌倉仏教の中世』(法蔵館文庫)は、旧仏教が中世で圧倒的な力を持つことができた、その歴史的事情を論じました。他分野の研究者や歴史教育の関係者、そして鎌倉仏教に関心をお持ちの一般の方向けに執筆しました。装幀は熊谷博人氏。さすがの仕上がりで、ありがたいですね。
The image shows the cover of a book titled "鎌倉仏教の中世" (Kamakura Buddhism in the Medieval Period) by 平雅行 (Hira Masayuki), published by 法蔵館文庫 (Hozokan Bunko). The cover features a detailed diagram of a mandala or similar religious artifact in the center. The text on the cover indicates that the book discusses the historical circumstances that allowed old Buddhism to hold overwhelming power during the medieval period. The post text mentions that the book is intended for researchers from other fields, history educators, and general readers interested in Kamakura Buddhism. The design is credited to 熊谷博人 (Kumagai Hiroto), and the post expresses gratitude for the quality of the design.
女人正機説については、拙論「中世仏教と女性」(女性史総合研究会編『日本女性生活史』第2巻、東京大学出版会、1990年)で、取り上げました。 具体的には存覚『女人往生聞書』や、真宗の『安心決定鈔』、そして浄土宗の聖聡『当麻曼荼羅疏』などの文献にみえます。
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凪NAGI
@1971TEBASAKI
@oioglff68jLiZ5p さん 1️⃣ お尋ねですが「女人正機説」とはどういう文献に書いてありますか? 自分は素人ながら「悪人正機説」ほど「女人往生説」は響かないのです それは親鸞さんがどう読み説こうと浄土教の原本も法華経の龍女往生にせよ、一旦は変成男子を挟みますよね 続