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『機動武闘伝Gガンダム』論〜「富野ガンダムの呪縛」からシリーズを解放した作品〜

何故だか『機動武闘伝Gガンダム』(1994)がTwitterのトレンドに上がっていたので、これはもう俺に「Gガンダム」について書けと言ってるとしか思えない(笑)
若いファンの方々も含めて「Gガンダム」という作品に纏わる評価は年々変わったようにも思えるが、どうにもまだまだ「誤解されている」ような気がする。
スーパー戦隊シリーズでいえば『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)が「戦うトレンディドラマ」といわれ、『激走戦隊カーレンジャー』(1996)が「狂気の浦沢ワールド」と評されるのと似ているのだ。
シリーズの中で転換点となる異色作は個性が尖っていて良くも悪くも目立つ反面、作品の実態が幾分歪曲されたイメージとして語られることが多いという問題も抱えている。

「Gガンダム」が放送されてから今日まで殆どの人は「あんなのはガンダムではない」という消極的な評価であり、それが後年になると「ガンダムの常識を破壊した作品」と肯定的に語られていた。
だが、私にとってはどちらも本質的に「Gガンダム」という作品を「異端児」「異色作」「突然変異」と見做しているという点で然程批評の本質が変わった訳ではない。
全49話の中に主人公ドモン・カッシュをはじめとする登場人物の生き様や画面を通して起こった運動など、実に豊かな細部が宿っているにも関わらず、突飛な描写や設定のみが取り沙汰される。
そしてそれを「今川ワールド」なる監督個人の作家性にすり替えて抽象化してしまうことで、「Gガンダム」という作品自体を骨董品扱いしてしまっているのだ。

上記の方のツイートも拝読したが、私から見ると肯定的評価ではあるがそれは作品の細部を見た上での画面の運動を試みるものとは到底いえない。
私は長らくそのことに対し1ファンとして怒りを覚えるが、怒りは隙を生んでしまい冷静さを失わせ本質を見えなくしてしまうというのがシュバルツの教えだ。
ここは努めて冷静に、そして明鏡止水のように疚しさ無き静かな、それでいて昂ぶっていく感情を文章に変えて改めて私なりの「Gガンダム」論を語ろう。

「Gガンダム」の兄弟作品『疾風!アイアンリーガー』(1993)の成功体験


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まずこれは本格的な「Gガンダム」論の前に声を大にして主張しておきたいし今後も事あるごとに引き合いに出させていただくが、本作は決して突然変異の異色作ではない
根拠として挙げられるのは『疾風!アイアンリーガー』(1993)の成功体験であり、五武冬史・山口亮太・東潤一をはじめ「Gガンダム」に移籍したスタッフが関わっている。
そしてそこで描かれていた物語もまた「Gガンダム」と共通する「代理戦争としてのスポーツ」であり、SDロボを使いながらも「スポーツと戦争」のあり方に向き合った作品だった。
この作品では「ソルジャー(兵士)=戦争」、「リーガー(選手)=スポーツ」という形でその関係性を規定し、主人公のマグナム・エースの正体が元傭兵であることが明かされる。

その上でエースは自由意志を獲得し、シルバーキャッスルという弱小スポーツチームの絶対的存在としてマッハウインディと共に数々の才能豊かな仲間たちと出会い、絆を形成する。
後半に至ってシルバーキャッスルは真の強さに目覚めていき、ゴールド兄弟をはじめとするダークスポーツ財団の選出たちの腐りきった魂を浄化させていく。
その純粋なスポーツマンシップに悪の首領までもが感化され、最後はシルバーキャッスルの優勝と共に利権が絡んだスポーツ界のいざこざもなくなった。
ラストがやはり「悪を懲らしめる」という点で詰めの甘さがあるというか叙情的なものに流されたところはあったが、本作の果たした功績は大きい。

まずSDロボットが熱血スポ根を演じることによってアニメの世界において疑似的な熱血スポ根の復権を果たしたこと、そして90年代の世界でまだ「友情・絆」といったものが描けること。
かつてはジャンプ漫画のみの特権とされていた汗臭い男の友情やスポーツの格好良さをロボアニメで描き見事に成功させたことにこそ本作の意義がある。
そして、そのスポーツを通して「勝ちたいからスポーツする」のでも「名誉が欲しいからスポーツする」のでもなく「スポーツが楽しいからスポーツをする」と定義したのだ。
後のジャンプ漫画でも、例えば「テニスの王子様」が越前リョーマ擁する青学を通して「テニスを楽しむテニス」を描いていたが、実は既に93年にしてそれを実現したアニメがあったのである。

もちろん過去に遡れば他にも例はあるが、「代理戦争としてのスポーツ」をはじめ「アイアンリーガー」の成功体験は「Gガンダム」をはじめ後年の作品に大きな影響を与えた。
分けても五武冬史と山口亮太の2人は「Gガンダム」の中でも極めて重要度が高いエピソードを担っているが、これも偏に「アイアンリーガー」で培った技法の賜物である。
「Gガンダム」はどうしても作風の異端ぶりと過剰な外連味溢れる演出で「今川監督作品」という括りで見られがちだが、今川監督は映像は派手でも脚本に関しては素人だ。
だからこそ脚本・物語の構成の部分をこの2人が中心となって担ってくれたことも大きく、時代の必然として1994年に満を持して生まれた申し子である。

罷り間違っても、「Gガンダム」は決して「異端児」「異色作」「突然変異」といった言葉で片付けてはならない作品なのである。

様々な細部に寓意されているガンダムファイトの滑稽さ


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ここから本題に入るが、実は本作には様々な細部の描写を通してガンダムファイトの愚かしさがガンダムシリーズらしく寓意されていることに気付かないだろうか。
その最たる例はドモンとサイサイシーの対決にしてサイサイシーのドラマの集大成として描かれる37話なのだが、個人的にこの話で一番引っかかったのはレインの描写である。
試合前にサイサイシーがドモンたちの元にやってきて予祝のように手料理を振る舞うのだが、そこでサイサイシーとアレンビーが生身でのファイトを行う。
この時レインは目を背けて子供じみたような拗ね方をし、「ファイターなんてみんな子供よ!」と断じるのだが、ギャグながら実に鋭い皮肉・風刺になっている。

本人にその意図はないであろうが、レインは作中屈指の「大人」の象徴として描かれており、ドモンたちガンダムファイターとは一線を画す存在だ。
メカニック・医者・代理ファイターまでこなすマルチスキラーだが、大人の常識と教養・学力を身につけている彼女はドモンたちの魂が理解・共感できない
そんな彼女が「お前も料理を習ったらどうだ?」なんてドモンに茶化されて怒ったのだが、レインにとってガンダムファイターは皆「ピーターパン症候群」である
これは序盤から一貫して持ち続けていた感性であり、戦闘狂に近いドモンたちのファイター魂なるものを恐れていたのではなかろうか。

また、レインだけではなく、第1話で出てきた刑事も「嫌な1年が始まった」と宣うし、東方不敗が一番ガンダムファイトを忌み嫌っていた。
東方不敗の場合は「ガンダムファイトそのもの」ではなく「ガンダムファイトを通じて起こる社会的・経済的な弊害」を忌み嫌い、そこからシャアよろしくエコテロリストに変貌する。
ドモンたち新シャッフルのメンツはそれぞれが個人の目標を果たそうとするのに精一杯であり、ガンダムファイトがどんなものかという実態の恐ろしさに気づいていない
39話でドモンは東方不敗とネオ香港裏の郊外にある廃墟と化した街を見て、ガンダムファイトの愚かしい実態を目の当たりにしたにもかかわらず、師匠の言い分が理解できないのだ。

つまり何が描かれているといって、本作は一見能天気で痛快な娯楽作の裏に、ガンダムファイトの滑稽さを通じて「オリンピック批判」とでも呼ぶべきものが寓意されている。

かの蓮實重彦も述べているが、オリンピックの裏には国家の利権や陰謀めいたものが複雑に絡んでおり、使途不明金として動く何億もビッグマネーがどうなっているかは語られていない。
そして観客たち一般大衆はそれに気づかず祭りと称して持ち上げぬくぬくと平和ボケした感覚で暮らし、その裏で環境問題をはじめとする様々な問題に気づかない存在なのだ。
「オリンピックは体にも悪い」との指摘がされているが、現実問題としてオリンピックはそれが開かれる度に人間の健康に害を与えるデメリットが少なからずある

それらを利用して私腹を肥やすウォンは正にその「既得権益に縋り付く政治屋」のカリカチュアとして描かれ、東方不敗はそんなウォンと癒着するズブズブの関係だ。
当然コロニーに住む者がリッチで地球に住む者が貧乏という『機動戦士ガンダム』(1979)の裏返しの構造もその寓意性の一環として相対化されたものである。
一見ド派手に切った張ったをやっているように見せておいて、代理戦争と称して開かれるオリンピックや「ゲーム感覚で開かれる戦い」の愚かさを皮肉ったのだ。
表面上の疑似的な熱血スポ根の奥底にとんでもない冷笑があることが一連の流れからも伺えるのだが、ここに気づかず本作を肯定ないし肯定することは東方不敗やレインの指摘する愚か者に相違ないであろう。

真の悪は身近にいるという90年代的な「見えない悪意」


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『機動武闘伝Gガンダム』という作品に1つ特徴的なのは真の悪が身近にいるという、いかにも90年代らしい「見えない悪意」の表象として描かれるウルベ・イシカワとミカムラ博士の存在だ。
彼らは前半の段階だと単なる「善人」としてしか描かれていないが、物語が佳境に差し掛かった折、シュバルツ・ブルーダーの口からレインとドモンにデビル事件の真相が語られる。
これ自体は五武冬史がよく用いる「どんでん返し」だが(代表は「ボルテスV」「ザンボット3」など)、本作の場合はそこで更に「善人と思えた奴が一番の悪人だった」という捻を入れた。
「ドラゴンボール」の人造人間編でも普通の青年の顔をした17号・18号こそが実はとんでもない悪人だったり、「パトレイバー2」でも悪人に見えないカメレオン顔の柘植が真犯人である。

また、実写映画でも北野武の「ソナチネ」に出てきた殺し屋は仰々しい悪人ではなく、普通の釣り師の格好をした冴えないおっさんであり、更に高橋も見た目は普通の青年の出で立ちである。
本作における「悪」の描かれ方は実に面白く、東方不敗マスターアジアやウォン・ユンファはどちらかといえば富野ガンダムの文脈を引きずったカリスマ型の巨悪の象徴であろう。
いかにも悪人として平気で人を利用し搾取することしか考えていないウォンとシャア・アズナブルのパロディにして富野監督のカリカチュアと思しき東方不敗マスターアジアは巨悪である。
そしてその下についているミケロ・チャリオットとジェントル・チャップマンらはあくまでもその巨悪に利用されている小悪党の縮図に他ならない。

そいつらはほぼ全てガンダムファイトを通じてドモンたち新シャッフル同盟に成敗されていったのだが、ウルベとミカムラ博士はガンダムファイトと無関係の文脈で自業自得の末路を迎える
ミカムラ博士は幾許か同情の余地がある、彼はカッシュ博士の才能に嫉妬しシャイニングガンダムの唯一の欠点までを言い当てられたことで、自分が矮小化された感覚に襲われたのだろう。
だが、ウルベに関してはそのような負の感情が不意に爆発したのではなく、東方不敗に破れてガンダムファイトの表舞台から去るしかなかった行き場のない気持ちをデビルガンダムで満たそうとした。
しかも己の野望のためにレインの罪悪感に付け込んだ挙句グランドマスターガンダムまで私物化してしまうのだから始末に負えない。

ガンダムファイトという舞台装置を通して、そこに様々な寓意を描いてきた「Gガンダム」という作品において、一番の敵は屈強なファイターではなく人間のエゴという負の感情だったのである。
まさにこれは富野ガンダムが一貫して描き続けてきたことであり、その意味で「Gガンダム」は正に富野ガンダムの遺伝子を濃く受け継ぐ子供の作品であることが分かるであろう。
90年代は個人的にも世間的にも激動の時代であり、既成の価値観・道徳・常識が通用しなくなる中で善悪や正義なるものも揺らぎ始めていたという記憶がある。
昭和時代の抑圧的な集団主義に歯向かうように超個人主義が台頭してきたが、その中で悪もまた規模が縮小化し、尚且つ不可視のものへと変質したのではないだろうか。

今まであまり指摘されてこなかったことだが、正に「Vガンダム」までの富野ガンダムと「Gガンダム」以降のアナザーガンダムで大きく違ったのはここである。
ドモンたち主人公側もウルベたち悪党側も肉体的な強さは圧倒的・破壊的でありながら、正義感や価値観は既存のどのガンダムにも似ていないものであった。
様々な掟破りを仕掛けた「Gガンダム」だったが、「アイアンリーガー」が切り開いたその先を行くことに成功し、見事に「脱富野ガンダム」を果たす。
その「脱富野ガンダム」がどのように果たされたのかというと、それこそが最終回の衝撃の結末であり、あの回があって初めて「Gガンダム」は完成する。

個人が国家と対等になった最後の展開

最終回でドモンの前に立ち塞がった最後の敵がウルベではなく、最愛のヒロインたるレイン・ミカムラであるという例は未だ嘗てない前代未聞の展開だった。
父親が犯した罪の意識を自分のこととして共感する彼女はドモンを愛するが故に身を引いたのだが、ドモンはだからこそ最後は告白によってレインの生を肯定せねばならない。
はっきり言ってラスト4話の展開に論理的整合性なるものはないし、ドモンがレインを救いに行く展開にもこれといった合理性はなく、ガンダムファイト優勝で終わりにしてもよかっただろう。
だが、あのラストをわざわざ描いたのはドモンとレインのハッピーエンドという物語上の意味だけではなく、もう1つの意味が蠢いていることを指摘せねばなるまい。

それが「国家と個人」の関係であり、東方不敗マスターアジアという大きな試練を乗り越え真のキング・オブ・ハートになったドモンはガンダムファイトに優勝しても虚無感しか残らない
優勝パレードに浮かれる一般大衆の愚かさと機嫌をよくするカラト委員長を見てドモンは気づいたに違いない、国家は決して個人を守ってくれないし幸福を齎してもくれないと。
ドモンの「何なら優勝も放棄してやろうか!」と飛び出すドモンにとってもはや国家やガンダムファイターとして戦うことそれ自体に意義など感じていない。
「優勝」という二文字にドモンは何の価値も見出せなかったし、国家の覇権だの地位だの名誉だのといったものにドモンは一切興味がないのである。

ドモンたちガンダムファイターは表向き国家の威信を背負ってガンダムファイトに望んでいるようだが、ナショナリズムやパトリオティズムといった「愛国心」があるわけではない。
だからドモンはデビルガンダムもウルベもグランドマスターガンダムも今更怖くはない、ただ一番大事な人であるレイン・ミカムラその人に拒絶されてしまうのが一番怖かった。
これは即ち「国家」と「個人」が完全に対等になった上で、ドモンは最終的に「個人の幸福」を追求しに行ったことを意味するわけであり、それが最終回のドモンとレインの告白の真意だ。
我々が石破ラブラブ天驚拳に感動するのは羞恥心でも2人が結ばれたからでもなく、富野ガンダムの呪縛の根幹たる「国家に翻弄される個人」を打ち破ったからである。

富野ガンダムは結局アムロからウッソまで、皆組織に利用されるだけ利用されて個人の幸福なぞ求められず、求めようとするととんでもない代償が必要だった。
現にアムロはセイラ・ベルトーチカ・チェーンと女性関係には恵まれていたのに、ララァのトラウマから逃げられず女性と結ばれることに幸福を見出せない。
だから最期はシャア共々アクシズの忌わしさと共に心中を選ぶしかなかったのだし、カミーユは精神崩壊で後の主人公も大体似たような末路を辿っている。
その「国家に個人が翻弄されるため、主人公が幸せになれない」というジンクスをドモンとレインが見事に打ち破り、国家と個人の関係はここで完全に対等になった。

それはカッシュ博士の「そしてどうやら宇宙の覇権なども一緒に消えたようだな」と感慨深げに呟くセリフからもわかることである。
命がけの戦いの末、ドモンたちは最終的に国家の覇権だとかまでをも打破したわけであり、そこまで描き切ったからこそ「Gガンダム」は歴代屈指の名作として残っているのだ。
単にガンダムファイトを1年通して描き切ったからというだけではない、富野ガンダムの呪縛をきっちり断ち切って次代に継いだことが何よりも素晴らしいのである。

そして『新機動世紀ガンダムW』(1995)へ


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以上が私なりの『機動武闘伝Gガンダム』論なのだが、ガンダムファイトを通してオリンピックを含む色んな意味での「戦い」への寓意を含みながらも、最終的には「戦うこと」を肯定した「Gガンダム」。
この「否定による肯定」ではなく「否定されてからの肯定による肯定」という圧倒的強者の理屈を用いたことで、ガンダムシリーズもようやく90年代への仲間入りを果たす。
そして本作のフォーマットを継承した『新世紀ガンダムW』(1995)ではさらにその先にある「国家が衰退し地球統一を目指す世界」という「ポストGガンダム」の話が描かれる。
国家同士の利権や価値観の相違で戦争が起こるのであれば、その国家を超えた1つの思想によって地球圏を統一してしまえばいいのではないかという発想だ。

だが、こういうのを唱える奴は大概自分が無自覚の正義を押し付けていることに気付かず、ヒイロたちは少年兵であるが故に命の重みが全く分からない人間味の薄い連中である。
そんな奴らが命がけの戦いの中でどうそれを乗り越えていくのか、国家と個人の関係がどうなるかを含めて描いたのだが、これはまた別の機会にしよう。
いずれにせよ、「富野ガンダムなるもの」の呪縛から解放され、シリーズをより相対化し国家と個人の関係性をきちんと見直し富野ガンダムと訣別したことは間違いない。
それこそ「水星の魔女」という歴代初の女性主人公だって、元を正せばこの「Gガンダム」がなかったら生まれていないのだから。

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