[童蒙訓]―巻上Ⅰ
1.学問は当に孝経・論語・中庸・大学・孟子を以て本と為すべく、熟味詳究して然る後に通して之れ詩・書・易・春秋を求めれば、必ず得るところ有り。既に自らの主張と做(な)り得れば、則ち諸子百家も長所として皆吾が用と為らん。
(訳文)学問は、「孝経」・「論語」・「中庸」・「大学」・「孟子」を中心に熟読詳究し、その後に「詩経」・「書経」・「易経」「春秋」を学び通せば、必ず得るところがある。こうしてこれらを持説の本とすることが出来れば、諸子百家にとってもこれが長所となり、自身の能力として用いることが出来るようになる。
(注釈)朱子は四書の中で先ず徳学の入門書として「大学」を挙げ、そして「論語」・「孟子」が之に次ぐと説いている。最も理屈っぽい中庸は最後ということになる。ここでは「孝経」が入り、五経の中の「礼記」が抜けているのはどう言うわけだろうか。
2.孔子以前は異端未だ起こらず。政ごとに汚隆有りといえども、教えに他説なし。故に詩・書に載るところは、ただ治乱大概を説く。孔子に至りてのち、邪説並び起こる。故の聖人は弟子と共に講学し、皆深切に顕明す。論語・大学・中庸皆究めるべし。その後に孟子も又よく之を推廣し発明すべし。
(訳文)孔子以前は異端の説は現れず、政治上の盛衰はあったとしても教えの上では他説が入り込むことはなかった。だから「詩経」・「書経」の内容も、治乱興亡の歴史のあらすじを記載するのみである。孔子後は邪説が続々と現れた。故の聖人は弟子と共に勉学に励み、皆誠心誠意を以てその究明に努めた。「論語」・「大学」・「中庸」みな究めるべし。その後に「孟子」もまたよく推考して解明すべし。
(注釈)孔子が活躍した春秋時代までは堯・舜の聖賢の教え一本だったが、その後春秋末期から戦国時代に掛けて諸子百家が現れ、乱世を乗り切るためのさまざまな思想が各地で一斉に花開く。無為自然を理想とする道家・兼愛説を唱える墨家・法刑を重視する法家など。
3.大程先生の名は顥、字は伯淳、進士を以て官を得る。正献公が中丞となり、これを朝に薦め用いて禦史と為すも新法を論じて合わず罷り去る。泰陵位に即き、宋正丞を以て召すも未だ命を受けず。家にて卒す。その門人共に諡して明道先生と為す。先生は嘗て董仲舒を、「その義を正して、その利を謀らず、その道を明らかにしてその功を計らず」として、聖人に並ぶと為す。仲舒の学の諸子を度越するものはこれを以てす。故に門人らは先生の学の基づくところを以て明道として、その誌(しるし)を表せり。
(訳文)大程先生、名は顥、字は伯淳、進士に及第して官職に就く。正献公が中丞となり、程顥を朝廷に推薦して禦史とした。しかし時の政府の改革論の新法に反対して、官職を去る。七代哲宗が即位して宋正丞の位を以て召すも、その命を無視。家にて死去。門人達は明道先生と諡した。先生は嘗て董仲舒を称して、「その義を正しくして、その利を謀らず。その道を明らかにして、その功を計らず」と云い、聖人に並ぶ人だと評し、仲舒の学問が諸人に勝る所以はここにあるとした。このことを以て門人達は、これが大程先生の学問の拠り所だとして明道と名付け、その思いを表した。
(注釈)程顥は北宋の理学の大家。周敦頤を師とし、その性格は温厚で実務にも優れた才能を発揮して、人は「通儒全才」と称賛した。その思想は「誠」を重んじ、「不仁」を憎むと云うものであった。正献公は本中の曾祖父、公著のこと。中丞は御史中丞(監察部署の次官)のこと。禦史は監察官。新法反対とは、王安石の施策に反対したこと。董仲舒は前漢(紀元前の王朝の名)時代の儒学者で、清廉潔白、高徳の人で、学問の窮理に一生を捧げた。泰陵は哲宗の本名、永泰陵のことで、宋人は常に彼を泰陵と称した・
4.小程先生の名は頤、字は正叔、進士に挙がるも殿試に中(あた)らず。再試しするも報われず。元佑の初めに、正献公は司馬温公と共に同薦し、遂に召されて用いられ、禁中に侍講す。旋(めぐ)りて又罷り去る。遂に再び用いられず。紹聖の中ごろ涪州に貶けらる。元符に洛に還える。大観の間に家にて卒す。学者はこれを廣平先生と謂う。後に伊陽に止まり、又これを伊川先生と謂う。二程先生は小(おさな)き頃より刻勵し、明道は要(もと)を推り聖学を以て己の任を為(はた)す。学者は蘼然としてこれに従う。当時これを「二程」と謂えり。
(訳文)小程先生、名は頤、字は正叔。進士を受験したが殿試の過程で失敗。再度受験するも又失敗。元佑元年に正献公や司馬光の推挙により、天子の侍講となる。やがて朝廷を逐われて去り、ついには再び用いられることはなかった。紹聖年間の中頃に涪州に左遷された。元符年間に洛陽に還る。大観年間に家で死去。学者は彼を廣平先生と呼んだ。後に伊陽に住まいしていたことから、伊川先生とも云う。明道・伊川兄弟の二程先生は、幼少の時から刻苦勉励した。明道先生は基本を重視し、聖学に従うことを己の務めとした。学者はみな彼の学風になびき従った。当時、程兄弟を「二程」と称していた。
(注釈)程頤は程顥の弟で、兄と同じく北宋の理学の大家。始め兄と共に周敦頤を師としたが、後胡安定(後述)の教えを受ける。その性格は兄とは反対に謹厳すぎ、非妥協的で同僚らとよく軋轢を生じた。朝廷を逐われたのもそこに一因があったようだ。その思想は、兄の素朴な学風とは異なり理詰めで、形而上学的発想の本体の「理」と作用の「気」を関連づけた「理気二元論」や「性即理」などの発想は宋理学の基礎を築くことになる。殿試とは、進士に合格した者を天子が自ら殿中で行う科挙の最終試験のこと。元佑は哲宗朝の元号(1086~1093)。司馬温光は北宋の儒学者で、宰相となり、旧法を復活した。司馬光のほうが有名か。侍講は、天子の君徳養成・啓発のために講義する官職。紹聖も哲宗朝の元号(1094~1098)。涪州は四川省の中の州。大観は北宋八代徽宗朝の元号(1107~1109)。伊陽は河南省の一地方。後半で兄程顥のことが語られているが、ここのところは前章節にまとめた方がすっきりする。ちょっとちぐはぐ。
5.二程は始めに周茂叔先生に仕えて窮理の学を為し、後に更に自ら光(ひろめ)て大と為す。茂叔の名は敦頤、太極図説有りて世に伝う。その辞は約なりと雖も、然るに印を用いた高遠なるところを見るべし。正献公が侍従で在りし時、その名を聞き、努めてこれを薦め、常調により転運判官に除す。茂叔は啓を以て正献公に謝して云う、「薄官に在りて四方の遊有り、高賢にして一日の雅も無し」と。
(訳文)二程は始め周茂叔先生に師事して窮理の学を修め、後にこれを更に発展させた。周茂祝の名は敦頤、「太極図説」を著してこれを世に伝えた。その説くところは簡約で、図式化したものだが、高遠にして見るべきものがある。正献公が侍従であった時、その名を聞いて彼を強く推挙して、常調に従って転運判官に任官させた。茂叔は上申書を以て正献公に次のように謝意を示した。「私は薄官ではありますが、雅遊に親しむことができます。あなたは高賢の身でありながら、雅遊に親しむ暇もありません。誠に申し訳なく、感謝いたします。」と。
(注釈)周茂叔は「太極図説」を著し、儒学道統の先駆者として位置づけられている。「太極図説」とは、太極、則ち宇宙の根本を図解し、万物の発展過程を明らかにしたもの。窮理の学とは、物事の道理・法則を明らかにする学問。常調とは、昇進法の一つ。転運とは地方の民政を掌る役職で、判官はそこの属官。雅遊は詩文・書画・音楽などを嗜むこと。
6.張戩天棋と弟載子厚は関中の人にして、関中ではこれを二張と謂う。徳行を苟(なおざり)にせず、一時師表となる。二程の表叔なり。子厚は聖学を推明し、亦た二程により資するもの多し。呂大臨は叔兄弟と興に後来す。蘇昞ら皆この学に従う。学者は子厚を称して横渠先生と為す。天棋は之れ禦史と為るに、正献公の薦めを用(もち)いた。二程と横渠、従学の者既に盛ん。当時亦その学を名付けて張程と為す。
(訳文)張戩天棋と弟載子厚は陝西省関中の出身。関中では彼らを二張という。徳行を等閑にせず、一時世人の手本となっていた。二程子の叔父である。子厚は儒学を推考究明したが、二程子に教えられる処多大なものがあった。呂大臨と二張は遅れてきたが、蘇昞ら皆程門に学んだ。学者は子厚を称して、横渠先生と呼んだ。天棋は禦史となり、正献公の推薦を受けた。二程と横渠共に従学する者多く、当時その学問を名付けて”張程”と呼んだ。
(注釈)張戩天棋は、宋史では張載の弟になっている。その性格は老人に尽くし困窮者を助けるなど、誠心誠意人を愛すると云ったものであった。呂公著を助けて王安石の意向に反対し、監察御史から左遷され、地方の県知事となって、現職のまま47歳で没した。その学識については詳らかではないが、二程らとの存養などにに関する論議の記録が散見される。張載子厚は張横渠のこと。その性格は豪快で兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが范仲庵と出会うことにより儒者に転じた。その後甥の二程子の思想に感銘を受け、門人達を二程子に預けたという。地方官を歴任後朝廷に召されたが張戩と同様に王安石の政策に反対して辞職し、晩年は読書と思索に没頭し、78才で没した。その思想は、「易経」・「中庸」を拠り所として、「気」一元論を展開した。また人間性を「気質」と「本然」の両面から観察し、道・仏の二教を排斥して儒教の独立性に努めた。聖学は文字通り聖人の説く学問で、ここでは儒学のこと。呂大臨は呂氏一族の出で、夷簡と同世代で傍系八十八代目に当たる人物。程門の四先生(謝良佐・游酢・楊時と大臨)の一人で、また大忠・大防・大鈞兄弟と共に藍田呂氏四賢とも云われた賢才。蘇昞とは蘇季明のこと。始め横渠に従って学び、後に伊川の処へ来た人。横渠の門人としては、呂大臨に後れを取っていた。
7.榮陽公年二十一(一説では十九)、時に正献公太学に入らしむ。胡先生の席下にありて、伊川先生と斎(へや)を隣る。伊川は榮陽公に長じること才(わずか)に数歳なるも、公は其の議論の大異なるところを察し、首(はい)して師の礼を以てこれに事う。その後楊応之国賣、邢和叔恕左司公待制ら皆師として之を尊ぶ。自後学者は遂(みち)て衆(おお)し。実に榮陽公より之を発す。
(訳文)榮陽公が二十一歳(一説では十九歳)の時に、正献公が彼を太学に入学させた。胡先生の下で、伊川先生と部屋が隣同士であった。伊川は榮陽公に長じること僅かに数歳であったが、榮陽公は伊川の議論の非凡なことを察し、跪いて師の礼を以て彼に仕えた。その後、楊応之国賣、邢和叔恕左司公待制ら皆、伊川を師として尊んだ。それからは学ぶ者が伊川の本に充ち満ちた。実に之は榮陽公より始まったことである。
(注釈)太学は紀元前漢朝時代に、官僚養成学校として作られたもので、隋代以後国子監と呼ばれた。胡先生とは胡瑗のことで、安定先生とも呼ばれ、儒学者でその教育方法の特異さで有名。(後述)7歳で文章を書き、13歳で五経に通じ、太学で教鞭を執ると共に明体達用の学や性命説などを唱えて、朱子学の先駆となった。楊応之国賣については後に出てくる。邢和叔恕は、字が和叔。若い頃二程に師事し、進士合格後官人として活躍するが、王安石の新法改革に反対して左遷されたり、また復職したりして過ごす。幼少より多くの書籍に親しみ、また多くに典籍に精通し、古今の事績に詳しく、しばしば立て板に水の如く流ちょうに弁舌を振ったという。戦国時代の縦横家のような気概の持ち主でもあった。また目的のためには手段を選ばぬと云った一面も有り、その為か宋史には姦臣として名を連ねている。近思録存養の中にもその名が見られる。
8.関中に始め申顔なる者あり。特立独行して人皆之を敬う。出行して市を肆(ほしいまま)にし、人皆之が為に起ち、従いて之に化する者衆(おお)し。その後二張が更に大いに学問の淵源を発明す。伊川先生嘗て関中に至り、関中の学者は皆之に従って遊び、恭を致し礼を尽くす。伊川、洛中の学者の及ばざる事を嘆けり。
(訳文)関中に始め申顔という人が居て、人より抜きん出ていたので人々は彼を敬い、彼は街に出て行き町中を取り仕切っていた。人々は皆彼に奮い立たされて同化する者が多かった。その後二張が更に努力して学問の根源を明らかにした。伊川先生が或る時関中を訪れる事があって、関中の学者は皆彼に従って交遊し、恭意を示し礼儀を尽くして応対した。伊川は、関中の学者に比べて洛陽の学者の愚かさを嘆いたという。
(注釈)申顔なる人物は後にも出てくるが、詳しいことは解らない。そういう人物から二張も影響を受けたという話であろう。関中は函谷関の西側の地域。洛中は洛陽のこと。
9.伊川先生、嘗(かね)てより楊学士応之の江南に在るを知り、常に称するには「其の偉度高識の人に絶(まさ)ること、遠く甚だし」と。楊学士は是の時猶未だ伊川を師とせず。
(訳文)伊川先生は、以前から学士の楊応之が江南に住まいしていることを知り、常に彼の偉大な高識ぶりが人にかけ離れた素晴らしいものだと称していた。楊学士はこの時まだ伊川の弟子ではなかった。
(注釈)江南は長江南岸一帯の地方のこと。
つづく
18/09/01 08:05
カテゴリー:童蒙訓