「大きな事件とも知らずに、またカムチャッカの白雪(ハクセツ)の冷たさも知らずに、一人の少女を八寒地獄に落としてしまった」・・・
叱責とも後悔とも取れる述懐の後、あたかも、遠い地にあるゆきちゃんに思いを馳せるかのように、作者は次のように呟くのだった。
モウ春、三回迎エタコトニナル
サカイノ クスリヤの居たトコロデハナイカ トオモウ。
(もう春、三回迎えたことになる。サカイの薬屋の居たところではないかと思う)
ゆきちゃんが行方不明になったのは、1991年3月。
怪文書が投函されたのは、その3年後の1994年春のことであり、
「モウ春、三回迎エタコトニナル」
とは、
「ゆきちゃんが行方不明になってから、もう3度目の春を迎えてしまった」
ということで間違いはないと思うが、
気になるのは、この述懐には、なにか呆然とした響きがあるということで、そこには、
「あれからこうして我々には梅や桜の季節が3度巡ってきた。しかしゆきちゃんには、未だに春が訪れてはいない」
という現実を前に愕然とする、作者の思いが込められていたのかもしれない。
問題は、次の一節だった。
サカイノ クスリヤの居たトコロデハナイカトオモウ。
「堺の薬屋の居たところではないかと思う」
この表記で、おそらく間違いない。
意味深な一言だった。
「堺の薬屋」とは何か?
これについては、
「薬(クスリ)」=「シャブ(覚せい剤)」
「薬屋(クスリヤ)」=「暴力団またはシャブの売人」
と解し、そこから「堺の薬屋」を、
「大阪府堺市に本拠を置く暴力団」
「大阪府堺市をベースに活動しているシャブの売人」
として、推理を展開する説もある。
しかし、なぜかあまり注目されていないようなのだが、私にはほぼ決定的と思える説があった。
「堺の薬屋」=「小西行長」
と解する説だ。
日本史、特に戦国~安土桃山期に興味のある人なら、「堺の薬屋」と聞けば真っ先に「小西行長」の名を思い浮かべる人も、少なくないのではないだろうか?
最近では、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に登場したこともあり、その名を聞いたことのある人も多いのではないかと思う。
小西行長(1558~1600)は、堺の薬問屋の息子という身分から武士となり、秀吉の家臣として功を上げ、大名にまで成り上がった人物だ。
「あの堺の薬屋めが」
「薬問屋の小倅(こせがれ)めが」
同時代のライバルだった加藤清正をはじめとする武将たちは、行長の出自を揶揄しつつ、こう陰口を叩いたという。
その様子は、歴史小説などにも描かれている。
「薬屋で、何が悪い?」
そんな反発心もあってか、行長は、「文禄・慶長の役」で先鋒として出陣した際、薬袋(紙袋)に朱の丸を描いたものを、自軍の軍旗として使用したという。
この役(えき)における行長の転戦の様子は、ウィキペディアにも詳しい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
文禄元年(1592年)6月15日、行長の部隊が、
どこの国の、なんという場所を制圧したかは、調べてみる価値はあるかと思う。
いずれにしても、
「堺の薬屋(サカイノクスリヤ)」=「小西行長」
だとすれば、この怪文書の作者は、失踪したゆきちゃんについて、
「小西行長が居たところに、移送されたのだ」
と考えていると見ることができる。
では、「小西行長が居たところ」とは、どこを指すのか?
これについては、行長の誕生から死に至るまでの足跡を辿れば、様々な解釈が可能だと思う。
解釈するに当たっては、
「ソレガ大きな事件トハシラズニ(それが大きな事件とは知らずに)」
という作者の言葉も、参考になるかもしれない。
ふと海の向う側に視線を移すかのように、作者はこう続けていく。
○ ダッタン海キョウヲ、テフがコエタ、コンナ平和希求トハチガウ
ミユキノハ丶ガカ弱イハネヲ バタバタ ヒラヒラ サシテ
ワガ子ヲサガシテ、広いダッタンノ海ヲワタッテイルノデアル
(ダッタン海峡を、てふが超えた。こんな平和希求とは違う。みゆきの母が、か弱い羽をバタバタヒラヒラさして、我が子を捜して、広い韃靼の海を渡っているのである)
「ダッタン海キョウ」とは、「韃靼海峡(だったんかいきょう)」=「間宮海峡」のこと。
間宮海峡とは、北海道の北、樺太島(サハリン島)の北部とロシア・ハバロフスク地方との間にまたがる海峡のことだ。
この海峡を、「テフがコエタ」というのだが、「テフ」とは「蝶(ちょう)」の旧仮名遣いであり、すなわち、「テフがコエタ」とは「蝶が超えた」となる。
これは、明治31年生まれの詩人・安西冬衛の「春」という一行詩、
「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」
から引用した表現と思われる。
(一行詩「春」は、安西が昭和4年に刊行した詩集「軍艦茉莉」に収録されている)
安西冬衛は、奈良県生まれの大阪府堺市育ち。
大正8年から約15年間、満州(大連)で過ごした後、昭和9年に帰国。
それ以降、昭和40年に67歳で死去するまで、堺市に定住した。
一行詩「春」は、堺市の戎公園(ザビエル公園)にも、その詩碑が建立されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%A5%BF%E5%86%AC%E8%A1%9B
「てふてふ」という言葉からは、丸さ、柔らかさ、軽やかさ、小ささなどが連想され、一方で「韃靼海峡」からは、垂れ込める暗雲の下、猛り狂う極北の黒い海が連想され、二つの語句の音的、視覚的コントラストも鮮やかと評されるこの一行詩だが、怪文書の作者は、
「コンナ 平和希求トハチガウ」
ゆきちゃんの件は、そんな詩のような、悠長な話ではないのだという。
ではどんな話かというと、
「ミユキノハ丶ガカ弱イハネヲ バタバタヒラヒラ サシテ ワガ子ヲサガシテ、広いダッタンノ海ヲワタッテイル」
(みゆきの母が、か弱い羽をバタバタヒラヒラさして、我が子を捜して、広い韃靼の海を渡っている)
のだという。
その意味するところは、
「ゆきちゃんの母が、光明の無い中を必死にもがきながら、我が子を求めて、絶望的な探索を続けている」
ということかと思われる。
ここで、「平和希求」とは聞きなれない言葉だが、昭和20年代ごろには、よく使われたらしい。
「平和を求める」くらいの意味だろうか。
怪文書の作者は、この「てふてふ」の詩を、「平和希求の詩」として習ったのかもしれない。
女児やその家族をこれほどまでの生き地獄に落としておきながら、
股割れは平気なそぶり
時ニハ 駅のカンバンニ眼ヲナガスコトモアル。
一片の良心ガアル、罪悪ヲカンズルニヂカイナイ
ソレヲ忘レタイタメニ股を割ってクレルオスヲ探しツヅケルマイニチ
(股割れは平気なそぶりでいる。時には駅の看板に目を流すこともある。股割れにも一片の良心はあろうから、罪悪感を覚えているに違いない。それを忘れたいがために、股を割ってくれる男を捜し続ける毎日だ。)
ここにいう「駅のカンバン(駅の看板)」とは、
「失踪した加茂前ゆきちゃんの情報を求める、駅の立て看板」
のことだと思われるが、これに続く自問自答は、やや唐突な感があった。
股ワレワ ダレカ、ソレハ富田で生レタコトハマチガイナイ
(股割れは、誰か? それは富田で生まれたことは間違いない)
この微妙に間の抜けた自問自答に不自然さを見てとるなら、もしかすると作者は、「股ワレワ ダレカ」の直後に、具体的な個人名を暗示するワードを忍び込ませているということも考えられる。(ここはすでに論じたので割愛します)
作者は続ける。
確証ヲ?ムマデ捜査機官に言フナ
キナガニ、トオマワシニカンサツスルコト
事件ガ大キイノデ、決シテ イソグテバナイトオモウ。
(確証をつかむまで捜査機関に言うな。気長に、遠まわしに観察すること。事件が大きいので、決して急ぐ手はないと思う)
「確証を?むまで」となっているが、ここはほとんどのサイトで、「確証を掴むまで」と表記されているので、それに倣わせていただいた。
「確証を掴むまで捜査機関に言うな」
「気長に、遠まわしに観察せよ」
と助言しているが、逆に言えばこれは、
「気長に、遠まわしに観察すれば、確証をつかみうる人物だ」
「犯人は、あなた方から観察可能な人物だ」
と言っているとも読み取れる。
ゆきちゃんは、飲みかけのまだ温かいココアを残して失踪した。
その状況下で彼女を連れ出し得た人物とすれば、当然、彼女の周辺人物(遠まわしに観察可能な人物?)も、候補にはなるのかなと。
そしてここでも作者は、
「事件が大きい」
と言っている。
「だから決して、急ぐ手はない」と言うのだった。
この助言を、「親切心から出たもの」とすれば、この箇所は、
「事件が大きいので解決は難しいが、ゆきちゃんは連れ去られはしたものの、殺されてはいない。だから、まずは落ち着いて、腰をすえてかかれ」
と言っているようにも見える。
逆にこの助言(?)を「悪意から出たもの」だとすれば、それは、
「ゆきちゃんの両親に諦めの気持ちを生じさせるための、(真犯人による)陽動作戦だ」
と見ることもできる。
どちらにとるかは、解釈の分かれるところかと。
その10へ。