批評でもっともやっちゃいけないのに、批評でもっともやってしまうのが、
「てめぇが勝手に決めたルールで語る」
ということだ。
僕も一時期批評を連載していたが、周りがこんなバカばかりになったので、同類に思われたくなくて辞めた。
「俺ルール」で批評することほどくだらないことはない。
例えば僕が「作品には一回はキスシーンがないと絶対認めない!」とする。
しかしそれはてめぇの好みであって、「この作品にはキスシーンがないじゃないか!駄作!」と公に酷評してしまうのは、誰の目から見ても愚の骨頂である。
作ってる方はたまったもんじゃない。
しかし、皆やってしまうのだ。
かの柳下毅一郎はよりにもよって、僕の『私の優しくない先輩』を、
「綺麗な夕焼けのシーンと言っているのに太陽が映ってない!バカか!」
と批判した。
知らんがな。
くっきりした太陽が見えなければ夕焼けじゃないと言うなら、やっすいアニメでも観ておけ。
映像感覚が著しく欠如している。
実は宇野さんにもこの傾向がある。
自分の語れる範囲で作品を判断し、語れないレベルに達した途端に酷評し始めるのだ。
彼の高畑勲論でこれは顕著だ。
こうした「俺ルール」によって、あたかも映画やアニメを牛耳っているような錯覚に陥るのが、一番良くない。
お前はルールブックじゃない。
作品はお前の恣意的なルールに従う必要など、どこにもない。
この程度のことが解らない限り、日本の映画批評は地に堕ちたまま決して信頼回復することはないだろう。










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だから淀川さんは
その理由は、俺ルールで批評しないと言う意味だと思う。批評はどうしても自分の見える範囲しかできない。しかしそれがすべての世界のルールであるかどうか確かめる術もない。もし完璧を求めるなら、自分の見える範囲のことしかいえない。褒めてもけなしても、結局は俺ルールになる。でも批評の社会性を考えると、褒めることは、その作品の助けになる。
淀川さんが褒めれば、客が入るからだ。
という事で、淀川さんは褒めることしかしなかった。良くない作品は何も語らなかった。
これができる批評家は少ない。
fujimotokaede
2019-05-19 11:46:38
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