心地の良い風が肌を撫でる。
一定のリズムで足を進めていくシルヴァ・ダンスの上に跨るクロカはゆっくりと流れていく、また違ったカイナの光景を目に焼き付けていた。
まるで空を飛んでいる様で、そしてその空中の中を散歩する様に向かっているような感覚。
自身の足でもなく、車に乗っている訳でもない。
馬上と言う何とも言えない、感慨深い感覚にその表情は明るかった。
「…綺麗」
見慣れた筈の光景だと言うのに。
ちょっと視点が違うだけで見える光景はこんなにも違うのか。
再度認識する様にクロカはカイナ地区特有の自然の美しさに感嘆の声を漏らす。
完全とは言えないが鬱屈とした気持ちが少しだけ晴れていき、重たかった心が軽くなっていくのを感じ取っていた。
「この地区は少しだけ前にいた場所と似ている。自然が多い所とか特にな」
ふとしたタイミングでシルヴァ・ダンスの手綱を握っていたタキトゥスがそのような事を口にした。
少し遠くを見れば町がある。けど町の周囲の広がるのは草原や森などといった自然。
何処となくあの時代の、あの場所に似ていたのをタキトゥスは感じられずにはいられなかった。
「そうなんですか?」
そんな事を口にしたタキトゥスにクロカはそう問う。
キヴォトスという世界に生まれて早十数年。
自身の知らないキヴォトスの外というのを知りたかったのか、その声はやや好奇心に満ちていた。
「ああ。舗装されていない道を馬でよく駆け抜けていた。日が暮れたら適当な所でキャンプを設営して、野宿していた時もあった。河川や湖を見つけた時は釣りをしていた時期もあったな」
「それはそれは…。タキトゥスさんも釣りをするんですね」
「気が向いた時や色々あった時にはな。…まぁ、釣りは上手い方じゃなかったがな」
風が吹く。
さっきと同じ、緩やかで心地よい風が。
会話はそこで途切れ、二人はそよ風が吹く静かな時間を楽しむことにした。
道行く道を進み、架けられた橋を越えていく。
翼を広げて羽ばたく鳥、少し離れた場所から聞こえる川のせせらぎ、風で揺れる草木の音。
それらが奏でる自然の音はこの時間を楽しむ二人に心地よさを与えた。
今だけ、流れる時間がゆっくりになっているのではと錯覚してしまいそうになる一時。
向かう場所など無い。そこにある道を歩むだけ。気が向いたら違う道を進むだけ。今はそれだけで良いのだ。
空は青々と広がり、雲一つない。自然に囲まれたカイナ地区で流れる静かな一時。
「タキトゥスさん、あそこへ向かってみませんか?」
程なくして、クロカがとある方向を指さした。
歩いている道から別へと繋がる道。
やや長く続く丘の先。そこに佇む小さな岩山へと向かって指を指していた。
一見何の変哲もない岩山だが、その場所はタキトゥスにとっては、ある意味思い出の場所とも言えた。
「ああ、いいぞ」
特に断る理由は無い。
クロカの頼みを快く引き受け、タキトゥスはシルヴァ・ダンスと馬上のクロカと共にその方向へと向かう。
つい先ほどまで平坦な道だったが、勾配の緩い丘が近づいてくる。
とは言え、苦にならない程度の坂。手綱を握るタキトゥスも主人の後をついていくシルヴァ・ダンスも坂を難なく上っていく。そのまま坂を上り切った辺りでタキトゥスは足を止めた。
「ここで待っていろ」
握っていた手綱を近くの木につなげて、シルヴァ・ダンスに待機する様に伝えるタキトゥス。
馬上から降りるクロカの補助をした後、二人は岩山の近くにある道の形をした足場へと向かっていった。
岩山の周りを迂回する様に続く足場。しかし大人と子供が横になって歩いても十分な広さが確保されている。
とは言え、落下防止のための柵など無いため転倒しないように気を付けなくてならないのは分かり切った事。
それに留意しながら二人は奥へと進んでいった。
そのまま進む事、数分。二人は今まで進んできた足場よりも十二分に広い場所へと出た。
「いつ見ても綺麗ですね」
風で靡く髪を抑えながら、そっと掻き分ける様にして後ろへと追いやるクロカ。
彼女の目に映るは、大空の上に立っているのではと思いたくなる程に大きく広がったカイナ地区の光景。
それでもその全体は見通せない。
それほどまでにこの地区は、いや…このキヴォトスの大きさが伺い知れるだろう。
「ここはハルノが教えてくれた絶景スポットなんです。ここから見る朝日は凄く綺麗だから、と教えてくれたんです。凄く綺麗だからお互いに都合がいい時を見つけては来てました」
「……」
「あの時は私からハルノを誘って、朝日を見に行こうしていたんです。…まさか、そこで倒れたまま動かずにいる大人の男性と出会う事になるとは思いませんでしたが」
「…今となっては昔の事の様に思えるな」
苦笑交じりにタキトゥスは思い出す。
あの美しい朝日をその目に焼き付ける様に、静かに息を引き取ったあの場所。
確かに死んだ筈の彼は、どういう訳かこのキヴォトスに流れ着いた。
カイナ地区という場所で、生前の最期の場所と何処か似たこの場所で倒れ伏したまま。
そして出会ったのだ。この場所で元木ハルノと落合クロカ…その二人の少女達に。
「凄く驚きましたよ。もしかしたら…と嫌な事を思わなかった訳ではありませんし。でも、その事もタキトゥスさんの言う通り、昔の事の様に思えますね」
「二人には本当に感謝している。何も知らない俺に色々教えてくれたからな」
「でも楽しかったです。ハルノと一緒にどうしたら分かりやすく教える事ができるかと話し合った時もありましたし。分かりやすく教えるにはどうするかを学ぶ機会にもなりましたから」
「授業料は払った方が良いか?」
「こうしてくれているだけで十分払って貰っていますから、大丈夫です」
クロカの台詞に、そうかと答えて小さく笑みを浮かべるタキトゥス。
今こうしていられるのは、クロカとハルノが居てくれたからこそとも言えるだろう。
もしこの二人以外に出会っていなかったらどうなっていたのかと思うと、生前の運の無さも相まって碌な目に遭っていないと言い切れる自信は彼にはあった。
そう言い切れるほどに、初めての出会いが二人だったのが大きかったのだ。
「…あの洋館でタキトゥスさんとアルさんが助けたトリニティの生徒、覚えてますか?」
それから暫く沈黙が流れた後の事だった。
話題はあの洋館で助けたトリニティの生徒の話へと切り替わった。
「ああ、覚えている。あの生徒とは知り合いだったのか?」
「…いえ、初めてお会いする方でした。ただ彼女の所属校に少し関わりがあるんです」
トリニティと呼ばれる学園に何かしらの関わりがあるクロカ。
両者の関連性がどのようなものなのかタキトゥスには見出せなかった。
あまり多くを知らない身。考えた所で空回りするだけと思ったのか、彼は思い切って尋ねる事にした。
「良かったら聞かせてもらえないか?無論、嫌じゃなかったらで良いが」
「ここまで言っておきながら、何でもありませんと言う気はありませんよ」
笑みを浮かべた後、クロカはそこから一望できるカイナ地区を見つめながら静かに口を開いた。
「もう一年になるのでしょうか…。私がトリニティ総合学園からカイナ農場学園に入学したのは」
「トリニティ総合学園…そこの生徒だったのか?」
「はい…ほんの僅かに在籍していた程度ですけどね」
未だにトリニティという学園がどういった所か分からない為、今のタキトゥスにはどのように反応するべきか、少々困り果てた。
その声色から感じ取ったのか、クロカは簡潔にトリニティという学園がどういう所かを説明した。
「分かりやすく言えばお嬢様学校と言うべきでしょうか。それなら何となく想像がつくかと」
「成る程。しかし只のお嬢様学校じゃない気がするな。直ぐトリニティとやらを離れたのは何か理由があるんだろう?」
「ええ。優雅で、気品があって教養がある…そんなお嬢様学校ですが目に見えない所では派閥争いや陰湿な虐めが多かったのです。当然それを取り締まる所も存在していましたが…私にはそんな学校生活が苦痛でしかなかった」
(…ある意味、サンドニみたいな所だろうか)
見てくれは立派な建物や身なりが整った住人が多かったサンドニ。
しかし少しその裏を知れば、サンドニという街がどのような街なのか嫌でも知ってしまう。
タキトゥス自身もサンドニと言う街には良い思い出も、良い感情を抱いた事も無い。
沼とこびりついた汚れ、貧困に根が腐った上流階級の連中、偽善と嘘の吹き溜まり。文明社会を再現した街。
(…それでもシスターとブラザーは善人だったが)
あの街に居た全ての住人が悪人だった訳じゃない、無論良い連中も居た。…変な奴も居たが。
とは言え、悪い部分が余りにも目立つ。
あそこまで気分が悪くなる様な街はそう無いと言い切れる自信がタキトゥスにはあった。
「無論善良な人もいます。だけど学外からは見えなかった悪い部分が余りにも目立ち過ぎた。それに嫌気がさして、即座に退学届を出したのは良く覚えています。無論カイナ農場学園とも事前の打ち合わせをした上での行動ですが」
「理性的だな。普通はそこから一秒でも早く出ていきたくて何も考えず行動しそうなものだが」
「学籍が無いのは身分が無いと同じ。そう言った在籍していない期間を無くすためには、そうする他なかったのです」
「成る程な」
学校に属している事がそこまで大きな意味を持っているとは思わなかったものの、このキヴォトスが学園都市と言われているというのを思い出して内心驚きつつも何となく納得するタキトゥス。
「途中編入という形でカイナに入学する事になった訳ですが、トリニティからの編入生という事もあって周囲は何処か一歩引いたような感じでした。無理もないなと思っていた時、彼女…ハルノは私に声をかけてくれたんです」
「物怖じしないのはアイツらしいな」
「ええ。それからはというものの、私はハルノと行動する事が多くなりました。気付けば自然と周りの学友とも仲良くなり…ハルノが居たからこそ、今の私が居ると言っても過言ではないかもしれませんね」
トリニティの落合クロカではなく、今の落合クロカを作った存在。
それ程までにクロカの中でのハルノの存在は大きいと言えるだろう。
そんな存在が、此処には居ない。心無き者達によって、何処かに連れ去られたのだから。
「…これからも手を貸してくれますか」
その言葉が何を意味しているかをタキトゥスは理解していた。
不安に加えて、捜索が打ち切られてしまうのではないかといった恐怖。
いずれ頼れる人物が居なくなってしまう様な…先の見えない不安から出たものだと。
「ああ。必要なら手を貸すさ」
迷いはなかった。
一人の大人として、自身の抱える贖罪を二の次にして、タキトゥスは迷う事無く答えた。
「…良かった」
心底安心したように、それを表現するような笑みを浮かべるクロカ。
胸の内にあるわだかまりが一気に晴れていくような感覚が彼女を襲う。
思わずその場で座り込んでしまいそうになる位の脱力感。それでも彼女はそれを表に出さないように耐えた。
「そろそろ戻りましょうか。…このままタキトゥスさんの家で休んでも良いですか」
「ああ、構わないぞ。…戻ろうか」
十分に気晴らしは出来た。
今はクロカを休めるのが先決と判断したタキトゥスは彼女と共にシルヴァ・ダンスの元へと向かうのであった。
その日の夜。
相当疲弊していたのかソファーで眠ってしまったクロカを傍目にタキトゥスは朝から出かけていた便利屋68と会話を広げていた。
とは言え、その会話は和気藹々としたものではない。
強いて言うのであれば、報告会とでもいうべきだろうか。少なくとも笑みが出てくる様なものではなかった。
「少し気になって、あの洋館に転がってままのパワーローダーを調べてきた。…予想通りと言うのかな、今回の一件に何かしらの勢力が付いているのが間違いないね」
「そいつの正体は分からないままか、カヨコ」
「うん。ご丁寧な位にそれに関する情報は消されてた。相当用心深い感じ」
「そうか…」
だが、何かしらの存在が居る事が明らかになっただけでも一歩前進といった所だろう。
便利屋68は何も得られなかったことに少し申し訳なさそうな感じをしていたが、タキトゥスはそれに関して糾弾するつもりはなかった。
この情報を得られただけでも大きいのだ。糾弾する理由が何処にもなかった。
「ひとまず此処までにしておこう。…お前たちはそのまま休んでてくれ」
「分かった。先に寝るね。…おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
情報は得られたと言えど、事態は進展しないまま。
このままでは良くないのは分かっているものの、手立てがない。
やるせなさを感じながらも、タキトゥスは静かに戸棚から取り出したウイスキーボトルを手に、晩酌を始めるのであった。
それから翌日の事だった。
タキトゥスと便利屋68に対して、ハヅキからとある情報は寄せられた。
最もそれは事件に関する事ではない。だが、その情報を耳にした瞬間、アルは白目を剥いてしまった。
そんな風になる事か、とそう思ってしまったタキトゥス。
だが彼は知らない。
──ゲヘナ学園の風紀委員長がカイナ農場学園に来ている──
カイナ農場学園に来訪した人物が、ゲヘナの生徒にとって何を意味するかを。
「…例の連中、しくじったみたいだな」
「はい。カイナ農場学園の生徒に、ゲヘナ学園の生徒…あの便利屋68の姿もあったみたいです。…どうされますか」
「所詮は田舎の学校の戦力…恐れるほどではない。だがその便利屋は厄介だな。……匿名で風紀委員会に情報をリークしろ。確か便利屋共は他の場所でも問題を起こしていたな」
「ええ。ビル爆破に関わっていたと聞き及んでいます」
「ならそれを理由に情報を流せ。…それでこのままアイツらにはこの地区から出て行ってもらおうではないか。…もしかすればあのゲヘナの最強が出向いてくるかもな」
という訳でクロカに関する事を少し明かせたかと思います。
さぁて…お次はどうなるか。ではではノシ