B甲板の船室の蔭で、あなたが手摺に凭れかかって、海を見ているところを(Bookレビュー)
名著には、印象的な一節がある。 そんな一節をテーマにあわせて書評家が紹介する『週刊新潮』の名物連載、「読書会の付箋(ふせん)」。 今回のテーマは「航海」です。選ばれた名著は…? *** 昭和の戦前、日本から海外に行くには、飛行機はまだ普及していなかったから船が普通だった。 田中英光の「オリンポスの果実」(昭和十五年)は昭和七年のロサンゼルスでのオリンピックにボートの選手として参加した「ぼく」の物語。 作者自身が早稲田大学のボートの選手だったときの体験を元にしている。 横浜から日本郵船の大洋丸という船でハワイを経由してまずサンフランシスコに向かう。大洋丸は第一次大戦後、敗戦国ドイツから賠償として得た船。 船旅は長い。選手団には女子選手も加わっている。そこにロマンスが生まれる。 「ぼく」は、熊本秋子という走り高飛びの選手にほとんどひと目惚れをする。 「その晩、B甲板の船室の蔭で、あなたが手摺に凭れかかって、海を見ているところを、みつけました」 「ぼく」は「あなた」に恋をする。といっても船内での恋愛はご法度。遠くから眺め続けるしかない。 この小説は全篇、「ぼく」の「あなた」への憧憬が書きこまれた、日本の近代文学でも稀有なプラトニックな恋愛小説。 「ぼく」の「あなた」への想いは閉ざされた船内でのこと。いつしか先輩たちに知れ、からかわれ、純情な「ぼく」は傷つく。 結局、長い船旅のあいだ二人はわずかな言葉をかわしただけ。 最後、「あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか」と結ばれる。戦前の青年は純情だった。 [レビュアー]川本三郎(評論家) 1944年東京生まれ。文学、映画、漫画、東京、旅などを中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『成瀬巳喜男 映画の面影』、『「男はつらいよ」を旅する』(共に新潮選書)、『マイ・バック・ページ』、『いまも、君を想う』、掌篇集『遠い声/浜辺のパラソル』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』、『叶えられた祈り』(共に新潮文庫)などがある。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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