侍の思想と百姓の思想──ネット民のための丸山眞男入門(ンジャメナ)
見出し画像:福本伸行『最強伝説黒沢』6巻より
◆はじめに──文系のボンクラ
……数学の実力がないには我ながら呆れている。代数の試験などと聞いたら殊に身震する。
実際、僕ほど徹底した非理科的な人も少ないだろう。代数、幾何、物理、化学……一つとして満足にできるものはない。物理化学などはあきらめたが、代数幾何などはまだまだこれから当分ある重要学科だ。ゆえに「受験」などという事を全然離れても、この夏に数学を大いにやるべき要があるのである。
ところが妙な癖があるもので、数学ができなくても頭必ずしも鈍ならずの証明として夏目漱石を挙げたり……苦心惨たん、自己について自己弁護をする。こんな事は畢竟負け惜しみだとは万々承知していながらも、自分で自分を頭が悪いと断定することはあまりいい気持ちのするものでない。⁰¹
呆れるほど「数学の実力がない」。理系が苦手で「物理化学などはあきらめた」。認めたくないが「頭が悪い」──。
これは1929年、15歳の丸山眞男が夏休みにつけた日記の一節だ。タイトルは「休暇日誌」。学校に提出する課題として書かれたものらしい。
率直に言って、かなりしょうもない文章だ。漱石の登場に知性を見る人もいるだろうが、当時の漱石は国民的人気作家だから、これは今なら藤井聡太や大谷翔平の話に近い。日記では他にも、横須賀で長門や加賀といった軍艦を見て興奮したり⁰²、地球一周に挑戦中の飛行船⁰³を見逃して悔しがったりと、昭和初期の「ミーハーな子ども」でしかない生活が綴られている。提出課題なので文体こそ真面目だが、ここから大評論家となった後年の姿を連想するのは難しい。
実際、この頃の丸山は優等生ではなかった。文中では「受験」を気にしているが、翌年3月の高校受験は不合格となった。中学受験にも落ちていたから、人生2度目の挫折だ。制度が現代と違う⁰⁴ため落ちこぼれというほどではないが、受かると思われた試験に落ちたことは確かだった。「眞男、落ちてよかった。秀才じゃないほうがいいんだ。秀才が日本を毒した」⁰⁵ と見かねた叔父から慰められている。
この不合格の裏にあるのは、映画や小説への熱中だ。
ハマった対象は幅広いが、目立つのはチャンバラ映画や江戸川乱歩の探偵小説といった少年向けの流行作。これらは大人から相当に低俗なものとして扱われていたから、丸山は塾をサボって映画館に通い、小説は没収されないよう隠れて読まなければならなかった。
ここでいう「映画と小説」は、私たちの知るそれとは地位が違う。
「小説読んだことあるか、読んだものは手を挙げろ」⁰⁶
丸山のいた中学では教師がそう言って読書歴をチェックした。「映画を観る時には父兄同伴。一人で行ってはいけない」⁰⁷という校則もあった。ひと昔前でいうゲームセンターのような扱いだ。
そんな時代に、丸山は部活動にも勉強にも励まず校則を無視して映画鑑賞に熱をあげ、当時公開された作品は「観ていないのを数えた方が早い」⁰⁸ ほど網羅していたという。
もちろん、そんな素行はすぐ親にバレた。丸山が服に入れっぱなしだった映画チケットを、母親が洗濯の時に見つけてしまったのだ。母はチャラチャラした長男・鉄雄と違ってマジメ風だった次男の愚かさに驚愕。「兄さんはもうしょうがないと思っている。あんただけは信用しとった」⁰⁹と泣き出してしまった。
とんだ親不孝者だが、ここで重要なのは、丸山の関心の先がフィクションでしかないこと、そして母親が非行に驚くほどには一見マジメに見えたことだ。
本人は中学時代の自分を、「優等生」でも「不良」でもないグループに近かったと振り返っている¹⁰。つまり、良識に従って映画を観ないほど優等生ではないが大人が恐れるような不良ではない。フィクションには熱心だが現実の男女交際には手が出ない。優等生にも不良にもなりきれない、いわば文系のボンクラ。記録からはそうした丸山の姿が浮かび上がってくる。
◆記事の目的──庶民としての丸山
この記事はネット民である読者に向けて、このボンクラな少年が成長して生み出した思想について解説するものだ。
なぜ丸山なのか。それは私が丸山を、ネット民と最も相性がよく、にもかかわらず実際にはほとんど受容されていない思想家だと考えているからだ。
もちろん、丸山は本来、戦後日本でもっとも重要な思想家だ。戦後左派のオピニオンリーダーとして活躍しただけでなく、松下圭一や佐々木毅といったフォロワーを通じて保守派による平成の政治改革でも大きな役割を果たした。また、その改革によって生まれた安倍政権を批判するSEALDsもまた丸山からの影響を公言する……という具合に、対立しているはずの保守とリベラルがどちらも丸山フォロワーであるということさえ珍しくなかった。
その評論「「であること」と「すること」」は数十年にわたり定番教材として国語教科書に収録されてきたし、代表作である『日本の思想』は『論語』や『共産党宣言』と同規模の売り上げを誇る。マルクスや池田大作など政党を丸ごと生み出した人物を除けば、ここまで現実社会と密接に関係してきた思想家は(日本では)唯一無二だ。
ただし、その影響力はここ10年で一気に減退したように見える。SNSなどでは特にそうで、私はここ数年丸山の名前をネットで見た記憶がない。理由はいくつか考えられるが、丸山の思想が土台とする文脈を共有していた世代──戦中戦後の思想的混乱を直に経験した世代──の大半が、SNSが普及したあたりで社会から退場したことは大きいかもしれない。
たとえば、この世代の中でもっとも若い部類に入る1941年生まれの宮崎駿は戦争体験だけでなく、中学生のころ江戸川乱歩の小説に魅了された点、軍事兵器や子ども向け映画に熱中した点でも丸山と同じ世界を生きていた。小説『君たちはどう生きるか』への感動体験も共通していて、丸山は後に同作の巻末解説を担当し、宮崎は同名映画を作った。2人のあいだには25歳の差があるが、環境的には近いものがあったといえる。
だが、宮崎駿はSNSにおらず、SNSにいる私たちには丸山との共通体験が何もない。しかも、強いリーダーシップや主体性を求める丸山の議論は安倍政権批判やマイノリティ擁護など左派のトレンドと本質的に相性が悪く、言及されにくい。左派の変化と連動して右派の批判対象も上野千鶴子など新世代の論者へと移った。丸山は、ネットでは称賛も批判もされない「終わった思想家」になってしまったわけだ。
しかし、現にネット人気がないことと相性の良し悪しは関係ない。なんといっても一世を風靡した書き手だから、今でも本来の文脈さえ補えば現代人にも十分に響くものがある(と、私は思っている)。色々と前提が必要なため詳しい話は後述するが、ネット民を自認するような人間にはとくに相性がよい思想でもある。
問題は、その愚鈍な側面が伝記などで強調されないことにある。丸山に言及した文章の多くは丸山のことを偉人として扱う。肯定的なものは「高潔なエリート」として、否定的なものは「いけすかないエリート」として。いずれにせよ、いかに恵まれた環境で育ったかを強調してきた。こうした文章における丸山は「民主主義は大事だ」と無難な正論をぶつだけの「称賛も批判もされない」優等生にならざるをえない。
ところが、丸山のことを偉人や優等生として認識すればするほど、丸山の文章はつまらなくなる。一例を挙げれば、弱い主体の立場から現状の改善を提案する「超国家主義の論理と心理」が、西洋から劣った日本への一方的な断罪に見えてしまう……というようなすれ違いが起きてしまう。
またそもそも、上の回顧を見てもわかる通り、本人の意識は必ずしもこの丸山像に一致しない。回顧録でも、エリートとして話をする時もあれば、自分は「不良でも優等生でもない」庶民だと言い張る時もあり、自己イメージが分裂している。
こう聞いて、当時の制度に詳しい人間は「一高生をボンクラ呼ばわりは無理がある」と考えるかもしれないが、「思想」というのは基本的に「ある個人が、ある時代に、ある問題について考えたこと」だ。本人の問題意識に本人が答える以上、主観以上に大切なものはない。どんな階層に生まれようと「塾をサボって親を泣かせる自分は優等生ではない」と本人が思っているなら、それが思想の土台になる。
以上を踏まえてこの記事では、分裂した丸山像のうちの後者、庶民としての丸山の立場を強調しながら、その思想を紹介していく。以下では、彼がすごした時代と直面した問題という二つの文脈を描いた後、思想の内容へと踏み込み、最後にそのネット民との相性について書く。ともかく、まずは丸山の生きた時代について説明していこう。
1.丸山の時代と問題
◆もっとも低級で俗悪で下劣な…
丸山の生きた時代は現代とどう違うのか。わかりやすい部分で言えば、映画を見ているイコール良識がないという考え方は、私たちからするとあまり実感がわかない。こうした価値観は、たとえば次のような文章として具体化されていた。
「……ぼくはきみと小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、きみの堕落を見すごすことはできない、ねえ手塚、きみは活動(※)が好きだから見てもさしつかえないというが、好きだからって毒を食べたら死んでしまう、活動はもっとも低級で俗悪で下劣な趣味だ、下劣な趣味にふけると人格が下劣になる、ぼくはそれをいうのだ」¹¹
これは、27年から人気雑誌『少年倶楽部』で連載されて絶大な人気を誇り、丸山も愛読した¹²というベストセラー小説『あゝ玉杯に花うけて』(以下『玉杯』)の一場面だ。セリフをそのまま受け取ると、映画は「もっとも低級で俗悪で下劣な趣味」であり、見ると人格が下劣になり堕落して死んでしまうという。
「手塚」というのは『玉杯』の登場人物で、ボンボンで羽振りがいいが、臆病で卑怯なところがある主人公の同級生……『ドラえもん』でいうスネ夫にあたるキャラクターだ。ほかに、身体の大きいガキ大将な「生蕃」(ほぼジャイアン)や、秀才で人格的にも優れた「光一」(出木杉)も登場する。上のセリフはこの光一が発したものだから、世間的に正しい考え方として描かれていることがわかる。
罵倒されている映画好きの手塚は、主人公の「チビ公」をいじめる悪役だ。チビ公は手塚や光一たちと違い、貧乏ゆえに中学校に通うことができず、日中働いた後に民間の塾に通っている。手塚はその貧しさをバカにして映画館へ行く。この貧富の格差とその不条理こそが『玉杯』のメインテーマで、作中でも幾度となく強調される。
「あの人達は学者になるんだよ、おれ達とはちがうんだ」とかれはいった。
「そうだね、おれ達はなんになろうたって出来やしない」とチビ公がいった。
「金持ちはいいなあ……いい着物を着ておいしいものを食べて学校へ遊びにゆく、貧乏人は朝から晩まで働いて息もつけねえ、本を読みかけると昼のつかれで眠ってしまうしな」
「金持ちの家に生まれれば出来ない子でも大学までいける、貧乏人の子は学校へもいけない、かれらが学士になり博士になるときにもおれはやはり豆腐屋でいるだろう」
「おれと伯父さんは……寝ずに豆腐を作る、だがそれを食うものは金持ちだ、作ったおれ達の口にはいるのはそのあまりかすのおからだけだ、学問はやめよう」
……かれは町々のりっぱな商店、会社、銀行それらを見るとそれがすべて呪わしきものとなった。
「あいつらは悪いことをして金をためていばってるんだ、あいつらはおれ達の血と汗をしぼり取る鬼どもだ」
その夜も夜学を休んだ、その翌日も……。
「おれがチビだからみんながおれをバカにしてるんだ、おれが貧乏だからみんながおれをバカにしてるんだ」
『玉杯』のストーリーは、この貧乏なチビ公が「善玉の金持ち」である光一と協力し、「悪玉の金持ち」である手塚らをやっつけることで進んでいく。具体的には、貧しい塾生と中学生が野球で対決し、チビ公らが「親から金をもらって洋服を着て学問するやつに強いやつがあるものか」と努力して打ち勝つ……という風に。
物語のクライマックスは、光一と手塚が通う中学校で行われるディベート合戦だ。議題は「英雄論」。悪の金持ち・手塚は「社会主義の同人雑誌」を読んで考えた次のような議論を展開する。
まず、英雄とは「個人の権利を侵掠して自己の征服欲を満足させ」るもので、偉業を達成するために多くの庶民、百姓を苦しませてきた。「デモクラシーの今日」に、そんな悪人を持ち上げるのはおかしい。日本は英雄崇拝をやめ「平等と自由に向かって進まねばならぬ、すべての偶像を焼いて世界の趨勢にしたがわねばならぬ」。
この手塚の主張を、正義の金持ち・光一は「弱者が強者に対して侵掠呼ばわりをする……悪思想」として批判する。この「侵掠」は今でいう「搾取」に近い言葉だ。
曰く、女が男に、労働者が資本家に「私たちは搾取されている」と文句をいうのは悪い思想であり、民衆が本当に求めていることとは違う。民衆が本当に望んでいるのは「私達を指導してくれる人」であり、具体的にはナポレオンやレーニンやムッソリーニのような英雄なのだ──。
光一の「一点のすきもない」演説に観衆は拍手喝采を送る。むざんに論破された手塚はチビ公に八つ当たりをしようとするが、返り討ちにあって電柱に縛り付けられ「やい、凡人主義のデモクラシーの偶像破壊者ども」「平等と自由はどんなものか明日の朝までそこで考えて見ろ」と罵倒され、放置される。悪が裁かれてめでたしめでたし……。
一見して分かるように、『玉杯』では手塚というセレブな悪役に、映画と、自由・平等・デモクラシー・個人の権利……といった当時のインテリで左翼な言葉が割り振られている。映画に使われた「もっとも低級で俗悪で下劣な」という形容は、権利や社会主義という言葉にもかかっている。
ここにあるのは、人権とか言ってるヤツらはどうせ欧米かぶれの苦労知らずの腐ったエリートで庶民の敵なんだ、という世界観だ。映画は大衆娯楽だから、映画ファンみんなが左翼というわけではないが、左翼は性根が腐っているので、たぶん映画でも見ている愚か者に違いないという考えは成立する。丸山が青春を過ごしたのは、こういう左翼イコール卑劣という価値観が子ども向け雑誌にまで浸透しきった時代だった。
ところで、『玉杯』を読んでいた頃の丸山は映画好きの中学生で、自由やデモクラシーは戦後の丸山の代名詞だ。自分によく似た悪役が出てくる作品を、いったいどういう顔をしながら読んでいたのか。
◆左翼に対する生理的反発
丸山の顔はおそらく半笑いだったと思われる。というのは、当時の丸山の政治的立場が戦後のそれとは180度違うものだったからだ。本人は高校時代の自分について次のように振り返っている。
……自分を左翼ともなんとも思っていなかった。ぼくはもちろん右翼ではなかったけれども、左翼運動に対して生理的な反発を持っていた。……こっちは中学の時から、非常に素朴なものだけどなまじっか思想的洗礼を受けているから、急激に左翼化した連中に対して、なんだあいつら、という気がするわけです。それに、ビラやなんかが汚い。¹³
右翼ではないが、左翼のことが嫌い。東京で新聞記者の息子としてのびのび育ち「思想的洗礼を受け」た政治的耳年増の丸山にとって、田舎から出てきて高校で「急激に左翼化した連中」は幼稚で純粋な冷笑すべき対象にしか見えなかったのだろう。
こうした冷笑は丸山個人のものではない。丸山のいた旧制第一高等学校(以下『一高』)では、左右の学生が激しく対立し「互いにほとんど口をきかなくなってしまった」¹⁴。右を代表するのは運動部で、弁論部が左翼の巣窟。全体の構図としては「運動部・一般学生対左翼」¹⁵だったというから、丸山のような「国家主義者でもなければ、左でもなければ、何でもない」¹⁶ヘラヘラした中立の学生たちは、みなほんのり左翼のことをバカにしていたと思われる。
「ビラやなんかが汚い」は、天皇に対する批判が酷くて見るに耐えないという意味だ。一高生が通う学生寮のトイレには「天皇制打倒」などの落書きがあふれていた。戦前の人間にとって、皇室はイデオロギーとは関係ないつもりで好感をもつ対象……現代の家族愛とか国民的アニメに近いポジションに位置していたから、丸山の生理的反発は今でいう「ポリコレがうざい」に等しい感情だと考えた方がいい。
反左翼ムードは世間でも流行していた。『玉杯』を出版した講談社からは、他にも鶴見祐輔『英雄待望論』(33万部)や沢田謙『ムッソリーニ伝』(18万6千部)といったベストセラーが出て、28年の書籍売上トップ5に3作がランクインした¹⁷ 。英雄論が交わされムッソリーニが称揚される『玉杯』のラストは夢のコラボ、流行の盛り合わせだったわけだ。
これらのヒット作は、丸山ら一高生にも大きな影響をもらたした。たとえば丸山は、鶴見が自宅に一高生を招いて開いていた「火曜会」という勉強会に参加し、そこで『ムッソリーニ伝』に続いて『ヒトラー伝』を出版した沢田の講演を聞いている¹⁸。
講演は、まだ機密だった陸軍のクーデター計画(十月事件)について暴露し、その企みを「既成政党の政治によっては日本の危機は救われない」としながら肯定的に論じるものだった。まだ五・一五事件も起きていない時期のことだから、丸山たち学生は驚愕して聞いた。
その時、沢田の主張に対してある大学教授が「日本はあくまで議会政治の途を歩むべきであり、また国際的孤立を避けて、国際連盟の一員として紛争の平和的解決に努力しなければならない」と反論して退席すると、沢田は苦笑しながらこう言ったという。
なあに、大学教授なんてあんなもんでね、空理空論ばっかりで現実の動きなど何も知らないんだから……¹⁸
◆生まれながらの冷笑系
だが、いくらファシズムが流行した時代とはいえ、すべての人間が冷笑的だったわけではない。
代表的な例として、丸山より5歳年上の作家・太宰治は、丸山と正反対の学生時代を過ごしている。
青森の大地主の家に生まれ、地元の学校で「開校以来の秀才」と評された太宰は、優等生でもあり同時にとんでもない不良でもあった。高校進学後から「急激に左翼化」して学生運動に参加したり、過激な左翼文学を発表したりした後、自分が農民を搾取する地主であることに絶望して自殺未遂を起こす。在学中に芸者と恋仲になり、卒業後には同棲を始める。
同じ年頃の丸山がやったことといえば、同人誌に好きな映画女優の魅力を語る文章を投稿した¹⁹ことくらいだから、さまざまな側面で雲泥の差があっったようだ。
この差は、明らかに両者の生まれの差から生じている。
丸山の父・幹治は東京のサラリーマンだった。息子には学校さえ卒業すれば「共産主義者になろうが何になろうがお前たちの自由だ」²⁰と説き、昭和天皇が張作霖爆殺事件で陸軍を責めると「天皇さん偉い!」²¹と叫ぶ。神武天皇がどうちゃらの迷信は信じていないが、天皇個人には好感があるから「天皇陛下万歳!」とは言わずにさん付けして「偉い!」と褒める。「国体」なんて信じていないが、「国体を守れ」とやれば自分の嫌いな右翼が攻撃できるとなると「面白いからやる」²²。筋金入りの自由人だ。
一方、太宰の生家・津島家は田舎の財閥だ。父も兄も衆議院議員、甥も、義理の息子も衆議院議員、その子孫も衆議院議員……太宰以外はみなことごとく政治家という家系だ。しかも、小作人は「地主が軽くうなずいているのに対し頭をこすりつけるほど下げ」²³なければならない時代のこと、貧民と金持ちが野球で戦えた『玉杯』とは別次元の格差社会で、ほとんど貴族のような扱いを受けて育ったらしい。
また、この頃の東北は凶作と恐慌に襲われ、大勢の子どもが飢えと人身売買に苦しんだ。37年の東京には、政府が把握しているだけでも青森出身の芸娼妓が約700人いた²⁴。統計漏れや県内や他府県に身売りされた人数を考えると、その総数は数千人近い。人口10万に満たない戦前の青森で数千人だ。二・二六事件で処罰された青年将校の中には、東北に配属され、このむごい現実を目撃したことをきっかけにクーデターに協力した者もいた²⁵。右にせよ左にせよ、心あるエリートは過激化せずにはいられない世界だったのだろう。太宰の左傾化はほとんど必然だったと言える。
対する丸山家は、存在そのものが冷笑的だ。同じ時代を生きていても、階級が違うと世界が違う。幹治自身が労働者だから、自分たちが農民や労働者から搾取しているなどとは考えない。チビ公のように金持ちを恨むこともない。人間はこのような環境にいると、生きているだけで勝手に「右も左も馬鹿ばかり」と冷笑をはじめ、映画を見ながら勉強ができないことを苦悩するようになる。
この温和で冷笑的な人びとは、資本家でも労働者でもない。社会への責任感も憎しみもない。誇りある「侍」でも、差別される「非人」でもない。丸山は良い意味でも悪い意味でも、まったく昭和の「百姓」だった。生まれながらの百姓根性。丸山の問題はここから生まれる。
◆突然の逮捕
丸山がその「問題」に初めて直面したのは、高校3年の春、治安維持法違反の疑いで警察に逮捕されたときのことだ。
春休み中のある日、所属していたホッケー同好会での練習中。丸山はジャーナリスト・長谷川如是閑が登壇する講演会の張り紙を見つける。長谷川は父の友人で、丸山にとっても親しみある「おじさん」だったから、会場に足を運んで講演を聴いてみた。
だが、講演が始まってまもなく、監視していた憲兵隊によって集会は解散となり、同時に観衆のうち数人が治安維持法違反の疑いで拘束された。高校の制服を着ていた丸山は、そこで「共産党の活動家」だと勘違いされ、留置場送りになってしまったのだ。
さらに、連行された留置場では、自分以外の容疑者に対する手酷い扱いを目撃する。
留置場は、いくつか房があって……いちばん端の房に一高生が入っていて、ちょっとぼくを覗いたのを看守に見つかったのです。たちまち引きずり出されました。本当はみんな正座していなければいけないのです……引きずりだされて、ぼくの見ている前で「貴様、なんで覗いた」「一高生が入ってきたものですから、つい。ごめんなさい、ごめんなさい」とヒーヒー言うのを踏んだり蹴ったり。着物がたちまち破れて、お尻から血が出る。²⁶
いちばん酷いのは朝鮮人。取調べのたびごとに半殺しです。房へ帰ってくると、体中包帯を巻いて帰って来るのです。²⁷
暴力は丸山の方にも飛んできた。講演会に参加した理由を聞かれ「いや、如是閑さんは子供のときから、父が友人でして……」²⁸と弁解すると、取り調べ官は丸山を「目玉が飛び出るほどぶん殴」ってから「ばかやろう、如是関なんていう奴は、戦争が始まったら一番に殺される人間だ」と言い放った。震災に乗じて思想家・大杉栄とその家族を暗殺した元憲兵隊員²⁹が恩赦されて満州国警察のトップに栄転していた時代のことだから、これはかなり現実味のある発言だったようだ。
むろん、丸山に共産党との関係などない。証拠などなく、起訴に至る可能性もない。それでも、外では荒事など経験したことのなかった丸山は耐えきれず、取り調べ中に泣き出してしまう。
生意気な口をきいていた自分がこういう目にあったときに、日頃の読書とか知性とか、そういうものが何も自分を支えない……取調べの最中に、あんまりすごいんで、特高の前でも泣き伏してしまった。³⁰
しかし、ふがいない丸山とは対照的に、周りの人々は毅然としている。本物の「共産党の活動家」として先に収監されていた丸山の同級生は、別の房から「丸山、元気か」と信号を送ってくる。独立運動に関わった疑いで捕まり「取調べのたびごとに半殺し」にされていた朝鮮人は、黙秘を貫いて自分の名前すら明かさない。
それなのに丸山は、権力を恐れるあまり、ある学生から頼まれた外部への連絡すら全うできなかった³¹。権力に立ち向かう「本物」である周囲の思想犯に比べたときの、フェイクとしか言いようがない自分の姿が恥ずかしい。
……「不覚」をとって涙をこぼした自分のだらしなさ、しかもそのことを同じ房につかまっている──このほうは本物の──思想犯の学友に見られたことの恥ずかしさの意識は、これまた長く尾をひいて私の心の底に沈澱しました。³²
取り調べ官の命令に従って自らの思想を反省する「清算書」を書いたことで、拘留は数日で終わった。寮暮らしのため、事は両親にも知られなかった。すぐに平穏な日常が戻ってきたが、心には深い傷が残った。自分には独立運動家や共産党員にある心の支えがない。いざという時、現実の流れに抵抗ひとつできない。本当にこれでいいのか。
◆なにものかへのコミットメント
ぼくが自分の経験を通して学んだのは、経験的な科学を超えた、なにものかへのコミットメントがないと、時代に対する抵抗もできないし、たんなる経験的学問では自分を支える精神的支柱にもならないのではないかということです。³³
「時代に対する抵抗」を支えてくれる、精神的支柱となる「なにものかへのコミットメント」。共産主義でも民族精神でも何でもいいから、信じ抜ける「なにものか」。釈放後の丸山が、猛烈な自己嫌悪のあとに探求し始めたのはそういう「なにものか」だった。
この「なにものか」への問題意識は、大学3年時、学内の懸賞に応募して書いた論文「政治学に於ける国家の概念」にすでに現れている。
社会において我々はつねに主体であり同時に客体である。だから我々が社会を思惟するとき、そこにはもはや観察の主体と客体の分離はありえない。かくて観察の所産は必然的に研究者を通じて彼の所属する社会に錨づけられることになる。この事実を我々は仮に、カール・マンハイムに従って思惟の存在被拘束性と呼ぼう。³⁴
そこで主に論じたのは、社会学者のマンハイムから借用した「存在被拘束性」という概念だ。「観察の所産は必然的に研究者を通じて彼の所属する社会に錨づけられる」。これは「人間の思考には属する社会に応じてバイアスがかかる」ということだ。
丸山はこの「存在被拘束性」を使って、自由主義やファシズムを自己にかかるバイアスを意識できていないと攻撃し、望ましい思惟(政治学)のあり方を次のように論じる。
むしろ私は政治的思惟の不可避的な歴史的制約を率直に承認することから出発する。……党派的であることは必ずしも不公正を意味しない。否、現代のような政治化の時代には一切の政治的決定を避けることそれ自体が一つの政治的ポーズなのである。むろん研究者の立場がその認識を不当に歪曲することはある。しかしこの誤謬は認識主体の社会的地盤を無視することによってではなく、逆にあらゆる社会的恣意の(したがって自己をも含めた)イデオロギー性の認識に徹底することによって最大限度に回避されるのである。
「思惟の不可避的な歴史的制約を率直に承認する」というのは、平たく言えば、ものを考える時に自分の足元を直視することを指す。
これは丸山個人の問題でもある。丸山はチビ公のような労働者でもなく、太宰のような地主でもなく、中間層の青年だ。その思考はいかにも中間層らしく冷笑に陥るが、この冷笑はポジショントークでしかない。社会運動をせずに暮らす中間層の自分が一番気持ちよくなれる話題が「左翼叩き」「右翼叩き」なだけで、確固たる信念や基準があって何かを主張しているわけではないから、いざ理不尽や不正義に遭遇しても抵抗できない。
丸山によれば、マルクス主義者は労働者の立場に立つことで、中立(冷笑)主義者は科学的・客観的な立場を取ることで、このポジショントークを抜け出そうとする。だが、前者は労働者という別のポジションを絶対化して自分の足元から目を逸らしてしまうし、後者は公平なようでいて「一切の政治的決定を避ける」という、すでにある程度成功者である自分にとって非常に都合のいい「政治的ポーズ」をとる欺瞞に陥りがちだとされる。
ただし、ここでマルクス主義を否定しているのは、思想統制が強まっていた世間の風潮に配慮したポーズと見たほうがいい。回顧によれば、学部生時代の丸山は、留置場での経験が影響したのか左翼嫌いが反転して「ムード的左翼」になっていた。友人と秘密の読書会でマルクス主義文献を読んだり、一人でも共産党系の論文集『日本資本主義発達史講座』を読んでその分析に感心したりしていた³⁵というから、この時はまだマルクス主義のことを「答え」だと思っていた可能性が高い。
足元から目をそらして自分の階級的立場に居直るのでもなく(ファシズム)、「たんなる経験的学問」に安住するのでもなく(冷笑的客観主義)、「自分を支える精神的支柱」を得る方法とは何か。丸山はその当面の正解としてマルクス主義、いわば弱者に寄り添って免罪符を得る道へと進もうとしていたわけだ。
◆意志の弱さ
とはいえ、人間の性格というものはそうそう変わらない。問題意識に身体の方がついてこないのか、丸山の意志の弱さに変わりはなかった。
まずは学部選び。丸山は本当は文学部で「ドイツ文学をやりたかった」が、進路相談をした相手から「文学なんてものは専攻すべきものではない」と叱られ、さらに父親から「文学なんていうのは独学でやれる」「学校を出てからおよそ勉強できないのが法律だ」と法学部へ行くようアドバイスされると、すぐに意見が変わってしまう。
どうせ文学部へ行けないならというので法学部。しかし、法律はかなわんというので、政治になるわけです。³⁶
本人はこう書いているが、数十年後の文章では「やはり文学部へ行きたかった」し、こんなことで転向してしまう自分を「だらしない」と漏らしてもいる。実際のところ、問題は丸山本人に周囲の意見をはね返すほどの芯がないことにあった。こうして、また自分に失望する。
第二に進路選択。大学4年のそろそろ就職という時期、丸山は連合通信社(現在の共同通信社)の記者になるつもりでいた。「外国へ行きたい」という気持ちと、とはいえ難関の外交官試験などは「やる気がしない」という気持ちがせめぎ合った結果、海外へ赴任でき、かつ大した努力なしに進めそうな記者の道を選んだのだ。
ところが、現に記者である父親から「記者にだけはなってくれるな」と言われると、なんとなく気が変わる。結局、記者よりもさらにハードルの低い、無試験でなれる研究者の道に流されていく。
友だちがどんどん就職がきまって行く中で、「お前どうするんだ、どうするんだ」と、みんなに聞かれまして、それで「いやあまだ……」なんて、ごまかしてたんです。
……ある日フッと見たら、"法学部助手募集"というのが掲示板に出ている。それで、受けてみる気になった。受けると言ったって、試験は別にないんです。³⁷
第三に研究分野。政治学者になった丸山は、学部生時代に親しんでいた「ヨーロッパの政治思想史」をやるつもりでいたが、助手として師事していた南原繁教授から「君は日本をやれ」と指示されたことで、まだほとんど未開拓だった日本政治思想史を専攻することになる。「いやいやながら」「他律的に」始めた分野だから、なんとも「やる気がしない」。
日本思想というのは、当時、国体精神とか、皇道思想とか、ろくなのがないんです(笑)……そんなの、とてもやる気がしない。³⁸
そして、最後にマルクス主義。学部生時代を通して培った社会主義への信頼が、ドストエフスキーの小説『悪霊』を読んだだけのことで崩れてしまう。
大学を卒業するときか、助手になるころか、ドストエフスキーの『悪霊』を読んで震撼しました。ショックを受けて一週間くらい飯も食えないくらいでした。いまから理屈をつければ、社会主義に対する素朴な信念が音をたててくずれたという感じでした。³⁹
『悪霊』は19世紀ロシアの革命運動で起きた悲惨な内ゲバ、いわばロシア版あさま山荘事件をモデルとした作品だから、それを読んで社会主義から転向するというのは論理的には正しい。正しいけれども、ズルズルと外部の意見に流されるという意味で「いつものパターン」だった。
ここまで来ると、本人も自分にうんざりしていたに違いない。人生の岐路という岐路で自ら進む道を選べない。見つけ出したはずの「答え」が崩壊して、話はまた振り出しに戻った。青年期の丸山にとって考えるべき問題があるとすれば、それは自分の弱さ以外にない。
2.丸山の思想
◆戦後日本と思想
C ……お兄さまはブルジョワ政治学の病膏肓に入っているから政治学の効能ばかり並べて得々としてるけれど、友だちや先輩のなかには、大学の政治学関係の講義はどうもつまらないし、役にも立たない、なまじっか政治学などやるとかえって生きた政治がわからなくなる、っていう人だって少なくないのよ。
……私の友だちはいまおじさまの挙げた……政治意識の分析を読んで、ああいうアプローチには限界があるって言ってたわ。
B 限界か、フン。大方そいつはチンピラマルクシストだろう。測量技師じゃあるまいし、二言目には限界限界だ……ただ遠くから眺めてヤレこの方法には限界がある、あの調査には限界があるというだけで自分はカビのはえた固定観念に寄りかかっているのがお前たちの……。
A またまた、どうしてそう君達はすぐムキになって喧嘩するのだ。⁴⁰
これは46年、丸山が初学者向けに政治学への入門として執筆した文章だ。内容は、丸山をイメージさせる大学教授A、その甥で政治学を専攻する大学院生B、Bの妹でマルクス主義に親しみを持つ大学生Cの3人による会話形式で進む。
「ブルジョワ政治学の病」に犯された兄と「チンピラマルキシスト」に親しむ妹の対立を、丸山本人らしき人物がなだめる──。この構図が、当時の日本における思想的対立を擬人化したものであることは言うまでもない。
この思想的対立は、高度成長以後の生ぬるいそれとは異なり、人々の生活にダイレクトに影響する深刻なものだった。政治学者の大嶽秀夫によると、終戦時の米国には3つの対日理解が存在し、そのどれを選択するかが日本統治の方針に強く影響する状態にあったという⁴¹。ひとつは、侵略の原因を人種性・民族性に求める「日本人性悪説」。この説が採用されれば日本は、同時期のドイツと同じく工業を禁止され、前近代的な農業国として再出発することを求められたはずだ。
もうひとつは侵略の原因を日本の政治経済的構造に求める、いわば「社会構造原因説」的な立場で、これはマルクス主義の影響が濃い左翼的な知識人が支持するものだったとされる。GHQがこの立場を採用したことで、農村の社会構造の変革(農地改革)や独占資本主義の打破(財閥解体)など、日本のさらなる近代化を促進する左派的な統治が実行された。
ところが、冷戦本格化後の米国では、第三の立場、日本の侵略は一時的な「誤り」であって、政治的にも文化的にもなんら問題はないとする「戦争例外説」とでも呼ぶべき立場が有力になっていく。これはいわゆる「逆コース」の思想的基盤にある考え方で、その背後には、日本を軍隊をもつ「ふつうの国」として戦前回帰させ、ソ連に対する戦力として利用しようという戦略があったと考えられる。
この「社会構造原因説」と「戦争例外説」の思想的対立は、そのまま日本国内の右派と左派の対立に転化する。戦前社会を丸ごと否定する共産党系知識人には学生や女性などの支持者が多く、戦前社会を肯定するリベラルな知識人には中年男性が多かった。丸山は、このうち前者を「チンピラマルキシスト」に親しむ妹として、後者を「ブルジョワ政治学の病」に犯された兄として描いたわけだ。
◆第三の道としての「超国家主義の論理と心理」
注目すべきは、ここで丸山(=大学教授A)が両者を仲裁する立場に立っていることだ。これは戦後の丸山が、リベラリストにも共産主義者にも満足せず、第三の道を示そうとする立場にいたことを示している。
その第三の道を実際に提示したのが、46年に発表された評論「超国家主義の論理と心理」だ。その鮮やかな文体と内容は本人曰く「呆れるほど広い反響」を呼び、無名の学者だった丸山を、一気に学生たちの憧れの存在にまで引き上げた。戦後思想を代表する作品といっていいだろう。
しかし、それほどの作品にもかかわらず、この文章は──ここまで書いてきたような前提がなければ──現代人には何の面白みも感じられないものでもある。その内容は一見すると戦前の超国家主義やファシズムを批判的に分析しているだけだからだ。「戦前日本はファシズムだからよくない」と論じる文章を読んだ現代人から出てくる感想は「そりゃそうだ」「そんなの当たり前だ」というものにならざるをえない。サルでも分かる無難な結論を難しく解説されても困る。
こうしたすれ違いが起きるのは、その文章が単に「戦前が悪い」と書いているのではなく、戦前の悪さについて新しい解釈を示していることが伝わらないからだ。丸山はここで、敗戦や侵略についての日本人全体の責任を論じるというそれまでにないことをしているのだが、その新しさが私たちにはわからない。
どういうことか。丸山を支持したような若者たちは「社会構造原因説」と「戦争例外説」の双方に満足できないでいた。そのいずれもが「戦争を引き起こしたふつうの大人」の責任を問えない構造を持っていたからだ。
もし戦争の原因が社会構造だけにあるなら、悪いのは資本主義社会であって個人ではない。また、もし戦争の原因が軍部だけにあるなら、財閥にも政治家にも責任はないことになる。実際、共産党はファシズム政権を資本家の代理人(手先)としてしか認識せず⁴²、一部のエリートを除く大衆には責任を問わなかったし、保守党では鳩山一郎や岸信介といった戦前の軍国主義化にたずさわった人間が平気で首相候補になっていた。
しかし、実際に前線や内地で戦争を遂行したのは資本家でも軍上層部でもない「ふつうの大人」たちだ。新兵に暴力をふるう下士官、中小企業の経営者や自営業者、学校教員や自治体の役人や僧侶や神官……こうした社会を支える素朴な大衆こそが若者たちにとっての「戦争犯罪者」だった。彼らの多くは戦争を煽り若者を死地に送り出したにもかかわらず自身は生き残り、敗戦後は民主主義社会の担い手となった。彼らに、そして彼らを信じてしまった自分自身に責任を問わない思想に若者が納得できるはずがない。
この不満に応えたのが、戦中日本が見せた醜態の原因を「思想」に求める丸山の議論だった。若者たちは、自身も徴兵され二等兵として従軍経験のあった丸山が若々しい文体で大人たちの「思想」をぶった斬るその姿に憧れたのであって、「戦前日本はファシズムでよくない」という今日の読者が読み取る主張については気にもしていない。それは話の前提であって主題ではなかったからだ。
……「勝った方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである!⁴³
丸山は戦前日本の「異常な国家主義」と自由主義社会にある「ふつうの国家主義」の違いを、国家の中立性の違いによって説明する。真理や道徳に対して中立な西洋の近代国家に対して、日本では国家元首が「神」として君臨し、国や軍はその神の代理人という形をとっていた。道徳的正しさの源泉である皇室が権力と一体化している以上、権力に対して個人の権利を保証する「正しさ」は存在しない。だから権力者には「いかなる背信的行動も許容され」てしまう。
丸山は以上のような思想の構造を「倫理と権力の相互移入」と名付け、典型例として「お国のため」を連呼しながら自己利益を追求した人びと──戦前の「ふつうの大人」たち──を糾弾する。しかも、その例示として、若い頃に親しんだ漱石の小説を引用する。
「一体今日は何を叱られたのです」
「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。しかしお父さんの国家社会のために尽くすには驚いた。何でも十八の年から今日までのべつに尽くしてるんだってね」
「それだから、あのくらいにお成りになったんじゃありませんか」
「国家社会のために尽くして、金がお父さんくらい儲かるなら、僕も尽くしてもいい」⁴⁴
このいかにも「若者の冷笑」な一文で──しかも社会的に軽視されてきた日本の小説から抜き出したそれで「大人」たちを切り捨てることの気持ちよさは、当時の若者の立場になれば容易に想像できるだろう。
「お国のため」と戦争を始めた人間は、いざ敗戦というときに誰も責任をとらなかった。自分の思想に従って行動する人間は、失敗したときに自分の思想を反省することができる。だが、価値判断を「お国」や「お上」に預けていた主体性のない大人は「俺たちも騙されたんだ」と被害者面を始めるだけだ。これではいけない。人間は自分の行動に責任をとれる主体であるべきだ──こういう丸山の脳裏に、優柔不断な自分の人生がよぎっていたことは間違いない。
たとえば今次戦争における俘虜虐待問題を見よう……収容所に於ける俘虜殴打等に関する裁判報告を読んで奇妙に思うのは、被告がほとんど異口同音に、収容所の施設改善につとめた事を力説していることである。私はそれは必ずしも彼らの命乞いのための詭弁ばかりとは思わない。彼らの主観的意識においてはたしかに待遇改善につとめたと言じているにちがいない。彼等は待遇を改善すると同時になぐったり、蹴ったりするのである。
……彼らに於ける権力的支配は心理的には強い自我意識に基づくのではなく、むしろ、国家権力との合一化に基づくのである。従ってそうした権威への依存性から放り出され、一箇の人間にかえった時の彼らはなんと弱々しく哀れな存在であることよ。だから戦犯裁判に於て、土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する。⁴⁵
主体性のない弱い人間は、世の中がおかしくなれば抵抗もできず、顔を青くして涙を流すしかない。ここで描かれる対比を見て「西洋かぶれのエリートが日本人を一方的に断罪している」「西洋やナチスをひいきして日本人を不当に低く評価している」と怒る人もいる。しかし、丸山はどう見ても情けなく涙を流す土屋や古島(いずれも捕虜への暴行で裁判にかけられた元軍人)の方に自分を重ねているし、それは戦中黙って暴力に耐えるほかなかった読者の若者にしても同じことだ。それは断罪ではなく反省だからこそ、読者の魂に訴えかけることができた。
◆小林秀雄と百姓の思想──もう一つの第三の道
「超国家主義の論理と真理」によって丸山は、少なくともそれが掲載された論壇誌『世界』の読者からは圧倒的な人気を得た。この読者とはかつて丸山がそうであったような一高生たちのことで、論文掲載翌年に集計された同校の学生アンケートでは、「話を聞きたい人」として小林秀雄と首位にならんだという⁴⁶。
この小林と丸山の並びは、実際のところその後の日本思想が辿った道を象徴している。少なくとも平成中期まで、丸山はリベラルの代表として、小林は保守の代表として称賛と批判の的であり続けた。令和の今でも二人の評論(「「であること」と「すること」」「無常ということ」)は定番教材の採用率でトップを争っている⁴⁷。戦後思想の歴史は二人とそのフォロワーによって刻まれてきたと言っていい。
そして、小林がそれほどの人気を獲得したのは、丸山と同じく「ふつうの大人」の無責任に我慢ならない若者たちに思想的な第三の道を提供したことにあった。それは誰しもに等しく責任があるとする丸山のそれとは対極の道、誰しもに等しく責任がないとする道だ。
小林 僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ずもしかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起こる。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起こったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも僕にはそんなおめでたい歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。⁴⁸
戦争は個人の犯罪ではなく歴史の必然だから「反省なぞしない」。戦争がもたらした被害を考えればメチャクチャな言い草に聞こえるが、これはこれで若者たちの心を掴んだ。戦争が終わってから責任放棄を言い始めたわけではなく、戦争が始まった直後から同じようなことを言い続けていたところにも説得力があった。少し長くなるが、37年の発言を引用しておこう。
文学者は戦争にどう処するかと問われると、すぐ欧洲大戦当時、外国の文学者達は一体戦争にどう処したであろうかというような不見識な思索にふけり始める。そして大いに戦争に対して批判的になったつもりでいる。そういう人の頭には、実を言えば戦争という問題がそもそもないのである。彼は実際の戦争というものなど考えていない。
……気を取り直す方法は一つしかない。日頃何かと言えば人類の運命を予言したがる悪い癖を止めて、現在の自分一人の生命に関して反省してみる事だ。そうすれば、戦争が始まっている現在、自分のかけがえのない命が既に自分のものではなくなっている事に気がつくはずだ……国民というものが戦争の単位として動かす事ができぬ以上、そこに土台を置いて現在に処そうとする覚悟以外には、どんな覚悟も間違いだと思う。
日本に生まれたという事は、僕らの運命だ。……日本主義が神秘主義だとか非合理主義だとかいう議論は、暇人が永遠に繰り返していればいいだろう。いろんな主義を食い過ぎて腹を壊し、すっかり無気力になってしまったのでは未だ足らず、戦争が始まっても歴史の合理的解釈論で揚げ足の取りっこをする楽しみが捨てられず、時来れば喜んで銃をとるという言葉さえ、反動家と見られやしないかと恐れて、はっきり発音出来ない様なインテリゲンチャから、僕はもう何物も期待する事が出来ないのである。⁴⁹
いざ戦争というとき、丸山がするような「日本主義が神秘主義だとか非合理主義だとかいう議論」に逃げるインテリは「暇人」でしかない。戦中の日本に生まれたことは自分の運命なのだから、その運命をまっすぐに見つめて引き受けるほかない。
「反省なぞしない」と言った座談会で小林は、文章への責任について「責任とか無責任とかいう問題じゃない。技術が上手か下手かという問題だ」とも答えている。「責任があるかないか」などというのは子どものする話で、成熟した大人は仕事ができるかできないかで物事を判断する。他人の揚げ足をとるヘイターにならず、自分がやるべきことを粛々とやるだけ……小林の理想とは、要するに黙々と働く百姓のそれだ。
ただし、小林はこの百姓の理想を、百姓をそのまま称賛することによってではなく、つねにゴッホのような文化史上の偉人を通して描く。
「……僕が定義しようとすれば、むしろこう言うね、百姓は百姓でなければならぬ、坑夫は掘らねばならぬ、と」
画家は描かねばならぬ。⁵⁰
過労で衰弱したゴッホを診察した医者が言う、御商売は鍛治屋さんかね。「医者が、僕を普通の労働者と見てくれたのが、僕にはどんなに嬉しかったか。それこそ、僕が自ら変身したいと努めてきたところだ。青年時代は、僕も知識過剰の風態だった。ところが今は、船頭の親方か、鍛治屋に見える。節くれ立った身体になるのはやさしい事じゃないよ」。ドレンテ、ヌエーネンの生活で、ゴッホが完全に体得したものは、絵を描くという文字通りの労働であった。それだけでも、やさしい事ではない。
だがもう一つの事がある。労働は、自分の心の嵐に対する挑戦でもあった。はげしく、非常にはげしく働いていなければ、頭は何を考えだすかわからない、神経は何に苛立つかわからない。これこそ本当にやさしい事ではない。⁵¹
小林はこのゴッホに対する評論で、ゴッホの話ではなく自分の話をしている。小林は映画になど見向きもせずに、文学ならドストエフスキー、音楽ならモーツァルトというような権威主義丸出しの趣味をもつインテリ……昭和の侍のような男だ。だが、侍であることは「心の嵐」のもとであり、彼は「普通の労働者」に「変身したい」とも考えている。
戦争に対する態度も同じことだ。日本人は戦争が終わっても、亡くなった兵士を完全な無駄死に扱いすることも、戦争を主導した大人たちを完全に追放することもできない。彼らは彼らなりに一生懸命やってきたのに、それをインテリの後出しジャンケンで裁くことには意味がない。だから、いっそのこと自分がインテリをやめる。裁く人間がいなくなれば、苦悩そのものもなくなるからだ。小林の思想は、侍がその責任を放棄して百姓のあいだにまぎれるための思想なのだ。
◆『日本の思想』における小林批判
1961年に出版された丸山『日本の思想』は、この小林的「百姓の思想」に対する全面的な批判になっている。もちろん、表向きにはマルクス主義やファシズムに対する批判もなされているが、本書に収録された文章が初出した時期──1950年代後半にもなると、日本人は明らかに一億総小林化しつつあった。誰もが豊かさを歓迎する高度成長社会では、知識人は左右問わず「庶民の知恵」やら「大衆のエネルギー」やらを持ち上げて、自分もまた百姓なのだ、という顔をして世間に迎合するのが賢い生き方だ。
しかし、丸山はこの賢い生き方に頑として抵抗しようとする。それは嫌悪の対象であるかつての自分の生き方そのものだからだ。
小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。それは……すくなくも日本の、また日本人の精神生活における思想の「継起」のパターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。⁵²
思い出として蓄積された歴史や思想は、その時々に都合の良いものが引き合いに出されるだけで、個人が時代に流されることを防いでくれない。このような態度をとる知識人の行く末は「ありのままなる」現実肯定しかない。文学者の戦中の処し方を検討する第2章「近代日本の思想と文学」で、丸山は賢い小林が現実に抵抗できなくなっていった過程を見事に描写している。
小林は過激な運動と距離をとり、現実ばなれした抽象的な思想を批判し、可能なかぎり地に足をつけて思想を展開しようとした。その結果、何が起こったか。
小林は思想内容のうえではなく、「体系」をつき崩そうとする緊張にあふれた姿勢において、マルクスとキェルケゴールとランケを一身に兼ねた……けれどもすべてがヨーロッパの場合と一段ずつズレていた。ズレていたから悪いというのではない。そのズレから何がでて来たかが問題なのである。普遍者のない国で、普遍の「意匠」を次々とはがしおわったとき、彼の前に姿をあらわしたのは「解釈」や「意見」でびくともしない事実の絶対性であった。小林の強烈な個性はこの事実(物)のまえにただ黙して頭を垂れるよりほかなかった……。⁵³
あいつもバカ、こいつもバカと他人の思想を否定した小林がたどり着いたのは、オレは現実離れしていないという自負だけが残る「思想の砂漠」とでもいうべき不毛な世界だった。キリスト教という強固な敵がいる西洋ならいざしらず、もともと大した思想のない日本でそれをやって現実に生まれるのは、恵まれた環境に生まれたにもかかわらず他人を助けず自分の生活に没頭する庶民面をしたエリートでしかない。もちろん、根っからの百姓がそれを真似したところで、生活は1ミリも変わらない。所詮は侍が百姓になるための思想であって、百姓のためにある思想ではないのだ。
◆フィクションの上にたつ侍
では、丸山は小林に対抗して、どういう思想を提示したのか。
丸山は戦中に自分の思想を貫いて責任をとった人間……たとえば自分が師事した南原繁や彼と同世代の人物のことを「侍」や「明治の古武士」と呼ぶ⁵⁴。ただし、彼らが侍であれたのは、彼らが武士の誇りをリアルに感じることができた「明治の古武士」だからであって、映画や小説に囲まれて育った中間層である丸山に同じことはできない。たとえば、丸山と世代の近い同僚である岡義武が戦中にもらした愚痴は大正以後の世代精神を象徴している。
丸山くん、こういう時代になってくると、われわれのほうがおかしいんじゃないかね。まわりがみんな気違いと思わなければ、自分の考えているのは正しいという確信が持てない。しかし、まわりがみんな気違いと思うのも、ちょっと傲慢なので、われわれのほうがおかしいんじゃないかねぇ⁵⁵。
「まわりがみんな気違い」なのか「われわれのほうがおかしい」かの二択となれば、まともな人間は後者を選択してしまう。この冷笑的な態度には精神的な支柱がない。「超国家主義の論理と心理」は自分たち日本人にそれがないことを指摘する内容だったが、ポジティブな内容は示せていなかった。
丸山は『日本の思想』でその回答に近い話をいくつかする。たとえば、小林を批判した第2章の末尾で示される「正解」はSF作家H・G・ウェルズのユートピア構想だ。
もっと人類共通の精神、普遍的知性に立って、教育と報道の普遍的組織をつくろうではないか──というのがウェルズの提唱である。彼は知性の個性的相異を抹殺するのでなく、むしろそれを確認しながら、相異を組合せて行くことで包括的世界概念を構立しようというのである。
ここには二十世紀の現実の真只中で「十八世紀的」啓蒙精神を持してたじろがぬ一人の思想家が立っている。むろんウェルズはこれがユートピアといわれることを百も承知して、そういう非難にたいして昻然と反問する──飛行機だって三十年前はユートピアだったじゃないか!⁵⁶
しかし、これらの回答はいずれも、どこか的を外したような中途半端な回答にしかなっていない。現実を可能性の束としてみることやユートピアを信じ抜いて努力することが大切なことに異論はないが、問題はどうやってその「信じ抜く力」を得るのかということだからだ。
実際のところ丸山は、この疑問に対する回答を『日本の思想』ではなく「映画とわたくし」という別の文章で書いている。
今日の娯楽において映画の占める地位を過去に投射する目からは、なぜ精神的成長の軌跡などというおおげさな文句を映画の雑談にもち出すのか、到底理解できぬであろう。私の少年から青年期にかけて映画は、多くのホビーのなかの一つ、というような生やさしい存在では決してなかった。……ティーンエージャーの私にとっては、映画館へ通うという行為は「憩い」以上の何物かであり、いわんや「ひとつ、暇だから映画でも見ようか」というような気分からおよそ隔たっていた。映画が私の幼い魂のひだに分け入った多様さは、ほとんど自分でも意識化するのに困難を覚えるほどである。⁵⁷
サイレント時代からトーキーの段階にかけて、映画というジャンルが芸術として「成熟」し、黄金時代を迎えたちょうどその時期に私も「成人」するというめぐり合せになったことは、どんなにその幸運を感謝してもしきれない事柄である。
……私は家庭でも学校でも習わなかったような「人生案内」の途を映画が導いてくれたことにたいして「我を生む者は父母、我を人と成せし者は映画」という讃辞を映画にささげても、言いすぎとは思われないのである。⁵⁸
「我を生む者は父母、我を人と成せし者は映画」。要するにここで、丸山は「映画が俺を人間にしてくれた」という話をしている。これはまったく「言いすぎ」ではなく、思春期にロクに恋愛もせず30歳で結婚する頃まで映画漬けだった丸山に、映画を通じて人間になるほかに選択肢はない。
どの時代にもニキビの出はじめた頃から、二十代にかけての思春期に、異性への関心と分かちがたく結合した趣味や娯楽があるものである。
……私の場合──というより大正末から昭和初期にかけて青少年期を送った世代で、多少とも「不良性」に感染した連中の場合、恋愛や異性像についてもっとも共通したトピックとなり、また憧憬の対象となったのが映画女優であり、映画の描写であった。……何といっても動く映像ほど異性の多様な魅力を体のこなしからクローズアップされた目の動きに至るまで、灼けつくような強烈さで訴えかけたものはない。⁵⁹
思春期に女性の影がまるでない丸山にとって映画は「異性への関心と分かちがたく結合した趣味」……つまり思春期の性欲の行き先だった。ところで、こういう「不良性」に感染していたらしい丸山の体験と、小林やそのフォロワーである秋山駿の語る青春には天地の差がある。
女は俺が成熟する場所だった。書物に傍線をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。⁶⁰
敗戦時に十五歳の少年だったわれわれは、必ず太宰治か小林秀雄かを読んでいた。読んでいなければ、誰も相手にしてくれなかった。
小林秀雄がお酒に酔って、一升ビンを抱えたまま水道橋駅から墜落したと聞けば、旧制中学生の身ながらすぐ往ってみて、ふうむ、ここから真っ逆さまか、よく生きていたな、と感嘆したり、吉祥寺近くの水道道路に出ている屋台で、あの写真そっくりの姿でお酒を呑んでいる太宰治を、背後に立ってじっと見ていたりした。
……小林を読むより前に、十六歳の私は、中原中也に心酔していた。その三年後、小林、中原の二人に魅せられていた私には、困ったことが生じた。なんと! 小林秀雄は、わが愛する中原中也の愛人、長谷川泰子を、奪い去った者だったのである。私はしばらく、小林秀雄を憎むべきか否か、大いに混乱した。⁶¹
丸山が画面の中の女性を見つめながら大人になったのに対して、小林は現実の女との恋愛の中で成熟したという。そして小林のファンだった秋山ら当時の学生は、小林が中原中也と繰り広げた三角関係や太宰の乱行癖を完全に恋愛リアリティショーとして消費している。つまり、学生も含め世の中は女と遊んで酒を飲む「本物の不良」への憧れに満たされていて、とても「映画が俺を人間にしてくれた」などとオタク臭いことを知識人が言える雰囲気ではなかったのだ。
「映画とわたくし」の場合は丸山の講義の受講生たちが作った身内の同人誌に寄稿された文章だからこういうことが書けたが、公に公開される文章となると、映画体験をそのまま記すわけにはいかない。フィクション体験は、小林・太宰的なリアリティショーに対する批判とあわせて次のように表現される。
僕は先日もある雑誌の小説特集を通読して驚いたことは、七篇か八篇の作品全部が全部に女と寝る場面が出て来るんだ。こうなると所謂肉体文学なんていうカテゴリーはいらなくなっちゃうね。……いくら何でも堂々たる純文学作家と称せられる人達がずらりと揃ってそれこそ一糸乱れず同衾を描いているのには恐れ入ったよ。⁶²
……私小説のこれまで到達した芸術性の程度を無視して、今日の「肉体文学」と一緒くたに論ずるのは一見乱暴のようだが感性的=自然的所与に作家の精神がかきのようにへばりついてイマジネーションの真に自由な飛翔が欠けている点で、ある意味じゃみんな「肉体」文学だよ。⁶³
戦後のある時期まで文学の主流だった私小説では、作家である男性がプライベートで経験したセックスや恋愛がそのまま売り物になっていた。不倫や性風俗通いが「芸の肥やし」になるのは売り物の材料を調達できるからで、そこで経験したセックスを書けば書くほど「現実が描けている」と称賛が集まる。丸山はこういう構造をもつ小説を「肉体文学」としてまとめ「フィクションの中に生きることを心もとながり、これを直接的な感覚的現実の側に押しやろうという日本人の態度⁶⁴」から生まれたものだと喝破する。
フィクションの上に安住できない人間は、過剰に現実的であろうとして理想をすべて放棄した現実追従に陥ったり(小林)、逆に過剰に理想を現実視してとんでもない暴走を引き起こしたりする(マルクス主義者)。民主主義や人権といった近代的なフィクションを健全に運営するためには、それがあくまでフィクションであることを自覚しながら半身で信じる半信半疑の姿勢が必要だ。丸山はその姿勢を映画鑑賞を通じて身につけたが、映画を見ずに人生にばかりかまけていた小林にはそういうふざけた生き方ができなかった──。
『日本の思想』第1章はこういう話を映画抜きセックス抜きでやっているから、私たちには現実とのつながりがわからない。とはいえセックスばかりしているから日本は破滅した、本当はみんな映画を見て侍になるべきだとはなかなか言えない。
また、半信半疑の姿勢は「コミットメントできるなにものか」を求めていた当初の問題に対する回答とは微妙にズレてもいる。丸山本人もそういう自分の思想に対して半信半疑なので、後輩の学生にはついつい映画ではなく西洋文学やクラシック音楽をすすめて優等生ぶってしまう⁶⁵。
それでも、丸山が自らの人生をもって示せる回答はほかにない。自覚なき冷笑にとどまるのでもなく、冷笑することをやめて過激化するのでもなく、自分の冷笑を近代精神につながるポジティブなものだと言い張ること。冷笑的な自分に誇りをもつこと。回答として正しいかどうかはこの際もう関係がない。弱い人間である丸山にとって、自らが体現できる思想はそのくらいしかなかったのだ。
◆おわりに──私たちは私たちの話を
この文章はきわめて不誠実な態度で丸山について描写しているから、飛躍のないしっかりした丸山論を読みたい場合は苅部直『丸山眞男』その他を参照するべきだろう。
しかし、何と言ってもこの記事の想定読者はネット民だ。私たちネット民は自分のことをネット民と自認している時点で、絶対に侍ではない。現実に確固たる基盤のある人間はインターネットを居場所ではなく手段と考える。目的なくネットに滞在している人はそれだけでもう侍ではない。侍でない人に丸山を知ってもらうためには、上に書いたような側面を強調するほかない。
侍でないということは右でも左でもないということだが、どちらでもないから中立でまともなのだ……という話にはならない。丸山の話から私たちが第一に学べることは、思想や政治の話は本来自分の話であるということだ。リベラルがどう保守がこうというのは当事者である左翼や右翼が内省としてする話であって、私たちは私たちの話をした方がよい。
しかし自分の人生を見つめ直すとなると、見つめ直したくない人生を送ってきた人間にはやや過酷な話になってくる。色々と角も立つ。だからひとまず自分に似た他人の話を眺める。その中でうっすらと間接的に自分の話をする。タフでない私たちにできる「思想」というのはせいぜいそのくらいで、丸山はそういう私たちの「思想」にピッタリの人間なのだ。
註
⁰¹ 丸山眞男『休暇日誌』1929年。「丸山眞男文庫 草稿類デジタルアーカイブ(リンク)」の画像からテキストに起こした。読みやすさを考慮して、新字体・新仮名遣いに改め、適宜漢字を開き、振り仮名・句読点をつけた。「……」は省略。以下同じ。
⁰² 最新鋭の潜水艦や、当時の新型空母・加賀、日露戦争で活躍した戦艦・三笠、当時最大の戦艦・長門の艦内を見学した。『休暇日誌』32~38p。
⁰³ 当時、世界一周の冒険中だった飛行船「LZ 127」。通称「グラーフ・ツェッペリン」。『休暇日誌』40~42p。
⁰⁴ 『定本 丸山眞男回顧談(上)』岩波現代文庫、2016年(以下『回顧談』)38p。
⁰⁵ 『回顧談(上)』88p。
⁰⁶ 『回顧談(上)』25p。
⁰⁷ 『回顧談(上)』95~96p。
⁰⁸ 『回顧談(上)』27p。
⁰⁹ 『回顧談(上)』23~25p。
¹⁰ 『回顧談(上)』88p。
¹¹ 佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて/少年賛歌」講談社大衆文学館文庫、講談社、1997年を底本とした青空文庫から引用。以下同じ。
¹² 『回顧談(上)』51p参照。「デジタル版展示『知識人の自己形成』 第3部 中学校時代」立命館大学図書館HP、更新日不明(25年3月8日最終閲覧)、https://www.ritsumei.ac.jp/lib/f09/040/040/に「愛読」とある。
¹³ 『回顧談(上)』51p。
¹⁴ 『回顧談(上)』52p。
¹⁵ 『回顧談(上)』57p。
¹⁶ 『回顧談(上)』45p。
¹⁷ 『定本 ベストセラー昭和史』展望社、2002年。電子書籍版参照のためページ不明。
¹⁸ 丸山眞男「或る邂逅」『丸山眞男集』(以下『集』)第十二巻、1996年。
¹⁹ 丸山眞男「ディートリツヒを語る」『四平会会誌』創刊号、1931年。
²⁰ 『回顧談(上)』44p。
²¹ 『回顧談(上)』43p。
²² 『回顧談(上)』42p。
²³ 大嶽秀夫『戦後政治と政治学』東京大学出版会、1994年、第6章。
²⁴ 原田泰・安中進「娘の身売りは昭和恐慌期に増えたのか」WINPEC Working Paper Series No.J1602、早稲田大学現代政治経済研究所、2015年の付表を参照。
²⁵ 「2・26事件で有罪、元陸軍大尉・末松太平さん著書「私の昭和史」完本…長男「社会のあり方考えて」」読売新聞オンライン、2024年3月26日。
²⁶ 『回顧談(上)』69p。
²⁷ 『回顧談(上)』72p。
²⁸ 『集』第十六巻、178p。
²⁹ 甘粕事件の犯人・甘粕正彦はこの時期、満洲国民政部警務司長の地位にあった。
³⁰ 『回顧談(上)』53p。
³¹ 丸山眞男『自己内対話』みすず書房、1998年、181p。
³² 「「君たちはどう生きるか」をめぐる回想」『集』第十一巻。
³³ 『回顧談(上)』211p。
³⁴ 丸山眞男「政治学に於ける国家の概念」『戦中と戦後の間』みすず書房、1976年。
³⁵ 苅部直『丸山眞男』岩波新書、2006年、65~68p。
³⁶ 『回顧談(上)』191p。
³⁷ 「日本思想史における「古層」の問題」『集』第十一巻、154-155p。
³⁸ 「日本思想史における「古層」の問題」『集』第十一巻、158p。
³⁹ 『回顧談(上)』93p。
⁴⁰ 丸山眞男「政治学」『政治の世界 他十篇』岩波文庫、2014年、276~279p。
⁴¹ 大嶽秀夫『戦後政治と政治学』東京大学出版会、1994年、第1章を参照。
⁴² 「代理人テーゼ」として知られる。山口定『ファシズム』岩波現代文庫、2006年を参照。
⁴³ 「超国家主義の論理と心理」『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波文庫、2015年、21p。
⁴⁴ 同、19p。
⁴⁵ 同、24~25p。
⁴⁶ 『丸山眞男』、143p。
⁴⁷ 苅部直「「遊び」とデモクラシー──南原繁と丸山眞男の大学教育論」『基点としての戦後 政治思想史と現代』千倉書房、2020年や、あすこま「[資料] 高校「現代文B」(H30年〜34年版)8社17種類の教科書掲載評論リストを作成しました。」(『あすこまっ!』、2018年5月3日公開)を参照。
⁴⁸ 「座談 コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」『戦争について』中公文庫、2022年、330p。
⁴⁹ 「戦争について」『戦争について』中公文庫、2022年、14~16p。
⁵⁰ 小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮文庫、2020年、41p。
⁵¹ 同、66p。
⁵² 丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年、11~12p。
⁵³ 同、119~120p。
⁵⁴ 『回顧談(下)』47、48p。
⁵⁵ 『回顧談(下)』40p。
⁵⁶ 『日本の思想』、122p。
⁵⁷ 「映画とわたくし」『集』第十一巻、4p。
⁵⁸ 同、28~29p。
⁵⁹ 同、33~34p。
⁶⁰ 小林秀雄「Xからの手紙」『小林秀雄初期文芸論集』岩波文庫、1980年、248p。
⁶¹ 秋山駿「小林秀雄──その生と文学の魅力」Web版『有鄰』第414号、2002年。
⁶² 丸山眞男「肉体文学から肉体政治まで」杉田敦(編)『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー、2010年、187p。
⁶³ 同、191p。
⁶⁴ 同、193p。
著者プロフィール
ンジャメナ
1998年生まれ。千葉県在住。
X(Twitter):@bg75gf



コメント
1大変面白かったです。
丸山の実存や当時の社会背景などは単に代表作を読むだけではわからないことで、勉強になりました。丸山のことが好きになりました。