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『スーパーアドベンチャーゲームがよくわかる本』 vol.11
(田林洋一)
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FT新聞の読者のあなた、こんにちは、田林洋一です。
全13回を予定しております東京創元社から出版されたゲームブックの解説「SAGBがよくわかる本」、11回目の記事をお届けいたします。今回は東京創元社が主催したゲームブック・コンテストに勝ち残った2作品と、それに関連する作品を中心に紹介します。
本連載は「名作」と呼ばれるものを最初に集中的に扱っている関係上、連載の後半になるに従って厳しい批評が多くなりますこと、ご寛恕ください。作品そのものを全否定する意図は全くないことをご理解いただければと思います。「私はそうは思わない」という感想がございましたら、ぜひともお寄せいただければ嬉しく思います。
なお、本連載はSAGBとして東京創元社版のみを検討・分析する記事とさせて頂いておりますので、後に別会社から出版された復刻版・改訂版などについては取り上げていないことを予めお断りいたします。
毎回の私事ではありますが、アマゾンにてファンタジー小説『セイバーズ・クロニクル』とそのスピンオフのゲームブック『クレージュ・サーガ』を上梓しておりますので、そちらもご覧いただければ嬉しく思います。なお、『クレージュ・サーガ』はこの記事の連載開始後に品切れになりました。ご購入くださった方には、この場を借りてお礼申し上げます。
『セイバーズ・クロニクル』https://x.gd/ScbC7
『クレージュ・サーガ』https://x.gd/qfsa0
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11. 新たな才能の発掘 -第一回創元ゲームブック・コンテスト入選作品群
主な言及作品:『紅蓮の騎士』(1988)『ベルゼブルの竜』(1988)
『暗黒の聖地』(1989)『夜の馬』(1990)
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ゲームブック人気が絶頂を迎えた折、東京創元社が行ったゲームブック・コンテストで入選した作品が相次いで発表され、国産のゲームブックに対してもその人気や熱量が改めて示された。第一回の応募総数は一一九作品で、応募者の多くが十代、しかも十代前半という、現在のラノベ文学における若年層の活躍にも比肩しうるものであった(蛇足ではあるが、私も第一回コンテストに『テルサンドロスの崩壊』という赤面したくなるような駄作を応募している)。
それまで鈴木直人や林友彦らが素晴らしい作品を相次いで発表していたが、そうしたいわゆる「プロ」以外のアマチュアやファン層の人々も素晴らしい出来栄えのゲームブックが作れると改めて認知できたのが、このコンテストの勝者たちの存在だろう。また、それは同時に、今までアーケードゲームやファミコンソフトも含めた原作ありきで執筆されることの多かったSAGBに一石を投じる結果ともなった。まず、第一回コンテストで佳作に入選した伊藤武雄の『紅蓮の騎士』を取り上げよう。
何者かがアムスタリア王国の宝物庫に忍び込んでヒスイの首飾りを盗んでいった。賊を捕らえるために派遣された四天王の一人、紅蓮の騎士グロム・ディードは、この事件を解決した者にアミナ姫を娶らせるとの王の意向を聞く。その後、グロム・ディードはある驚愕の真実を知り、新たな旅に出るのだが……。
実はこの「犯人」の正体は宝物庫で死んだふりをして四天王に偽の情報を提供した、闇の帝王ワーグラの手下バルメイスだということが次のパラグラフであっさりと分かってしまう。彼の姦計にかかって分散された四天王だが、グロム・ディードはヒスイの首飾りを盗み出したバルメイスを追って、彼がつき従うワーグラを倒す冒険に出ることになる。宿敵バルメイスとの追いつ追われつつのデッドヒートは、ちょうどジャクソンの「ソーサリー」の第三巻『七匹の大蛇』の大蛇との対決を髣髴とさせ、物語をスリリングなものにしている。また、様々な様相を見せる地形を舞台に魅力的な街の数々を巡り歩き、そのたびにバルメイスの痕跡を見て取ることができて、ストーリー的にも飽きさせない構成になっている。旅の途中で他の四天王とも遭遇することになるのだが、衝撃的なその出会いも物語の深みを増すことに一役買っている。
『紅蓮の騎士』は主人公キャラクターが際立ちを持ち、かつ単方向移動という構成になっており、ちょうど「ドルアーガの塔」(キャラクターの特徴づけ)と「ソーサリー」(単方向移動)を足した設定になっている。この構図は、ストーリーを作るのに最も適していると言えよう(逆に、「無色透明の君」と「双方向移動」の組み合わせは、ちょうどユニコーン・ゲームブックがそうであったように、世界を縦横無尽に駆け回って情報やアイテムを収集し、オープンフィールド的な自由を満喫できる要素を特化させるのに優れている)。
主人公が無色透明ではないということは、物語との絡みで様々なNPCを「あなた」に接触させやすくする。つまり、核となる本筋が決まっていたり、キャラクターが色づけされたりしていると、ある程度決まった形でNPCを出現させても物語に齟齬が生じにくいのである。例えば、四天王のメンバーである青竜の騎士ラウドルップとは死体で対面することになるのだが、ここでの彼との悲哀に満ちた邂逅は「主人公が四天王の一人、紅蓮の騎士グロム・ディード」という位置づけであるからこそドラマチックな展開にもっていくことが可能となっている。
何より、「属性のはっきりした主人公」という設定は、こうしたイベントの合間に独自の台詞を挿入してもなんら違和感を覚えさせない(第8回で詳述したように、「ワルキューレの冒険」では「無色透明の君」が「固有の台詞を語る」という点で『紅蓮の騎士』とは異なる特徴を有している)。実際、『紅蓮の騎士』にはプレイヤーの琴線に触れるグロム・ディードの発言が散見される。例えばバルメイスに追いついた主人公が発する「おれは不死身なんでね」という台詞は、それだけでアドレナリンが放出される。
更に、ストーリーが基本的に一本道だということは、フラグ管理で場面分けの処理をする必要がなく、物語の展開として破綻をきたさないというメリットがある。逆に言うと移動の自由や選択肢の豊富さという点では制限を受けるが、結果として物語としても奥行きの深いものを作ることが容易になる。東京創元社のゲームブック・コンテストでの入賞作(ないしは佳作)のほとんどが単方向移動だったのは、考えられる選択肢をパズル的に組み合わせて解きほぐしていくというゲーム性よりも、物語性を重視するゲームブックが、このコンテストの時点では読者や審査員に受け入れられる傾向にあった証左だろう。
また、若年層の応募者が多かったこのコンテストでは、双方向のゲームブックを物語的に整合性を保ちつつ作成するのが難しかったと思われる。第二回ゲームブックコンテストで佳作に入選した『エクセア』の著者宮原弥寿子が、第一回でも『少年と鷲』という作品で佳作入選しているのだが、「双方向でありながら文体も非常に綺麗である」と評されている(アドベンチャラーズ・インSPECIAL1987.4)のは、この整合性を高度なレベルで維持できたからだろう(残念ながら『少年と鷲』は同人誌として世に出ただけで商業出版はされなかったので、想像の域を出ないところが惜しい)。
『紅蓮の騎士』の素晴らしいところは、緊迫した物語に細かい数値を組み込んで属性を表すというゲーム的な要素を組み込んだことである。例えば技術ポイントを腕力ポイントと脚力ポイントの二つに振り分け、それぞれの特性に応じた点数チェックをするような工夫がなされており、うまく戦闘のリアリティを演出している(このシステムは、第10回で紹介した『眠れる竜ラヴァンス』も採用している)。確かに冷静に考えてみれば、戦闘は力だけではなくスピードも要求されるから、こうした「区分け」はごく自然だろう。
また、物語の最初でプレイヤーは「魔法をいくつか教えてもらえる」「二匹の動物の手助けを得られる」「義賊ペーターの友人になれる」「三つの魔法の腕輪がもらえる」という四種類のうち一つの助力を得ることができる。正攻法ではこの助力は一つだけしか獲得できないのだが、「あとがき」にもあるように、(やや邪道という気がしなくもないが)例えば「二匹の動物がいた場所に、たまたま義賊ペーターもいたことにする」という脳内補正的なストーリーを勝手に構築して、この手助けを複数得て冒険するという楽しみ方もあるし、逆に援助を一切絶って孤軍奮闘で厳しい冒険に挑むこともできる。
『紅蓮の騎士』の白眉は、ワーグラの砦に潜入した時に突破しなければならない「時の迷路」である。ここでグロム・ディードは毒ガスが充満する立体交差した迷路を走破しなければいけないのだが、プレイヤーは、実際に息を止めてパラグラフを追っていかなければいけないのだ。ページをめくりながら「実際のプレイヤーが」息継ぎをするごとに、「主人公グロム・ディードが」ダメージを受けるという方式になっている。現実的・物理的な現象をゲームシステムに落とし込むことでリアリティを増す方策は様々なゲームで見られるが、ここでは現実の人間の行動(や我慢)がゲーム世界の主人公とリンクするという、別の意味でのリアリティをうまくゲームに組み込んだシステムが効果的に生きている。やはり「あとがき」にもあるが、実際に体を使うという点で、このアイデアは秀逸である。
また、『時の迷路』をクリアするのにいくつかのヒントが散りばめられているのだが、それ以外にも例えば罠だらけの三つの間を通り抜けるために解読すべきヒントが図(イラスト)などでさりげなく提示されている。こうした趣向を凝らしたパズルがいくつか挿入されていて、数値の高低だけでない、読者自身の才覚が要求されるようなゲーム性にも突出した優れた出来栄えとなっている。特に最後の謎解きは、これを解かないとゲームがクリアできず、苦労することになる。この最後の謎解きは主人公のゲーム的な能力値やアイテムなどは全く関係がなく、読者自身の注意力を発揮しなければならない仕様になっていて、サイコロ運などに頼らないプレイヤーの冒険力が試される。
『紅蓮の騎士』が佳作入選したのは、「時の迷路」の思いつきが抜群に素晴らしかったからだろう。逆に言えば、「時の迷路」がなければ選に漏れていた可能性もなくはない。というのは、『紅蓮の騎士』は物語的に素晴らしいものを持ちながら、随所で主観的な情景に客観的な(あるいは神的な)「作者の声」が入ってきて、勝手に解説することが多々あるからだ。この傾向は特にデッドエンドになった時に顕著で、かなりの頻度で「作者の解説」(しかも聞いたことのない逸話)が入ってくるので、物語の雰囲気が一時的に壊された気になってしまう。
例えば、ある森に入るとそれだけでバッドエンドを迎えるシーンがあるのだが、実はこの森は呪われた森で踏み入れたが最後二度と下界に戻ることができないという凶悪な罠になっている。バッドエンドの項目で「実はあなたが迷い込んだのは「妖魔の森」なのだ」という作者の解説が入り、この背景を説明してくれるが、この森が「妖魔の森であること」というヒントや逸話は、冒険中には一切登場しないのだ!
物語の「なぜ」に対する理由づけに作者が介入して「解説」する手法には賛否両論があるだろうが、少なくとも『紅蓮の騎士』では効果的に機能しているとは言いがたい。とはいえ、それを差し引いてもゲーム性(「時の迷路」の息を止める行為に代表される)とストーリー性(バルメイスとの息詰まる逃亡戦)の整合を含めてバランス感覚抜群のゲームブックに仕上がっており、佳作に入選したのはある意味当然と言える。
『紅蓮の騎士』の続編として書かれた『暗黒の聖地』についても検討してみよう。前作にない要素として、続編では魔法が導入されているのだが(前述したように、『紅蓮の騎士』のはじめに手助けの一つに魔法が出現はするが)、魔法を選択して習得するというジャクソンの『バルサスの要塞』形式を部分的に採用している。これらの魔法の種類や特徴は特筆に値し、いかにもな攻撃魔法は登場せず、「手長」や「足長」など、工夫を凝らしたものが多いのは見事な点だろう。
また、登場する敵も個性的かつ蠱惑的なキャラクターが多く、ロウソクを自在に操るシャドーデビルや首なしの馬に乗って攻撃してくるヘル・ナイト、それに狂信的な科学者レオドナル・デ・アンチョビーなど、不気味な登場人物が満載である。こうした魅力的なNPCとの出会いや対立によって、まさにタイトル通り「暗黒の地」に踏み入っているという雰囲気を味わうことができる。
ストーリー面で気になる点として、導入のストーリーがかなり定型化していることが挙げられる。さらわれたアミナ姫を助け出し、聖地ブルグムンドを救い出すというストーリーは、『ドラゴンバスター』などと同じく王道の展開ではあるが、それ故作品独自の個性を出すのが非常に難しい。クリアした後もストーリー的に「その後」が描かれることもないので、爽快感があまり感じられず、悪い魔王を倒してアミナ姫を救い出してハッピーエンドというお定まりの展開には食傷気味の読者もいることだろう。
中盤以降のストーリー展開でも、ワーグラの配下だったブラガという戦士が主人公に迫っては戦いを挑んでくるのだが、ちょうどこのキャラクターは前作『紅蓮の騎士』のバルメイスの焼き直しになっている。要所要所でもたもたしたり、余計なイベントに首を突っ込んだりしていると、復讐心に燃えるブラガが主人公に迫ってきてバッドエンドを迎えたり、苦境に陥ったりと散々な目に遭わされるのだ。
加えて、例えばある穴の中に入っていくとそれだけで主人公は死を迎えるのだが、その理由は「実は、今あなたは、地中に潜む巨大ナマズ「ピクラルー」の中にいるのだ」からであるが、この情報は冒険中に一切知らされることはない。このように『暗黒の聖地』には『紅蓮の騎士』と同じく「誰も知らない」逸話が挿入されていたり(そのことによって物語の流れが一時的に中断しやすいという危険を内包する)、能力値と敵のポイントのバランスが取れていなかったり(ゲームバランスの調整の不出来)と、看過できない点が目につく。
特に後者はゲームブックのゲーム面に重大な支障を及ぼしており、戦闘において時にこちらのポイント(いわゆる技量ポイント)の方が敵の技量ポイントよりも十近く上回ることもある。戦闘はサイコロ二個をお互いに振り合って技量ポイントに足し、その合計を競うファイティング・ファンタジー・シリーズ(及び『紅蓮の騎士』)方式を採用しているが、ここまで差があるとサイコロを振らずとも戦闘に勝利してしまい、興が削がれてしまう。
以上を鑑みると、ストーリー性とゲームバランスというゲームブックに必要不可欠な二大要素において、『暗黒の聖地』ではその両方が効果的に機能していないように見受けられる。特に謎解きはかなりの部分でレベル的に後退しており、パズルの解答も本作内で同じネタ(ローマ数字の読解)を繰り返し使用していて、比較的楽に解けるものになっている。逆に言えば、それだけ敷居を下げた結果、低学年の読者を取り込むことに成功したというメリットもあるだろう。
一方、『暗黒の聖地』は『紅蓮の騎士』がラストのシーンにのみ適用したパラグラフ・ジャンプに特に工夫を凝らしていることには注目すべきである。前作では番地の冒頭に置かれた★の位置をヒントにパラグラフ・ジャンプを行っていたが、『暗黒の聖地』では同じく★印が、今度は別のシステムを取り入れたパラグラフ・ジャンプの鍵になっている。また、番地番号が括弧でくくられている箇所ではサイコロの目によってジャンプの飛び先が異なるなど、ゲームブックという形式を存分に発揮したゲーム性(システムの工夫)に大きく寄与している。
『暗黒の聖地』は『紅蓮の騎士』の後日譚となっているが、『紅蓮の騎士』にはなかったマッピングによる謎解きといったオリジナルの要素を取り入れつつ、前作で死んだはずの四天王の面々を登場させるなど、ストーリーの面でも続編の深みを出す工夫が随所に凝らされている点は評価できよう。本作のエンディングではアミナ姫とグロム・ディードの婚礼シーンが描かれていないのだが、それは作者による更なる続編の「事前発表」とでも言うべきもので(実際に「あとがき」では、続きの冒険が仄めかされている)、第三巻の発表も期待されていたようだ。
さて、もう一つの佳作入選作品である茂木裕子の『ベルゼブルの竜』はどうだろうか。まずはストーリーから概観しよう。主人公の住むレムリア大陸で最大の町ルクレオは、急速な砂漠化の危機に瀕していた。この危機を食い止めるには、魔王の城に住むベルゼブルの竜が持つ再生の剣、アシュナードの力を借りるしかない。主人公はアシュナードの剣を取りに魔界へと旅立つことになる。
主人公は、お姫様を救出するためでもなければ、悪い魔王をやっつけるためでもない、極めてオリジナル性の高い理由によって出立するのだ。この物語性の奥深さは、「あとがき」にもあるように作者茂木裕子のオリジナルストーリーである「魔界物語」という完成された物語を基盤にしていることに起因する。『紅蓮の騎士』は王道かつ正統派の「悪の帝王退治」が目的であったが、『ベルゼブルの竜』には「魔王→悪いやつ→やっつける」という既知の、かつ単純な図式は存在しない。
ファミコンソフトが原作のゲームブックのように「最初に設定ありき」のゲームブックでは、どちらかというと世界観がしっかり定まっているものが多かった(『スーパー・ブラックオニキス』のように、ゲーム原作でありながら世界観はゲームブック独自なものもあるが)。『ベルゼブルの竜』は、それと同じように既存の(だが、作者のオリジナルの)「魔界物語」をベースにしているため、非常に綿密な世界観で構築されている。物語がまず先にあって、それから面白いゲームブックを作る、というスタイルが確立しているように見受けられるのである。確かに、先に小説という媒体で(非公開にせよ)事前にフィールドや背景世界が確立していれば、作者がストーリーを作り出しやすくなるのは間違いない(「デュマレスト・ゲームブック」のストーリー性の濃さは、この辺りの事情もあるのだろう)。
それを示すかのように、『ベルゼブルの竜』では一癖も二癖もある登場人物(獣や魔物も含む)が入り乱れ、プレイヤーに能動的にかかわってくる。恐ろしい魔物たち、城の番兵たる半人半竜、六本の剣の持ち主である皇子に皇女たち、何より魔界の君主たる魔王。紋切り型の人間やモンスターは一切登場しない。ことキャラクターの魅力とその多さという点では、他のSAGBの作品と比べても群を抜いて優れているだろう。文章力も卓越していて、ストーリーにも色々な変化があり、これだけで優れた文学作品の様相を呈している。
惜しむらくは、『ウォーロック』二十九号でも指摘されたように、物語の展開が単調で起伏が目立たないところである。だが、これもある意味では程度問題で、例えば霧魔と呼ばれる凶悪な魔族との戦闘や、魔族ノッグルがあの手この手でプレイヤーを湖に引きずり込もうとする際の心理的駆け引きなどは、物語の「山」として機能していると言っていい。
特に物語が盛り上がるシーンとしては、魔王の城の番人として立ちはだかる魔竜ヒポグライデスとの戦闘が挙げられる。ヒポグライデスは倒せば倒すほどより強力な竜に変身を遂げて主人公に襲い掛かってくるのだが、ここを突破するにはあるアイテムを効果的に使うか、それとも事前に通行証を手に入れて、そこに書かれている謎を解くしかない。この絶望感に満ち溢れた戦いは、それだけで読者の興奮をかき立てるだろう。
ゲームの進め方としては、ゴールデン・ドラゴン・シリーズのように「単方向移動+無色透明の君」方式を採用しているが、主人公に個性がなくともこれだけ幅のある物語を演出できる点は素晴らしい。途中で迷わせるような迷路も全くなく、いい意味で気軽に読者は冒険に参加できる。例えば、鈴木直人の『パンタクル』や『スーパー・ブラックオニキス』は方眼紙片手に気合を入れなければ楽しめない(だからこそその楽しさは至上という評価もできようが)仕組みになっているが、『ベルゼブルの竜』はどちらかと言うと初心者向けで、すぐに冒険の世界に没頭できるという長所を持つ。
ゲームブックの「ブック」という点では文句のつけようがない本作だが、「ゲーム」の部分はどうだろうか。戦闘ルールは他のゲームブックと同じようにサイコロ二個を振り合うものだが、巻頭にマトリクス形式の「攻撃レベル表」が掲載されており、自身の攻撃レベルと相手の防御ポイントによって与えるダメージが異なる(ないしはミスをする)というシステムを採用している。このシステムは、単に体力ポイントを二点ずつ削るファイティング・ファンタジー・シリーズ形式よりもずっとリアルに戦闘を再現している。相手の防御力が低いのなら、大ダメージを与えることができるのは言わば必然で、ダメージが固定というのは現実的ではない。因みに、TRPG「トンネルズ&トロールズ」も、主人公側のパーティと敵側のパーティの攻撃力の差を考慮してダメージの程度が変化している。
更に優れたシステムが、運だめしである。ジャクソンとリビングストンがファイティング・ファンタジー・シリーズで最初に取り入れたであろう「運だめし」は、結局のところプレイヤーキャラクターの作成時に決まった「運点」の高低に大きく左右されており、冒険開始後に読者自身の「運」で全てが決まるわけではない(これは、例えば「トンネルズ&トロールズ」の「幸運度」などのように、「運」を数値化している他のTRPGやゲームブックにも言える)。
もちろん、キャラクターメイキングの際にサイコロによる「能力の決定」は、読者自身の「運」がダイレクトにかかわる。しかし、一旦「運の強い冒険者」「運の悪い冒険者」と設定されてしまえば、冒険の道中でその「運の強弱」はキャラクターに因るところが大きく、読者自身の「運の力」はサイコロを振ることにしか介在しない。
『ベルゼブルの竜』では、冒険の最中に起こる様々なイベントを左右する要素として「キャラクターの運」は設定されておらず、代わりに読者の運が影響するという点が異なる。『ベルゼブルの竜』では、この運だめしを、サイコロAとサイコロBをそれぞれ振って、サイコロAがサイコロBよりも大きければ吉、小さければ凶、同じならば大吉としている。つまり、個々の主人公キャラクターの「運点」ではなく、まさに読者たるプレイヤーの「運」がかかわってくるというわけだ。『紅蓮の騎士』では読者の参加に「息を止める」という技が使用されたが、『ベルゼブルの竜』では「運だめし」に読者自身が参加する仕組みになっている。キャラクターの(運点を除いた)能力と読者の「運」が融合する形になって、様々な事件を解決していくことになるのだ。つまり、「運点」を設定しているゲームでは「運が試される時」がキャラクター指向、『ベルゼブルの竜』では、「運点」がないため読者指向、という棲み分けがあるということである。
概論としては、海外産のゲームはプレイヤーが「運と実力のハイブリッドを楽しむ」ことに焦点が当てられている面があるように思われる。ファイティング・ファンタジー・シリーズにおける「運だめし」は、能力値設定も判定時も運によって定められる。一方で、この「運だめし」は行うたびに運点が一点ずつ下がるため、使いどころを見極めることが「実力」の部分に相当する。運点が低ければ使いどころをシビアに見定め、高ければ安全を優先して使うというように、運点の高低によって、戦術が変化する点も魅力である。冒険中に強制的に行う箇所はあるが、戦闘における「運だめしをするか否か」の選択は、まさしく読者の力量が問われるところだろう。
他方で『ベルゼブルの竜』では読者の純粋に確率論的な「運」が介在するが、それを「ギャンブル的な運任せ」と否定的に捉える必要もなく、むしろ「運なのだから、自分の運をかけている」と、肯定的に受け止める余地が残されているだろう(多分に評者が『ベルゼブルの竜』を気に入っており、多少贔屓目が入っていることはご容赦いただければ幸いである)。
余談になるが、読者自身の状況や運をゲームブックに反映させるために、「今日は晴れか雨か」や「今は現実で何時か」というような条件で処理させる作品も稀に存在する。SAGBでも第10回で扱った『暗黒教団の陰謀』では、「プレイヤーがやせている方か、太っている方か」で選択が変わる個所があった(因みに、太っていると「肉づきが良い」という理由で魔神の生贄にされる)。
ゲームという点では、他にも随所にパラグラフ・ジャンプが取り入れられていたり(ラストのベルゼブルの竜の前で挑むパラグラフ・ジャンプは迫力満点である)、種類は三種類しかないがジャクソンの『バルサスの要塞』方式の魔法が採用されていたりと、隙が全く見当たらない。パラグラフ・ジャンプでは未知の場面に来ると的確なアドバイスをくれる賢者の兜や、頼もしい助力を得られる精霊シルヴェストルのモーヴの召喚など、わくわくする仕掛けが満載である。また、魔法は強力な「魔法消去」(二回まで使用できる)の他に、攻撃魔法である「炎の指」と「雷の指」を合わせて五回使えるようにしてあって、「どちらを選べばより効果的か」という頭をひねらなければならない戦略を立てる楽しさもある。
『ベルゼブルの竜』は、物語にもっと強弱をつければ、おそらく大賞を受賞してもおかしくないほど優れた出来栄えである。先に挙げた物語の平坦さに加えて、敢えて難をつけるとすれば、「あとがき」にもあるとおり必要なアイテムが多いことぐらいだろうか。だが、だからと言って理不尽な死(ノーヒントで選択をミスしたためにキャラクターが即死する)が待っているわけでもなく、アイテムも冒険を重ねれば自然に手に入るようになっている。
総合的に見て、同じコンテスト佳作ではあるが、ストーリーの盛り上げ方と確固とした世界観の確立、そして隙のないゲームシステムなどの完成度という点では『紅蓮の騎士』よりも『ベルゼブルの竜』に軍配が上がると思われる。物語の深みと、何よりも作者の文学的な文章力、そして効果的に機能しているルールで、SAGBでは「ドルアーガの塔」などと並ぶ傑作と言っていいだろう。
茂木裕子はこの作品の佳作入選で自信を得たのか、第二弾として『夜の馬』を刊行した。この作品はゲーム的に前作よりもブラッシュアップされている点が多いように思われる。例えば冒頭で主人公は無難で一般的な魔族「アルス」、狼の頭を持つ力自慢の「狼獣人」、走行性能に秀でる草原の民「グラス・ラン」の三種類の魔族から一種類を選んで冒険に参加するのだが、いずれも個性的かつ特徴的で、どの魔族を選択するかによって物語の展開も変わってくる。
また、「〇〇という名前を知っていれば××に進む」という選択肢が多いことからも分かるように、登場する魔族が積極的に主人公と絡み、物語に深みを与えることに成功している。例えばまさに鳥籠に囚われた鳥たる魔族「セルイン」の娘ミンミの魅力や、冒頭から最後まで旅を共にして、様々な助言やお願いをしてくるペンダントに姿を変えさせられた魔族「アルス」の商人ユテクなど、NPCの多さでは『夜の馬』も『ベルゼブルの竜』に負けていない。
更に、例によってパラグラフ・ジャンプも効果的に使用されているなど、ゲームとしての完成度は高い。ラスボスの「夜の馬」たる魔族サマオーンには姉ザミーラと弟ドルトスの二匹がいるのだが、「太陽石」と呼ばれるアイテムを手に入れて、相手が得意とする時間である夜に「光」をもたらさないと、ほぼ勝ち目はない。そもそもドルトスとの対戦では、このアイテムないしは呪文を使ってパラグラフ・ジャンプをしないと一方的に嬲り殺される羽目になる。
もっとも、ゲームブックのブーム凋落期に執筆されたこともあってか、本作は『ベルゼブルの竜』ほどの商業的成功を得られなかったようだ。ルールシステムは運だめしも含めて『ベルゼブルの竜』方式をそのまま採用しているが、肝心のストーリーが作者の「魔界物語」に準拠しすぎているため、時に唐突な印象を与えるのである。「魔界物語」に精通していないと何のことだか分からない話が多く、かといって著作としての「魔界物語」は市場に出回っていない。巻末に「魔界物語事典」が収録されているが、あまりの情報量で通読するのは現実的ではなく(そもそも、事典形式なので通読を想定していないだろう)、結果として作者と「魔界物語」を知っている読者のみが合点の行くストーリーが展開されることになる。
『ベルゼブルの竜』が突出して優れていたのは、何よりその物語性にある。だが、基本的にゲームブックはある作品を読んだことを前提としてプレイするものではない(「ソーサリー」や「ドルアーガの塔」のような連作は当然除く)。『夜の馬』は、その禁を犯しているような雰囲気が随所に見受けられるのだ。ある作品の既読を要求するのは禁じ手ではないだろうが、少なくとも作者が独自に設定した、そして一般に流布されていない「魔界物語」だけをベースにしてストーリーが展開するのは考えものである。
文章力と文学性が売りだった『ベルゼブルの竜』と比べると、『夜の馬』は種族の選択に応じた異なる能力の付与などゲーム性では勝るとも劣らないものを持ちながら、結局のところ物語性という点で後退しているのは極めて残念である。
総括すると、ゲームブック・コンテストの参加者たちは、既存の枠に捉われない圧倒的なアイデアと発想力、そして文章力でSAGBに新たな風を吹き込んだと言って良い。『紅蓮の騎士』や『ベルゼブルの竜』は、当然のことながら「ソーサリー」や「ドルアーガの塔」のコピー作品ではない。また、設定も含めて完全なオリジナル作品であり、その後の国産ゲームブックに強い影響を与えているのは間違いのないところである。だが、その一方で「デビュー作は入魂の出来だったが、二作目で失速し、三作目は両作品とも予告されこそすれ、最終的に出版されなかった」というお定まりの陥穽に嵌まってしまった。その意味で、ゲームブック業界で「一作目がヒットしたから、二作目もヒットするだろう」という安直な「二匹目のどじょう」を狙うのは、なかなか難しいことも露呈したと言えるだろう。
◆書誌情報
『紅蓮の騎士』
伊藤武雄(著)
東京創元社(1988/6/23)絶版
『ベルゼブルの竜』
茂木裕子(著)
東京創元社(1988/8/12)絶版
『暗黒の聖地』
伊藤武雄(著)
東京創元社(1989/8/31)絶版
『夜の馬』
茂木裕子(著)
東京創元社(1990/2/9)絶版
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