遠くにあるようで、身近な「陰謀論」との向き合い方。そして承認欲求。
「陰謀論」
インターネットやメディアでは、よく聞くが、身近にハマっている人間は、そう多くないのではないだろうか。
(少なくとも私の周囲にはいない。ゴミを捨てる場所がどうとか、プリンの消費期限だとか、ラーメンに卵をつける、つけない、そんな事でいっぱいいっぱいなのだ。
先日は消費期限が3日切れたおにぎりを渡された。しかも煮卵の。)
先週、「ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ」(著:魚豊氏、以下、「FACT」)というマンガに出会った。
私は、年季の入った黄ばんだ文庫本も大好きなのだが、やはりマンガを愛している。
小説は、活字である以上、どうしても読み手に想像を任せる部分があるが、マンガは線と表情を介し、登場人物の心の機微を瞬時に読者へ沁み渡らせる。
は〜たまらん!この年季の入った色味!
決して活字が読めないノータリンという訳ではない
話を戻すが、魚豊氏は、かつて一世を風靡した「チ。―地球の運動について―」の作者でもある。
天動説から地動説へと世界の常識が変化していく2,000年以上の壮大な物語を、たった8巻の漫画という制限されたキャンバスに落とし込んだ天才だ。
その作者が描いた漫画で、あまり世間には知られていない「FACT」。
これは、至極簡単に言って仕舞えば、人がどのように陰謀論にハマり、どの様な状況下で、その思考から抜け出すのか、留まり続けるのかを、緻密に描いた作品である。
陰謀論とは、アポロは月に行っていないだとか、ある特定の人物がペアを組んで自身を騙そうとしているだとか、例を挙げればキリがないが、つまるところ、その先にある目的というのは、世界を牛耳る極少数の人間がおり(作中では「ディープステート」と呼ばれている。)、
そのために貧困や戦争が発生している。という主張である。
これまで私は、ただ極端な主張をする雑誌の記事やインターネットなどのメディアに触れただけで、ある程度簡単に陰謀論にハマるものだと考えていた。
ただ、(この漫画が描く範疇では)、人間が陰謀論にハマっていくプロセスはそう単純ではない。
「FACT」の主人公である渡辺は、19歳から工場で、派遣社員で働いている。
正社員からは疎まれ、マルチ商法にハマりかけ、先輩からはいじめられる。
工場からの帰り、発作を起こした男性を助ける過程で、非正規雇用の調査をしている、同い年のエリートの女性と出会う。
女性経験が無い渡辺は、自身に向けられる彼女の一言一句に「自分に好意がある」と結論付けて行き、最終的に恋をしてしまう。
その後、大学の課題調査のため、彼女の家へ招かれるのだが、目の前にそびえ立つ見知らぬタワーマンションの奢侈なエントランス、その奥に現れたディレクターとして名を馳せる父親、そしてどこか噛み合わぬ会話の数々―。その一つひとつが、己の立つ場所との隔たりを容赦なく突きつけ、胸の奥に深い絶望の影を落とす。
それでも、恋を諦められない渡辺は、彼女の大学のサークルアカウントを探し出し、距離を詰めるキッカケを探す。
そこについた攻撃的なリプライを見つけ、その発信者に投稿を止めさせるため、入会希望を装って潜入するが、彼らの巧みな話術によって、完全な陰謀論者に染め上げられてしまう。
というのが大まかなあらすじなのだが、陰謀論を全く信じていない人間でも、複雑かつ正確に仕込まれた話術によって、陰謀論者に染め上げられていく過程が、グロテスクなまでに精細に描かれている。
陰謀論者に仕立て上げるには、様々な手法がある。
一例を挙げると、能登半島地震を「ディープステート」による、人口削減のための人工地震だと主張し、その理由として、地震波の波形を見せたり、当時の地中探査機の所在を地図で示したりする。
こうして断片的な事実を糸口に、あたかも科学的論証であるかのように理を積み重ね、人を静かにその網の中へ誘い込むのである。
しかし、私が思うに、それらは話を聞かせるための動線でしかない。
「主人公が主張する事象・因果を理解し、納得することで、相手から承認される」
それこそが、主人公の心の空白を埋め、陰謀論にハマる最大の理由になると考える。
私は陰謀論そのもの自体について、必ずしも悪とは考えない。
事実、主人公の渡辺は、陰謀論者の集まりに参加することによって、社会的欲求が満たされ、幸福だと感じている。
陰謀=陰謀論ではないし、「この世界に陰謀なんて存在しない」と決めつけて、陰謀論自体について考えるのを避け、思考を停止するのは非常に危険だ。
ただ、その内輪で完結していればいいのだが、問題は、刃が他人に向いてしまうことだ。
ネタバレになってしまうので詳細は伏せるが、結局この陰謀論集団も、最終的には真っ当に社会生活を営んでいる人間に危害を加えてしまう。
結局、陰謀論が「悪」とされるのは、それが他人に危害を及ぼすときである。
引用として、「ミニバン・ライフ・ホリデー」という私の好きな漫画がある。主人公のみゆきは、NZで車を購入し、ワーホリを楽しみながら新しい土地の文化を学んでいく漫画なのだが、
あるステイ先では「宇宙のリズムに沿った農法」でイチゴを収穫している。
「高次元の作物」など、通常の感覚ではあり得ない話だ。(宇宙農法を信じている方がいたら申し訳ない)
しかし、この一家は、慎ましく至極幸せそうに暮らしている。(主人公のみゆき含め)
そして先述の陰謀論者と違うのは、その理論は内輪で完結しており、他人に思想無理やり押し付けていないことだ。
作中の農家は、「宇宙農法じゃないとダメだ」ではなく「宇宙農法だとより良い作物が獲れる」というスタンスだ。
両者を分かつ鍵は、承認欲求がすでに満たされているのか、あるいはそもそも必要と感じていないのか、その一点にあると考えられる。
昨今、インターネットの急速な発展により、他人の鮮やかな私生活が、指先に触れるかのように身近に映るようになった。
それらは、いとも簡単に自身の尊厳を傷つけ、承認欲求はすり減っていく。
承認を求めながらも得られぬ者は、やがて別の形で自己の存在を確かめようとする。
そのひとつが、陰謀論への傾斜である。
陰謀論は、世界の裏に「真実」を知っているという特権的な立場を与え、孤立した心に強烈な充足をもたらす。つまり、承認の欠落を「知る者としての優越感」で補う装置として機能するのだ。
逆に、承認欲求を内側で完結できる者は、陰謀論に惹かれる必要がない。
他者のまなざしや社会の物語に振り回されることなく、外界のノイズをただ流れる情報として受け流すことができるのである。
結局のところ、陰謀論の是非は「何を信じるか」ではなく、「その信念をどう扱うか」にかかっているのだろう。
信じることで心が満たされ、閉じられた世界のなかで静かに安らげるのであれば、それは一種の生存戦略として尊重されうる。
だが、その刃が他者へと向けられ、暴力や排除へと転じたとき、陰謀論はただの信念ではなく、社会を蝕む毒となる。
インターネットが承認欲求を際限なく掻き立てる現代にあって、人はますます「理解されたい」「特別でありたい」と願い、その隙間を埋める物語を求める。陰謀論は、その欲望を最も鮮烈に満たす劇薬だ。
だからこそ私たちは、陰謀論を単なる「愚かな虚構」として退けるのではなく、それがなぜ人を惹きつけるのか、その背後にある承認欲求の渇きを直視しなければならない。
人が孤独と劣等感に沈んでいくとき、誰もが陰謀論者となる可能性を秘めている。


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