サイレントヒルf【感想】
こにちはぬん。ベビだす。
今回はKonamiさんから発売された話題のホラーゲーム、SILENT HILL f(サイレントヒルf)について感想を書いていこうと思います。
いや~、ゲーム系YouTuberである2BRO.さんの世界最速配信で冒頭を観てから虜になってな、書かずにはいられなかったんよ。
まず、正直に言います。
おベビは本作をプレイしておりません!!
上述した2BRO.さんの「世界最速配信」を観てたまらなくなり、ゲーム実況者ガッチマンさんの「サイレントヒルfの一週目(#1~#7の計7回)」を二日間かけて視聴し、全エンディングが気になってトマトちゃんさんの「サイレントヒルf全エンディングまとめ(全5種)」を視聴しただけです!
自らプレイをしたわけではなく、二周目以降にムービーでのセリフだったり演出が変わることがストーリー理解においてのヒントとなるという「ゲーマーにとっては常識」な事柄をすっ飛ばしているので(フルで観たのは一週目のみで、二週目以降はエンディング視聴というショートカット理解のため)そんなショートカット理解の上での感想だとご了承下さいぬん!
まずは簡単に世界観の説明から。
ゲーム「サイレントヒル」シリーズといえば、表の世界(現実世界)と、狂った裏の世界(闇の異世界)を行き来することでストーリーが進んでいくというのはサイレントヒルシリーズにとってお約束であり決まり事(ルール)でもある設定ですね。
この新作「サイレントヒルf」も二つの世界を主人公である「深水雛子」が行き来し、且つクリア後に更に二週目、三週目とプレイすることで真エンドに辿り着きます。
そしてサイレントヒルがお好きな方にとってはこれもまたお約束ですが、ゲーム内で襲ってくる異形の者(化け物・クリーチャー)は主人公の内面に潜む不安や恐怖や畏れなどを何らかの形で視覚化・具現化したものです。
ゲーム内で拾えるアイテムやメモ・手紙などにもストーリーを紐解くヒントが隠されていたりしますし、色々なシーンで「主人公の内面に迫る」ヒントが現れます。
それを見逃さないように拾っていけばいくほど、ストーリーの理解に繋がる……というのがサイレントヒルの真骨頂なのですが、ショートカット理解での感想失礼します。
◆昭和と令和のリンク
サイレントヒルシリーズとしてもサイレントヒルファンとしても、「おおっ!!」と思える和風ホラー、且つ時代設定は昭和三十年代頃というのはなんといっても本作「サイレントヒルf」の大きな魅力ではないでしょうか。
ここからおベビの感想ですが、今でこそ鼻で笑われる「昭和の価値観」を時代背景に設定したのは上手いなあ、と。
時代は今「令和」ですが、「昭和の価値観」というある種の「呪い」が令和の今でも「さもなかったように、けれどひっそり隠れて存在している」ことが、本作での一番の強みでありストーリー性において魅力なのではないかと。あ、個人的な感想ですよ。
というのも、主人公である深水雛子の父親は絵にかいたようなアカン父ちゃんなんですよ。家では飲んだくれており、家中に酒瓶が転がっている。
「育ててやった恩を~」とか「親に向かって~」の決め台詞を怒声とともに娘である雛子に吐きつつ、同時に包丁まで投げつけるという中々にアカン父ちゃんです。雛子の母にも、味噌汁の味が気に入らないだけで妻の作った味噌汁を「泥水」呼ばわりするなど、今の時代なら一発アウトを食らうような父親なんですね。
そして雛子は、父だけでなくそんな父に無抵抗な母にも嫌悪感を覚えています。
横暴な父に対し無抵抗な母の姿に、信頼低下や嫌悪感を抱いている、といったところでしょう。
この「昭和だったらこんな家庭も珍しくなかったよね」の部分と、令和という現代が実はストーリーの中で上手に融合されていくんです。
高校生の雛子には幼いころからの男友達「修(しゅう)」がおり、修だけは自身に対して女性性を期待しない相手でした。
なので高校生になってもなお、子供のころから修としていた「宇宙戦争ごっこ」の話を修とするし、互いに「相棒」と呼び合うんですね。
これ、とても違和感のある描写でして。
本来なら、子供のころから宇宙戦争ごっこをしていた相手であっても、高校生にもなろう年頃になれば「異性として意識し始めてもおかしくない」わけです。
好意を持ったり、または反対に興味をなくしたり、とかね。
けれど雛子はそんな「幼少期の世界を高校生になっても維持すること」である種の精神的安定を得ているように思われます。
雛子に比べ修は健全に年齢相応に精神面も成長しているようですが、雛子のそんな部分を見抜いているからこそあえて関係性を変えようとは思わない。雛子が修に望んでいる世界は「子供の頃から続く宇宙戦争ごっこの相棒(=性的役割に影響されたり縛られない関係)」と修自身わかっているからこそ、雛子の「幼稚な関係性の維持」に付き合ってやっている。
これは雛子の家庭環境を知っている修の優しさでもあるのですが、雛子に「自分たちは成長しているんだ、これからも成長して大人になっていくんだよ」と表明してやることが出来ない甘やかしでもあります。
雛子は高校生ですが、高校生に「なってしまった」自分に対して恐れを抱いているように見受けられます。
どんどん子供時代が過ぎ去っていき、大人に近くなっていく……。
これは雛子にとって、恐怖として受け止められています。
現在でも人によって「大人になるのは嫌・早く大人になりたい」など辿ってきた道は異なるでしょうが、雛子の場合は明確な恐怖と不安です。
なぜなら。
「大人になる=一人前の女性になる=結婚・出産」
という一つの未来は、雛子にとって
「自分がいま家庭で味わっている苦痛と不快、そして父に理不尽に虐げられる母の姿(役目)を、今度は自分が妻となり母となり担う」
という苦痛のループまたは再現であるからです。
令和の現代でもこの設定は上手く繋がっていると先述しましたが、今の時代においては女性が生きる道というものは結婚だけではないですよね。女性に限らず男性においても好んで独身でいる人は多く、それが今の令和(時代)です。
ではなぜ、これらが繋がるのか?
一つに、「育った環境」があります。
昭和三十年代であろうが令和であろうが、このような「虐待めいた・親がアル中・DV・モラハラ伴侶」などの環境や要素は存在します。
令和になったからといって、これまで嫌われていた環境や要素がいきなり皆無にはならないんですよ。
親のそれらを見て育った子供たちは、「こうはならないぞ」と親を反面教師として幸せな結婚を自ら望むタイプの子供と、「こうなりたくないから」と結婚願望を持たない子供にわけられるそうです。
昔何かで読んだのですが、
「両親ともに円満な家庭で育った子供は当然のように大人になれば自分も結婚すると思いながら育つ子供の割合が高く、そうでない家庭で育った子供は結婚願望を持たない割合が高い」
というデータを読んだ事があります。
まあこれは、おベビ的には納得です。
育った家庭環境はその子供に「家族(家庭)というのはこういうものなんだ」と刷り込みをします。
よその家庭がどうだろうが、その子にとっては自分のいる家庭が「家庭という教科書」であり、それを日々実践していくわけなのですから。
雛子がゲームの中で裏世界を謎の狐面の男と共に進んで行くとき、要所要所で幼いころに遊んでいた人形が現れ、雛子に警告を発します。
「引き返すなら今」
「深水雛子に戻れなくなるよ」
などです。
裏世界を狐面の男と進んでいくとき、雛子は「深水雛子」表記ではなく「雛子」と呼ばれ表記されます。
おベビは一週目の途中まで、裏世界での「深水雛子に戻れなくなるよ」という警告は「深水雛子という自我を失ってしまうよ(だから早くここから逃げて)」という意味と捉えていたんですが、途中から
「あれ……これって……」
と気付きました。
旧姓かあーー!!
結婚したら「~雛子」だもんな。
だから裏世界では別の家の姓となった「何ちゃら雛子」であって、
「深水雛子に戻れなくなるよ」という意味は自我を失ってしまうよという意味ではなく、
「誰の妻でもなく母でもない、『ただの深水雛子』という存在に戻れなくなるよ」
ということかあーー!! と。
一週目の序盤~中盤くらいまでは、おベビはこの人形のことを「雛子の自我を現世に引き留めようとしている微かな意思が、幼少期に遊んだ人形の姿を借りて出現しているのか?」と思って観ていました。
が、よくよく思い出してみるとこの人形はゲーム進行中に雛子が偶然見つけ、懐かしさとともに「供養してあげなきゃな(おそらく人形供養のことを指している)」と言うシーンがあります。
雛子の住む町ではお狐信仰と、古くなった刃物や道具などを奉納だか供養だか行う付喪神信仰が存在する設定です。
その設定を思い出すと、雛子に親切な警告メッセージを発する人形が味方とも思えるし、
「狐ごときにこの娘を取られるならワイかて全力で止めたるやで」
というお狐VS付喪神の構図にも思えてきて、果たして人形は味方なのか……? と思いつつ一週目を観ていました。
◆自身の中の女性性への恐怖
正直このサイレントヒルfは、一週目を観て到達するエンディングだけでは物足りません! いい意味で!
もちろん一週目のエンディングだけでも色々解釈できる部分は多々あるのですが、「推測の域を出ない」部分が多いんですね。
かつて名家だった家で働いていた女性が当主の子を妊娠中にもかかわらず、当主の縁談の邪魔になるからと追い出された後、出産した双子とは誰と誰だったのか(一人は明確にわかりますがあと一人の候補者が推測の上で多々残る)。
雛子より先に嫁いでいったはずのお姉ちゃんの顔だけはけして明かされないのは何故なのか(嫁に行く=自分ではなくなる、という雛子の心の恐れを表現しているのかもしくは、など)。
他にもたくさんの謎が残ります。
もちろん一週目だけのヒントとエンディングでこれらを推測するのも楽しいのですが、おベビは待ちきれないので上述した全エンディングまとめを観てショートカット理解で済ませました!!
雛子はゲームの中で、自分の女性性を意識せざるを得ない言葉を散々投げかけられますし、自分でもそれに対して否定的発言を繰り返します。
「嫁に行くのが女の幸せなのよ」
「男から求婚されることが女の幸せだろ?」
とかね。
何週目のエンディングか忘れましたが、雛子が思春期の「深水雛子」を断ち切って大人の女性として自分の意志で結婚に臨んだんだな……と思われたかのようなエンディングがあるのですが。
そのエンディングラストシーンはこんなムービーで終わります。
夫婦となる相手と二人、厳かに家の中に入っていく。
平和なエンディングかと思いきや。
その直後、家の前にある石段にカメラワークが切り替わり、雛子の絶叫が轟くのです。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ怖い怖い怖い怖い!!」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ怖い怖い怖い怖い!!」
「お母さんみたいになりたくない!!」
「お母さんになりたくない!!」
そしてこの叫びとともに、石段の上に大量の血が落ちてきます。
そして絶叫、大量の血とともに、半分削ぎ落とされた顔がべちゃっと地面に落ちます。
おベビはこれは、出産および母親になることを意味しているのかなと解釈しました。
「お母さんみたいになりたくない」に関しては「母のような不条理な人生を送りたくない」という意味ととれますが、
「お母さん『に』なりたくない」
これは母親になることの恐怖を表しているのではないのかなと。
石段に降ってきた血は出産時のもの、また半分削ぎ落とされ無残に地に落ちた顔は「雛子」という個性を捨て、今後は「母親」という仮面を「被らされる」という暗喩で、
「雛子という顔はもう必要ない(ので削ぎ取られ無惨に捨てられる)、これからは母親という仮面を着けて生きなさい」
という、雛子にとっては恐ろしい現実の一つ……なのではと。
ちょっと前に、『名前をなくした女神』という作品あったじゃないですか。
観たことはないのですが、タイトルからして即座に「母親のことか」とピンとくる秀逸なタイトルだったので作品名を覚えていたのですが、絶叫する雛子と大量の血、「お母さんになりたくない!」のセリフ、削ぎ落とされた顔(無個性の象徴)、これらがおベビの中で結びつきました。
◆昭和令和、男女関係ない「性差」という呪い
さて、雛子が女性性や女性役割というステレオタイプを押し付けられることの不快さや、それに対する嫌悪、それが深刻化した「子供のままでいたい自分」と「精神的・内面的に成長した自分との対峙」を本作は真エンドまでを通じて少しずつ露わにしていくのですが、これは主人公雛子が女性だからとも言えないんですね。
狐面の男にしても、雛子を娶るために努力をしてきたわけで、それは知性や学問の習得、安心して妻を娶れる財力を手にすること、つまり夫となるにあたって十分な条件を満たしてから迎えに行くことだったわけです。
これはつまり、「女だからこうしろ」「女ならこうあるべき」と強要されたり圧力をかけられてきたのは女性側だけではなく、「男ならこうしろ」「男ならこうあるべき」が男性側にも存在してきたことを示しています。
一昔前なら男性が男性性の強要について訴えたりすれば、女性だけでなく同性である男性からもフルボッコされていたでしょう。
「なんて男らしくない!」とか「男の風上にも置けないヤツだ」とかね。
令和の今だから、男性側も「男だからこうあれ、男ならこれを好め、という押し付けやめてくんない?」とやっと言えるようになったわけです。
昔から男性側にある「男なら立身出世」などを筆頭に、「男なら強くあるべき」とか「男なら養うべき」とか、男性側に課せられた呪いというものも、女性主人公である雛子を通じて描いていると思うんですよ。
それがゲーム内での狐面の男のセリフや修のセリフにも随所に感じ取れます。
本人たちが自分の意思によって本気で述べているはずの事ですら、実は幼い頃からの洗脳(という教育または呪い)なのでは? という疑問を本作は投げかけてきます。
つまりね、昭和のころから、いやもっと以前の時代から、「男性・女性」という性差によってかけられ続けてきた洗脳、あるいは教育、あるいは呪いというものは未だに健在であるということ。
冒頭で述べた、昭和三十年代の設定を令和の今に繋げているのは上手いなあと感心したのはそこです。
時代が変わって価値観が変化したように見えることでも、実は見えにくくなっただけで水面下では根強く残るものがあるのだ、ということを昭和と令和を繋げる事で表現していると思いました。
良い相手と結婚をしたい男性は、「良い人に妻になってもらうために(選ばれるために)」出世や富を得られるよう努力する。
そのほうが、望む相手を妻に迎えられる確率が上がるからです。
良い相手と結婚をしたい女性は、「良い人に夫になってもらうために(選ばれるために)」美や知性や礼儀作法を得られるよう努力する。
そのほうが、望む相手を夫に迎えられる確率が上がるからです。
そんなステージから離れた人・一抜けした人もいれば、昭和であろうが令和であろうが固執する人もいるのが現実であり、時代が変わってもその葛藤は男女ともにあるのだというメッセージ性のようなものも、おベビがゲーム作中で感じたことですね。
価値観や時代の変化だけでは根底から無くなることはない、生物としての「違い」から生まれるもの(生まれざるをえないもの)は、そこがイコールにならない限り付き纏うのだというズバッとしたメッセージを感じました。
何故なら我々人間の遠い遠い祖先は、自分の寿命を捨てる代わりにオスメスに分かれてより優秀な子孫を残すという選択を遠い遠い過去に進化の過程で決定したわけですから。
もはや時代を恨むとか性別を恨む等のスケールではなく、進化の過程で
「よっしゃ! ワイらはオスとメスで分かれて子孫を残すルートで行くやで!」
と決断した大昔の祖先を恨まなきゃ意味がないレベルです。
生物学的にまたは科学に大きな変化が起こり、子供を産むのが女性だけではなくなったとか、体格や力で勝るのは男性と限らなくなったなど、生物としての性差が物理的にイコールにならない限り、いつどのタイミングで鎮火したり活発化してもおかしくないテーマなんだよね。
イコールになったらなったで、それまで「違い」があったからこそ互いに思い遣ってきたものが薄れて、差がなくなった分だけ弱者により厳しい世界が到来したり、結果的に絶滅というルートもあるかもしれんけど。
ご先祖様はそこまで見越してたのか否か。
このサイレントヒルfを観ていると、そんな所にも思いを馳せてしまいます。
◆「f」とはダブルミーニング?
ただ、新たなエンディングを観ていくと雛子がどんどん自分自身の「本当の望み」をもう一人の自分との対話によって確立していきます。
ただ子供のままでいたいだけだった雛子が、自分の心に正直になっていく。
「未来は不安だった。未来は希望だった」
と。
「私たちの悩みは、私たちだけのものだ!!」
と。
徐々に自立心を見せ始めてくるんですね。
そんな「サイレントヒルf」ですが、この「f」って何の意味なのだろうと考える方も多いと思います。
もしかしたら公式とか会見やインタビュー、またはイベントで制作陣から「fの意味」について見解の発表などあるかもですが、おベビは個人的に「f」にはプレイヤーが自ら意味を当てはめて良いと思います。
おベビが「サイレントヒルf」の「f」に当てはめるのは、
「Fear」と「Future」のダブルミーニングです。
エンディングにはまだまだ謎が残る部分も多いですが、私が本作の感想をひとまとめにすると、こうなります。
「人は自分の意志だけでは変われない事柄もあるし、変わることができる事柄もある。だがその先の未来には、常に不安と希望が待ち受けている。
未来とは、明るいだけのものではない。
未来とは、イコール希望ではない。
待ち受けているかもしれない不安を受け入れる覚悟を持たない者は、本当の意味で未来へ一歩踏み出すことなどできない」
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