死ぬほど周回したブルアカのフルダイブVRゲーム世界に転生(絶望) 作:ふい
マジで設定が天才的だと思う。
最初に感じたのは、鼻腔をくすぐる微かな消毒液の匂いと、新品のオフィス家具が発するケミカルな香りだった。次いで、瞼越しに差し込む、フィルターのかかったような柔らかい陽光。ゆっくりと意識が覚醒していく中で、背中に感じるシーツの感触はやけにリアルだった。
(……なんだ、この感覚は)
VRゲームにありがちな意識を強制的に起動させるような不快感はない。まるで、泥のように深い眠りから、ごく自然に目が覚めたかのような心地よさ。だが、その心地よさこそが俺の全身に警鐘を鳴らしていた。俺が知る限り、ここまで完璧な五感再現を実装したダイブ装置はまだ存在しないはずだ。
重い瞼をこじ開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた……いや、見飽きた、と言うべき天井だった。
真っ白で継ぎ目のないフラットな天井。中央にはミニマルなデザインのシーリングライトが埋め込まれている。その形状、壁との取り合い、照明の色温度、すべてが寸分の狂いなく俺の記憶の底に沈殿している光景と一致していた。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
ゆっくりと上体を起こす。ギシリ、とベッドが軋む音すらも聞き覚えのある音だ。
そこは簡素な仮眠室だった。俺が寝かされていたベッドの他に、小さなサイドテーブルと、壁掛けのデジタル時計があるだけ。時計が示す時刻は、午前八時ちょうど。
ふらつく足で立ち上がり、仮眠室のドアを開ける。
途端に視界が一気に開けた。
高い天井。壁一面に広がる巨大な窓。そこから差し込む朝の光が、埃一つない広大な執務室の床を白く照らし出している。整然と並べられた書架には専門書がぎっしりと詰まり、部屋の中央には、まだ誰も座ったことのない真新しいデスクが鎮座していた。
連邦捜査部『シャーレ』執務室。
VRゲーム『青い軌跡』において、プレイヤーである『先生』の拠点となる場所。
「……ふざけるなよ……なんで、今更」
俺の呟きは誰に聞かれるでもなく、がらんとした空間に虚しく響いた。
窓に歩み寄り、外を見下ろす。
眼下には、息を呑むほどに美しい巨大な学園都市の全景が広がっていた。天を衝くような超高層ビル群。それらを繋ぐように宙を走るモノレール。点在する各学園の個性的な校舎。そして、それら全てを囲むようにして存在する巨大な
学園都市『キヴォトス』。
この光景を見るのは、一体何千回目になるだろうか。
初めてこのゲームをプレイした時、この圧倒的なスケールと美しさに感動し、鳥肌が立ったのを覚えている。これから始まる物語への期待に胸を膨らませ、何時間も飽きずにこの景色を眺めていた。
だが、今の俺の心を満たしているのは感動ではない。
期待でもない。
あるのはただ一つ。
―――底なしの、絶望だった。
◇
没入型VRゲーム『青い軌跡』。
それが、この世界の正式名称だ。
かつて、俺はこのゲームを心の底から愛していた。
発表された当時、その革新的なシステムは全世界のゲーマーに衝撃を与えた。
サーバー内で時間の流れを加速させる『時間加速技術』により、プレイヤーは現実の一時間で、ゲーム内では数日から数週間もの時間を過ごすことができる。これにより、膨大なボリュームのシナリオとキャラクターとの濃密な関係性を、時間を気にすることなく楽しめた。
仮想現実によって構築された世界は、現実と見紛うほどの超美麗グラフィックを誇り、五感再現システムは、風の感触、食事の味、硝煙の匂いさえも忠実にプレイヤーへと伝えた。
そして、何よりも革新的だったのが、登場するキャラクターたちに搭載された超高度AIだ。
彼女たちは定められたセリフを繰り返すだけのNPCではなかった。プレイヤーの言葉や行動にリアルタイムで、人間としか思えない自然な反応を返す。会話は選択肢形式ではなく、自由会話。プレイヤーが投げかけた言葉の意味を理解し、文脈を読み、時にはユーモアを交え、時には怒り、時には涙を流す。
そのあまりの完成度の高さに、多くのプレイヤーは彼女たちを単なるプログラムとは思えなくなった。愛し、悩み、共に成長していく、かけがえのないパートナーとして認識した。
高い自由度と、プレイヤーの行動によって無限に分岐・生成されるシナリオAI。周回プレイごとに異なる展開が待っていることも、プレイヤーを飽きさせない要素だった。
俺もまた、そんな『青い軌跡』の虜になった一人だった。
来る日も来る日もキヴォトスにダイブし、『先生』として生徒たちと日々を過ごした。
一周目をクリアした時の感動は、今でも忘れられない。涙が止まらなかった。
二周目は、一周目で救えなかった生徒を救うために。
三周目は、違う選択肢を選んで、彼女たちの違う一面を見るために。
……十周目あたりから、だろうか。目的が少しずつ変わっていった。
より効率的なシナリオの進め方を模索し始めた。
キャラクターの好感度を、最短で最高値まで上げるための会話パターンを研究した。
戦闘において、最も被害が少なく、最も早く敵を殲滅できる指揮を突き詰めた。
五十周目を越える頃には、俺は『RTAランナー』になっていた。
全てのイベント、全てのフラグ、全ての会話パターンを脳内に叩き込み、一分一秒を削るために四苦八苦する日々。
百周目を越える頃、俺はこのゲームにおけるRTAの世界記録を更新した。
そこまでやり込んでも、まだ俺の情熱は尽きなかった。
今度はゲームのすべてを解明したくなった。
あらゆるサブクエストをこなし、あらゆる隠し要素を暴き、誰一人として見たことのないエンディングを目指した。俺は攻略wikiを立ち上げ、たった一人でこの世界の膨大な情報を編纂し充実させていった。俺が書いた記事は、全ての『先生』たちのバイブルとなった。
何年も、何年も、何年も。
現実の時間を捧げ、加速されたゲーム内の時間で、俺は『先生』であり続けた。
何百、何千と周回を重ねた。
あらゆる生徒と絆を結び、あらゆる困難を乗り越え、あらゆる結末を見届けた。
大好きだった。
愛していた。
その結果、どうなったか?
―――飽きた。
言葉通り、飽き尽くした。
もはや、このゲームに俺の知らないことは何一つない。
キャラクターの次のセリフは、彼女たちが口を開く前に脳内で再生される。
次に起こる事件は、その兆候が現れるずっと前から分かっている。
戦闘が始まれば、敵の配置、行動パターン、弱点、その全てが掌の上だ。
感動的なシーンも、衝撃的な展開も、俺にとっては何度も繰り返し再生されたビデオテープのようなものだった。
いつしか俺は『青い軌跡』を起動しなくなった。
タイトル画面のあの爽やかな青空と、希望に満ちたBGMを聞くだけで、胃液が込み上げてくるようになった。大好きだったはずの生徒たちの顔を思い浮かべるだけで、胃もたれを通り越して、吐き気を催すまでになっていた。
情熱は燃え尽き、灰すら残らなかった。残ったのは、憎悪に近いほどの強烈な倦怠感だけだった。
◇
そんな俺が今、その世界にいる。
ダイブ装置に接続している感覚はない。
これは夢じゃない。
だとすれば、転生、あるいは転移とでも言うべき現象なのだろう。
「……最悪だ」
窓ガラスに映る自分の姿を見て、さらに絶望が深まる。
そこにいたのは俺自身の顔ではなかった。
ゲーム開始時に、俺がキャラクタークリエイトで作り上げた『先生』の姿そのものだった。人好きのする穏やかな目元、どんな生徒にも信頼を抱かせる理知的な表情、清潔感のある黒髪。誰もが理想の『先生』として思い浮かべるであろう、完璧な外面。
皮肉なことに、内面はこんなにもドス黒く澱んでいるというのに。
これからなにがはじまるかって?
馬鹿でも分かる。
『青い軌跡』のプロローグだ。
間もなく、このシャーレの執務室に、連邦生徒会長の代理を名乗る人物から連絡が来る。
そして俺は、廃校の危機に瀕した『アビドス高等学校』へと派遣されることになるだろう。
そこで出会うのは、対策委員会の五人の生徒たち。
砂狼シロコ。無口でクールだが、仲間思いで、意外と行動的な少女。
小鳥遊ホシノ。やる気のないおじさんムーブをかましているが、その実、誰よりもアビドスのことを想い、深いトラウマを抱えている先輩。
黒見セリカ。口は悪いが常識人で、必死にバイトをして学校を支えようとしている健気なツンデレ。
十六夜ノノミ。温和で心優しいお嬢様。その優しさと包容力で委員会を支えている。
奥空アヤネ。真面目で実直な委員会の書記。データに基づいた的確な分析で仲間をサポートする、縁の下の力持ち。
彼女たちがどんな問題を抱えていて、どうすればその問題を解決できるのか、俺は全て知っている。
アビドスの莫大な借金。その背後にいるカイザーコーポレーションの陰謀。
―――知っている。
どうすれば借金を返済できるか?
簡単だ。
いろいろ方法はあるが、最短で行くならアビドス砂漠に眠る油田を掘り当て、過去にアビドスにいた資産家の隠し財産を見つけ出し、転生直後でシナリオAIの補正がまだ弱いこの時期に、ほぼ固定化されている株価の動きを読んで―――。
―――知っている。
その後のカイザーコーポレーションの対処法も分かっている。 RTAでは、稼いだ金の余剰分で傭兵を雇い、俺自身が単身で本拠地に乗り込んだ。乗り込むのも、特定のパイプを伝っていけば屋上に設置された赤外線センサー網に引っかからずに侵入することができて―――。
―――ああ、知っているとも。
ホシノが抱えるトラウマの解消法も知っている。
どのタイミングで、どんな言葉をかけ、どんな行動を示せば、彼女の心を最も効率よく救えるのか、俺は完璧に理解している。
そうだ。
俺は何もかも知りすぎている。
この世界は、俺にとって初見プレイの感動も、未知への挑戦もない。
これから出会う生徒たちとの会話も、イベントも、全ては好感度というパラメータを上げるための作業工程に過ぎない。
彼女たちが笑いかけてきても、俺の心は動かないだろう。
彼女たちが涙を流しても、俺は「はいはい、このイベントね」としか思わないだろう。
彼女たちが俺に信頼を寄せ、好意を向けてきても、それは俺が最適解を選び続けた結果でしかない。そこには、俺自身の意志も、感情も、何一つ介在しない。
これは、地獄だ。
死ぬほど遊び尽くし、愛し尽くし、そして憎むほどに飽き飽きした世界に閉じ込められ、同じ物語をもう一度、今度は自分の身体でなぞり続けなければならない。
これ以上の地獄が他にあるだろうか。
「……死んだ方がマシだ」
本気でそう思った。
このビルの窓から飛び降りれば、この悪夢は終わるだろうか?
いや、駄目だ。
ここはゲームの世界。もしリスポーン仕様だったら? あるいは、大怪我を負うだけで死ねなかったら?
中途半端な行動は、さらなる地獄を招きかねない。
何か、何か方法はないのか。このクソみたいな世界から脱出する方法は。
思考を巡らせる。俺が持つ最大の武器は、このゲームに関する圧倒的な知識量だ。
あらゆる可能性を検討する。
そして、一つの仮説に行き着いた。
「……完全クリア」
この『青い軌跡』には、一応のエンディングは存在する。メインシナリオを最後までクリアすることだ。
しかし、その先がある。
メインシナリオを全て最高評価である『S評価』でクリアし、シナリオAIによって無限に生成されるサブクエストを規定数以上S評価でこなし、さらに、主要な生徒キャラクター全員の好感度を、カンスト値が存在しないこのゲームにおいて、一定のライン(確か100以上だったか)まで上げる。
それら全ての条件を満たした時、AIによる総合評価が100%を超え、『完全クリア』と判定される隠し要素があったはずだ。
RTAや効率プレイばかりを重視していた俺は、実はこの『完全クリア』だけは達成したことがなかった。あまりにも時間がかかりすぎる、ただの自己満足要素だと思っていたからだ。
もし、万が一。億が一。 その『完全クリア』を達成することが、この世界からの脱出トリガーになっているとしたら……?
ありえない。
内心では、そんなご都合主義的な展開があるはずがないと分かっている。
これはきっと、何者かの悪意による俺への罰なのだと。
だが。
(……そうでも思わないと、やってられない)
発狂してしまう。
この虚無と絶望の中で正気を保つには、それくらいの、藁にも満たないような希望が必要だった。
よし、決めた。
目標は『完全クリア』だ。
最短ルートで、最高効率で、全てのイベントをS評価でクリアする。
全ての生徒の好感度を、最適化されたコミュニケーションで稼ぎまくる。
感情を殺せ。心を無にしろ。
俺は鏡に映る『先生』の顔をもう一度見た。
そして、いつものように練習する。
完璧な笑顔を。 口角の上げ方、目元の緩め方、声のトーン。生徒たちが最も信頼し、心を許すであろう理想の『先生』の表情を、声を作る。
うんざりするほど繰り返した調整だ。一種のルーティンのようなもの。
ピコン、と軽快な電子音が鳴った。
執務室のデスクの上に置かれた、大型のタブレット端末が起動した音だ。
画面には見慣れたアイコンが表示されている。
『From: 連邦生徒会長代理』
ああ、始まった。
吐き気を催す、日常が。
俺は深呼吸を一つすると、作り上げた完璧な笑顔を顔に貼り付けたまま、デスクへと歩き出した。
その足取りに、躊躇いは―――もはや、なかった。
ゲーム脳が極まった廃人ゲーマーが、虚無になりながらも圧倒的技能と知識で無双するの、イイよね……。
あと見切り発車なので完結まで持っていけるかは分かりません(唐突)