ステージ上の照明設備は高さ7メートルに組まれていた。「登り切った彼の表情を見て躊躇(ちゅうちょ)があると感じた。あの高さは下で想像するより怖い。リハーサルなどなく、衝動だったから見下ろして驚いたと思う。でも次の瞬間には飛び降りていた」
1984年8月4日に日比谷野外音楽堂(野音)で開かれたイベント「アトミック・カフェ」。主催したプロデューサーの大久保青志(せいし)さんはそう振り返る。
「彼」とは尾崎豊さんのことだ。ステージで、2曲目の間奏中に「飛び降り」を敢行。その後、足を引きずりながら、予定されていた全4曲を歌い切った。「救急車に担ぎ込まれた時には気を失っていました。診断は左足の骨折でした」
このイベントは、核廃絶を訴える音楽フェスティバルで、「アトミック・カフェ」とは、核兵器の恐怖を記録した同名の米映画から取っている。音楽雑誌「ロッキング・オン」の創刊メンバーでもあった大久保さんはそのパイプも生かし、趣旨に賛同してくれるミュージシャンを募った。「苦労しましたが、加藤登紀子さんや広島県出身の浜田省吾さんの協力も得て実現できた」
そんな中で、唯一、自ら出演を申し出たのが尾崎さんだった。前年末に18歳でレコードデビューしたばかりの新人で、フェスに向けての曲も作ってきた。それが飛び降りる直前、ステージでの1曲目に歌った「核(CORE)」だ。
「何か話をしよう…俺はひどく怯(おび)えてる」と始まる詞は、日常の奥深くに潜む不安を吐露する。終盤では「平和の中で怯えているけれど 反戦 反核 いったい何が出来(でき)るというの 小さな叫びが聞こえないこの街で」と問いかける。
大久保さんはフェスの半年後、発行する冊子のため尾崎さんにインタビューしている。当時は米ソの軍拡競争がピークに達していた時期だ。尾崎さんはこんな話をした。
「今いちばん怖いものといえば第3次世界大戦と核の存在です。うちは朝霞の基地(陸上自衛隊朝霞駐屯地)のすぐ近くで…環境的なこともあって割と小さい頃から核のことを考えたりしたほうかな。学校でも社会の授業で『俺たちに必要なのはそんなことじゃない』なんて食ってかかったこともあった」
「商品として売られる音楽には、大切なものが失われているんじゃないかという気がします。僕はあくまで自分の本音を歌にしていきたい。僕の『街の風景』という曲に『誰もが眠りにつく前に』と...
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