1988年に中国から日本に留学した石平氏は、翌年に起こった天安門事件に嘆きながらも自分の進むべき道を模索し、日本への帰化を決意する。
しかし熱意を持って臨んだ帰化手続きは、なんともアッサリとしたものだった。日本国旗すら飾られない簡素な部屋のなかで、たった5分で帰化申請許可は終わってしまったのだ。日本をこよなく愛する国際問題評論家・石平氏が、日本への愛着と自身の帰化体験を語る。
※本記事は、石平 著『帰化人問題――帰化18年、愛する日本のための提言』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
床に正座して迎えてくれた
日本にとっての「在日外国人・帰化人問題」への対処法はいろいろとありますが、最後のところでは、日本社会と在日外国人・帰化人との融和が実現できるかどうかは、やはり在日外国人・帰化人の努力次第です。彼らが自分自身を日本社会、あるいは日本という民族共同体に同化させることができるかどうかに、問題解決の鍵はあるのです。
これに関しては、私は、まさに帰化人の一人として、自分自身の帰化体験から「同化」の意味を考えてみたいと思います。
私が留学のために日本に来たのは昭和63(1988)年の4月です。最初の1年間は、大阪市内の日本語学校に通って「あいうえお」から日本語を学びました。そして、学費と生活費を稼ぐために、毎日、夕方からは居酒屋の地下一階の調理場でアルバイトをしていました。
自費留学生の身で、一人で異国の日本にやってきて、日本語もろくに喋れなかった私は、最初は心細い思いをして、不安の日々を送っていました。それでも日が経つうちに徐々に新しい環境にも慣れてきました。