[さいごのかぎ]Townmemoryの研究ノート

創作物から得た着想を書き留めておくノートです。現在はTYPE-MOONを集中的に取り上げています。以前はうみねこのなく頃にを研究していました。

FGO:空にあいた穴の謎(本当の地球はどこにあるのか)

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 本稿では『FGO』、オルガマリークエスト4(ステラマリー戦)の結末で示された、とある衝撃的な事象について取り上げます。以後内容を明かしますので各自ご対応ください。

 
FGO:空にあいた穴の謎(本当の地球はどこにあるのか)
 筆者-Townmemory 初稿-2025年10月4日
 [奏章4およびオルガマリークエスト4までの情報を元にしています]
 

■その事象とは

 オルガマリークエスト4のラストで、空がガラスみたいにぱりっと割れ、その向こうには虚無しかなかった(宇宙がなかった)という事象がありました。

 それについて、「え?」とか「ほぉ」とか「は?」とか「ムムム」とか、まあいろんな想念が去来したのですが、私はたまたま同時期にミステリ関連の書物を読んでおり、

「あ、これを『後期クイーン的問題』で説明したら、他のことも説明できて面白い感じになりそう」

 という気づきを得ました。以下それについて語ります。


■後期クイーン的問題とは

「後期クイーン的問題」(後期クイーン問題)という問題意識が、ミステリ業界にはあります。法月綸太郎先生が初めて指摘して、笠井潔先生が賛同して、ここ30年の国内ミステリにおける重要なトピックになりました。

(以下お二方は敬称略します。法月綸太郎を呼び捨てにするのはすごく抵抗がありますが)

 後期クイーン的問題とは何なのか。私が理解した範囲内でつづめて言うと、

「作品の中に、必要な証拠が過不足なくそろっていて、そのすべての証拠を総合すると、ひとつの真相を指し示すことができ、別の真相などは決して指し示さない、そういう破綻のない完結した探偵小説世界を作ろうとしてみたが、そんなことは不可能だとわかった

 法月綸太郎がエラリー・クイーンを研究していたら突き当たった問題なので後期クイーン的問題と呼ばれます。「後期」という言葉には、正直あんまり意味はないと思います。

 エラリー・クイーンは、「必要な証拠が過不足なくそろっていて、そのすべての証拠を総合すると、ひとつの真相を指し示すことができ、別の真相などは決して指し示さない」探偵小説を書こうとしました。それ以外の多くの作家もそこを目指してきました。

 その意識のあらわれが、クイーンの初期作品に見られる「読者への挑戦」であったりするわけです。

読者への挑戦
(略)
 技術的には、かくされた棒杭などはひとつもない。ジョン・マーコの死の物語のこの段階において、事実はすべて出つくしている。読者は、その事実をよせ集めて、ただひとりしかない、唯一可能の犯人を指さすことが、論理的にできるはずである。

エラリー・クイーン

エラリー・クイーン『スペイン岬の謎』東京創元社 井上勇訳

 

読者への挑戦
(略)
いまや、物語のすべての細目は、諸君の眼前にある。手がかりはふんだんにある、私は、そのことを諸君に保証する。適当な順序に配列し、そこから出る必然の推理をたぐれば、それらの手がかりは、ひとりの、可能な、唯一の犯人を、絶対にまちがいなく指向している。
《掟》を遵守するのは、私にとっては、面目の問題である。読者にすべての手がかりを提供し・・・・・・・・・・・・・・・なにひとつ秘匿することがなく・・・・・・・・・・・・・・フェアにプレイする掟・・・・・・・・・・。私は、すべての手がかりは、いまや、諸君の手中にある、という。私はさらにくりかえしていう、それらの手がかりは、不可避的に、犯人の型を決定するものであることを。
(略)

エラリー・クイーン

エラリー・クイーン『アメリカ銃の謎』東京創元社 井上勇訳(傍点は原文ママ)

 

 探偵小説にはパズル要素がありますから、「ここまでがパズルの出題で、ここからは解答です。ここまでの情報で、パズルは解けますよ」ということを宣言するわけですね。
 パズルは条件内で解けなければならないし、答えは原則一つでなければなりません。クイーンは、そして多くの探偵小説家は、そこを目指してきました。それは言い換えれば、閉じた空間のなかに、矛盾や過不足のない、ひとつの完結した世界を作ろうというようなことでした。

 法月綸太郎もそれを目指した探偵小説作家のひとりです。が、かれは、数学において「ゲーデル問題」(ゲーデルの不完全性定理)というのがあることを知ります。

 私は数学が苦手なので、正直手に負えないのですが(だから多少おかしくても見逃してくださいよ)、私がギリ理解した範囲でいうと「ゲーデルの不完全性定理」とは、

「《数学》という、ひとつの閉じた世界があると仮定しよう。この世界においては、すべてのものごとが必ず数学によって証明もしくは反証できるにちがいない。でも、確かめてみたら、そんなことは無理だとわかった

 具体的には、「数学という閉じた系の中の情報だけでは証明できない命題を見つけてしまった」。
 これを証明するためには数学の「外側」にあるものを持ち込まないとダメだ、ということがわかった。

 これを見た法月綸太郎は、「これって探偵小説みたいじゃないか」「クイーンの作品が、年を追うごとに破綻スレスレになっていくのを見るようじゃないか」と思われたのですね。

「数学という閉じた世界が宿命的に《不完全》であるしかないのなら、探偵小説の世界もまたそうなんじゃないか」
「作品の中に、完全性をそなえた閉じた世界を作るなんて不可能なんじゃないか」


■メタにならざるをえない探偵小説

 そこでまず疑問が呈されたのは例の「読者への挑戦」です。

 エラリー・クイーンの探偵小説は、探偵エラリーが挑戦して解決した事件を、エラリー自身が文章にまとめて出版したという建て付けになっています。
(だから、探偵の名前がエラリー・クイーン、本の著者名もエラリー・クイーン)

 前掲の引用の通り、読者への挑戦は、
「手がかりはすべて示された。これで解けるはずである」
 と宣言しており、エラリー・クイーンの署名が入っている。

 が。

「手がかりはすべて示された」という保証など、探偵エラリーにはできないはずである。

 なぜなら、探偵エラリーがほんとうに全ての手がかりを見つけたかどうかは、探偵エラリーにはわからないからだ。
 探偵エラリーが得意げに披露する真相とは、探偵エラリーが見つけることのできた手がかりの範囲内において到達できる真相にすぎない。

 もし、別の真相を指し示す未知の手がかりが存在し、それを探偵エラリーが発見できなかったとすれば、それは即座に、探偵エラリーの見つけた真相は間違いだったということになる。
 そして、未知の手がかりが決して存在しないことを、探偵エラリーは知ることが出来ない。なぜなら、探偵エラリーは作中の人物であり、作中の人物には、どこまでが作中なのかがわからないからだ。

 クイーンの小説に書かれた事件が、もし現実に起こった事件だったとしたらどうだろう。それはすなわち、作品の周辺にも世界があるということだ。
 作品の周辺とは、探偵クイーンが足を踏み入れていないすべての空間のことを指す。
 そこに探偵クイーンは足を踏み入れていないのだから、そこにあるかもしれない情報を探偵クイーンは手に入れることができない。そこにあるかもしれない情報を手に入れていないし、そこに情報がないことを確かめてもいない探偵エラリーは、なぜ「手がかりはすべて示された」などと言えるのか。

 別の言い方をするなら、「手がかりはすべて示された」と保証する能力のある、エラリー・クイーンと書かれた署名における、「エラリー・クイーン」とは誰なのか。

 それは、探偵エラリーではないことはすでに示した通り。
 そして、「探偵エラリーが経験した事件を手記にまとめた著者エラリー」でもない。なぜなら、入手できる情報が探偵エラリーと同じだから。同一人物だからです。

「読者への挑戦」において、手がかりはすべて示されたと保証できる署名者エラリー・クイーンの正体とは、

「この事件を実際には経験しておらず、この本に書かれたすべてのことを自分の頭からひねりだして創作した、作者エラリー・クイーン」

 でしかありえません。

 なぜなら、作者エラリー・クイーンは、この作品内世界が創作された架空のものであることを知っています。
 言い換えれば、「この作品の周りに周辺空間というものは存在しない」ということを知っている/決められる立場です。

 そして、未知の手がかりは周辺空間に存在するものなので、彼は、
「未知の手がかりというものは一切落ちていない」
 ということを知っている/決められる立場だからです。

 ようは、この世界は創作されたものであり、この世界は書かれた範囲内しかなく、虚無の中にぽっかり浮かんだものであることを知ることのできるメタ視点にしか、「手がかりはすべて示された」と保証することはできない。

 つまるところ、作者からの「手がかりはこれで全部ですよ」というメタ的な保証がないかぎり、
「必要な証拠が過不足なくそろっていて、そのすべての証拠を総合すると、ひとつの真相を指し示すことができ、別の真相などは決して指し示さない」
 という作品世界など成立しようがない。

 これは「数学の外側から何か持ってこないと数学って完全にならないよね」というゲーデル問題とそっくりだ、と法月綸太郎は思ったのだと思います。

 
 さて、「後期クイーン的問題」にはもうひとつ重要なトピックがあって、これも同様の結論を導きます。

 クイーンの作品は、書き継がれるにつれ、奇妙な方向にややこしくなっていきます。具体的には、

「真犯人が、ニセの手がかりとニセの真相とニセの犯人を用意し、それを探偵エラリーに暴かせる。それは、ニセ犯人をエラリーに断罪させることで、ニセ犯人を破滅させるためだった」

 といった方向性でした。じっさい探偵エラリーは、いったんニセ犯人を犯人として指名してしまい、その後、「いかん、あれは間違ってた」と慌てることになります。

 これは言い換えれば、
「探偵エラリーは、《この事件はここからここまでの輪っかの範囲内で起こっている》と思い込んだが、実際は、輪っかの外側に外周部分があり、真相はその外周にあった」
 ということです。

 じゃあ、探偵エラリーがこれまで解決してきた事件も、同様だったかもしれないではないか。

 これまで探偵エラリーが告発してきた犯人は、実はメタ真犯人によって陥れられた被害者かもしれない。そうでないことを探偵エラリーは知ることができない。

 そうでないことを探偵エラリーは知りようがないのだから(実際その方法でだまされているのだから)、これまで解決してきた事件は、このことひとつで、すべて真実性があやしいものになってしまう。

 そして、ここでいう「真犯人」もまた、メタ真犯人に陥れられたニセ犯人かもしれないのです。そのメタ真犯人も、メタメタ真犯人に陥れられているのかもしれず……。けっきょく、「閉じた探偵小説世界」は、閉じたような気がしていたが、実は無限に外周を想定できる以上、真相を固定することは不可能なのです。それをクイーンは自らの作品であきらかにしてしまった。

 そうやって、メタメタメタ真犯人、メタメタメタメタ真犯人……と話をたぐっていくと、最終的にたどりつくのはやっぱり作者。探偵を操って、自分に都合のいい真相を導いているのは究極のメタレベルにいる作者であるし、「メタメタ真犯人なんて存在しないですよ、この本の最後に書かれているのが本当の真相ですよ」と言えるのも作者しかない。

 結局のところ、「必要な証拠が過不足なくそろっていて、そのすべての証拠を総合すると、ひとつの真相を指し示すことができ、別の真相などは決して指し示さない」という状態を作るためには、この世界すべてを俯瞰し、「この世界はこれだけで全てです」ということを認知できるメタ視点が絶対的に必要だよね、それなしには、探偵小説の世界は完結性をもちえないよね。

 この世界を外部から保証する神か作者の視点がないかぎり、探偵小説の世界が完結性を持ち得ないとするのなら、それってつまり、探偵小説の世界はそれ自体では完結しえないってことだよね。

 探偵小説の作者たちは、作品内の世界がそれ自体で完結性を持つという世界をつくりあげようとして、これまで努力を重ねてきたわけだけど、それって構造的に不可能だよねってことが明らかになってしまいましたね、どうしましょう……というのが、「後期クイーン的問題」ということになります。少なくとも私はそういう理解です。

(このへんで『うみねこのなく頃に』の読者の皆さんは、ハタと、「うみねこって後期クイーン的問題が示唆するさまざまな現象を読者に実体験させる物語だったのかも」と思いついていただいても、私としてはさしつかえありません)

 余談ですが、後期クイーン的問題のことを、「後期のクイーン作品には問題が(瑕疵が)ある」という意味として捉えている人がたまにいるようです。そうではなくて、

「クイーンの作品を読み込んでいくと、探偵小説が不可避的に持つことになる限界につきあたる。その限界に対して、我々作者はどう対応するのか」

 という、「実作者側に」つきつけられた問題だと思います。余談ここまで。

 
 さて、奈須きのこさんはこの話を絶対に知っているわけです。


■後期クイーン的問題への奈須きのこ的アプローチ

 奈須きのこさんは探偵小説の熱心な読者です(とご自分で言っています)。ことに「新本格」と呼ばれる世代の探偵小説に造詣が深い。

 そして、新本格以降、さまざまな探偵小説において、「後期クイーン的問題にどう対応するのか」ということがさかんに試みられてきました。
 それを読んできた奈須きのこさんが後期クイーン的問題を知らないなんてことはありえない。

 さて、ここからは私の推測。

 後期クイーン問題を知り、「探偵小説は、この世界はこれで全てですと保証するメタ視点なしには成立しえないジャンルである」ということを認知した奈須きのこさんは、

「これって、伝奇小説においても同じことが言えるとしたら、どうなる?」

 ということを考えたはずだ、と私は考えるのです。

 自分の書いているような伝奇小説においても、世界を保証するメタ視点がなければ、伝奇世界としての完結性を持ち得ないんじゃないかと考えた(だろう)奈須きのこさんは、
「根源というメタ視点があって、それで初めて世界は実在しうる。もしそれがなければ世界は存在しない」

 という設定を思いつき、これを自作の世界観の中心にすえた。

 根源はメタレベルに位置する作者だし、魔法使いは作者にアクセスできるメタ探偵だ、というような見立ては可能だろう。ちなみに法月綸太郎が後期クイーン問題を論じ始めたのが95年で、『魔法使いの夜』が書かれたのが96年なのでめちゃめちゃに敏感だ。

 そういう設定を中心に置いた上で、時は流れて『FGO』では、

「《閉じた小さな世界を作って、その中を完結的にしよう》と画策する中ボスのところに、俯瞰視点をもつ主人公がやってくる」

 ということがくりかえし描かれる。
 特異点のいくつかがそうだし、異聞帯のほぼ全てがそれだ。
(オシリスの砂が画策したこともそういえるかもしれない)

 このあたりは、「後期クイーン的問題と伝奇」というテーマが頭の中にしみこんでいる奈須さんから自然に出てきたものと解してもかまわないんじゃないか。

『FGO』には、カルデアスという、地球の素敵なミニチュアがある。その中には、自然があって、文明があって、人間がいるそうです。つまり閉じた完結的な世界だ。
 そしてそれを一人の人物が作った。

「メタレベルの作者が、下位の閉鎖的完結的世界をつくりだし、世界とその外側との境界線がはっきりしている」
 これは後期クイーン的問題が(ふんわり)示した「破綻なく完結する世界」の成立条件そのものだ。


■空にあいた穴

 オルガマリークエスト4のストーリー末尾において、空で大爆発が起きました。その際、星空がひび割れ、めくれたように穴が空き、その向こうにはまったく何もないという事象が観測されました。

 

(ネモ)
ソラが……割れてる……?

(ダ・ヴィンチ)
いや。プラズマ球の爆発で、
空想樹の天幕に穴が空いたんだ。でも―――

(ゴルドルフ)
天幕は地球を覆っていた壁であり、
青空は天幕に表示された作り物の映像だった……。

それはとうに知っている。
その天幕が開いたのなら本当の宇宙が見える……

はず、なのだが……

(選択肢)
宇宙が、無い
(選択肢)
地球の外には、何も無い―――

『Fate/Grand Order』オルガマリークエスト4

 

 空に穴があいた。空の天幕の向こうには、あるはずの宇宙が無かった。

 これはいったいどういうことか、について、作中に解はありません(現状では)。

 私は最初、これを、
「我々が地球だと思っていた場所は、実はカルデアスだった」
 という真相解明かなと認識しました。

 まあそんな感じでいいかなとは思ってはいたんですが、「でもちょっと違うような」という感覚もありました。

 そういう感覚を持っていたところに、たまたま後期クイーン問題のことを勉強しなおして、ちょっと認識が変わりました。ということでここからが本論です。

 後期クイーン問題は、
「探偵小説世界はメタ視点の保証なしに完結性をもつことはない」
 ということを示唆します。

 これは、探偵小説世界のみならず、すべての物語世界においてもいえるのではあるまいか。
 おそらく奈須きのこさんはそう考え、自分が主宰する伝奇世界に、この仕掛けを持ち込みました(推定)。この稿の前段までで、そういったことを(私は)語りました。

 で、さらなる推定となりますが、奈須きのこさんはさらに思考を進めて、このようなことも考えたかもしれない。

 これは、すべての物語世界のみならず、我々が住んでいるこの現実世界においてもいえるのではあるまいか。

 ぐだや私たちは、地球のことを「矛盾や過不足がない、完結したひとつの世界」だと思っています。

 でも、今ここに、
「矛盾や過不足なく完結した世界を成立させるには、メタレベルからの保証が必要だ」
 という条件が存在するならば?

 なら、地球が完結したひとつの世界であるためには、メタ世界からそれを保証するメタ視点が必要となるのではないか。


■地球マトリョーシカ

 今、作中に「カルデアス」というミニチュア地球があります。

 カルデアスには地球とまったく同等の環境と文明と人類があって、完結したひとつの世界として成立している。
 カルデアスは、オリジナルの地球というメタ視点があって初めて、完結性を持ちうるものとする。
(だって、カルデアスは地球上の個人が製造したものですからね。いわば、作者が作品世界を見下ろしているようなもの)

 これをさらに、以下のように言い換えていく。

・地球人は、下位世界としてカルデアスを作った。
・カルデアスはひとつの完結した世界であり、地球との置換が可能なほど、地球同等である。
・ならば、カルデアス人類は、下位世界として、下位カルデアスを作ることが可能なはずである。
・下位カルデアスは、カルデアスや地球と同等であるはずだから、さらに下位の、下々位カルデアスを作ることができるはずである。

 このように、地球の下には、無限に下位カルデアスが連なっているはずだと想定できます。

 そして、

・地球は完結性のある世界である。
・完結性のある世界を成立させるためには、メタ(上位)世界の保証がないといけない。

 という仮定がいまここにありますから、

・地球が完結性のある世界だとしたら、それはメタ地球からの保証があるからだ。

 つまり、
「我々がオリジナルの地球だと思っているものは、実はメタ地球から見たカルデアスなのではないか」
 と考えることができます。

 このメタ地球についても、下位世界の例と同じようなことがいえる。メタ地球は、メタメタ地球から見たカルデアスかもしれない。
 メタメタ地球は、メタメタメタ地球から見たカルデアスかもしれない。
 メタメタメタ地球はメタメタメタメタ地球から見たカルデアス。

 そういうのが無限に続くので、想定可能なすべての地球はカルデアスであることになる。

 オリジナル地球は、メタメタメタのつながりのいちばんメタ部分にある。
 ただし、いちばんメタ部分のオリジナル地球は、メタオリジナル地球の産物なので、即座にオリジナル地球ではなくなる。

 このメタメタメタメタメタ地球の連なりですが。
 後期クイーン問題問題における、犯人を陥れるメタ犯人、メタ犯人を陥れるメタメタ犯人、メタメタ犯人を陥れるメタメタメタ犯人……というように際限なく外側にふくらんでいって、真相の位置(真犯人の位置)が無限に後退していってしまう、例のあの構造と同一です。

 後期クイーン問題を考えるときに、真相の位置が無限に後退してしまうのと同様に、オリジナルの地球の位置は無限に後退していってしまう。

 とまあ、このような感じで、地球とカルデアスの関係は、無限マトリョーシカのようなものとして理解が可能そうだ。
(注:あとで別のモデルを提唱します)

 このモデルを想定する場合、地球というのは無限の入れ子構造になっていて、そこに連なっている地球のほとんど全部がカルデアスなのである。
 カルデアスの外側には宇宙はないので(たぶん)、無限に連なるほとんどの地球の外に、宇宙はないことになる。

 とまあ、ひとまずこのように考えると、地球の外に宇宙がなかったという事実は、そんなに衝撃的ではなくなります。だって、ほとんどの地球に宇宙はないんだから。

(そしてこの部分もまた、「世界の周囲に周辺空間などないことを、メタ世界からの視点で保証することにより初めて成り立つ探偵小説世界」という話と奇妙に一致する)

 ただしそのかわり、私たちが守りたいと思っている地球に、「特権性は一切ない」ことになります。だって無限につらなる地球コピーのひとつにすぎないのですからね。

 そうなると、当然のようにひとつ疑問が出てきます。
「本当のオリジナルの地球はどこにあるの?」

 通常で考えれば、マトリョーシカの一番外側に、オリジナル地球があるはずです。

 でも、このモデルの場合、無限にメタ地球を想定可能なので、マトリョーシカの一番外側にあるはずのオリジナル地球はどんどん外側に向けて遠ざかっていき、果てがない。

 このモデルだと、オリジナル地球は「絶対に捉えることのできない仮想上の存在」だ。
 コピー地球(カルデアス、下位地球)はここに無限にあるのに、オリジナル地球は誰も見たことのないものとなる。だって、オリジナル地球は、発生した瞬間にオリジナルであるという属性を失って、コピー地球になるのですから。
 これだと考えようによっては、「オリジナル地球など存在しえない」というのとほぼ同じ。
 本当にそれでいいのか? 宇宙はオリジナル地球の周囲にしか存在しないから、「宇宙など存在しない」というのと同じ意味になっちまう。

 そこで、こういうふうに考え直したいと思います。
「カルデアスが地球を生成したのだ」と。


■メタ地球を作ったのは誰か

 話の流れをものすごく雑に要約して、もっぺんおさらいしますが、

・地球が下位地球としてカルデアスを作った。
・てことは地球はメタ地球が作ったカルデアスのはずだ。
・だからメタ地球が存在する。

 これをさらに恣意的にシュリンクすると、

・カルデアスを作れたってことは、メタ地球があるってことだ。

 これって、もはや、こういうことでしょう。

「メタ地球を生成したのは地球だ」

 メタ地球が地球を生成したのではなく、地球がメタ地球を生成したのである。話の流れからいって、そうでしょう。
 だって地球がカルデアスを作らなかったら、地球がメタ地球のカルデアスである可能性がそもそも発生しないんですもの。「メタ地球が地球を作ったのだが、地球を作った者という設定があるメタ地球なる存在は地球が生成した」のです。
(まったくの余談だけど、これ、神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのだ、みたいな話で個人的にエモい)

 こう考える場合、オリジナル地球の位置は、マトリョーシカの一番外側でなくてもよくなるのです。
 オリジナル地球は、無限マトリョーシカの「どこかの位置」にある。一つずつたぐっていけば、どこかで引き当てられる。たどり着こうとすると永久に遠ざかるような始末ではなくなる。
 宇宙の位置も、無限マトリョーシカのどこかの位置に必ずある。必ずあるので、「宇宙なんてもはやないのと同然になっちまった」という話は無効となる。

 しかしそうなると、以下のような疑問が出てくる。

「地球がカルデアスを作り、地球がメタ地球を生成したのなら、カルデアスとメタ地球の違いはいったいどこにあるのか」


■無限の串団子

 地球がカルデアスを作り、カルデアスは地球上にあるので、カルデアスは下位地球である。これは(ひとまず)いいでしょう。でもその次は?

 地球がメタ地球を生成した。地球はメタ地球上にある。
 でも、地球がメタ地球を生成したんだからメタ地球は下位地球なんじゃないの?

 そして、

 地球がカルデアスを作った。でも、地球が作ったメタ地球が上位地球であるのなら、カルデアスだって上位地球の資格があるんじゃないの?

 このように考えていくと、カルデアスとメタ地球の差はなくなってしまう。もはや同等のものとしか思えない。

 これ、「地球を作ったメタ地球は地球が作った」というすごいパラドックスなんです。そしてパラドックスはTYPE-MOON世界観の独自性の源泉だ。なにしろ「マトに当たってから槍を投げる」世界なんですからね。

 このパラドックスな事態が成立してしまうなら、自動的にこうなるのです。

「カルデアスを作った地球はカルデアスが作った」

 この話の着地点は、
「カルデアスが地球上にあるからといって、カルデアスが下位地球だとはかぎらない」
 ということだ。
 カルデアスは地球上にあるが、地球を生成したのはカルデアスかもしれないのだ。

 ここにおいて、カルデアスと地球とメタ地球のあいだに、上下の差は見いだされないという新たなモデルが発生しました。

 これまでは、カルデアスと地球とメタ地球は、マトリョーシカモデルで説明できました。でもこの三者に上下がないのなら、もはやマトリョーシカではなくなります。

 例えるならば、カルデアスと地球とメタ地球が一本の串にささってる串団子みたいな構造となる。

 そして、カルデアスがカルデアスを作り、メタ地球がメタメタ地球を生成することは以前と同様なので、この串団子は無限の長さがあり、今も無限に長さを伸ばし続けている。

 さて、作中において、カルデアスと地球は置換可能だということが示されています。


■オリジナル地球の位置は可変となる

 置換魔術というのがあって、構成と情報量が同じものは入れ替えが可能だそうです。これをもって、カルデアスと地球の地表が入れ替えられたことになっています。

 それはそれでいいんですが、入れ替え可能なのは表面だけではないんじゃない?

 地球とカルデアスとメタ地球はおそらく構成と情報量が同じだ。この三者は相互にまるごと入れ替えが可能なはずだし、もし入れ替わっていたとしてもこの三者およびそこに住んでいる人類は、入れ替わったことがわからない。

「構成と情報量が同じものは入れ替えが可能」ってことは、質量が無視できるということなので(でないと地表が入れ替えられない)、ますます、「この三者は同じ大きさのお団子」ってことになるわけですがそれだけではない。

 カルデアスのカルデアスと、カルデアスと、地球と、メタ地球と、メタメタ地球が同値であり常に入れ替えが可能ということは、

 地球の無限串団子の中で、「オリジナル地球」の位置は、常に移動が可能だということになる。

 オリジナル地球の位置は一定ではない。どこかの位置に固定されているわけではなく、串団子の無限直線のなかで、いったりきたりできる

 ここで、こういう仮定を導入したらどうなるでしょう。
「表面やそこに住む人間などはそのままに、《オリジナル地球である》という属性だけを置換可能であったら?」

 これは、中身をごっそり置換するよりも簡単そうな魔術だ。だってラベルを貼り替えるだけですものね。

 ここにゴルドルフくんとコピーゴルドルフくんがいる。二人は組成も情報量もまったく同じなので置換魔術で入れ替えが可能。
 でも見分けがつかないから、おでこに「元祖」「コピー」っていうシールを貼って見分けている。

 このシールを最大級の勢いでベリッと剥がして、コピーのほうに「元祖」、オリジナルのほうに「コピー」のシールを貼りなおす。それで何が困るかというと、何も困らない。ゴルドルフくんとコピーゴルドルフくんに差はないので、コピーゴルドルフくんを今日からオリジナルとして扱ってもカルデアにはいっさい支障がでない。せいぜい、「来月からの給料はどっちに支払われるのかね……」と本人がぼやく程度。

 そんな感じで、《オリジナル地球》というシールだけを、地球串団子のなかで自由に貼り替えられるとしよう。そうすると、ものすごく変わることがひとつだけある。

「宇宙はオリジナル地球の周りにしかない」という条件があるからだ。

 オリジナル地球という属性を、無限串団子のどこにでも貼り替え可能なら、それは「宇宙が存在する位置」を、地球の連なりの中から自由に決められるということだ。

(ゴルドルフくんとコピーゴルドルフAくんとコピーゴルドルフBくんのうち、誰に給料を払うかを自由に決められるようなもの)

 そして、宇宙人は宇宙からやってくる。


■宇宙人はどこへ行くのか

 オルガマリークエスト4の冒頭で、ぐだの夢枕に立ったシャーロック・ホームズは、こんなことを述べました。

 

(解明者)
そう。宇宙人は実在する。
これはもう確定事項だ。残念ながらね。

『Fate/Grand Order』オルガマリークエスト4

 

 これを「本当に地球外生命体は飛来しており、地球白紙化は彼らが起こした」と理解する場合。

「オリジナル地球という属性を、地球串団子のどこにでも貼り替え可能」というのは、とりもなおさず、「どの地球に宇宙人を飛来させ、地球白紙化を起こさせるのかを自由に決められる」ということである。

 例えばですよ……。

 宇宙人を捕まえたので、地球人が、宇宙人を人体実験する。
 復讐のために、宇宙人の軍勢が、地球を滅ぼしにやってくる。
 そこでヒョイと、「オリジナル地球の属性」を、カルデアスに移す。
 すると宇宙人の軍勢はカルデアスにやってきて、カルデアスを滅ぼす。

 こんなことができるので、たいへん便利なのです。

 こんな事例がもしほんとに起こったとしたら、地球人の罪に対して、罰はカルデアスに与えられたこととなるので、カルデアス人類は激怒のあまり、ブルーブックを旗印にして、トラオム事変を起こしたくなるよね。

 というのが、「空にあいた穴」の問題に対して、私が思ったことです。以上です。


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