審判は目立たず騒がず 球審の「詰め寄り」問題を考える
4月に完全試合を達成したロッテ・佐々木朗希が後日、別の注目のされ方をした。際どいコースをボールと判定されて不服そうな姿勢を見せたところ、白井一行球審に詰め寄られる一幕があった。選手が審判に文句を言うシーンは何度も見てきたが、審判から突っかかっていったのは珍しい。
映像を繰り返し見たが、佐々木朗の態度は全く問題ないように見えた。あのくらいの態度をいちいち言い出したらきりがない。コーナーいっぱいに決まったと思った球をボールと判定されて、なんとも思わない投手の方が少ない。昔は球審に向かって「おまえ、どこ見てんのや!」などと露骨に文句を言う投手がいた。それと比べれば佐々木朗の〝抵抗〟はおとなしいものだ。
20歳の佐々木朗に判定に首をかしげられ、「この若造が」と頭に血が上ったのだろう。マウンドにいるのが星野仙一さんだったら、同じように詰め寄っていっただろうか。
元阪神の岡田彰布が新聞社の人に頼んで、かつての後楽園球場での巨人―阪神戦の記録を調べたところ、巨人の選手の見逃し三振が一つもない年があったという。驚いたが、納得できるようなところはある。私も中日時代に何度も後楽園での巨人戦に出たが、王貞治さんが打席に立っているとき、「これはストライクだ」と思った球がボールと判定されることがよくあった。長嶋茂雄さんが打者のときもそうだったと聞く。
他チームの投手たちが苦しんだ、いわゆる「長嶋ボール」「王ボール」。もっとも、あれだけの選手が自信を持って見逃した球をストライクには取りづらかったかもしれない。希代の大打者がボールと判断すればボール。そう思わせるだけの格が2人にはあった。
実績の少ない若手が打者だとこうはいかない。ボールと思った球をストライクとコールされて球審の方を見て、「振り向くな!」と一喝された選手がかつては多くいた。試合が長引けば電車がなくなるからと、球審に「初球から打て」と命じられた選手もいた。あれこれ言われたくなければ長嶋さんや王さんのような打者になれ、というメッセージでもあったか。
元審判員の山本文男さんが達川光男(元広島)に話したところでは、際どいコースの球を私が見逃せば「ボールなんだ」と言ったとか。「田尾ボール」もあったのかもしれない。
一方で相性のよくない審判もいた。16年間プレーして、一度だけ4打数4三振を喫したことがある。そのうち2つは完全なボール球をストライクと判定された。「ええかげんにしとけよ」という思いは胸にしまっておくにとどめ、「この人が球審のときは特に追い込まれる前に打たないといけない」と思った。
このときのような明らかなボール球は別にして、際どいコースの球は「ストライク」と判定した方が球審は楽ではないかと思う。よくストライクを取ると思えば、打者は2ストライクからボール気味の球でも手を出す。空振りすれば三振、バットに当たれば安打や凡打に。いずれにしても打者が結果をつくってくれる。
これが、際どい球をことごとくボールと判定していくと、当然、打者は振らなくなる。それだけ球審の判定に委ねられる局面が多くなり、その判定に投手や打者から疑念の目が向けられることが増える。自分で自分の首を絞めるようなものだ。
判断に迷うということは、ストライクとボールのどちらにも取れるということ。ならば積極的にストライクに取り、ゲームを動かしていくのがいいと思う。
考えてみれば、目に見えないストライクゾーンを球が通過したかどうかを判定するのは至難の業。その作業を1試合で300回程度もするのだから、球審は相当に神経を使っているだろう。際どいプレーのアウト、セーフの判定をする塁審も同じ。リプレー検証がされるようになってからは球場のビジョンに審議対象のプレーが映し出され、自らの判定の正否が白日の下にさらされるから、つらいところもあるだろう。
正確な判定をしても感謝されることはなく、リプレー検証で誤審が判明すればたたかれる。つくづく、審判とは厳しい職業だ。だが、正しい判定がクローズアップされないのはむしろいいことだと思う。注目されるべきはあくまで選手。審判は黒子として、いかに目立たずに試合を進行させるかが大切だ。
クロスプレーでアウトをコールするときの大きなアクションや、敷田直人審判員の「卍(まんじ)」ポーズなど、ここぞの判定での個性はどんどん出してほしい。ただし、選手への「威嚇」など、判定以外で前に出てくるのは遠慮願いたい。出しゃばらずに淡々と、正確な判定と試合運営に徹する。その一歩引いた姿勢こそリスペクトを集めるはずだ。
(野球評論家)