発狂練習

いち大学院生の嘆きの壁

証拠その一(そして起こったこと)

証拠その一(その数日前のできごと)に書いたとおり、私がクローズドなMLで「長靴下のピッピ」について言及した2007年5月のある日の数日後、研究室に行ってみると、机の上に付箋が貼られていた。
現在も保存している、この付箋である。

2007年に研究室にいた人々のうち誰の筆跡であるかは、調べてみれば判明するであろう。
そして明確なのは、この付箋の文字の主が誰であるかは別として、研究室のメールサーバを通したメールのやり取りを、研究室の何者かが傍受していたことである。
メールサーバの管理を任せられていたSやN(当時B4)かもしれない。
研究室を仕切っていたU(当時D2)かもしれない。
付箋の文字の主は彼らかもしれないし、彼らから情報を得たPIかもしれない。
あるいは研究科? 大学? 研究室のネットワークシステムは、大学および研究科ネットワークシステムの中にあった。でも、それは考えにくい。

研究室のメールサーバやメーリングリストシステムを利用した、あるいは利用しないことによる嫌がらせは、その後、2010年4月2日(実質的にはこの日)に私が研究室を追われるまで続くことになった。

証拠その一(その数日前のできこと)

2007年5月、私が問題研究室に所属し始めて間もない時期のこと。
あるメーリングリスト(当時も現在もクローズド)に、東京の住まいから、以下の投稿をした。
当時、このメーリングリストには、研究室のメールアドレスと自分のメールアドレスの両方で参加していた。

Sat May 26 06:25:57 UTC 2007

Hello from Tokyo, now I'm watching the beautiful blue sky of afternoon.

> Hi!
>
> I am not sure, how famous "Pippi Longstocking" is outside europe,
> therefore I would like to recommend these books of the swedish author
> Astrid Lindgren.

"Pippi Longstocking" is very famous in Japan too.
As far as I know, in 1970's, there was very good translation into
Japanese, when I was a pupil of elementary school.
I also remember, TV drama or animation of the novel was broadcasted in
Japan at the same time frame.

Now, young girls in Japan are loving "Pippi Longstocking" too.

数日後、大学院の研究室に行き、机の上を見た私は、びっくり仰天することになった。

今朝見た夢

山の中の別荘のような場所で、元研究室のメンバーが合宿をしていた。
その別荘には大きな窓ガラスがあった。
研究室は、申し分なく運営されているようだった。
厳父として振る舞う元指導教員に、慈母のような女性の助教がいて、厳しくも温かい雰囲気でゼミが行われたりなどしていた。
そのうちに夕食時になった。
元指導教員たちメンバーは、湯気の立つ食事を、談笑しながら食べていた。

私はその建物の窓ガラスを磨きつづけていた。
濡れた雑巾で、空雑巾で、それから新聞紙で。雑巾も新聞紙もボロボロになってしまった。
別荘の管理人は私に、窓ガラス磨きを終えることを許さなかった。
私は周辺の木の葉をむしっては、窓ガラスを磨き続けた。
身体中を蚊に刺された。
やがて夜が更け、元指導教員たちは眠りについたようだった。
私はその場に倒れた。
別荘の管理人が近づいてきて、私の顔面を踏んだ。
そこで目が覚めた。

今朝見た夢

私は2012年9月に、問題の大学院を単位取得退学した。半年が経過し、だんだん、記憶が薄れてきた。
もう、あの大学院での出来事と無関係に新しく人生を歩みだし、ドブに捨てたも同然の時間・エネルギー・気力・自信・お金などを少しでも取り戻せれば。
そう思っていた今朝、夢を見た。

私は有楽町駅周辺にいた。その大学院のある、茨城県のマンモス大学の発表会に行ったのだった。
毎回、私の参加している団体に発表会の案内メールが届く。私はその大学の名前を見たくもない。メールは見るなりゴミ箱に捨てているのだが、なぜかその時は行ったようだ。
そこには、元指導教員と研究室のメンバーがいた。元指導教員は尋常に私に挨拶し、「これから飲みに行くのだけど」と誘った。私は応じることにした。
研究室のメンバーには、弱視のB4がいた。元指導教員の取り巻きに入ることができず、浮いていた。というか、元指導教員は、本音ではそのB4を早く放り出したいような感じであった。そうだろうなあ。彼は、弱視であることを除いて、普通のB4に見えた。元指導教員は、自分の手柄にできる障害学生が欲しいんだから、普通のB4ではダメなのだろう。
私は、彼の手を自分の肩に置かせて誘導した。
信号が変わった時に、その弱視のB4と私は信号のこちら側に取り残された。元指導教員らは私たちを待つこともなく歩いて行った。こちらをちらりと見ていたから、取り残す意図がありありだった。腹も立たなかった。こういう人なんだから。
信号待ちの間に、弱視のB4に
「デバイス物理がやりたいの?」
と声をかけた。彼は
「どうしてもこれじゃなくちゃということはないんですけど、なんとなく」
と答えた。私は
「じゃ、悪い事は言わない。今のうちに研究室異動したほうがいいよ。あの先生、障害者が嫌いだし、差別してはいけないとか、本音では全然思ってないから」
と話した。彼は
「でも、障害学生支援室の先生に『あの研究室には過去にも車椅子の院生がいたことがあって、先生はそれは良く配慮していた』と聞いてます」
と言った。私は「ああやっぱり」と思った。元指導教員は、外面を整え、アリバイ作りをすることにかけては完璧なのだ。私への配慮といって機器を導入したり研究室環境を整備したりはするのだが、それを実際には私には利用させない。私がいたときに、そんなことは日常的にあった。
信号が変わった。信号を渡ったら、元指導教員らの姿は全く見えなかった。私は、自分の電話に、過去の元指導教員からの着信履歴があることに気づいた(実際にはない)。そこで、電話してみた。元指導教員は
「あなた、なんでこの電話知ってるの? 警察がなんで禁止してくれないんだ、言っといたのに」
と言った。

そこで目が覚めた。

許せない言葉

2009年12月ごろのこと。

元指導教員であったZ氏が、私に
「言われたことだけやってりゃいいんだよ」
と言った。
中年の年齢に達している私が、いくら元指導教員とはいえ同年代の人間に、なぜ、そんな屈辱的な扱いを受けなくてはならないのだ。
私が「言われたことだけ」やっていれば、学位が取れるというのだったらまだいい。
○年間限定の奴隷奉公を、その○年間限定だから、という理由で甘んじて受ければ済む話だ。
でもZ氏は過去に、意に反して就職した院生に、学位を与えなかったことがあった。
Z氏の言うことを聞いたら、きっとロクな目に遭わないだろう。
そして今や、博士号は、得られたからといって何も保証しない肩書きになり果てている。
Z氏は、「言われたことだけ」やらせた代償に、何を保障できるというのだ。何も保障できないくせに。
でも、Z氏には言う権利があった。私は黙って言われっぱなしでいるしかなかった。

私は未だに、この時のことを思い出して、時々泣いている。
そして、絶対に許さないと思いを新たにする。
いつか、いつか立場を逆転させて、同じ屈辱を相手に与えてやりたい。

風景が変わった

Z研究室を離れて1.5年が経過した。
私は長い間、PTSD様の症状に苦しめられていたが、8月あたりから軽減してきたのを感じた。
したかった研究がどうなるのか、奨学金という借金を背負った私の人生がこれからどうなるのかは分からない。
しかし急激に、X研究室も、そのメンバーも、X教授のシンパも、非常に下らない存在に見えてきた。
彼らはこれからも、私が私の人生を切り開いてゆくことを妨害するのだろう。
私が何らかの形で成功することは、彼らの名誉を著しく傷つけるからだ。
でも、それは「下らない人間だから下らないことをする」という、当然のことに過ぎない。
何をされても、「下らない人間の下らないこと」と、見下してやればいいのだ。彼らの研究も含めて。

だけどその「下らない人間」と関わって浪費してしまった時間は、もう戻らない。それが悲しい。

予想通りの上塗り

私はZ研究室を去る時に、
「おそらくZ氏は、Z研究室を女性・障害者にとって居心地よい場所にせざるを得ないだろう」
と思った。
風俗店の「花びら回転」ではないが、男は女をどれだけでも取り替えることができる。自分にとって都合のよい女が現れるまで。男性社会というのは、どこも似たり寄ったりだ。企業も大学も。
私は「均等法」直後に電機メーカに入社し、男性社会で女性がどのような目に遭うか、「生物学的に殺される」を除いて全部経験したという自覚がある。私にセクハラ・パワハラを尽くして追い出した後、元上司たちはそこに扱いやすそうな女性を受け入れ、それなりに職業上の成功をさせた様子である。そうすれば、
「悪いのはあの女、自分たちは問題がない」
という状況証拠を作れるからである。
Z氏も同じようにするのだろう、と私は思った。であれば、Z研究室は、今後当分の間、女性や障害者にとって悪くない場所になるかもしれない。そして私は、女性の障害者として、そのことに正面から異議を申し立てるわけにはゆかない。マイノリティが少しでもマイノリティでなくなるためには、数が増えなくてはならない。増えた人、活躍しやすくなった人は、私を軽蔑することだろう。自分は状況に恵まれたから成功したわけじゃない。成功しなかったあの人達は、本人たちが悪かったのだ。そう考えないと、本人が辛いだろう。こうして、マイノリティは、マイノリティでなくなろうとして、分断されてゆく。そんな歴史の流れ、生まれてから40年以上で、腐るほど見てきた。今回もそうなるのだろう。そうしかなりようがない。

先日、久々に、Z研究室のメンバーリストを見た。若い女性の助教が迎えられていた。その助教は、この時の女性であるようだが、確信は持てない。
Z氏は、研究室運営がうまくゆかない理由として、教員が少なすぎることを挙げていた。それは事実であろうと私にも思われた。
諸悪の根源である私を追い出し、教員を増やせば、Z氏はZ研究室を問題なく運営できるはずである。
Z氏は常に正しくて、Z研究室のメンバーは、私を「あれ」「それ」と呼んだことを含めて正しいのであろう。そのように、Z氏が状況証拠を作っていくであろうからである。
来年あたり、Z研究室には障害者が迎え入れられるのだろうか。私と違って、優秀で協調性があることにされるのであろうか。従って、私の問題は、私が個人的に悪く、Z氏にもZ研究室の私以外のメンバーにも問題がないということにされるのであろうか。
この成り行きは、私にとっては最悪の成り行きであるが、最もありがちな、他の成り行きになりえないパターンである。
私は2009年の6月ごろ、Z氏が私に「TAをやらないか」という話を振ってきたときに、この、自分にとって最悪の成り行きを予測していた。
そして、対策を立て、実行し始めた。