一読者の感想。日経さん。あんたはそんなに偉いんか?

 

新聞の見出しに「暗躍するトランプ氏」とあった。たしかに記事本文には暗躍や「介入の意向」「牽制の声」といった冷静な記述も見られる。だが、見出しの一言に私は足を止めた。

 

「暗躍」という語には、裏で悪だくみをするという強いニュアンスがある。読者に「この人物は信頼できない」という印象を先に植え付ける。報道機関が客観を装いながら、さりげなく色をつけてくる。ここに私は「鼻につく」ものを感じる。

 

日経の読者層は、事実と数字をもとに自分で考えたい人々だろう。にもかかわらず、わざわざ感情的な語を添えて「どう受け取るべきか」を誘導する。それはまるで「お前らは自分で判断できまい、だからこう導いてやる」と言わんばかりの態度に見えてしまう。

そんなとき、胸の奥で自然に声が湧き上がる。


「あんたはそんなに偉いんか」。

 

報道とは、導くことではなく、材料を提示することではなかったか。言葉の一滴に込められた傲慢さは、記事そのものの信頼を損なう。結局のところ、トランプ氏よりも、記事を書いた側の姿勢にこそ眉をひそめたのである。

佐々木閑のYoutubeシリーズを見ていて思った。

氏は釈迦の教えを一言で言うなら諸行無常だという。

 

佐々木氏は釈迦の教えでさえ諸行無常と捉え、いずれ滅びると言う。仏教は万人向けの宗教ではないともいう。そして何より、わたしなるものはひと時の五蘊の集まりに過ぎないと。

紀野一義氏は虚しさを突き抜けた先の空だという。また、人生は肯定、肯定、肯定だと。

立川武蔵氏は空にはひと時も住むことはできない、この娑婆に戻らねばならないと言う。

幼年期の終わりではアーサークラークは地球上から全ての思想哲学的宗教が消え去り、東洋の素朴な宗教だけが残ったと印象的に締める。

 

夢も希望もない突き放し方ではないかと思うが、四氏はその先にある虚しさを突き抜けた世界を釈迦の悟り、仏教の悟りと捉えている。おそらくこの四氏に連携はない、生きた時代も違う。しかし奇しくも同じ結論に達しているように思う。

 

このことが心底理解できればわたしも一皮剥けるのだろうな。いや そんなわたしも実は存在しない。

三島由紀夫の豊穣の海の言葉 そんなお方は元々存在しやはらへんのと違いますか。がリフレインする。

 

特筆すべきは紀野一義氏だ。人生は何があろうと肯定、肯定、肯定だとおもいきれ。確かにそうだなと思う。

諸行無常も肯定する。

 

この先に大乗の萌芽がありそうだ。

バリで食べたレンダン

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今頃になるとバリの食い物を思い出して無性に食いたくなる。

 

オレンジ色の大皿に盛られた料理が、テーブルに運ばれてきた瞬間、思わず息をのむ。深い褐色に煮込まれた牛肉の塊が、どっしりと中央に鎮座している。インドネシア料理を代表する「レンダン」だ。

 

牛肉は長時間ココナッツミルクと香辛料で煮込まれていて、繊維がほろりと崩れる。甘さ、辛さ、そしてココナッツ由来のやわらかなコクが口に広がる。

 

日本のカレーのようなとろみはないが、スパイスの香りは凝縮され、濃密な余韻を残す。

 

横には白いご飯。バナナの葉で三角に包まれたその姿は、ただの主食を「ご馳走」に変える。葉を開くとほのかな青い香りが立ちのぼり、南国の食卓らしさを一層引き立てる。

 

ご飯の上に散らされた揚げたエシャロットが、香ばしいアクセントになっている。

 

小鉢にはサンバル。青唐辛子のペーストで、一匙口に運ぶと鋭い辛さが舌を刺す。それを白飯と一緒に頬張ると、レンダンの重厚な旨味がぐっと引き立つ。辛さと旨味のせめぎ合いが、この料理の醍醐味だ。

 

皿の片隅には、軽やかに揚がったクルプック。パリッと噛む。サラダの紫キャベツやパセリが添えられていて、見た目の彩りも鮮やかだ。

 

サヌールのタンブリンガン通り、オープンテラスで食べる。じんわりと汗はにじむが、口が火を吹くほどではない。

 

レンダンは「世界一美味しい料理」とも評されるらしい。大げさだと感じないのは、南国の太陽の下で、ゆるやかな時間とともに味わうからだ。皿の上の一品が、旅と幸せを刻印する。

大谷翔平の活躍を見ていてふとバッテリーに対する思いに飛んだ。野球のバッテリーと蓄電池のバッテリーはどこでどうして同じ言葉が使われるようになったのか。ChatGPTくんに聞いてみると、なるほどね。


語源

  • ラテン語 battuere(打つ、叩く) → フランス語 batterie(打撃するもの、砲列)

  • 英語に入って battery=「並べたもの・組み合わせ」 の意味に広がった。


野球のバッテリー(投手+捕手)

  • アメリカ野球で「投手と捕手の組み合わせ」を battery と呼ぶようになったのは19世紀。

  • 投手を「砲」、捕手を「砲台」に見立てて、「バッテリー(砲列)」と表現。

  • 今も「バッテリーを組む」という表現が使われる。


電池のバッテリー

  • 18世紀にベンジャミン・フランクリンが雷実験で「複数のコンデンサを並べて放電させる」装置をbattery of Leyden jars と呼んだ。

  • そこから「電池」= battery という意味が定着した。


共通点

つまり「野球のバッテリー」も「電池のバッテリー」も、
『複数を組み合わせて一つの機能を果たすもの』 という語源を共有している。

  • 野球:投手+捕手で「攻撃の起点をつくる組み合わせ」

  • 電池:複数のセルで「電気を生み出す組み合わせ」

 

小さな記事が告げた大きな転換

2025年9月17日、日経の一面でもなく、目立たない片隅に載った一本の記事に私は震撼した。
それは「NTT、通信管路60万kmを水素の道に」という短い報道である。

一見すると、地味で技術的な話題に過ぎない。だがその裏に潜んでいるのは、日本の未来を決定づけかねない巨大な構想である。


宝の山が開かれる

通信管路とは、かつて電話線や光ケーブルを通すために全国に敷設された地下インフラだ。
その総延長はおよそ60万キロメートル。地球を15周できるほどの距離である。
加えて全国には7000の局舎が点在する。これらは光ファイバ網の中継拠点であり、耐震設計、電源設備を備え、都市や地方の中心に立地している。

普通の人々の目には「古びた通信設備」でしかないかもしれない。だが、これはまさに宝の山である。
その潜在力に私はずっと注目してきたし、繰り返し「ここに未来が眠っている」と指摘してきた。


光の道の夢と忘却

思い起こせば十数年前、「光の道構想」が日本を揺るがせた。
光回線を共同管理会社が引くという壮大な夢を、孫正義氏が掲げたのだ。
だが、政治的な壁、費用対効果の議論、そしてスマホの普及という時代の転換により、この夢は霧散した。
「光の道」は過去の話題となり、国会やメディアで繰り返されたNTT法論争も、結局は古びた枠組みをなぞるに終わった。

その結果、私たちの眼差しから管路や局舎の存在は遠のいた。
「過去の資産」と見なされ、宝の山は眠り続けた。


しかし今、状況は一変している

AIの進化は、想像を超える速度で電力を食い尽くしている。
データセンターは都市規模の電力を必要とし、冷却と安定供給が最大の課題になった。
再生可能エネルギーだけでは賄えず、原子力や水素といった新たな解決策が求められている。

 

そのとき、NTTが静かに差し出した答えが「通信管路を水素の道に」という静かな構想だった。
管路に二重配管を施し、水素を運ぶ。


局舎には燃料電池を設置し、自立型のマイクロデータセンターとする。
光ファイバは同時にセンサーとして漏洩を検知し、安全を担保する。

通信とエネルギーが融合し、AIの心臓部に電力を送り込む。


これは単なる技術ニュースではなく、AI時代の基盤インフラを握る戦略の始動だと受け止められてはいないようだ。


一人勝ちの予感

ここで重要なのは、同じ規模の資産を持つ競合が存在しないという事実だ。
KDDIもソフトバンクも、残念ながらこれだけの管路や局舎を有してはいない。
新たに掘削し、導管を敷設するには莫大なコストと時間がかかる。

そしてNTT法改正では管路や局舎について大きな議論もなかった。

この資産の強力さに競合他社が気がついていないのかもしれないが。

 

つまり、NTTが動き出した瞬間に、他社は一歩も動けない
これは「独占的地位」ではなく「唯一無二の立場」と言ってよい。


かつて世界一の時価総額を誇ったNTTが、再び覇権級のプレイヤーに浮上する日が近いと感じた。ただしNTT経営陣が気がついていればだが。


独占をどう見るか

かつて私たちは、新電電としてNTTの独占を批判し、戦った。
競争のない市場は停滞を生み、国民の利益を損なうと信じていたからだ。

 

だが、AIエナジーグリッドという国家級のインフラにおいては、話は異なる。
管路や局舎といった自然独占型資産は、二重化しても無駄である。
むしろ一本化し、速度と効率を優先した方が国益に適う。
独占はかつてのように弊害一辺倒ではなく、うまく管理すれば極めて国際競争力に富む存在となり、トランプ政権を見ても戦略的に管理すべき国家資産の形になりつつある。


このテーマに、再び「規制か自由化か」という議論の余地はほとんどない。
日本が立ち遅れる余裕はないと国民が理解し始めているからだ。


小さな記事に震撼した私は、その震えを胸にしまいこんだ。

クスコの石段にて

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石畳の道に沿って高く積まれた石段。その一段一段が、人の腰をちょうど受け止めるくらいに磨かれ、雨や風に削られて角がやわらかくなっている。そこに子どもたちが群れになって座っていた。

 

赤いセーターを着た少女は、両腕を腰に当てて立ち、弟らしき子の遊びを見守っている。青いジャケットの少年は、大人に抱きかかえられて安心しきった顔を見せている。誰かは石段の縁に腰をかけ、足をぶらぶらと揺らしている。笑い声が小さくはじけ、その音が壁に反響する。

 

背景には白壁の家。そこには「DOLLS」「PUPPEN」「WALDORF」と三か国語で書かれた看板がある。観光客向けの工房なのだろう。だが、石段に集う子どもたちはそんな文字に目を向けることもなく、ただその場所を自分たちの居場所として使っている。旅人の目に映る「異国情緒」とはまるで別の、地元の生活の匂い。

 

石畳には、何世代もの足跡がすり減らしたような艶があった。陽射しは強いはずなのに、高地の空気は乾いて澄み、風が頬を撫でるとひんやりとした冷たさが混じる。その冷たさと、子どもたちの体温の対比。そこに旅人である私は立ち尽くし、ただ「ここに人が生きている」という当たり前の事実に圧倒されていた。

 

すでに19年になる記憶。

 

AIの時代に入って、初めて「電力不足」という現実があらわになった。
NVIDIAのGPUは飛ぶように売れ、ChatGPTのような大規模言語モデルが社会を席巻する。だが、その裏でデータセンターのラック一つが百キロワットに迫る電力を飲み込み、米国全体で数十ギガワットもの追加供給が必要だと試算されている。

これまで電気は、空気や水のように「当たり前のもの」として流れていた。いまは違う。電力がAIの成長を縛る。未来が、送電線の先で待たされる。


小型炉Okloの夢と現実

この壁に挑もうとしているのが、米国のベンチャー企業Okloだ。Auroraと名付けられた小さな原子炉は出力1.5メガワット。将来的に10〜50メガワット級を構想しているが、NVIDIAが押し広げる電力需要から見れば桁違いに小さい。

小さすぎる、という指摘はもっともだ。それでも小さいからこそ置ける場所がある。データセンターの隣に、遠隔地の小さな町に、軍事拠点に。巨大な原発では対応できない柔軟さ。

使用済み燃料を再利用するという発想も独特だ。廃棄物を資源に変えるという点で、倫理性を備えた技術としての物語を持つ。CEOジェイコブ・デュウィットはMIT出身の若手で、技術者でありながら未来を語るストーリーテラーでもある。

ただし現実は厳しい。規制は重く、NRCの審査は遅れがちだ。株価は投機的な乱高下を繰り返し、一基の実証炉が動くかどうかにすべてがかかっている。


大型炉とテック大手の論理

その一方で、マイクロソフトやグーグルのような巨大企業は数百メガワットからギガワット単位の電源を必要としている。資本力、規制対応、国家との連携――すべてを兼ね備えた彼らは、いずれ大型炉を握り、エネルギーの支配層になるかもしれない。

小型炉は消えるのではなく、散らばって生き残るだろう。1000基が集まって一つの大型炉になるというよりも、1000の場所に1基ずつ。補完的に、隙間を埋めるかたちで存在感を持つ。


再エネの行方と政治の影

原子力だけが解ではない。Stargate計画ではまずソーラーとバッテリーが導入される。だが太陽光パネルの大半は中国製。もしトランプの反発に遭えば、その依存構造は一気に政治的リスクに変わる。

米国製や同盟国製への切り替え、天然ガスや小型炉との併用。クリーンエネルギーの未来は、技術の進歩よりもむしろ政治の都合に左右される。当然だろう。


ペロブスカイトというもうひとつの賭け

日本が描く未来は、ペロブスカイト太陽電池に託されている。軽く、薄く、柔軟。都市の壁や窓に貼りつき、街並み全体を発電所に変えてしまうかもしれない。政府は2040年までに「原発20基分」の電力をPSCで賄うと宣言した。

だが私はいま77歳。2040年は、ただの未来予測ではない。自分の寿命と重なる時間だ。若い研究者にとって十五年先は通過点にすぎない。だが私にとっては「生きているうちにその風景を見届けられるかどうか」という切実な問いになる。


技術と寿命の交差点

技術の時間は人間の時間と同じ速度では流れない。
2035年、私は80代の途上にいる。もしそのとき都市の壁面にペロブスカイトが貼られ、カフェの窓が昼の光で電気をつくっているのを目にできるなら、それで十分だ。

未来を信じるとは、きっとそういうことだ。技術の寿命と人間の寿命が交差する、その瞬間をどこまで見届けられるか。その問いのなかで、私はOkloを、Stargateを、そしてペロブスカイトを眺めている。

新年三日の夜、NHKの「ニューイヤーオペラコンサート」が放送される。1958年から続く長寿番組である。だが近年の視聴率は関東地区で 個人1%前後。舞台は華やかに見えるが、国民全体の関心は限られている。NHKが貴重な時間帯に貴重な電波で流す必要はあるのだろうか。それでもNHKは打ち切る様子はない。(個人的には歌舞伎公演などを流してもらいたいが)

 

国は、音大やオペラ団体に補助金を投じ続けている。果たしてこれは誰のための支出なのだろうか。貧困オペラ歌手の拡大再生産政策はやめるべき時に来ている。


鹿鳴館の残滓

明治の鹿鳴館は、外務卿井上馨の主導で1883年に建設された。ドレスと燕尾服に身を包んだ舞踏会は「文明開化」の象徴とされたが、当時の新聞や国民からは「借り物の虚飾」と痛烈に批判された。外国人の歓心を買うために、実態以上に西洋風を装った空間だったのだ。

 

あれから百四十年。私たちはまだその呪縛から抜け出せていない。オペラは日本人の生活から自然に生まれた文化ではない。にもかかわらず「高尚」「格式」といった幻想がまとわりつき、若者を音大や芸大声楽科へと誘い込む。欧米ではおそらくそのようなアカデミック化はされていないだろう。

 

問題は出口である。卒業後にオペラ歌手として生活できる人はごく少数。(ネットでそのような食えないオペラ歌手の声は結構散見される。)

 

多くは合唱団や音楽教室、アルバイトで糊口をしのぐ。学費を回収できずに苦しむ人もいる。にもかかわらず大学や国は補助金を投じて「夢」を温存し、旧態依然の仕組みを延命している。一方でロックやポップスは補助金などはない。おそらく米国でもそんな補助金はない。

 

鹿鳴館的な見栄え優先の構造は、現代のオペラ補助にも引き継がれている。果たして引き継ぐべき文化遺産なのか、今一度考えてみる必要があるよ。


補助金の現実を数字で見る

制度 年度 金額規模 傾向
芸術文化振興基金(舞台芸術・音楽) 令和5年度 約9.6億円/51件 クラシック・オペラ中心。ジャズは数件、ロックはほぼ皆無。
芸術文化振興基金(舞台芸術・音楽) 令和7年度 約11.7億円/48件 同様の構造。岡崎ジャズストリート、横濱ジャズプロムナードなど少数採択。
新進芸術家海外研修制度 令和5年度 約1.9億円 留学支援の大半はクラシック専攻。声楽・器楽が中心。
クリエイター支援基金(音楽分野) 令和4年度 計7.2億円/4件 読響1億円、二期会1億円、KAJIMOTO3億円、例外的にドワンゴ(VOCALOID)2.2億円。

数字を見れば一目瞭然だ。クラシックやオペラには厚く、ジャズは点在、ロックはほぼ不在。例外的にボカロ系に大規模支援が出たが、これは企業主導のプロジェクトであり、若手個人支援とは性格が異なる。


科学技術分野との比較

一方で、科学技術への投資はどうだろうか。

  • **科学技術振興調整費(文科省)**は令和5年度で 約3,900億円

  • AI戦略や量子研究といった次世代基盤は、数十億円単位の予算にとどまる分野もある。

  • 芸術分野の補助金は一件ごとに数千万円規模。オペラ団体が数億円を得ることもある一方で、若手科学者が博士課程で月20万円を得られず苦しむ現実がある。

つまり、額面で見れば科学技術投資は圧倒的に大きいが、その配分の内実を比べるとバランスの悪さが浮き彫りになる。オペラの幻想維持に年間数億円が回り、AIや量子の若手育成に十分な生活支援が届かない。
鹿鳴館的な「文化の見栄」に資源を割くより、未来を拓く科学への投資に厚みを持たせるべきではないだろうか。


若者を誤導する構造

音大のパンフレットには「世界に羽ばたく声楽家を育成」とある。だが実態は、卒業後に声楽一本で生活できる人はごく少ない。補助金で維持される仕組みが幻想を温存し、若者は「夢がある」と信じて門を叩く。だが出口は狭く、生活は不安定。

一方、ロックやジャズは補助なしで生き残ってきた。忌野清志郎に国の補助はなかった。だが彼の歌は時代を突き刺し、多くの人の心に残った。ジャズメンたちはライブハウスで研鑽を積み、支援なしでも世界に出ていった。必要とされる音楽は、補助金がなくても残るのだ。


結びに

鹿鳴館の舞踏会がそうだったように、外向きの見栄を整えるための文化政策は、いずれ時代に取り残される。華やかなオペラの舞台の裏で、若者が夢と現実の落差に苦しみ、税金が旧態依然の仕組みを延命している。この循環を断ち切らなければならない。

文化は本来、自然体でよい。市場と観客に選ばれて残るものこそ真の文化である。国は文化の虚飾を繕うより、未来の科学技術に思い切って資源を振り向けるべきだ。あるいはロックやポップスなどにバランス良くだ。鹿鳴館的な補助から卒業する時が来ている。