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竹内伊知さんの死を悼む

竹内伊知さんの死を悼む

 2009年7月27日、私たちは竹内伊知さんを失った。竹内さんとは晩年の、比較的短い期間の付き合いであった。小松基地爆音訴訟に出席する時に、軽く会釈をする程度であったが、1990年代半ばごろから親交を深めることができた。

 1997年北朝鮮が食糧危機に見舞われたときに、竹内さんから「朝鮮の子どもたちに美味しいお米(コシヒカリ)を贈ろう」との呼びかけが発せられた。トラックで2回、新潟港の万景峰号に運び込んだ(沖縄小松連帯実行委員会)。朝鮮人排外主義が吹き荒れているときだった。

 1998年10月には元長崎市長の本島等さんの講演集会を共に担い、200人の参加者を集めた。2000年3月には、ふたりで沖縄を訪問し、名護市辺野古でたたかう人々に合流した。

 2000年8月に、石川護国神社に大東亜聖戦大碑が建立され、小松基地問題研究会の調査(2001年2月)で、聖戦大碑が石川県公園緑地課の許可を受けて、本多の森公園に建立されたことが明らかになり、石川県の責任を追求する運動が一気に盛り上がった。

 2001年3月、竹内さんと李鎮哲さん(第2次不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会共同代表)とともに3人で東京に走った。ハンギョレ新聞東京支社を突撃訪問して、大東亜聖戦大碑についての記事執筆を要請した。谷本石川県知事が訪韓するその日(4/11)に、写真とともに聖戦大碑を批判する記事が掲載された(写真)。

 2002年5月、防衛庁文書公開請求者の身元調査が暴露された(毎日新聞)。竹内伊知さんと小松基地問題研究会も身元調査の対象となっていた。竹内さんとともに防衛庁の責任を追求し、防衛庁官房長の失脚、有事3法を断念させる闘いに発展した(6月)。竹内さんはこのたたかいの中で、病に倒れ、その後も、病とたたかいながら9条改憲反対のたたかいを貫き、2009年に永眠された(83歳)。

 竹内さんとはわずか数年間だったが、親しい関係を結び、たたかいを共有することができた。竹内さんは1975年に「ファントムお断り」を掲げて小松市長選挙に臨み、当選した。防衛庁と格闘の末、「10・4協定」を締結した。小松基地問題研究会は「10・4協定」を「毒饅頭」として、竹内さんを批判した。しかし、その後、「10・4協定」は小松基地爆音訴訟の拠り所となり、小松基地の野放図な訓練拡大の足かせとなってきた。

 竹内伊知さんは大きな役割を果たして、この世を去った。来年の春は、竹内さんが植えた桜並木のもとで、お酒を酌み交わしたいと思っている。
2009年12月29日

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それから、8年が過ぎた

 お葉書ありがとうございました。2009年に竹内伊知さんが亡くなって、もう8年近くになりますが、忘れられないことがいくつかあります。

 ひとつは、2000年8月に護国神社境内に建てられた大東亜聖戦大碑のことです。撤去運動が始まり、翌年2001年3月だったと思いますが、谷本石川県知事が4月に訪韓するという報道を見て、竹内さんから韓国の新聞にこの問題を書いてもらえないかという提案が出ました。
 在日朝鮮人の李鎮哲さんに相談し、ハンギョレ新聞の東京特派員に会いに行こうということになり、3人で行きました。この時の決断の早さが効を奏して、谷本知事が訪韓中の4月11日付の新聞に写真とともに掲載されました。75歳の伊知さんの決断が光っていました。

 ふたつ目は、1997年北朝鮮が冷害で食糧危機に陥り、隣人にコメを送ろうという運動が始まり、少しでも多く送ろうということで、わたしがタイ米を提案したのですが、伊知さんは「わたしたちが食べておいしいと思う米を送りましょう」と言い、コシヒカリを送る事になりました。
 全国からお米が集まり、大型トラックに満載して、新潟港に向かいました。71歳の農民伊知さんの食にたいするこだわりと優しさが見えました。

 3つ目は、第2次嘉手納基地爆音訴訟提訴(2000年)支援のために岩淵弁護士とともに3人で沖縄へ行ったときのことです。予定が終わり、飛行機の出発時間までに少し時間ができたとき、竹内さんが「辺野古へ行こう」と言い出しました。
 辺野古は那覇空港とは逆方向です。タクシーを使えば何とか間に合いそうだということで、タクシーを拾い辺野古に向かいました。辺野古海岸の団結小屋にいた金城祐治さん(辺野古命を守る会・代表)と話していて、金城さんの母親が小松市土居原町出身だということがわかり、意気投合したことが記憶に残っています。

 4つ目は、ときどき訪問しては、いろいろ相談をしていたのですが、あるとき、「軍国少年がどうしてマルクス主義者になったのか」が話題になり、聞いていくと、なんと! 戦後期にわたしの叔父さん・越中弘司(父の妹の夫)と『資本論』の学習会をしていたことがわかりました。ふたりとも、「おおー」と顔を見合わせたことを思い出します。

 5つ目は、国からの勲章を断ったことと長崎から本島等さんを招いて講演会(1998年、竹内さん72歳)を主催したことです。竹内さんが戦争体験から得て、生涯貫いた思想です。伊知さんの伝記が必要でしょう。

 わたしが竹内さんとお会いするようになったのは、竹内さんの70歳頃からです。わたしも、今年71歳になって、当時の竹内さんの感性と決断力をみると、水をあけられているなと感じてしまいます。
2017年12月22日


 
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