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仏教は法華経が頂点 「行」は観想を交えた称名念仏が最勝

日蓮系は一念信解。真言、天台、禅、念仏(鎮西派)は三昧を「行」と「証」の目標としています。
しかし、三昧の原動力となるのは一念信解なんで、法華経が基本なんですね。日蓮系や天台を熱心にしていないのに、中国の唐時代にはバンバン見性した人が禅宗から出たし、日本にもそうした僧侶や禅師が出たじゃないか?って言う人もいるでしょうね。→そうした人は過去世の薫習があるんです。この辺り、人間の差ってやつですね。

真宗や浄土宗の西山派は仏教と云うより、キリスト教みたいに→天乗教に近いですね。親鸞聖人の師匠である法然上人が晩年到達した浄土信仰の境地を勝尾寺の法門と云います。念仏を知り、唱えさせて頂いた段階で既に阿弥陀仏により救われているんだ。故に、以降唱える念仏は阿弥陀仏への報恩感謝の念仏なんだと。→凄いですよね、この考えは。まさに自身の体験から、普通なら考えられない飛躍した発想に到達しています。

鎮西派の聖光弁長上人は法然上人の三昧発得と学識に惚れ込んだ方だったので、自力を捨てるわけには行かなかったんですね。実際、法然上人の日常的に行っていた行は凄いの一言です。
まあ、知恩院さんはハッキリ言うと天台とあまり変わりませんね。
話を戻しますが、日蓮系以外の宗派も天台学を学びますから、法華経が凄いってことは理解しています。ただ、日蓮系のようにお題目を唱えたりはしませんし、固執した考えはないですね。

私は思うんですが、此処等辺りが天台を除く権宗の否を認めない悪いところだと。別に日蓮系とか関係なく、法華経を取り込めばいいのにね。自宗派のアイデンティティーの喪失に繋がると考えているんですかね。僧侶はいいですが、権宗の信者さんが気の毒ですよね。本当の浄土は法華経が説くところにあり、別のところにはないんですよ。→法華経の云う浄土とは私達自身の心にあるって云うことを説いているんですね。

権教である浄土経典の極楽、安楽国と云うのは方便なんです。浄土は弥勒菩薩の兜率天、観音菩薩の補陀落山、法華経の霊鷲山とありますが、これらは心相の中にある仏界を比喩的に表現しているだけなんですね。観音は因位で果位が観自在王如来(別としてる真言宗などあります)、阿弥陀如来の因位法蔵菩薩ですが、その時の仏さまが観自在王如来です。因位は果位であり、果位は因位なんですね。

権教は因位と果位をバラバラに説明していますし、実経である法華経に摂引させる方便の教えなんですね。浄土、極楽往生と云うのは本来輪廻のない世界のはずなんですが、法華経の寿量品で心相の仏界を比喩的に説明されているところ→自身の仏心にしか浄土はないんですよね。
私達の中に無始無終の仏界があることを法華経の寿量品は説いています。心の実相を離れて極楽浄土はないんです。

この辺の認識は本尊観の間違いから生じているんでしょうね。不空三蔵は法華儀軌で寿量品の釈尊を阿弥陀如来にするし、智証大師や覚運もそれに追随して阿弥陀如来と同一視していました。
阿弥陀如来は釈尊より前に悟りを開いた仏さまですが、法華経寿量品で重要なのは無始無終の古仏にゴータマ・シッダルタが悟道により完全に一つになった→因位と果位が時空間を越えた境地を表しているわけで→正味、本当の悟り。今世の法華経は釈尊こそ最高仏でないと意味がないんですよ。他の仏さまは寿量品に説かれてある久遠釈尊の各特性を説明したものでないと、意味がないんですね。

ここは非常に重要なところでして、日蓮聖人を除き以外となおざりにされているところです。聖人が他宗を非難したのは、釈尊以外に別な仏さまを最高仏にしたり、教義で釈尊を他の仏より下に置くなどでした。→それをすると、法華経の意味が無くなりますし、釈尊の悟りを知る手掛かりも見失いますし、仏教の本当の教義が無くなるからです。→しかし、分かっていない人が非常に多いですね。びっくりします。

天台は念仏宗ですが、法華経も重んじています。それは法華経に深い意味があることを知っているからです。法然上人が興した浄土教義は卓越した素晴らしい教えでしたが、聖教を否定している部分に理解の足らない弟子達が食いついて仏罰を受けました。師匠の法然上人も弟子達を魔道に引き入れた罪で同罪となっています。三昧発得の師にしてこの有り様なのは、正法誹謗の罪は三昧の功徳を凌ぐためでしょう。

謗法を防ぐ意味にもなるかと想いますが、天台は必ず法華の血脈を伝授しているので、この過ちはありませんね。法然上人の無観称名念仏による三昧発得は日本仏教に大いなる希望を与えたばかりではなく、庶民救済の仏法として一大革命を興しました。法然上人の教義的欠点を補うことで、浄土信仰は有用なものとなりますし、現になっています。善導、法然上人の無観称名念仏は仏教の極致です。捨てがたい尊い法門です。

私は妙法曼荼羅と総位牌を前に日蓮法華経の久遠釈尊、諸仏、諸天、高祖、六中九老僧の勧請文、青経巻を読み、阿弥陀如来を本尊にしている当家の仏壇ではお念仏を唱えるのを勤行の基本にしています。所要時間は約1時間と30分くらいですが、勤行の後はすっきりしますね。弥勒経は家では読まないです。霊友会の行事で弥勒山や七面山に行く時は読みますけどね。

法華経と阿弥陀さんの二刀流が自分にピッタリ合いますね。

念仏は大きく分けると2種類に分けられます。1つは自身の心を見つめる念仏。2つめは本願に乗る念仏。究極のところ、自身の心と阿弥陀本願の心は一つに溶け合うんですが、本願に乗るほうが楽なんですね。自力はどうしてもお猿さんのように心が揺れ動きます。自力の念仏は天台流ですね。私は善導流の本願の船に乗るお念仏を心掛けています。正味、日蓮系は念仏の観法が無いので、浄土から行を借りてくる必要がありますね。称名念仏は王三昧とも云われ、行としては最勝です。

仏教経典の約3分の1は浄土教義が説かれています。その心は衆生済度が目的です。善導、法然上人はそれを見抜いた、日本仏教に於ける大功労者です。法華経と浄土の両方知ることがとても大切で、どちらにも偏り過ぎては釈尊の御心に反すると思います。

称名念仏に対して異を唱えた高僧がいました。明恵上人と解脱上人です。明恵上人は以前当ブログでも取り上げたので、解脱上人貞慶師がどの様に称名念仏を捉えていたのか?
貞慶上人は観想念仏が称名念仏より勝れていると考えていました。観想念仏が称名念仏より勝れていると云う考えは、良忍師、法然上人の師匠である叡空師、源信師も同様の考えです。

六字のお念仏を阿弥陀と見立てたり、称名念仏を勧めたのは衆生済度が目的でもありました。仏画や仏像は高価ですし、また観想する暇がありませんからね。また、知識や理解力も要ります。法然上人が自身の師と仰いだ善導和尚ですら観想念仏を勧めています。称名念仏で効果があるのは下地がある程度出来ているためです。

法然上人は別なお弟子には観想念仏のほうが勝れているとも言っており、叡空師と観想称名でケンカをして称名を主張したからとか、三昧発得したからとかで称名念仏だけで良いと判断するのは間違っています。三昧発得なら先に挙げた明恵上人や解脱上人も三昧発得の師です。
要は観想念仏も大切だと云うことです。

日蓮教義は全く浄土の化儀を真似ています。妙法曼荼羅の観想にしても、お題目にしても、浄土と同じことが云えると思います。余力があれば仏画、仏像も観想に必要かと考えます。
法然上人は行に生きた人でしたが、晩年は信の人になりました。行の部分を濃厚に受け止めたのが聖光上人、信の部分を濃厚に受け止めたのが証信上人、親鸞聖人かと思います。

日蓮聖人の三秘にはもう1つ意味があって、それは「信」の行法で成り立っていることです。日蓮教義の底の底は「信」から成立しており、観想法を考慮しない、「信」の観想法であることです。
そう云う意味から考え直すと、念仏の六字の阿弥陀や称名念仏も同様かと思います。

一念信解の観心が「信」の観想法でも、三昧に至る観想法はイメージや仏画、仏像ありの観想念仏は大切だと考えています。
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