日蓮聖人の教義は天台実相観を真言宗の考えである声字実相義を使って集約化したものではないでしょうか?と云うのが私の考えです。真言から見れば漢字を使って教えを説いたものは顕教です。真理は梵語・梵字にあるとするのが真言教の考え方ですから。真言教は仏教の言霊学ですからね。
日蓮教義の南無妙法蓮華経を日本神道の言霊学流で表現すると「す」と「たかあまはら」になります。「す」はすめらみことの「す」で宇宙創世始めに現れた最初の言霊です。「たかあまはら」は大宇宙の働きがこの言霊に収められていると云われています。南無妙法蓮華経は五重玄→即ち5と云う数で纏め挙げていますが、これは中華的整理方法から由来するものかと。また体と用も中華のそれです。聖書では始めに言葉ありきと神を言語で表現していますが、言葉には言霊であり中に悟り・働きが必ず含まれています。端的に云うと声字実相観には必ず天台実相義も含まれているはずと云うことです。漢訳経典は実相義を漢字で表したもので声字実相義が欠けています。両方含まれないと完全に言い表されていないんですね。
何が言いたいかと云うと、集約化された天台実相義は言霊学の裏付けが必要だと思うんですよね。ただ言霊学の修得は三昧発得が不可欠で、所詮観行即まで行位を揚げないと理解出来ないわけです。顕教の天台実相義と密教の仏教言霊学である声字実相義は2つにして1つ、両方理解してはじめて仏法の道に入れるものと思います。名字の位と云うのはその意味では登山口にやっとたどり着いた位で、名字を讃美するのも仏の方便的引導、励ましも含まれているものかと考えます。
21/02/04 20:40