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自己への返観と鏡

 先の観心をどこに振り向けるかと言うと自己に振り向けるのである。日蓮義でも本尊は「鏡」と見るわけである。お経を読む時も自分が釈迦になった心持で読むように、伝教大師もご指南している。自己は凡夫ではあるが、仏性がある尊い存在であることを確信して行をするのである。自己への返観こそ仏教である。これら因果倶時、不思議の一法を無二の法と確信して、自己返観する時観心が成就する。末法の行者は殆どが薫習が無いため、冥益が大半であるが倦まず、弛まず行うことが大切である。神道でも「鏡」を以て御神体とする。鏡はかがみで、かみの中心に我が入っている。神人合一の表示でもある。密教の灌頂儀式に置いて、鏡は欠かせない法具の一つでもある。因果倶時、不思議の一法は顕説法華では、自己即佛。一声に観心がある。一心三観。一念三千。常楽我浄。が円満具足している法門ではと小生は愚考するんだな。ここで大切なのは顕説法華の法体が「読む観心」であることである。これは法華経にもさらっと書いてるんで見逃すが、中古天台の相伝書には書いてあるな。中世の叡山には中国天台から伝えられた顕説法華の何たるかがおぼろげながら伝承されていたことを物語る資料ではないだろうか。
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