タイトル----思いやりの心は、仁という大道の始まりなのです。『孟子』 第164号 2109.18(金)
〈惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪(しゅうお)の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。〉(新釈漢文大系『孟子』明治書院)
通訳「人の不幸や、人の危険に対して痛ましく思う心、惻隠の心の無い者は、人間ではない。同様に、自分の不善を羞じ、人の悪を憎む心の無い者は、人間ではない。人に譲る謙虚さの心の無い者は、人間ではない。善悪を判別する心のない者は、人間ではない。」(前掲書)
〈惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るや、猶其の四體有るがごときなり。〉(前掲書)
通訳「人の不幸を切にあわれみ深く痛む心は、仁となるめばえであり、自己の不義・不正を羞じにくむ心は、義のめばえであり、辞退して人に譲る心は、礼のめばえであり、是を是とし、非を非とする心は、智のめばえである。人にこの惻隠・羞悪・辞譲・是非の四つの心の萌芽が備わっているのは、丁度人に両手両足の四体があるのと、同じである。」(前掲書)
世は生存競争の時代である。人が全うな生活が出来るかいなかは、その人の努力の結果如何でもあろう。その為、日々それなりに、仕事という大人社会の訓練の場を通じて努力をしているのだと言えよう。
ところが、仕事をしたいと思っても、努力をしたいと思っても、働く場所とか、チャンスがなければ如何ともし難い。人間は、一生を生きるために、それなりの物が与えられているのだ、と中村天風師は言っているのだが、それがままならない現実がある。ギャンブルで生活費を稼ごうとか、不正を種に生活費を稼ごう等と考えている人々は例外の人種であるので、対象外としたい。
平成20年の頃もそうであった。その原因が分かった。一部の人間が搾取と同様の事をしていたのである。官僚というエリ-ト集団であった。それは『亡国予算』を読み理解したことだ。特別会計という多額の国の税金を(普通の人が分からないように)操作していたとも言えるのである。特別会計の前身は実に140年前の1869(明治2)年にさかのぼるという。いわゆる別途会計として、今日まで執行されてきたのである。「戊辰戦争で戦費の調達・管理を迫られた新政府が「別途会計」を急ぎ作る必要があったようだ。」『亡国予算』
丁度、大久保利通と西郷隆盛が西南戦争を起こす前あたりである。それをそのまま悪用か活用していたということになる。「『昭和財政史』によれば、「特別ノ須要ニ因リ」やむを得ない場合のみ、特別会計が設けられるとされた。」(前掲書)----その後、特別会計は雨後のタケノコのように増殖していった、とされる。
その前例をいい事にし、今日まで長い長い間、甘い汁を吸った人々がいたということである。これは合法的詐欺集団の匂いがするのである。だから、平成21年9月総選挙で政権交代で就任した原口総務大臣に大阪府知事が霞ヶ関をぶっ壊して欲しいと同様のことを言ったとされるが、特別会計のカラクリで痛めつけられてきた地方の首長らも、今回の選挙結果に満足し、溜飲を下げたことであろう。
私は「霊」の世界は全く分からないが、悪をなした人はあの世で「厳しく」処されると天風師は言っている。今回紹介した「四端の心」無き人々は、あの世できついお仕置きをされるであろうし、それなりの因果は巡ってこよう。
そういった意味で古典を学ぶ意義があると承知して、日本一小さい館で青少年に「人の道」のあるべき人間像を確立すべく、空手道修行を通じて「文武両道」に励んでいるのである。