【Welcome to Koga's Bible Study!】

2025年1月の聖書の言葉(Bibelverse )

"見よ、私は新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたはそれを知らないのか。必ず、私は荒野に道を、荒れ地に川を設ける。”(イザヤ43:19)
"Denn siehe,ich will ein Neues schaffen,jetzt waechst es auf,erkennt ihr's denn nicht? Ich mache einen Weg in der Wuesteund Wasserstroeme in der Einode"(Jesaia,43:19)

2024年12月の聖書の言葉(Bibelverse )

「主【神】を恐れることは知恵の訓戒。謙遜は栄誉に先立つ」(箴言15:33)
"Die Furcht des Herren ist Zucht,die zur Weisheit fuehrt,und ehe man zu Ehren kommt,muss man Demut lernen."(Sprueche15:33)


このHPの【聖書研究】の項目では、以下の二つの動画と聖書のキーワードを紹介しています。

A「著名人と聖書」の動画の案内

(チャンネル @user-uz3fl3pq7e) 

B  聖書入門講座(動画配信)

(チャンネル@user-qj2ur8bp7t)

【1】マタイの福音書
【2】ヨハネの福音書

【3】ルカの福音書

C 聖書のキーワード(ギリシャ語に即して)

A 「著名人と聖書」の動画の紹介

 『28名の著名人と聖書』(伝道出版社、2021 年)などで取り扱った著名人や思想家と聖書の関係を順次、動画にアップしますので、興味がある方は聞いて下さい。


【既にアップしているもの】
1 「高山右近と聖書ー時代に抗して生きるクリスチャン」
   https://youtu.be/_BG2F4TkTmw

2 「細川ガラシャと聖書ー細川ガラシャはなぜキリスタンになったのか」
https://youtu.be/ivsuZ9yj6hg

3 「ドストエフスキーと聖書(1)-------『罪と罰』
https://youtu.be/ofAexTVlZck
  - 神 が存在しなければすべてが許されるー 


4 「福沢諭吉と聖書------創造者なる神』
 https://youtu.be/NxcUYVU_1jc 

 ー 天地万物なにもかも、ゴッドの造らざるものなし。子供の時より、ゴッドのありがたきを知り、ゴッドの心に従うものなり。 

5 「内村鑑三と聖書------イエスの十字架の救い

   https://youtu.be/hhFCKgqFjjk
  ーこれまで私の心を打ちのめしてきたあらゆる困難の解決は
イエス・キリストの十字架にあるー


6 「パスカルと聖書------ 人間は考える葦である」
 https://youtu.be/U6v8BAEMTuw
  ー人間の心の中には神のかたちをした空洞があるー 


7 「夏目漱石と聖書------人間の罪」
 https://youtu.be/mTA5vd4uUew 
ー 死ぬか、気が違うか、そうでなければ宗教に入るか。僕の前途には、
この三つしかない。(『行人』)


8 「芥川龍之介と聖書-----闇の中に輝く光」
 https://youtu.be/hpdU7_WyZt4

ー私は四福音書の中にまざまざと私に呼びかけているキリストの姿を感じている。ー 

 『西方の人』

9 「ヴィクトール・フランクルと聖書」ー絶望から希望へ
 強制収容所体験を描いた『夜と霧』
 https://youtu.be/7iqIWgHO5xA

10 「マルティン・ルターと聖書」ー我ここに立つ
https://youtu.be/7iqIWgHO5xA

11  「ウィリアム・メレル・ヴォーリズと聖書」ー日本を愛した独立伝道者
https://youtu.be/8OBPLc0sbEg

12  「チャールズ・ディケンズと聖書」ー人生の過去・現在・未来
https://youtu.be/L8IkNhaEArQ

13 「 サン=テグジュべリと 聖書ー星の王子さまを通して知る人間の世界ー
https://youtu.be/MiXZ6BdmBlQ

14  「太宰治と聖書」ー私は山に向かって目を上げる。
https://youtu.be/ce47ug3Yf9s 

15  「ドストエフスキーと聖書(2)ー『悪霊』

 https://youtu.be/0LVpj2EI0pk

16  「ドストエフスキーと聖書(3)ー『カラマーゾフの兄弟』
https://youtu.be/qqTFyRcZDfM

17  「メーテルリンクと聖書」ー『青い鳥』
https://youtu.be/Fy5HvKPUGDY

18  「新島襄と聖書」ー新島襄はなぜクリスチャンになったのか。
https://youtu.be/2j1UoUKBStY 

読書会動画  太宰治/芥川龍之介/ 夏目漱石

第十四回 太宰治

”恥の多い人生を送ってきました。------人間、失格。もはや自分は、完全に人間でなくなりました。”(『人間失格』)
"私は山に向かって目を上げる。」(「桜桃」)

第八回 芥川龍之介

”私は四福音書の中にまざまざと私に呼びかけているキリストの姿を感じている。」(「西方の人」八

第七回 夏目漱石

”死ぬか、気が違うか、そうでなければ宗教に入るか。僕の前途には、この三つしかない。”(『行人』

チャールズ・ディケンズ/内村鑑三/パスカル/フランクル

第十二回 チャールズ・ディケンズ

第五回 内村鑑三

第六回 パスカル

第九回 ヴィクトール・フランクル

B 聖書入門講座

【1】マタイの福音書を読む(2023.8~2023.5)
【2】ヨハネの福音書を読む(2023.6~2024.2)
【3】ルカの福音書を読む(2024.3~ ) 
マタイの福音書、ヨハネの福音書の解説をpower pointに音声をつけて配信しています。

第1回聖書入門講座(2022.8.3)

No.1 マタイの福音書概観
 https://youtu.be/iBMMp9dd7Ec 


No.2 イエス・キリストの系図 (マタイの福音書第一章1〜17)
 https://youtu.be/xqDTSEPmogo 


No.3 イエスの誕生 (マタイの福音書第一章18〜24)
 https://youtu.be/Op23Ip5twd4 

第2回聖書入門講座(2022.9.1)

No.4 東方の博士たち (マタイの福音書第ニ章)
 https://youtu.be/FoVcDGcN2rM 


No.5 バプテスマのヨハネ (マタイの福音書第三章)
 https://youtu.be/rcUwcYyU8Z4 


No.6 荒野での誘惑とイエスの宣教開始 (マタイの福音書第四章)
 https://youtu.be/zQrPqtQcDAA 

 

第3回聖書入門講座(2022.10.2)

No.7 「真の幸福とは」(山上の説教①、マタイの福音書第五章
https://youtu.be/rnWiHjviOUg

No.8 「思い煩わないこと」(山上の説教② マタイの福音書第六章)
https://youtu.be/oOJiLJjGsjk

No.9 「求めよ、さらば与えられん」(山上の説教③、マタイの福音書七章)
 https://youtu.be/9f-erifrBIY 

 

第4回聖書入門講座(2022.11)


No.10 「イエスのガリラヤ伝道」(マタイの福音書8章)
 https://youtu.be/fktJEncqHgk

No.11 「罪の赦しの権威を持つイエス」(マタイの福音書9章)
https://youtu.be/gtN7JNpMGj0

No.12 「イエスに従う」(マタイの福音書10章)
https://youtu.be/-Sxhm4KCIMI 
 

 

第5回聖書入門講座(2022.12)


No.13 「イエス・キリストの招き」(マタイの福音書11章)
 https://youtu.be/E3kXHuUJHKA

No.14「安息日論争、主のしもべ預言」(マタイの福音書12章)
https://youtu.be/cdiSjiiA3NE
No.15 「天の御国とは何か」(マタイの福音書13章)
https://youtu.be/X1g_9SfL51s 
 

第6回聖書入門講座(2023.1)



No.16 「イエスの奇跡の目的」(マタイの福音書14章)
https://youtu.be/tNjQQYkJKis 
No.17 「人の心の中にあるもの」(マタイの福音書15章)

https://youtu.be/bZgK6ceSi0I 

No.18 「十字架の道を歩まれるイエス・キリスト」(マタイの福音書16章)

 https://youtu.be/bZgK6ceSi0I 

第7回聖書入門講座(2023.2) 

N019 「イエス・キリストの栄光」(マタイの福音書17章)
  https://youtu.be/Pa0PP5-_cQ0
No20「偉い人とはどのような人」(マタイの福音書18章)
https://youtu.be/Qtn-9haVpHs
No21「結婚に対する神のご計画」(マタイの福音書19章)
https://youtu.be/zzhghWU0G5s 

第8回聖書入門講座(2023.3)

N022「天の御国のたとえ」(マタイの福音書20章)
 https://youtu.be/K4eZInBhTak
N023 「イエスのエルサレム入城」(マタイの福音書21章)
https://youtu.be/NQCPLtv2vNg
N024 「主の披露宴のたとえ」(マタイの福音書22章)
https://youtu.be/IhTKTG5gmak 

第9回聖書入門講座(2023.4) 
 

 No25 https://youtu.be/8t86J0bcB74( マタイの福音書23章 

N026https://youtu.be/0BckujmpgTg (マタイの福音書24章) 

N027https://youtu.be/VFlbzgtgsnI (マタイの福音書25章) 

第10回聖書入門講座(2023.5)

NO28 最後の晩餐(マタイの福音書26章)

https://youtu.be/3z9BqaJlCtI

NO29 イエスの十字架(マタイの福音書27章)

https://youtu.be/PM3_aiiD7lA

N030 イエスの復活(マタイの福音書26章 )

https://youtu.be/ewCrrRQMsOY
* マタイの福音書の配信は、これで終了です。次回からは、ヨハネの福音書のメッセージを配信します。

 【聖書入門講座ーヨハネの福音書】 

第1回聖書入門講座(2023.6)
NO1  ヨハネの福音書の概略と特徴

https://youtu.be/Wna73xO6Cb0 

NO2 イエスは神である。 (ヨハネの福音書1章前半)

https://youtu.be/473r6Ru5M74 

NO3 バプテスマのヨハネの証言ーイエスとは誰か?(ヨハネの福音書後半)
https://youtu.be/Iibeh3X3tvQ

第2回聖書入門講座(2023.7)
NO4 神の栄光が現わされる時(ヨハネの福音書2章)
https://youtu.be/60GSivJok8Y

NO5 新しく生まれること(ヨハネの福音書3章)
https://youtu.be/jH8c86vJwVI 

NO6人の心を満たすもの(ヨハネの福音書4章)
https://youtu.be/PFBYHVu6GNk

第3回聖書入門講座(2023.8)
NO7 立ち上がる勇気(ヨハネの福音書5章)
  https://youtu.be/DNsbNLFZob4 

NO8 イエスはいのちのパン(ヨハネの福音書6章)
https://youtu.be/6nbVfBTLsp8 

 NO9イエスはキリストか(ヨハネの福音書7章)
https://youtu.be/ljfi9nVmQgg 

第4回聖書入門講座(2023.9)

 

NO.10. 「真理はあなた方を自由にする」(ヨハネ福音書8章) 

https://youtu.be/QQSQVY9MhDM 

NO11. 「コペルニクス的転回」(ヨハネの福音書9章) 

https://youtu.be/efSpqxOBfw4 

NO12. 「羊飼いであるイエス・キリスト」(ヨハネの福音書10章) 

https://youtu.be/O4xJ9A4F71g 

第5回聖書入門講座(2023.10)

NO.13  「ラザロの死とよみがえり」(ヨハネの福音書第11章)

https://youtu.be/cSiUTYrQtiY

NO.14  「一粒の麦であるイエス・キリスト」(ヨハネの福音書第12章)

https://youtu.be/BFDTXheK9EI

NO.15 「イエスの遺言」(ヨハネの福音書第13章)

https://youtu.be/VjP0WcgNdr4

 

第6回聖書入門講座(2023.11)

 NO.16 「 道であるイエス・キリスト」(ヨハネの福音書14章)
 https://youtu.be/YYcxnW0WXWQ 

 NO.17 「イエスはぶどうの木」(ヨハネの福音書15章)
 https://youtu.be/35HwY8RjQJA 

 NO.18「悲しみが喜びに」 (ヨハネの福音書16章)
https://youtu.be/YYcxnW0WXWQ

第7回聖書入門講座(2023.12)
NO.19「主の祈り」(ヨハネの福音書17章)
  https://youtu.be/h92TRKtltYM 
NO.20 「イエスの逮捕と訊問」(ヨハネの福音書18章)
  https://youtu.be/mhRgmEkvgWc 
NO.21 「   私たちの内なるピラト」(ヨハネの福音書19章1~30)

https://youtu.be/c6YNdtyWnJA 
 

第8回 聖書入門講座(2024.2) 

NO22 「イエスの葬り」 (ヨハネの福音書19章31~42節)

https://youtu.be/hVrzM7lh0Ng 

NO23 「イエスの復活」(ヨハネの福音書20章) 

https://youtu.be/YGEWtvOLXSk 

NO24 「あなたは私を愛するか」 (ヨハネの福音書21章)

https://youtu.be/8GgVGJY5EXA 

【聖書入門講座ールカの福音書】

第1回 聖書入門講座(2024.3)
 NO1 「ルカの福音書の特徴と概観」
https://youtu.be/bOVuVgY0sjs
NO2  「神にとって不可能なことはない」(ルカの福音書1章)
https://youtu.be/3D4rDYgvc8Y
NO3 「イエスの誕生」(ルカの福音書2章)
https://youtu.be/kUaxPkDlFS8

第二回 聖書入門講座(2024.4)
NO4 「バプテスマのヨハネの証言」(ルカの福音書3章)
https://youtu.be/ex19kyQmcmE
NO  5「悪魔の誘惑」(ルカの福音書4章)
https://youtu.be/28Ia25MO0sg
NO6 「罪の赦しの権威を持つイエス・キリスト」(ルカの福音書5章)
https://youtu.be/Ot1wEn1FF5U

第三回 聖書入門講座(2024.5)
NO7 「人生の揺るがない土台」(ルカの福音書6章)
https://youtu.be/dxSdS_aujWQ
NO8 「信仰とは何か」(ルカの福音書7章1~17節)
https://youtu.be/w3igE7cNLrs
NO9 「イエスに対する愛と罪の赦し」(ルカの福音書7章36~50節)
https://youtu.be/ytlHBsvQiUc

第四回聖書入門講座(2024.6)
NO10 「種まきのたとえー4種類の人々」(ルカの福音書8章1~21節)
https://youtu.be/uQueWJTEK-c
NO11 「嵐を静め、悪霊を追い出すイエス・キリスト」(ルカの福音書8章22~42)
  https://youtu.be/sNgCEUb7w_4
NO12 「イエスの愛の奇跡」(ルカの福音書8章43~56)
https://youtu.be/6sw-4aXoE_8

第五回聖書入温講座(2024.7)
NO13  「イエス・キリストはあなたにとって誰か」(ルカの福音書9章1~27節)
https://youtu.be/G60wyz_v42s
NO14 「変貌の山での出来事」(ルカの福音書9章28~36)
https://youtu.be/hrcPgYU5h18
NO15 「イエスの弟子訓練」(ルカの福音書9章46~62)
https://youtu.be/Bo3CYnnhMpA

第六回聖書入門講座(2024.8)
NO16 「弟子たちの福音宣教」(ルカの福音書10章1~21節)
https://youtu.be/Bo3CYnnhMpA
NO17 「良きサマリヤ人」(ルカの福音書10章25~37節)
https://youtu.be/awNRc9PtDOc
NO18 「必要なものはただ一つだけ」(ルカの福音書10章38~42節)
https://youtu.be/wwDxK10YwgI

第七回聖書入門講座(2024.9)
NO19 「主の祈り」(ルカの福音書11章1~4)
https://youtu.be/EQes-rgPLtM
NO20 「求めよ、さらば与えられん」(ルカの福音書11章5~13)
https://youtu.be/AkmXRjE4IUs
NO21 「私の内なるパリサイ人」(ルカの福音書11章37~52節)
https://youtu.be/AkmXRjE4IUs 

第八回聖書入門講座(2024.10)
NO22 「神を畏れること」(ルカの福音書12:1~7)
https://youtu.be/ulCAlY4r81w 
NO23 「貪欲な金持ちのたとえ」(ルカの福音書12:13~21)

https://youtu.be/fP4jptXUHsM
NO24 「心配しすぎないこと」(ルカの福音書12;22~34)
https://youtu.be/7rst5Ayeeag

第九回聖書入門講座(2024.11)
NO25 「迷える一匹の羊」(ルカの福音書15:1~10)
https://youtu.be/YLgRuRQSTks
NO26 「放蕩息子のたとえ」(ルカの福音書15:11~32)
https://youtu.be/SMgjyhvY9Es
NO27 「人生の逆転ー富める人とラザロ」(ルカの福音書16:19~31)
https://youtu.be/d7hhTLk0_LE

第十回聖書入門講座(2024.12)
NO28 「ツァラアトをいやされた十人の人」(ルカの福音書17:11~19)
https://youtu.be/Fp4kJMLzJUA
NO29 「神の国の到来」(ルカの福音書17:20~37)
https://youtu.be/-6Cm7kHtvJY 
NO30  「正しい裁きを求める祈り」(ルカの福音書18:1~8)
https://youtu.be/lifqi5hRpkk
NO31 「パリサイ人と取税人の祈り」(ルカの福音書18:9~14)
https://youtu.be/ehd0s8FBdCk
NO32 「金持ちの青年とイエス」(ルカの福音書18:18~30)
https://youtu.be/tJ5Px7pQuzk

第十一回聖書入門講座(2025.1)
NO33 「盲人のいやし」(ルカの福音書18:35~43)
https://youtu.be/zUvFUgTrX20
NO34 「ザアカイとイエス・キリスト」(ルカの福音書19:1~10)
https://youtu.be/G-BaUYIfcdc
NO35 「イエスのエルサレム入城」(ルカの福音書19:28~44)
https://youtu.be/F5y5vZOAmpk 

 D 聖書のキーワード講座  

  (2023.2~

 1 クリスチャン(christian, Χριστιανό ς,クリスティアノス)(2023.2.1)

 2  契約(covenant,διαθήκη、ディアセーケー)」 (2023.2.1)  

 3  神(God、θε ό ς、テオス) (2023.3.1) 

 4 人間(man、ανθρπος、アンスロポス)(2023.4.1) 
 5  罪(sin、àμματία、ハマルティアー) (2023.5.1)
 6   福音(gospel、εύαγγέλιον、エウアンゲリオン)(2023.6.1) 
7 キリスト(Christ、Χρστός、クリストス) (2023.7.1)

 8 主(Lord,kύριος、キュリオス)(2023.8.1)
9 贖い(redemption、άπολύτρωσις,アプリュトローシス)(2023.9.1) 
 10 義認(justification、δικιόσυνη,ディカイオスュネー) (2023.10.1)
 11 和解(reconciliation、καταλλαγή,カタラゲー) (2023.10.1)
 12  仲介者(mediator,μεαίτης,メシテ―ス) (2023.11.1)
 13  新生(regereration,παλιγγενεσία,パリゲネシア)(2023.12)
 14  神の国(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア、トゥ-、セウー) (2023.12.1)
 15  永遠のいのち(everlasting life,ζωή αἰώωιος,ゾーエ―・アイオーニオス)(2024.1.1) 

 16 神の子(son of God,ὀ υὶος του θεου,ホ ヒュイオス トゥー セウー)(2024.1.1) 
 17 神の愛(love of God、ἀγάπη,アガペー)(2024.2,2)

 18   宥めの供え物(propitiation,ὶλαστήριον,ヒラステーリオン)(2024.2,2) 
 19 復活(resurrection、άνάστασις、アナスタシス)(2024.2.29)
 20 再臨(Christ's second coming、παρουσία、パルーシア)(2024.2.29)
 21 救い主(savior,σωτήρ、ソーテール)(2024.11.1)

 22 奥義(mystery,μυστήρίον、ミュステ―リオン)(2024.12.1)
 23  恵み(grace, χάρίϛ,カリス) (2025.1)

24  時(time,καίρόσ,カイロス)
25  幸いな(blessed , μακαρίοϛ,マカリオス)

26  聖霊(holy spirit, Άγιο Πνεύμα 、 ‘ο Παρακλητος、パラクレートス )
27 良心(Conscience、συνειδησις,シュネイデーシス)
28 聖徒(saints,ἁγίοί,ハギオイ)
29 忍耐(perseverance,ὑπομονή,ヒュポモネー) 
30 交わり(fellowship,κοινωνία、コイノニア) 


【これからアップする言葉】


 24律法(law)、νόμος、ノモス)
 25 預言者(prophet、προθητης、プロフェ―テース)
 26 償い(atonment、εξιλωση、エクセレオシー)
 27 教会(church,assembly、έκκλησια、エクレ―シア)
 










1.クリスチャン(christian, Χριστιανούς,クリスティアヌス)

A-1


Aー2


1.第一回 クリスチャン(christian, Χριστιανούς,クリスティアヌス)

 「クリスチャンとは何か」
 
クリスチャンとは一体どのような存在でしょうか。クリスチャンとクリスチャンではない人の違いとは何でしょうか。多くの人は、洗礼(バプテスマ)を受けているかどうかの違いと考えられると思います。洗礼が、クリスチャンかそうではないかの試金石と考えるのです。しかし、聖書は必ずしもそのように語ってはいません。洗礼を受けても、心からイエスを救い主として信じていなければ、クリスチャンとはいえないのです。洗礼を受けて、救われるわけではありません。逆に信じ、救われた人だけが洗礼を受けることができます。ここでは、クリスチャンといわれるために必要な二つのことについて考えて見たいと思います。
 
「信仰告白の必要性」

 第一点は、イエスに対する信仰告白です。信じて、告白することです。クリスチャンになるに際して、自分が信じている方を神と人の前に告白することは重要な意味を持っています。聖書には、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義とみとめられ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)と記されてあります。
それでは、何を信仰告白したらいいのでしょうか。そのことの答えとして、初代教会のクリスチャンたちが、迫害の中で自分たちがクリスチャンであることを示すために用いていた暗号の「魚(イクトウス)」の意味について考えてみたいと思います。

 「イクトゥス(魚)

初代教会においては、キリスト教に対する迫害や偏見が強い中で、クリスチャンと名 のることは危険でした。そこで彼らは、クリスチャン同志の暗号として、自分がクリスチャンであることを示すために、「魚」の絵を地面に書きました。
 ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846-1916)の小説『クォ・ヴァディス』には何度もその光景がでてきます。それではなぜ、魚(ギリシャ語でイクトゥス)でしょうか。『クォ・ヴァディス』の一節を紹介しましょう。これは、ローマの貴族ペテロニウスと哲学者を自称するキロンとの会話の部分です。

キロン 「あの女[リギア]は、キリスト教徒です。」「ご主人様、次の文章をギリシャ語で云って御覧なさい。イエス・キリスト、神の子、救い主」
ペテロニウス 「よろしい。では言おう。イエースース クリストス テウー ヒュイオス ソーテール、それがどうした。」
キロン 「今度は、そこにある単語の最初の字を一つづつ取って合わせて、単語を一つ造ってください。」
ペテロニウス 「イクトゥス」(ギリシャ語で魚)
キロン 「それです。魚がキリスト教のシンボルになったわけは。」
 上のAー1の画像を見て下さい。
(Iはイエス、Xはキリスト、Θは神、Υは子、Σは救い主のギリシャ語の頭文字)

  つまり、クリスチャンとは、「イクトゥス」、つまりイエスは、キリストであり、神の子であり、救い主であることを信じ、告白する者という意味があります。イエスは、旧約聖書が預言されていたキリスト(メシア)です。またイエスは、人間であると同時に、全く罪のない神の子です。そして私たちの罪を負って十字架にかけられ、よみがえられた救い主です。
皆さんは、上のA-2の写真に見られるように後ろに魚の絵が描かれた車やスクーターをみられたことがあるのではないでしょうか。それは、自分はクリスチャンであるという意思表示でもあります。 

「キリストに従う者」
 
ところで、クリスチャンにはもう一つの意味が込められています。信仰は、おのずと行動をもたらします。信仰無き行動は無益ですが、行動無き信仰も不十分です。信仰は、イエス・キリストを主として、従っていきたいという思いを私たちに引き起こします。 
新約聖書の「使徒の働き」は、「弟子たちは、アンティオケアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(11:26)と記されてあります。アンティオケアは、エルサレムと異なり、異邦人伝道の中心地であり、使徒パウロの三回にわたる伝道旅行は、アンティオケアから始まっています。日本語で「キリスト者」と訳されている箇所は、英語の聖書のNIV(new international version)では、christians,、ルター訳のドイツ語聖書でも、Christenが使われています。ギリシャ語の原語は、Χριστιανούς(クリスティアヌス)です。ここでは、クリスチヤンとはイエスの弟子で、イエスに自分の生涯をかけて従っていく者を意味しています。従うという場合、他の宗教のように釈迦が遺した仏典、ムハンマドが遺したクアラーン、孔子が遺した論語に従うという教えではなく、復活され、今も生きておられるイエス・キリストそのものに従うところに、聖書的信仰の核心があります。

「クリスティアンとはーまとめ」 
 
最後に、クリスチャンとは、何であるかをまとめてみましょう。クリスチャンであるかどうかは、洗礼を受けたか、親がクリスチャンの家に生まれたとか、あるいは教会に出席しているかどうかには全く関係がありません。クリスチャンとは、イエスがキリストであり、神の子として全く罪がないお方であるにもかかかわらず、私の罪を負って十字架にかけられ、三日後に復活された救い主であることを心で信じ、「告白」することです。洗礼(バプテスマ)は、その信仰告白を公に表すために神によって定められた尊い儀式です。しかし、洗礼という儀式に特別の効力を与えて、洗礼を受けることによって救われるという考えは、聖書に反するものです。 
そしてクリスチャンは、信じただけではなく、キリストの愛に対する応答として、自分の生涯を賭けて、復活されたイエスに従っていく責任と特権が与えられています。つまりクリスチャンは、イエス・キリストの弟子(μαθητής、マセテース)なのです。そしてイエス・キリストは、私たちの主権者、主(κύριος、キュリオス)であり、私たちが従うにあまりあるすばらしいお方です。 

 2 第二回「契約(covenant,διαθήκης、ディアセーケー)」

   

 

「聖書をどのように読むか」 

 

 聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻によって構成されています。私たちは、聖書をどのように読んだらいいでしょうか。約2000年前に書かれた古典の書として読まれる方もおられます。あるいは人間がどのように行動すべきかの道徳の書として読まれる方もおられるかもしれません。最初に聖書を読む人が、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイの福音書5章39節)というイエスの言葉に触れると、自分には到底できないと言って、聖書を読むのをやめてしまうこともあるでしょう。あるいは、聖書の中にイエス・キリストの偉大さに触れ、自分もイエスのようになりたいと思われる方もおられると思います。キリスト教は嫌いだけれど、イエスは好きだ、尊敬に値すると考えられる方も、少なからずおられます。キリスト教を徹底して攻撃したニーチェがそうでした。 

 私たちが聖書を正しく読むためには、それを「契約の書」として読むことがどうしても必要です。このことが理解されていると、聖書が示す「救い」の意味が明確になります。聖書が、新約聖書と旧約聖書と呼ばれるのはそれなりの根拠があります。 

 

 「二種類の契約」 

 

 「契約」という言葉自体は、私たちの日常生活に根差すものです。私たちは、家を借りるために売買契約を家主さんと結んだり、就職する時に雇用契約を結びます。自動車を運転している時に、たとえ事故を起こしても自動車保険に入っているという安心感があり、保険会社と契約します。私たちの住んでいる社会は「契約社会」であり、契約に基づく契約者の権利・義務がはっきりと明記されています。これは、契約の当事者が同じ平等の立場で取り結ぶ「契約」です。相手方と交渉して、自分に有利な条件に変えることもできます。 

 しかし聖書が示す「契約」は、これとは異なります。つまり同じ立場で行われる契約ではなく、神が人間に対して一方的に示す契約であって、人間はそれを受け容れるか、拒むかの二者択一しかありません。聖書の「契約」は、神の主権と神の一方的な恵みを現わしています。このことを、「契約」のギリシャ語に即して考えてみましょう。 

 

「ディアセーケー」 


新約聖書の「契約」のギリシャ語は(διαθήκης、ディアセーケー)です。この言葉は、新約聖書に33回、特にへブル書では17回、用いられています。この「ディアセーケー」は、へブル書の9章16節と17節には「遺言」と訳されてあります。実は、「ディアセーケー」には、財産の処分とか、遺言の意味があります。当時ギリシャ語世界では、人と人との間で結ばれる「契約」を表す言葉としてσυνθήκη(シュンセーケー)という言葉が用いられていました。しかし聖書記者は、新約聖書の「契約」を意味する言葉として、シュンセーケーではなく、一方的な契約を意味するディアセーケーという言葉をあてたのです。聖書の「契約」は神が一方的にその条件を定め、それを人間に呈示するように、遺言を受ける人は、遺言者が作成した遺言の内容を変更したり、自ら作成することは出来ず、遺言を受け容れるか、拒否するかのどちらかしかないのです。織田昭著『新約聖書ギリシャ語辞典』においては、「ディアセーケー」の意味として、「一方の主体的裁量や約束を他方が受け入れ服する形での裁定と受諾の関係」と説明されています。 

 これは、「新約聖書」という英語の言葉にNew Testament という言葉が用いられている 

理由でもあります。なぜnew covenant ないしnew contractのではないでしようか。それは、聖書は神が人間に対して一方的に恵みによって示したものであるTestamentという言葉に聖書の意味内容がはっきりと示されているからです。 

 

「新約聖書の契約の意味」 


それでは、神が人間的に恵みによって制定された新らしい契約とは一体何でしょうか。古い契約が更新されて新しい契約が示されました。聖書が私たちに示す「救い」=「罪の赦し」の契約が宣言されたのです。神が、私たちに示された契約は、イエス・キリストの血が十字架で流されることによって成立すし、私たちがそれを受け入れることによって成立する契約です。。 

 イエス・キリストは「最後の晩餐」において、「これは私の契約の血です。多くの人に流されるものです。」(マルコ14:24)と語られました。またコリント第一の手紙には、「この杯は、私の血による新しい契約です。」というイエスの言葉が示されています。 

新改訳聖書2017で「ディアセーケー」というギリシャ語が「遺言」と訳されているへブル書9章16、17節には、「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力をもちません」と記されてあります。神の救いの契約は、イエス・キリストの十字架の死によって、はじめて効力を持つのです。

  つまり神がたてられた新しい救いの計画は、神の子イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架で血を流し、その犠牲の血を見て、神が私たちの罪を赦し、イエスを信じる者に永遠のいのちを与えてくださるという約束です。 


「契約における条件」 

 

それでは、神の一方的な恵みの救いを受ける条件とは一体何でしょうか。神は、私たちに救いの条件として、何かを行為することを望んでおられません。滝に打たれたり、断食して禁欲生活をしたり、人を助けるボランティアをしたとしても、罪が清められ、赦されるわけではありません。私たちに求められていることは、ただイエスの血が私たちの罪を赦すために十字架上で流され、三日後に復活されたことを信じることだけです。これを、「信仰義認」、つまりキリストを信じる信仰によって神の前に義とされ、受け入れられると言います。契約ですから、神の恵みを拒むこともできます。しかしそれは、滅びの道を歩み続けることでもあります。神が恵みによって定められた契約に私たちがどのように反応するか、そこから人間の責任が生じてきます。信仰とは、神の圧倒的な恵みに応答することです。 

 私たちが心に刻むべきことは、神がご自身の一人子イエス・キリストを通して下された契約に忠実であり、決してその約束を反故にされないということです。聖書の神は、粗暴で専制君主のような神ではありません。神は、ご自身が立てられた契約に最後まで忠実であられる方です。人が、神は契約を履行されないのではないかと疑ってしまったら、契約は成り立ちません。聖書の契約や約束は、神に対する信頼があって、初めて自分の上に実現します。


「契約の効力の期間」 

 

 よく聞く質問ですが、イエス・キリストの十字架の出来事は、今から2000年以上のことなので、現代に生き私たちには関係ないというものです。しかし契約の効力について考えてみてください。人と人との間の契約も、一度契約行為が行われたら、それを解消しなければ、いつまでも続きます。契約は、それが立てられた時だけ効力を持つのではありません。神の私たちに対する契約もそうです。イエス・キリストの十字架の贖いを心から信じる者は罪赦され、救われるという神の約束は最後の審判が行われるイエス・キリストの再臨まで続くのです。聖書では、「永遠の契約」と記されてあります。 

 日本国憲法は1946年10月に制定され、1947年5月3日に施行されましたが、それ以来2023年に至るまで、約76年間、一度も改正されず、世代を超えて、日本国民に効力を持ち続けています。 

神がイエス・キリストの血によって打ち立てられた新しい契約は、今でも有効であり、それは、時間と空間を超えて全世界の人々に向けられています。今を生きる私たち一人一人に向けられています、是非、キリストの血の犠牲によって打ち立てられた神の恵みの契約に応答し、イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れてくださるようにお祈りしています。 

 

 “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子【イエス・キリスト】を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(ヨハネの福音書3:16) 


  

 3.   第三回「神(God、θε ό ς、テオス) 」

 

「聖書における神の翻訳の歴史」 

 

神は、聖書ではどのように翻訳されてきたのでしょうか。日本人で神を信じるという方は少なからずおられます。「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行法師(1118-1190)の短歌は、心打つものがあります。しかしその神のイメージは曖昧で漠然としていたり、日本の古来の神観に基ずく場合が一般的です。ここでは聖書の示す神観について考えてみましょう。 

  1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられてから、最初は「テオス」は、「大日」と訳されましたが、あまりも仏教用語に近いということで、その後、「ゼウス」そして「天主」という言葉が使われるようになりました、日本の城壁の「天守閣」は、「天主閣」ともいわれ、初めて天守閣を造ったのは、宣教師たちを保護した織田信長でした。 

 明治になると、プロテスタントの宣教師たちにより、「上帝」と訳するか「神」と訳するかの論争があり、次第に「上帝」から「神」という語に代わり、定着していき、今日にいたっています。 

 ここでは、聖書が示す「神」の特徴を、三つの点から考えてみましょう。 

 

 「神は創造主」 


第一番目は、神は創造主であるということです。日本人には世界の創造という考えはなく、偶然に進化によって生じたという考えが一般的です。しかし、旧約聖書の冒頭には、「はじめに神が天と地を創造された」と記されてあります。この箇所を読んで感動し、神を信じるようになったのが同志社大学の創設者新島襄(1843-1980)です。彼は、次のように言っています。 

 「漢文で簡潔に書かれた聖書に基づく歴史書で神による宇宙の創造という短い物語を読んだときほど、創造主が身近なものとして私の心に迫ってきたことはなかった。私は、私たちが住んでいるこの世界が神の見えざる手によって創造されたのであって、単なる偶然によるものでないことを知った。」 

  パウロもまたアテナイの人々に対して、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みになりません。-----私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです」(使徒の働き17:24,28)と述べています。神は一定の法則をもって世界を創造されたので、科学は神の痕跡を求めて法則を解明しようと努めてきました。 

  宇宙のようなマクロの世界、人間の身体の器官、細胞のようなミクロの世界においても 

そこに神の叡知とデザインが余すところなく示されています。。 

 例えば私たちの心臓は、ポンプのようなもので、筋肉の収縮によって血液を全身に送り出しています。動脈を通って酸素や栄養を各臓器に運び、また静脈を通って二酸化炭素やアンモニアなど不要な老廃物や有害物質を回収します。血液の量は、1分間に5リットル、1時間でペットボトル600本の血液を送り出します。心臓は、1分間に70回程度鼓動し、一日に10万回も拍動を続け、8トンの血液を送り出すと言われています。人生80年とすると29億4000万回、眠っていても鼓動し続けるのです。 

  血液は、血管をとおって流れますが、血管は毛細血管を入れると12万キロメートル、つまり地球を二周半回る長さになります。 

 こうした心臓が偶然に進化して生じたというより、神が叡知をもって心臓をデザインされ、人間を生かしておられると考えた方が自然ではないでしょうか。 

 万有引力を発見したニュートン(1643-1727)には下記のような逸話が伝わっています。
ニュートンは、機械職人に注文して、太陽系の精巧な模型を作らせました。ある日、無神論者の友人が訪ねて来て、その模型を見て感動し、ニュートンとの会話が始まります。
 

友人 「実にみごとな模型だね。誰が作ったんだい?」 

ニュートン 「誰でもない。」 

友人 「おいおい、僕の質問がわからなかったのかな。僕は、誰がこれを作ったのか        なと聞 い たんだよ。」 

ニュートン 「それは誰が作ったわけではない。いろいろなものが集まって、 そう な      ったのさ。」 

友人 「人をばかにするものじゃない。誰かが作ったに決まっているだろう。これだ 

            けのものを作るとは、かなりの腕前だよ。それは誰かと聞いているんだ。」 

ニュートン 「これは、偉大な太陽系を模して作った、単なる模型だ。この模型が設
               計者も  なく、ひとりにできたと言っても、君は信じない。ところが君はふ                だん、本  物の偉大な太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う、い                 ったいどう したら、そんな不統一な結論になりのかね?」 

 ニュートンとの会話を通して、友人は創造者の存在を確信したそうです。 

 

「神は唯一である」 


 第二番目に、神は唯一です。日本人の伝統的な神観は多神教です。日本の神社には、学問 の神様を祀った太宰府天満宮、無病息災の神を祀る伏見稲荷大社、縁結びの神を結ぶ出雲大 社などがあり、それぞれの神が、お参りする人に現世の御利益を与える役割をもっています。 日常に私たちが使う言葉、「野球の神様」、「料理の神様」、「サッカーの神様」、「経営の神様」 といった言葉にも、多神教の痕跡があります。 

 筆者は福岡県に住んでいた時、当時西鉄という球団が使用していた「平和台球場」に何回 か足を運んだ経験があります。当時、西鉄の黄金時代でしたが、鉄腕投手稲尾和久(1937- 2007)が試合に登場すると、「神様、仏様、稲尾様」というキャッチフレーズが聞こえてく るのです。今で言えば、「神様、仏様、イチロー様」というのでしょうか。神概念が人間の レベルに引き下げられる典型的な事例です。 

 多神教に共通していることは、その神が、人間や自然界の動植物に超越している神ではな く、まさに神によって創造された人間や動物(被造物)を神として祀っていることです。例 えば、徳川家康を神として祀る日光東照宮、豊臣秀吉を神として祀る富国神社、桓武天皇を 神として祀る平安神宮、国のために命をすてた戦没者を神として祀る靖国神社などが有名 です。創造者である超越的な神と、人間との間に質的な区別、ないし断絶が存在しないので す。 聖書は、「あなたには、私以外に、他の神々があってはならない」(出エジプト20:3) と唯一神を語っています。神以外のものを礼拝することは、偶像崇拝の罪なのです。 

   札幌農学校の時に聖書の神を信じた内村鑑三(1861-1930)は、唯一神について次のよう に言っています。 

 「神が一つであり、多数でないことは、私の小さな魂にとり、文字通り、喜ばしきおとず れでした。もはや東西南北の方位にいる四方の神々に、毎朝長い祈りを捧げる必要はなくなりました。道を通りすぎるたびに出会う神社に長い祈りを繰り返すことも、もうい らなくなりました。唯一神信仰は、私を新しい人間にしました。それほど、神が一つという考えは、私に元気を与えてくれました。新しい信仰による精神の自由は、私の心身に健全な影響を及ぼしました。」(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』 

 

「神は人格である」 

 

  第三番目に神は「人格」であることを強調したいと思います。パスカル(1623-16662)は、彼の回心を書き記した「メモリアル」において、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、 哲学者および学者の神ならず」と書き記しています。哲学者の神とは、第一原因とか最終目的とか、抽象的な概念であって、血がかよっていないものですが、聖書の神は、人格を持った神であり、それゆえに人間と人格的に交わることのできる存在です。哲学者の神は死んだ神ですが、聖書の神は生きていて、人間に語りかけ、交わることを望まれる神です。 

  通常、「人格」とは知・情・意を持っている存在のことを言います。神は全知な方であり、また愛しいつくしむ、そして罪には怒るという感情を持っており、また人間と世界、歴史を導き、救い出そうとする意志を持っておられます。人間は堕落の結果、不完全な知性、誤った感情、誤った道を選択する意思を持つちっぽけな,無力な存在ですが、人格をもっているが故に、神の声に聴き従い、神に帰り、神と交わることができます。そしてとりわけ私たちは、「神の愛」を知ることができます。 

  聖書は、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)と記しています。神は、ご自分の御子に私たちの罪を負わせ十字架につけるほどまでに、私たち一人一人を愛された神であるというのです。クリスチャンとは、イエスを救い主として信じ、罪赦され、神の愛といのちに生きる者とされている者のことです。 

 

「終わりに」 

 

   以上、私たちは、聖書の神について考えてきました。神は存在しないと思っておられる方々、神はいるかもしれないと漠然と思っておられる方々、そして日本の古来の伝統や風習によって神々からの御利益を求めておられる方々、一度、聖書の神について探求されたらいかがでしょうか。新しい発見があると思います。聖書は、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出されます。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と勧めています。神との出会いこそ私たちの人生を変える機会となります。 

 

参考文献 

 

柳父章「ゴッドは神か上帝か」(岩波現代文庫、2001年) 

三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのかーコペルニクスからホーキングまで』(ブルバックス、2018年) 


4. 第四回 「人間  (man,ἂνθρπος、アンスロポス)」
 

 「人間と動物の違い」

 

人間とは一体、どのような存在でしようか。ひとつの答えは、言葉を持っているかどうかです。私たちは、それぞれの母国語や習得した外国語で、同国人や外国人と会話し、考えを共有します。しかし動物は、言葉を持っていなかったとしても、言葉以外の方法によって、コミュニケーションをとっているのではないでしょうか。私の家には家内が飼っている「メフィ」という美人の猫がいますが、ニャオーと泣いたり、尻尾をふったりして、思いを伝えようとします。

 また人間と動物の違いは、「考える」ということにあるという人もいます。パスカルの『パンセ』に、「人間は考える葦である」という有名な言葉があります。水辺に咲く葦のように風が吹けば右に左になびいてしまうようなか弱い存在であるけれども、考えることができるという点に人間の尊厳があるというのです。動物は、本能的に行動しますが、人間はじっくり考えて選択しようとします。考えることに人間としての尊厳があるというのです。ですから、上からの命令に盲目的に服従して行動したり、周りの空気に同調することにあくせくしたり、動物のように本能的・衝動的に行動する人は、人間の尊厳を踏みにじっていると言うのです。

またある人は、人間は道具を発明し利用する工作人「ホモ・ファーブル」(homo faber)である点が、動物と異なると主張する人もいます。

それでは、聖書はこの点に関して、なんと言っているのでしょうか。

 

「霊的存在のとしての人間」 

 

聖書は、人間は神によって、神と交わる霊的な存在として創造されたと語っています。

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)

大地のちりが肉体的部分を示しているのに対して、「いのちの息」は、霊的な部分を表しています。神は人間に「いのちの息」を吹き込まれたので、人間は、霊的存在となりました。この点が、人間と動物が決定的に異なる点です。動物は、神と交わることは出来ません。神と交わることこそ、人間が霊的に生きている証左です。神との交わりを喪失した人間は、まさに「生きていても死んでいる状態」にあります。

 

 

「人間ー上を見て歩む存在」

 

「人間」のギリシャ語のἂνθρπος、はανα+θορευωの合成語ですが、αναは上を、θορευωを見るを意味しますので、人間は上を見上げて生きる存在なのです。1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故で死亡した歌手に坂本九(1941-1985)がいました。私は大学生の頃、悲しい時、落ち込んだときには、いつも坂本九の「上を向いて歩こう」を口ずさんだことを覚えています。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように

思い出す 春の日 一人ぼっちの夜」

また彼の歌には「見上げてごらん夜の星を」という歌があります。聖書では、見上げるお方は、創造者である神なのです。内村鑑三は、「続一日一生」のなかで、アンスロポスについて、次のように言っています。

「 キリスト信者は助けを天に仰ぐ。地に求めない。そのすべての希望は、神につながる。人にかかわらない。ゆえにそのならいとして、上を見て、下を見ない。人はもともと上を見る動物である。そのからだの構造が、上を見るようにできている。昔のギリシャ人がアントロポスと呼んだのはその故であるという。そして人が人たるの価値を自覚するに至る時に、人は目を下に向けることを止めて、上に向けるようになる。」(7月24日)

 

「霊、魂、からだ」

 

 テサロニケの手紙では、人間は「霊、魂、からだ」(Ⅰテサロニケ5:23)によって構成されているとあります。霊は、ギリシャ語で「プリューマ」、魂は「プシュケー」、からだは、「ソーマ」です。魂は、知・情・意という精神活動を担う部分です。一般に、人間は肉体と精神によって構成されるといわれますが、聖書はその上に「霊」―神と交わる部分―を置いています。

 

 「神のかたち(imago Dei)としての人間」

 

 聖書では、人間は「神のかたち」に造られたと言っています。

「神は、人を御自身のかたちとして創造された。神のかたちとして創造し、男と女に彼らを創造された、」(創世記1:27)

それでは「神のかたち」とは一体何でしょうか。それは神が霊であるように、人間も霊的存在として造られたことを意味します。また神が理性的存在であるように、人間も理性的に考えるように創造され、また神が愛であるように、人間も互いに愛し合って生きるように作られ、神が意思を持っておられるように、人間も自由意思を持って行動するように造られました。

 

「堕落による神のかたちの損傷」

 

しかし、アダムとエバの堕落によって罪が入り、人類はその罪の影響を受けて、神との交わりが断たれ、神に応答できなくなりました、また人間の理性は曇り、真理を認識できなくなり、また愛の人格は破壊され、自己中心的になり、そこに対立、戦争が生み出されてくるようになりました。つまり、人間の知・情・意思は、悪や罪によって支配されるようになったのです。

 しかし、「神のかたち」は、完全に破壊されたわけではありません。その痕跡は残っています。これはとても大事なことです。

 

「神のかたちの痕跡」

 

 人は神から離れるとむなしくなり、虚無感を感じ、神を意識的かつ無意識的に求めるようになります。パスカルが、人間には「神のかたちをした空洞がある」と書いた通りです。また人間が罪責感を持つのも、人間が道徳的存在として造られたからです。健全な良心を持っている人は、良心の呵責を経験します。人から愛されたい、人を愛したいと思うのも、神が愛であり、神が人間を愛し合って生きるように創造されたからです。


「神に帰ること」

 

人間が人間として真に生きるのは、神に帰り、神との生ける交わりを回復することが必要です。人間は、霊的存在ですので、神との交わりが回復されてはじめて、人間として生きることができます。キルケゴールというデンマークの哲学者は、人が神との交わりを回復することによって、「真の自己」を回復すると言っています。またロシアの哲学者ベルジェ―エフは、神を否定することは同時に、人間性を破壊することであると主張しています。またアウグスチヌスは、『告白』の中で、「あなた【神】は、私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憇うまで、安らぎを得ることは出来ないのです。」と述べています。今、神を見失った私たちに神が求めておられるのは、方向転換して、「神に帰りなさい」というメッセージです。神は、わたしたちの心の故郷です。

 

「仲介者イエス・キリスト」

 

神はすでに、私たちが神に帰ることができるために、イエス・キリストの十字架を通して、罪の赦しの道を開いてくださいました。罪人である人間は、イエス・キリストを信じる信仰によって、誰でも創造者である神のもとに帰り、真の人間になることができます。聖書は、キリストについて以下のように語っています。

“ キリストは自ら、十字架の上で、

 私たちの罪をその身に負われた。

 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。

 その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。

 あなたがたは羊のようにさまよっていた。

しかし今や、自分のたましいの牧者であり、

 監督者である方のもとに帰った。“(ペテロの第一の手紙2:24-25)

5   第五回「 罪(Sin,ἀμαπτία、ハマルティア) 」


聖書の中でもっとも重要ですが、同時に最も理解されていないのが罪という概念です。聖書のメッセージを聞かれた方が、「あなたは罪人です」と言われると、「そんなはずはない」と反感を露わにされるか、「みんな、同じだ、私だけではない」と開き直られるかどちらかです。しかし、この罪の問題の理解なくして、聖書の示す救いに与ることは出来ません。ここでは、罪の問題を4つのポイントから考えてみたいと思います。 

 

「 罪と犯罪は同じではない」 

 

  まず第一に聖書が語る罪は、法律を犯す犯罪と同一ではありません。それでは、罪と犯罪とはどのように異なるのでしょうか。犯罪は、法を侵害する行為です。赤信号を無視して運転すると、道路交通法違反で、処罰されます。あるいは、人を殺害すれば、殺人罪で逮捕され、起訴されます。犯罪は、人間の外側の行為のみを問題とするだけで、心の中に殺意を問題とすることはできません。もちろん量刑に関しては、殺意があったかどうかが調べられますが、殺人をおかしていなければ、殺意だけでは裁かれません。しかし、聖書が語る罪は、犯罪と異なり、人間の内面をも問題にします。 

 

「人間の心の中にあるもの」 

 

  したがって第二に、私たちの心の中に生じる殺意、嫉妬、情欲、悪意、不品行などが、罪の対象になります。日本では、2019年から始まったコロナ感染で、三密を避けるという政府の呼びかけの下に、マスクをして、密閉、密接、密集を避けることに注意が払われてきました。私も家内も4回ほどワクチンを打ちましたが、その甲斐なく感染してしまいました。私たちは外から何か悪いものが入ってこないか身構えますが、私たち自身の心の中にある病原菌には注意を払いません。聖書は次のように記しています。 

“イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹にはいり、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。これらのものが人をけがします。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」”(マタイの福音書15:16-20) 

 私たちの内にあるこうした悪いものは他人に容易に伝染し、きまずい関係、ある場合には公然とした対立を生み出します。国と国との関係においては戦争へと発展していきます。私たちは、自分の心の思いを他人に知られないように、隠そうと努力しますが、すべてを知っておられる全知の神の前には、隠しおおせることはできません。聖書は、私たちはこの罪の性質によって支配されていると語っています。自分ではどうすることもできないのです。人間は罪の奴隷なのです。 

 

「神の基準」 

 

 このように、心の中にある悪しき堕落した罪の性質は、聖書が語っている罪です。外側の犯罪は、自制できずに罪の思いが行為としてエスカレートしたものです。 

 第三のポイントとして、こうした人間の罪の性質、自分が汚れて腐敗しているという自覚は、聖なる神を基準として初めて理解できるものです。人を基準にして自分の状態を考えると、振り子のように揺れ動きます。比較する相手によって、「私はあいつよりましだ」と優越感を覚えたり、「あの人にはかなわない」と劣等感を覚えます。どんぐりの背比べですね。しかし、聖であり、義である神の基準からすれば、すべての人が神の基準に到達できない罪人です。 

 平屋の家と三回建の家があり、正面から見ると歴然とした高さの違いがありますが、飛行機から見れば、同じです。罪とは、神の基準に到達できないことです。 

 聖書は、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができない」(ローマ人への手紙3:23)とありますが、これは、神の栄光に達することができない、つまり神の基準を満たすことができないことを意味しています。もし私たちが大学入試の基準を満たせず、不合格になるならば、希望の大学には入学できません。同様に、神に基準に達しない罪人は「神の国」(天国)に入ることは出来ず、神に裁かれ、永遠の滅びに入ります。 

 旧約聖書でイザヤという預言者は、神の聖さに触れて、自分の罪を自覚しました。聖書は次のように語っています。 

”聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。 

その栄光は全地に満つ。-----私は言った。 

「ああ私は滅んでしまう。この私は唇の汚れたもので、 

唇の汚れた民の間に住んでいる。」“(イザヤ書6:3、5) 

 イザヤは外側の罪の行為をしたからではなく、聖なる神に触れて、自分の罪の性質に恐れおののいたのです。それでは、私たちが神の基準に到達できない原因は何でしょうか。実はここに最も大きな問題があります。第四のポイントは、私たちが神の基準に到達できないのは、私たちが創造主である神に背を向け、神から離れている、神との生ける交わりから切り離されているからだと聖書は語っています。 

 

「 罪ー的外れ」 

 

  罪とはギリシャ語でハマルティアと言います。的外れという意味です。本来歩むべき人生から逸脱し、道を踏み外していると言うのです。それは、神によって命を与えられ、愛されているにもかかわらず、人は神に背を向け、神から逃走している忘恩の徒だと言うのです。したがって的を射る生き方とは、神に帰り、神を中心とした生き方に180度転回することです。それは、自己を中心にした生き方から神を中心とした生き方に転換する点において、天動説から地動説への「コペルニクス的転回」と言える大転回です。人間が的を射た歩み、本来の人間としての歩みをするためには方向転換して神に帰らなければなりません。 

 

「神に帰る」 

 

 しかし、神に帰るためには、私たちの罪が赦されている必要があります。罪が神と私たちとの仕切りとなっているからです。私たちは自分の努力によって、罪を清算することはできません。私たちの罪が赦され、神に立ち帰るために、全く罪のない神の子イエス・キリストの身代わりの犠牲が必要でした。聖書は次のように語っています。 

「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。 

   それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。 

   その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。 

   あなたがたは羊のようにさまよっていた。 

   しかし今や、魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰ったのです。」 

   (1ペテロの手紙2:24-25) 

 

「神の前に義とされること」 

 

  聖書は、イエス・キリストの十字架によって罪赦されて、神に帰ることを、「義とされる」という言葉で説明しています。「神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを通して、価なしに義と認められるのです。」(ローマ書3:24) 

「イエス・キリストの贖い」とは、イエス・キリストが私たちの罪を負って身代わりとして死んで下さったこと、また罪の支配から私たちを神の支配へと買い戻してくださったことを意味します。なんとイエス・キリストを信じる人は、神の子供とされるのです。また義と認められること、つまり義認とは裁判用語で、罪が赦されて、無罪放免されることを意味します。しかしそれだけではありません。義とされたものは、キリスト・イエスによって完全であるかのようにみなされます。神は、私たちに義の衣を着せることによって、神の基準に到達したものとみなしてくださいます。それは以前ボロボロの着物を着ていた乞食が、今や神の子として立派な着物をまとっているかのようです。それは、神の一方的な恵みによるもので、私たちの側の努力を一切必要とせず、ただイエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。


6  第六回 「福音(dospel,εύαγγέλιον、エウアンゲリオン) 

 

「 福音ー良き知らせ」 

 

聖書は、「福音」(エウアンゲリオン)という言葉を、93回も記しており、福音はgood  news , 良き訪れを意味します。ギリシャ語のエウアンゲリオンのエウは、良いという意味で、アンゲリオンは知らせを意味します。聖書のメッセージは、福音にあるといっても過言ではありません。英語では小文字のgospel が「福音」を意味し、大文字のGospelは、「福音書」を意味しています。皆さんはアニメ作品の「エヴァンゲリオン」を知っておられると思います。それは、なんと福音を意味しています。もちろんアニメの「エヴァンゲリオン」は、聖書の言う福音を語っているわけではありませんが。 

今日は、聖書の「福音」について、三つのポイントから考えたいと思います。 

 第一点は、福音ー良き訪れの内容です。聖書のいう福音とは何でしょうか。第二点は、そのよきおとずれが他の人々に伝えられる必要があることです。第三点は、それは、信じられ必要があるということです。福音を聞いて、拒否することもできます。 

 

「福音の内容」 

 

パウロは、「私は福音を恥じとしません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる全ての人々に救いをもたらす神の力です。」(ローマ書1:16)と言っていますが、福音を聞き、信じることによって、救いを得ることができます。それでは、聖書が示す良き訪れとは一体何でしょうか。 

最初にイエスがキリストとして、救い主としてこの世界に生まれたことがgood news です。御使いは、羊飼いたちにこの喜びの訪れを語っています。 

「私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 

今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。 

この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10-11) 

次に、イエスの十字架と復活が福音の実質的な内容です。パウロは、次のように書いています。 

 「兄弟たち、わたしがあなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがた. は,その福音を受け入れて、その福音によって立っているのです。わたしがどのような ことばで福音を伝えたか、あなた方がしっかり覚えているなら、この福音によって救わ れます。そうでなければ、あなた方が信じたことは無駄になってしまいます。私があな た方に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キ リストは聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこ と、また3日目によみがえられたことです。(1コリント15:1-4) 

イエス・キリストがこの世界に誕生されただけではなく、私たち一人一人の罪を負って十字架にかかり、3日目によみがえって今も生きておられることが、good newsです。なぜなら、イエス・キリストを私たちの救い主と信じることによって、罪赦され、永遠のいのちが与えられるからです。 


「福音が伝えられること」 


第二に、福音ー良き知らせは、伝えられなければなりません。難病が治るような新薬が開発されても、それが患者に知らされなければ意味がありません。 

聖書には、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」(ローマ書10:15)と記されてあります。 

 私は、大学受験をした時に、電報で合格を知りました。当時、受験の結果は、合格者の受験番号が掲示板に貼り出されれるので、受験者はそれを見て、合格したか、不合格かを知ることができました。私は、当時、父親の仕事の関係で奈良にいましたので、東京まで見にいくことは大変な出費になりますので、当否を電報で伝えるアルバイトをしていた大学生に電報を依頼しました。電報が来て、開封した時、「花咲く」とあり、大喜びで、家族にも伝えたことがあります。幸いなことに「花散る」ではありませんでした。喜びの知らせは、自分に留まらず、伝染していくものです。 

 

 「福音が信じられること」 


 第三に、福音が伝えられた時に、それを信じるか、拒否するかの選択を迫られます。日本がポツダム宣言を受け入れたことで、1945年8月15日に太平洋戦争が終わりました。その終戦の知らせは、フイリピンやインドネシアで戦っていた兵士にも伝えられましたが、敵の仕業と思った兵士は、その情報を信じようとはしませんでした。グアム島で戦っていた横井庄一陸軍軍曹(1915〜1997)は、終戦の放送を聞いても、「私たちは敗戦を信じられず、相変わらず敵の襲撃を恐れてジャングルの中をさまよい続けたのです。長くとも十年待っておれば、必ず日本軍は力を盛り返してこのグアム島へも攻め寄せてくると固く信じておりました。」と述べています。横井さんが日本に帰還したのは1972年の2月でした。またフイリピンのルバング島で戦っていた小野田寛郎陸軍少尉(1922-2014) がフイリピンから帰国したのは、戦争が終わって29年も経過している1974年3月でした。 

 マルコの福音書には、冒頭に「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」(マルコ1:1)とあり、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)と勧められています。 どうぞ、イエスの十字架と復活を通して実現した福音を信じて、喜びに満たされ、新たな人生に入ってください。 

7 第七回 キリスト(Christ、Χρστός、クリストス) 

 

「イエス・キリスト」 


イエス・キリストは、大谷 翔平というように、姓と名前の関係ではなく、イエスこそがユダヤ人が待ちに待っていたキリストであることを指しています。それでは、キリストとはどういう意味なのでしょうか。クリストスというギリシャ語の言語は新約聖書に531回、パウロの書簡に383回用いられています。 

 

「キリストの意味」 

 

ギリシャ語のキリストは、ヘブル語のメシアの訳で、「油注がれた者」を意味します。旧約聖書で「油注がれ」、高い地位に就任したのは、大祭司、預言者、王でした。神によって選ばれた地位に就く時に、「油注ぎ」という儀式が行われます。 

大祭司は、神と人との間の仲介者で、人のために神にとりなしをする職務を持っています。また預言者とは神のことばを預かり、神の代理人として神のことばを語る人のことです。そして王とは、国民を支配する支配者を意味しています。旧約時代は、この三つの職務は、それぞれ異なった人々に割り当てられていましたが、イエスは、この三つの職務を全て一身に集中して持っておられる油注がれたキリストです。 

 

「イエスに対するユダヤ人の態度」 

 

旧約聖書、特にイザヤ書とエレミヤ書には、キリストが来られるというキリスト預言で満ちています。しかし、実際にイエスがメシア=キリストとしてこられた時、ユダヤ人たちはイエスがキリストであるとは信じないで、イエスを迫害しました。しかし信じた少数のユダヤ人もいました。特にエルサレムに住んでいたシメオンとアンナがそうでした。 

シメオンは幼児イエスを腕に抱きしめ、「主よ。今こそあなたは、お言葉通り、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを 。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」(ルカ2:29〜32)と狂気して喜んでいます。また女預言者で、夜も昼も神に仕えていたアンナは、「エルサレムの贖いを待ち望んでいた全ての人に、この幼子のことを語った。」(ルカ2:38)とあります。 

 

「二つのキリスト理解」 

 

しかし、なぜ多くのユダヤ人たちはイエスをキリストとして受け入れなかったのでしょうか。ユダヤ人たちのキリスト像は、当時のイエスの弟子たちも含めて、ユダヤ人をローマの圧政から解放する政治的王でした。ローマ帝国の植民地下にあったユダヤ人は強力な政治的支配者としての王を求めていたのです。確かにイザヤ書には、強力な支配者としてのキリスト預言が存在します。 

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その 王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえま で。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9:6〜7) 

しかし、イザヤ書にはもう一つのキリスト像があり、それは、私たちの罪を身代わりとして負う「苦難の僕」としての姿です。 

「しかし、彼は私たちのそむきのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒され た。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かっていった。 しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:5〜6) 

当時のユダヤ人たち、そして弟子のペテロでさえも、ユダヤ人の王としてのキリスト像を持っていたので、イエスが苦しみを受けて殺されることを語られた時に、それを信じようとしないばかりか、イエスをいさめ、「主よ。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(マタイ16:22)と、イエスの言葉を否定しています。師と弟子の立場が全く転換しています。 

しかし、御使いは、イエスが生まれるに際して、ヨセフに対して、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスと名づけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)と語っています。まさに罪からの救い主としてのキリスト像です。またイエスをキリストとして証するために遣わされた バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネの福音書1:29)と述べています。旧約時代においては、子羊がほふられ、血が流されて、一時的に罪の赦しがなされる儀式が行われていましたが、バプテスマのヨハネは、そのことを念頭において、イエスこそが十字架につけられ、血を流して、永久に罪の問題を解決してくださるキリストであると宣言しているのです。 

聖書では、罪の贖い主としてのキリスト像とユダヤ人の王としてのキリスト像は矛盾するものではありません。前者はイエスの初臨において実現し、後者はイエスが地上に再臨されて、「メシア王国」が実現する時に成就します。 


「神の子としてのキリスト像」 

 

ユダヤ人がイエスをキリストと認めなかった理由が実はもう一つありました。当時、キリストが来られることを待っていたユダヤ人たちは、キリストが人間であり、神の子、ないし神であると思ってはいませんでした。従って、大祭司が、イエスに「おまえは神の子キリストなのか答えよ」と迫り、イエスが「その通りです」と答えた時に、大祭司は衣を引き裂き、「この男は神を冒瀆した」(マタイの福音書26:63-65)と有罪判決を下したのです。 

他方、ペテロがイエスに対して、「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰告白した時に、イエスは喜ばれ、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」(マタイの福音書16:16-17)と語られました。 

イエスは、全く罪のない神の子だからこそ、罪人の罪を負って十字架にかかり、身代わりとして裁かれることのできる唯一のお方です。神の子イエス・キリストの犠牲の死によって、イエスを信じる人々の罪の赦しの道が開かれたのです。 

今日においてもイエスを神の子、ないし神であることを否定する人々がいます。統一教会、エホバの証人、モルモン教という新興宗教がそうです。また神の子イエスではなく、人間イエスを強調することによって、キリスト教を受け入れやすいようにする試みもあります。しかし聖書は、「御子【イエス・キリスト】は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」(ヘブル書1:3)と明確に語っています。100%人間であり、100%神であるイエス・キリスト、そこに聖書の奥義があります。 

 

「ペテロの信仰告白」 


最後に、イエスが復活される前には、イエスの十字架の死を否定していたペテロが、復活されたイエスと出会った後、ペテロ第一の手紙で語っていることを紹介して終わりたいと思います。 

「キリストは罪を犯したことがなく、 

その口には欺きもなかった。 

ののしられても、ののしり返さず、 

苦しめられても、脅すことをせず、 

正しくさばかれる方にお任せになった。 

キリストは自ら十字架の上で、 

私たちの罪をその身に負われた。 

それは、私たちが罪を離れ、 

義のために生きるため。 

その打ち傷のゆえに、あなた方はいやされた。 

あなた方は羊のようにさまよっていた。 

しかし今や、自分の魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰った。」 

(1ペテロの手紙2:22〜25) 

8   第八回 主(Lord,kύριος、キュリオス) 

 

「主であるイエス・キリスト」 

 

聖書では、イエスは救い主であると同時に主であると語っています。例えばペテロ第二の手紙2章20節では、「主であり、救い主であるイエス・キリスト」(IIペテロ2:20)とあります。イエスは、私たちの罪を負い、十字架にかかり、罪の赦しの道を開かれた救い主です。クリスチャンは、イエスを罪からの救い主として信じますが、それだけではなく「主」(kύριος)として従います。主とは政治用語ですが、支配者という意味です。つまり、私たちの人生を支配するお方です。旧約聖書では、「ヤーゥエ」(YAWH) ないし「アドナイ」という神を表わすヘブル語が、ギリシャ語では「キュリオス」と訳されてあります。「主」とは神を示す言葉でもありますので、イエスは神として全ての権威を持っておられる方です。 

新約聖書では、主イエス、ないし主イエス・キリストということばは、125回出てきます。イエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いを知っているからこそ、自分の人生を「主」に任せることができます。 

 

「 皇帝が主か、キリストが主か」 

 

ローマ書には、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神が死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです。」(ローマ書10:9)とあります。私たちは当時の時代的背景を考える必要があります。当時クリスチャンは、イエスを主として従うべきか、皇帝を主として従うべきか、二者択一を迫られていました。イエスを主と告白することは、迫害を受け、場合によっては殉教の危険性がありました。イエスを「主」として従うことは、イエスを神として告白することであり、自分の主権をイエス・キリストに明け渡すことでもあります。 

「夏目漱石のキリスト教批判」 

 

夏目漱石は、「断片」(一九〇五年十一月から一九〇六年夏までの断章)において、 神を信じることは、神の奴隷となることだといっています。 

「どうして神を信じないのか。自分を信じるので、神を信じないのである。全宇宙のうちに自己より尊きものはない。自分を尊いと思わないものは奴隷である。自分 を捨てて神に走る者は神の奴隷である。神の奴隷になるよりは、死んだ方がましで ある。」 

夏目漱石にとって、神なき個人主義の立場に立てば、自分をキリストの支配に従わせることは、キリストの奴隷になることであると思われたのです。自分こそ宇宙の中心でなければならないのです。しかし聖書は、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ書1:13、14)と記しています。救いとは、人生の中心が自分からキリストへ180度転回することです。主権の転換が起こるのです。 

 

「キリストを主として従う動機」 


キリストを主として従う動機は、神によって強制されて、脅されて、あるいは利得目的からおこなわれるものではありません。上記の聖書の言葉にあるように、キリストが私の罪のために十字架にかかり、命を捨てるほどまでに私を愛してくださったという、キリストの愛に対する感謝と応答から生み出されてきます。キリストは強制されてではなく、自発的、自主的な服従を喜ばれます。今日、キリストに従うことが理解されない、ないし誤って理解される原因は、神なき個人主義があたりまであると思われ、神のない人生に慣れきって、したい放題の自由を享受しているからではないでしょうか。今日、若い人の好きな言葉は「自由」であり、最も嫌いな言葉は「権威」ないし「従う」ことです。 

 

「 トマスの告白」 

 

トマスという弟子は疑い深い性質を持っていました。彼は、イエスがよみがえられたという他の弟子たちの証言を聞いても容易に信じませんでした。しかし、彼が墓を打ち破って復活されたイエスに出会った時に、トマスは「私の主 (kύριος)、私の神(θεός)」(ヨハネの福音書20:28)と告白しています。イエス・キリストは「主」であり、「神」です。イエス・キリストを救い主として信じることは、取りも直さず、「主」として従うことです。パウロは、ローマ人への手紙1章と16章中で、「すべての異邦人の中に『信仰の従順』をもたらす」(1:5,16:26)と福音宣教の目的について語っています。 

 

 

9.第九回 贖い(λὐτρωσις(リュートローシス),άπολύτρωσις(アポリュトローシス)、Redemption)


「贖いのギリシャ語と本来的意味」

聖書で「贖(あがな)う」という場合には、代価を払って買い取る、ないし解放するという意味があります。奴隷解放が、イメージとしてわかりやすいと思います。奴隷を主人から、身代金を払って解放するという意味です。
もちろん私たちは奴隷ではなく、自由人です。自分の選択や決断によって行動することができます。しかし聖書は、人間がいかに弱く、本能や欲望によって駆り立てられる存在であるかを示しています。とくに日本では、女性の盗撮をはじめ性的な被害が多発し、止まるところをしりません。政治家、高級官僚、教育者、警察官、会社員、大学生の性的な犯罪が話題にならない日はないほどです。理性も道徳も、面子も、性的衝動をコントロールできない程度にエスカレートしています。このことを聖書は、罪の奴隷と言っています。そのような罪の奴隷である私たちが、イエス・キリストの十字架の犠牲という代価が支払われて、罪の奴隷から解放され、真に自由とされることを贖いと言言います。
ギリシャ語のλὐτρωσις(リュトロオーシス)が贖うという名詞で、3回用いられ、リュトローマイが贖いを意味する動詞で3回用いられています。英語では、redemptionです。またリュローシスが強い意味を持つと、άπολύτρωσις(アポリュトローシス)という言葉が用いられます。これは、新約聖書で10回用いられ、身代金の支払いによってなされる解放、奴隷の買い戻しを意味します。
例えば、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義とさ認められるからです。」(ローマ3;24)の贖いにはアポリュトローシスが用いられています。
またコロサイ書の1:14節には、「この御子にあって、私たちは贖い、すなわち罪のゆるしを得ているのです。」とありますが、この贖いが、アポリュトローシスです。また贖う(アポリュオー)の動詞は、新約聖書で69回使用されています。

「奴隷からの解放」

奴隷という言葉は現在の自由な社会においては、違和感があるかもしれません。しかし人間は罪の奴隷です。罪によって縛られた無力な存在です。聖書の救いは、罪の奴隷から、キリストの奴隷へと主権が転換することを言います。聖書には、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する神の御支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:14)とあります。

「旧約聖書における贖い」

旧約聖書も、出エジプトにおけるユダヤ人の解放を、「贖い」という言葉で表現しています。
「わたしは主である。私はあなた方をエジプト の苦役から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきによってあなた方を贖う。私はあなた方を取ってわたしの民とし、わたしはあなた方の神となる。」(出エジプト6:6〜9)
ここでも主権の転換、解放の意味内容が示されています。またイザヤ書において神はユダヤ人のバビロン捕囚からの解放を念頭において、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43:1)と語られています。

ここで新約聖書の贖いについて大事なポイントを4点見てみましょう。

【第一のポイントー 贖いと償いとは異なる】

第1のポイントは、日本の日常語では、贖いという言葉は使わないので、償いと間違えてしまう方も少なからずおられます。償いとは罪を赦してもらうために何かをすることですが、贖いは、一方的な神の恵みにより、罪の奴隷から解放されることです。自分の力でどんなに頑張っても罪の支配から自分で自分を解放することはできません。

【第二のポイントー贖いは罪の赦しを含む】

第二のポイントは、贖いは、救いの文脈で用いられる場合、罪からの解放と同時に、罪の赦しを含んでいるということです。「この御子にあって私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」(コロサイ1:14)とあります。

【第三のポイントーイエス・キリストの血という代価の必要性】

贖いの第三のポイントとして、罪の奴隷から解放されるためには、「身代金」、「代価」が支払われる必要があります。代価が支払われることなくして、罪の赦し、そして罪からの解放はありません。「あなた方は、代価を払って買い取られたのです。(1コリント6:20) とある通りです。そしてその代価とはイエス・キリストの血です。

「ご承知のように、あなた方が先祖から伝わったむなしい生き方から解放されたのは、銀や 金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18〜19)

私たちの罪が赦され、罪から解放されるために支払われた代価は、全く罪のない神の子イエス・キリストです。神は、独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに私たち一人一人を愛してくださいました。いかに神が私たちを高価で尊いものとみなしておられるかの証明です。わたしたちは、自分にとって価値がないと思えるものには一銭もお金を使いたくありませんが、ものすごく価値あるものには、たとえ高額なお金を支払っても、また借金をしてでも購入するのではないでしょうか。同じように、神は独り子イエス・キリストを代価として支払うほどに、私たちを愛しておられます。

「第四のポイントー身体の贖い」

贖いの第四のポイントは、贖いが未来の意味において使用されている点です。聖書は、魂の救いという意味で「贖い」という言葉を使っていると同時に、将来イエス・キリストの再臨の時に、死者が復活し、朽ちない栄光の身体に変えられるという肉体的な意味でも「贖い」という言葉を用いています。パウロは、そのことをうめきつつ待ち望んでいました。

「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ書8:23)

主イエスが再び来られる時に、信者がよみがえり、罪のない栄光の身体に一瞬にして変えられることが、パウロだけではなく、すべてのクリスチャンの望みなのです。
「贖い」が代表的な事例ですが、聖書を読む時に、キーワードの意味を理解しておけば、聖書がもっと身近で、わかりやすいものとなります。是非救いの理解にとって最も大事な「贖い」の意味を理解してください。


10.第十回 義認(δικαιὀω,ディカイオオー、justification)

「義と認める」(δικαιὀω)という言葉は、新約聖書で39回使われ、特にローマ人への手紙で15回、ガラテヤ人への手紙で8 回用いられています。多くは、「義と認められる」、つまり義とされるという意味で受動態で用いられています。また義という名詞はδικαιοσύνη(ディカイオシュネー)で、91回使われています。それでは、この義認について、4つのポイントで考えてみましょう。まさに、この「義とされる」ことに目が開かれて、ルターの宗教改革が始まり、救いの真理が回復されたのです。「義とされる」ことは、「贖い」と同様、救いの中心的なキーワードです。

 「第一のポイントー義認は法廷用語」

法廷では、検察官が被告の罪を追及し、弁護人が弁護し、最後に裁判官が判決を下します。関係者や傍聴人は、どのような判決が下されるか、緊張して待っています。その時に無罪であるという判決が、「義とされる」という意味です。つまり無罪宣告です。
 私たちは、人生の総決算として、いつかは神の法廷に立ち、自分がしたことに対して説明責任(アカウンタビリティ)を果たさなければなりません。その時、無罪判決を受けるか、有罪判決を受けるかのどちらかです。本来、人間は罪人として有罪判決を受けて当然でした。ローマ人への手紙では、すべての人が罪の下にあり、「義人はいない、一人もいない」(ローマ3;10)、「全世界が神の裁きに服する」(ローマ3;19)と記されてあります。自分の力では自分の罪を清算できません。しかし神は、行いとは別の方法によって、罪人に無罪判決を下す道を開かれました。

 「第二のポイントー義認は信仰によって」

つまり、イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架にかかり、血を流して、代わりに裁かれて下さいました。私たちは、ただイエス・キリストに免じて、イエスを信じる信仰によって義とされると聖書は語っています。つまり「行いによる義」ではなく、「信仰による義」です。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ書3:28)とある通りです。この信仰による義の発見こそ、ルターの宗教改革の出発点でした。

「第三のポイントー神の恵み」

有罪判決を受けて当然なものが無罪判決を受けて義とされ、罪赦されるわけですから、それは神の一方的な恵みです。聖書は、「ただ神に恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに価なしに義と認められます。」(ローマ3:24) と語っています。この「価なしに」のギリシャ語はδωρεὰν(ドーレアン)でただを意味します。つまりこちらが何をしなくても、イエス・キリストを信じ、受け入れるだけで、罪赦され、義とされるのです。これが恵み(カリス)の意味です。「ただほど怖いものはない」と反論する人もいますが、神の恵みを感謝して受け入れるためには、神の前におけるへりくだりが必要です。プライドの強い人、神の前に白旗を挙げようとしない人は、恵みを恵みとして受け入れようとしません。自分は神や人から恵まれる存在ではないと呟くのです。以前の私がそうでした。それは自分の罪の深さにきずいていないからです。クリスチャンを迫害していたパウロは、自分の罪の大きさにもかかわらず、恵みによって救われた喜びを以下のように告白しています。

「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。キ リスト・イエスは罪人を救うために世に来られたということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテへの手紙1:15)

「第四のポイントー義認と神の義の関係」

実はイエスの十字架は、信じる者が神の前に義とされる恵みであると同時に神の義、つまり神の正しさを示しています。神の前に義とされると同時に神の聖さや正しさが現わされなければなりません。まさにイエスの十字架において神の愛と神の正しさが同時に示されています。「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハネの福音書1:17)とある通りです。
つまりイエスの十字架の死は罪を裁く神の聖さや正義の現れであり、同時に信じる者を義と認めてくださる神の愛の現れです。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公 にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。こうして神ご自身が義(ディカ イオシネース)であり、また、イエスを信じる者を義と御認めになるためなのです。」(ローマ人への手紙3:25-26)

「第五のポイントー義の衣を着せられる」

第五のポイントは、イエスを信じる人々は、罪赦されるだけではなく、キリストの義の衣を着せていただき、完全なるものとして神の前に立つことができることです。これには、新約聖書におけるたとえとして、ぼろぼろの服を纏って帰ってきた放蕩息子に父親が、「一番良い着物を持ってきて着させ」、子として受け入れたことに示されている真理です。これが、義とされた人が神の前に持っている立場です。いわば乞食が王子にされた立場です。ただ王子とされた乞食が、王子とされても状態において乞食の時の習慣を継続し、王子としてふさわしくないこともありますが、王子としての立場は変わらないのです。

 

第十一回 和解(καταλλαγή カタラゲー、reconciliation)


「和解のギリシャ語」

和解という聖書のキーワードは、すでに述べた「贖い」や「義認」と同様に、罪の赦しや救いを意味する言葉です。和解のギリシャ語の名詞は、カタラゲー、和解するの動詞は、καταλλσσω(カタラソー)です。受動態の和解させられるは、καταλλάσσειν(カタラセイン)です。和解という言葉は、パウロによって新約聖書で4回使用されています。和解するというのは、対立のない状態に戻す、敵を共に変えることを意味します。人間は神によって創造された時は、神との親しい交わりが有ったのですが、アダムとエバの罪によって、親しい関係が壊れ、人間は神に対して敵対関係になりました。この敵対関係をもとの親しい関係に変えるのが、和解です。聖書では、カタラソーに分離を意味する前置詞のapo が付き、意味を強める意味で΄αποκαλλασσω(アポカタラソー)という言葉も用いられています。

「和解をなされたお方」

 神と敵対関係にあった私たちを神と和解させて下さったお方はイエス・キリストです。イエスが、十字架上で私たちの罪を負って十字架で死なれ、血が流されることによって、和解がなしとげられました。私たちは、イエスを信じる信仰によって、神との正しい関係に回復されるのです。
「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解さ せていただいた私たちが御子の死によって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、今や私たちは和解させていただいたのです。」(ローマ書5:10,11) 
「和解」はドイツ語で、versöhnung といいますが、Sohn は息子、verは、~をするという意味なので、和解によって、私たちは「神の子」とされ、「ああおとうさん」といって、神の恵みの御座に大胆に近づくことができます。

 「和解のイニシャテーブをとられたお方」

神と人間の間にある敵対関係、つまり罪という壁は、人間が神に罪を犯すことによって生じたものですので、人間に責任があります。罪の赦しと和解を必要とするのは神ではなく、人間です。にもかかわらず、和解のイニシャティブを取られたのは神です。つまり、神は、ひとり子イエス・キリストの十字架の犠牲を通して、罪の赦しの道、救いの道を開いてくださいました。神との和解のために、私たちの側で何かをする必要はありません。もう和解の道は開かれています。私たちの側でなすべきことは、ただ、イエス・キリストを救い主として信じ、神の和解を心から受け入れるだけなのです。
「神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせ ず、和解のことばを私たちに委ねられました。——神は、罪を知らない方をわたしたちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあっ て神の義となるためです。」(Ⅱコリント18,19,21)
 「罪をしらない方」とはイエス・キリストのことです。全く罪のない神の子イエス・キリストが、私たちのために罪そのもとされたという驚くべき事実です。
 
「クリスチャンは和解の務めを委ねられている。」

聖書は、和解せられたクリスチャンは、まだ神様から遠く離れている魂をキリストに導くために、「和解のことば」を委ねられていると語っています。クリスチャンは、神から遣わされた使節、大使として、神にかわってキリストによる和解を伝えるのです。
「こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」(Ⅱコリント5:18-20) 
福音の根本は、失われた関係の回復にあります。和解は、人がキリストの愛に触れ、悔い改めて神に帰ることによって成立します。そこから神との生ける交わりが生まれてきます。

 

第十二回 仲介者(μεαίτης,メシテ―ス,mediator)

「仲介者」というギリシャ語である「メシテ―ス」は、新約聖書で6回用いられています。「中間に立ち、両者を結び合わせる人」という意味です。「新約聖書ギリシャ語小辞典」では、「間に立って執成す者」とあります。一般的には、調停者、仲裁人、仲保者、保証人という意味で用いられます。この仲介者を三つの観点から考えて見たいと思います。

 
「新しい契約の仲介者」

 神が、人間に対して立てられるのが「契約」です。聖書は、モーセが古い契約である律法の仲介者であったのに対し、イエス・キリストが「新しい契約」の仲介者であると語っています。契約を与えられる方は、神です。契約を受けるのは、人間です。そしてこの契約が実現する、つまり効力を持つためには、仲介者であるイエス・キリストの十字架の犠牲が必要です。
へブル書は、十字架で罪の贖いをなしてくださったイエス・キリストが、「新しい契約の仲介者」(へブル9;15)であると言われています。 
「キリストは新しい契約の仲介者(メシテ―ス)です。それは初めの契約の時の違反から贖いだすための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。」(へブル9:15)
初めの契約、古い契約は、律法です。しかし律法は、人間を罪に定めますが、救い出すことはできません。人を罪から解放し、永遠のいのちを与える新しい契約は、イエス・キリストが死に、十字架で血が流されることで、実現します。イエスが十字架で人間の罪を負って十字架にかけられるというイエスの仲介が、契新しい契約の実現において重要です。


「仲介者の意味―仲裁者、ないし調停者」

仲介者の意味は、双方の対立を和解する仲裁者という意味もあります。旧約聖書の七十人訳聖書では、9章33節に、「私たち二人の上に手を置く仲裁者(メシテ―ス)が私たちの間にはいません。」と記されています。仲裁は、敵同士を仲裁して友にすることです。人間間の場合に、敵対する双方に原因があり、喧嘩両成敗ということもありますが。神と人との関係においては、対立の原因は神ではなく、人間の罪にあります。
 「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、 聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1ー2)
 罪の問題が解決されないと、神と人との正しい関係は回復されませんが、仲裁者イエスによって罪の赦しがなされ、隔ての壁が打ち壊されます。仲介者に必要な条件は、神の事を知ると同時に、人間の苦悩や悲惨をも知り、あわれみを注ぐ人です。仲介者としてふさわしいお方は、100%神であり、また100%人間であるお方だけであり、それは、人としてこの地上にこられ、罪の贖いをなしとげられたイエス・キリストです。聖書は次のように語っています。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一です。神と人の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストはすべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時に、なされた証です。」(Ⅰテモテ2;5)


「仲介者の別の意味―保証人」

メシテ―スは、「保証人」という意味もあります。負債を保証するのが、メシテ―スです。銀行でお金を借りる時に、本人が返済できない時に、負債を本人に代わって支払うのが保証人です。今日の連帯保証人のようなものです。人間の世界では、連帯保証人になったばかりに、家屋敷を抵当に入れられるという悲劇が再三起こっています。しかしイエスは、自ら私たちの罪の負債をすべて、十字架の死によって、清算してくださった連帯保証人です。自分でどんなり努力しても罪という負債を返済できませんでしたが、代わってイエス・キリストがすべての負債を支払ってくださったのです。聖書は、「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘づけ」して取り除いてくださいました。」(コロサイ2:14)と語っています。
 皆さんは、イエスが十字架で語られた七つのことばを御存知でしょうか。そのうちの一つが債務の清算という意味をもっています。聖句を紹介しましょう。
 「イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして頭を垂れて霊をお渡しになった。」(ヨハネの福音書19;30)
この「完了した」というギリシャ語が、「τετελέσται、 テテレスタイ」ですが、罪の負債を「完済した」という意味でもあります。

以上私たちは「仲裁者」(メシテ―ス)の意味を、新しい契約の仲介者、対立する者の仲裁者、罪という負債をかわって清算された保証人という三つの視点から考えました。「仲介者」は、神と人の和解をなしとげてくださったお方です。この方を通して私たちは、創造者である生ける神に帰ることができます。


第十三回 新生(regereration,παλιγγενεσία,パリゲネシア)(2023.12) 

「新生のギリシャ語」

 この新生(παλaιγγενεσία,パリゲネシア)というギリシャ語は、πἀλιν(再び)とγἐνεσις(生まれる)から成っており、「新約聖書ギリシャ語小辞典」では、「キリストによって新しいいのちが生まれること」と説明されています。このギリシャ語は、テトス3章5節に使用されています。

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(新改訳第二版)

新改訳聖書2017は、パリゲネシアを文字通り「再生」と言語に忠実に訳していますが、私見によれば、内容に即して「新生」がわかりやすいと思います。なぜなら「再生」ということばで、日本人の中には輪廻転生を想起する人が多いからです。

「新しく生まれる、new born」

聖書では、新生を表現する際に別のギリシャ語を用いている箇所があります。それは新しい(καινός、カイノス)という形容詞をつけて、新しくうまれた者を表しています。英語ではよく知られているnew bornです。
最も有名な聖句は以下の通りです。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者(καίνη                       κτίσις、new creature)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリントの手紙5:17)
 ちなみに、新しいというギリシャ語には二つあり、カイノス(καινὀς)は質的に新しいことを意味し、ネオス(νέος)は時間的にあたらしいことを意味します。ほかにもカイノスは、「新しい契約」(Ⅰコリント11:25)や「新しい天と地」(Ⅱペテロの手紙3:13)で用いられています。

「ニコデモへのイエスの言葉」
最後に、イエスが語られたニコデモへの有名な言葉を考えみましょう。ニコデモはパリサイ人で、ユダヤ人議会のメンバーであったにもかかわらず、イエスのもとを訪ねました。イエスは、ニコデモに「まことに、まことにあなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません、」(ヨハネの福音書3:3)と語られました。また新しく生まれる方法について、「まことに、まことに、あなたに言います。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(同、3:5)と話されました。ここで「新しく生まれる」というギリシャ語には「上から」(ἀ'νωθεν,アノーセン)生まれるというギリシャ語が用いられています。人間の努力によってではなく、ただ神の御力によって新しく生まれるという意味が込められています。水と御霊によって生まれるとは、水が象徴する神のみことばと聖霊の働きによって人は、新生できるのです。
 ニコデモは、イエスが語られる真意が理解できませんでした。ですから彼は、「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」というちんぷんかんぷんな質問をしています。

 「新生の重要性」

新しく生まれる、新生することは、イエス・キリストを信じ、こころに受け入れた結果として生じます。努力して努力して自分を変えようとするのではなく、上からの神の働きによって新しい者としてつくりかえられるのです。アダムとエバが堕落し、人間が罪の性質を以て神に反逆しはじめてから、神は聖霊による再創造のみわざをなし続けておられます。

「聖書の言葉」
”しかし、この方(イエス・キリスト)を受け容れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのです。”(ヨハネの福音書1:12,13)




第十四回 神の国(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア・トゥ-・セウー) 


「新約聖書における神の国の記述」
  新約聖書では、「神の国」は68回用いられていて、ルカの福音書が32回、マルコの福音書が14回、マタイの福音書が4回、ヨハネの福音書が2回です。マタイの福音書では、「神の国」にかわって「天の御国」(kingdom of heaven)という言葉が33回用いられています。国のギリシャ語はバシレイアです。

「神の国の定義」
聖書では重要な言葉として「神の国」(マタイの福音書では「天の御国」(kingdom of heaven)があります。この「神の国」の定義を知ることが、決定的に重要です。この言葉は、政治的な用語です。例えば一つの国を思い起こして下さい。ドイツの憲法学者エリネックは、国家の三要素として、主権、国民、領土を挙げています。例えば日本の国家は、主権をもっており、領土、領空、領海を支配しており、そこには日本の国民が住んで居ます。「神の国」には、イエス・キリストという主権者がおられ、イエス・キリストを信じる人々によって構成され、目に見える、ないし目に見えない領域が存在します。大事なことは、イエス・キリストの主権が確立されているかどうかが大切なことです。『神の国』とは、神の支配と定義することができます。同時に「神の国」が、領域(マタイの福音書4:8)や国民(マルコの福音書3;24)の意味にも用いられています。

「目に見える神の国と目に見えない神の国」

マルコの福音書1章15節では、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と記されてあります。この「神の国」をユダヤ的なメシア思想の文脈で「千年王国=メシア王国」という目に見える王国と同一視する必要はありません。ユダヤ人にとって最も必要なことは、罪を悔い改め、イエス・キリストをメシア(救い主)として受け入れることでした。イエス・キリストを心の中に受け入れた時に、そこに「神の支配」、「神の国」が誕生します。それは目にみえない「神の国」です。たとえ罪が支配する滅びゆく世界の中にあっても、「神の国」は存在するのです。
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかとイエスに尋ねた時に、イエスは、「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20,21)と語られました。またイエスはユダヤの総督ピラトに対して、ご自身が王であることを認めつつも、「わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハネ18:36)と語られました。現在においても、この目に見えない「神の国」はイエス・キリストを信じる人々の心に打ち立てられているのです。

「神の国ー主、キリストの支配」
 聖書の中に、「あなたの口でイエスを主 (kύριος) と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ人への手紙10:9)と記されてあります。 すでに第八回「主」の所で書きましたが、初代教会においてクリスチャンは、イエスを主として従うべきか、皇帝を主として従うべきか、二者択一を迫られていました。イエスを主と告白することは、迫害を受け、場合によっては殉教の危険性がありました。イエスを「主」として従うことは、イエスを神として告白することであり、自分の主権をイエス・キリストに明け渡すことでもあり、そこに「神の国」が到来します。パウロは、人が救われる以前の状態と救われた後の状態について、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子の御支配(έξοσια,エクソシア、dominion)の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ書1;13,14)と書いています。すなわち救いとは、暗闇の力であるサタンの支配から解放されてキリストの支配、「神の国」に移されることなのです。
クリスチャンは二重国籍の持ち主です。日本人として日本の国籍を持っていますが、クリスチャンとしては天の国籍を持っている天国人です。パウロは、「私たちの国籍は天にあります。そこからイエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ人への手紙3;20)
と語っています。

「目に見える神の国」
 しかし、聖書は目に見える形で将来イエスが支配される「神の国」が地上に到来することを約束しています。それは、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシア王国(=千年王国)であり、彼らが自分たちの罪を民族的規模で悔い改め、イエスを救い主として受け入れ、イエスが再び来られる(再臨)ときに実現します。そしてその後に、世界が滅ぼされ、「新しい天と地」が到来し、そして永遠にキリストと父なる神の支配が続くのです。「神の国」は、イエスの地上再臨とともに完成します。
 ”この世の王国は、わたしたちの主と、そのキリストおものとなった。主は世々限りなく支配される。"(黙示録11:15)
 ただ神の前に自分の罪を悔い改め、キリストを「救い主」、「主」として受け入れるこなくして、自動的に「神の国」は到来しないことを覚えてください。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」とある通りです。

 

第十五回 永遠のいのち(everlasting life,ζωή αἰώωιος,ゾーエ―・アイオーニオス) 

 

「聖書における永遠のいのち」 

 

「永遠のいのち」という言葉は、新約聖書で43回使用されており、大半はヨハネの福音書の中にあります。なぜならヨハネは、ヨハネの福音書を書く目的を「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)と書いているからです。 

ちなみにここでいういのちは、「永遠のいのち」です。 

 

「二種類のいのち」 

 

聖書でいのちと訳されるギリシャ語には、肉体的いのちを意味する「ψυχή,プシュケー」と永遠のいのちを意味する「ζωή、ゾーエ―」があります。「プシュケー」は、魂と訳されることがありますが、基本的に衣食住による肉体的いのちを意味します。プシュケーが使われている有名な聖書のことばは、イエスの次のことばです。 

 「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのち(プシュケー)のことで心配 
   したり、何を着ようかとからだのことで心配するのはやめなさい。」(ルカの福音書12:21-22) 

 それに対して「ゾーエ―」は、肉体的、生物学的いのちではなく、永遠に続く神のいのち、質的に新しいいのちを意味しています。本来、人間が生まれながらに持っているいのちではありません。イエス自身が自分は「いのち」であると語られました。二つの聖書の箇所を紹介します。 

 「イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのち(ゾーエー)です。わたしを信じるも
   のは死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11:25) 

 「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのち(ゾーエ―)なのです。わたし
    を通してでなければ、だれも父のみもとにいくことはできません。」 

 

 「永遠のいのち」 

 

「いのち」に「永遠の」(アイオーニオス)が加えられると「永遠のいのち」となります。しかし、すでに「いのち」(ゾーエ)が永遠の性質をもっているので、「いのち」と「永遠のいのち」は同じものであると言ってもいいでしょう。永遠のいのちは、時間と対比されると永遠、人間性と対比されると神性を示しているので、「永遠のいのち」は、神ご自身のいのちを意味します。 

 「永遠のいのち」を誤解して永遠に続くいのちだけを理解すると大変なことになります。というのも自殺する人は、今の自分の苦しみや悩みから解放されたいと願って自分のいのちを断つからです。苦しみが永遠に続くことはまさしく地獄の苦しみ以外のなにものでもありません。永遠に続くいのちが、神のいのち、キリストのいのちであることが大事です。そこに愛があり、喜びがあり、希望があります。 

 

「永遠のいのちを受ける条件」 

 

それでは、どうしたら私たちは、神から、「永遠のいのち」を受け取ることができるでしょうか。それは人間が自分で努力して勝ち取るものではなく、神の恵みによって与えられるものです。この「永遠のいのち」こそ神が私たちに与えようとしておられるものです。 

 「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書 3;16) 

 このように、永遠のいのちを受ける条件は、ただイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れるだけです。「御子(イエス・キリスト)を信じる者は、永遠のいのちを持っている」(ヨハネ3;36)とある通りです。 

 

「永遠のいのちー神との交わり」 

 

同時に、イエスを救い主と信じ、永遠のいのち、神のいのちを受けたものは、神と御子イエス・キリストとのいのちの交わりを持つようになります。神のいのちを受けたものだけが、神とイエス・キリストとの親しい交わりを持つことができます。イエスは語られました。 

 「永遠のいのちは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネの福音書17;3) 

 ここで「知ること」「(γινώσκω,ギノスコー)とは、単に頭で知るとか、知識として知ることではなく、人格的な交わりを持つことを意味します。私たちは、ある講演会に出て、講演者が紹介されて、その人の経歴や業績を知りますが、本当の意味ではその人を知っていません。頭で知っていますが、心で知ってはいません。「知る」とは、体験的、人格的に知ることで、親しい人格的な交わりを意味します。イエス・キリストを信じた人は、神とキリストとの親しい関係に入るのです。 

 ヨハネは、「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネの手紙1:3)と喜びをもって語っています。イエス・キリストについて知るだけではなく、イエス・キリストを知ることが大事です。
 ちなみに、永遠のいのちを受け神のいのちを与えられることは、とりもなおさず、「神の国」に入ることと同じ意味です。 

 イエス・キリストを信じ、彼を心の中に受け入れた者は、罪が赦されるだけではなく、永遠のいのちを与えられ、永遠に神とキリストとの交わりに生きることができます。「永遠のいのち」は将来与えられるのではなく、現在すでに信じる者に与えられています。クリスチャンは、神のいのちによって生かされいる存在です。同時にクリスチャンは「永遠のいのち」を持っていることによって、将来イエス・キリストの再臨の時に、復活の栄光のからだに変えられ、永遠にキリストと共に住まうという望みを持つことができます。 

 是非、この「永遠のいのち」のすばらしさを理解し、それを求めてください。 

第十六回 神の子(son of God,ὀ υὶος του θεου,ホ ヒュイオス トゥー セウー)

 

 「イエスは神の御子」

「神の御子」という表現は、新約聖書に45回使用され、主に福音書に登場します。
「神の子」は、イエスに対して使用される場合、イエスが神性をもっておられ、父なる神に対して子なる神であることを示しています。
 イエスが「神の御子」であることの重要性は、イエスを単に人間としてしか見ない人が多いからです。イエスを人間としてしかとらえなければ、偉大な人格的な指導者や模範的人物としてのイエスを知ったとしても、人となられた神という事実、またイエス・キリストの十字架の贖いの意味を理解することができず、福音の真理が見失われてしまいます。聖書の中から、イエスが神の御子であることを示す表現を見てみましょう。

 まずは、ペテロの信仰告白です。
 “イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子(Υιος του Θεου)キリストです。」(マタイの福音書16:15-16)この答えにイエスは大変喜ばれました。
またマルコの福音書の冒頭には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコの福音書1:1)と記されています。この場合、神の子はメシア、キリストの称号でもあります。

 更に十字架につけられたイエスを目撃していた死刑執行人は「この方は本当に神の子であった。」(マルコ15:39)と告白しています。百人隊長はユダヤ人ではなくローマ人ですので、驚くべき告白です。ちなみに「神の子」の子は、英語でSon であって、Child ではありません。それは、イエスが子なる神であることを示しています。
 ヨハネの福音書はその執筆の目的をイエスが神の子キリストであることを知ることにあると述べています。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書20:31)

「旧約聖書における神の子の別の用法」

しかし、「神の子」という表現は、特に旧約聖書では、別の意味でも用いられています。例えば、「御使い」(創世記6:2)に対して用いられます。また選民イスラエルに対して、「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。」(ホセア書11:1)とあります。また聖書以外では、エジプト、バビロニア、ローマの皇帝が「神の子」と呼ばれていました。

「二種類の神の子の表現」

ここで大事なことは、イエスが神の子であり、100%神であるということと、信者が救われて神の子とされていることの違いです。例えばヨハネの福音書1章12節では、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。この時の「神の子ども」は、ギリシャ語で、τέκνα Θεοῦ、英語で children of God で、ヒュイオスとは異なるギリシャ語が用いられています。ヒュイオスというギリシャ語やson という英語は、イエス・キリストに対して用いられ、τἐκνον(テクノン)や英語の child は、クリスチャンに対して用いられます。イエスが神の子であることと、信者が神の子とされたことは決定的に異なることを表現しており、前者が神であるのに対して、後者はあくまでも人間なのです。イエス・キリストを救い主として受け入れたクリスチャンは、「神の子」として「アバ、父よ」と叫んで、親しく神と交わることができます。これも神と私たちの間にあった罪という障壁をイエス自身が十字架で取り除いてくださったおかげです。イエスが神の御子であることと、信じたクリスチャンが神の子とされていることの間には、大きな違いがあることを覚えておきましょう。

「神の子の相続財産」

 ある人は、人間はすべて例外なく神の子であると主張する方がおられます。しかし聖書はイエス・キリストを信じ、罪赦された者のみが子とされると言っています。子であることの特徴は相続財産を受け継ぐことができる権利が発生することです。神の子であることの証拠は、聖霊の証印を押されていることにあります。ローマ人の手紙八章には、「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子であることを証ししてくださいます」(ローマ8:116)とあり、またエペソ1章には、「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印をおされました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(エペソ1:13~14)と記されてあります。

 私は、自分の蔵書に古賀というはんこを押し、この本が私の所有物であることを示しますが、神は信じた者に聖霊を与えることによって、ないし聖霊の証印を押すことによって、神の子としてくださいました。そして神の子は、父なる神の相続財産を受け継ぐことができます。それは御国を受け継ぐことであり、天国へのパスポートが保証されるのです。そしてそれだけではなく、この地上に生かされている日々、父なる神と御子イエス・キリストとの親しい交わりに生きることができます。「私たちの交わりとは、御父、また御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネの手紙1;3)

 

第十七回 神の愛(love of God、ἀγάπη,アガペー) 

 

「新約聖書における神の愛」 

 

神の愛は、ギリシャ語でἀγάπη,アガペーと言います。皆様も聞かれたことがあるかと思います。このアガペーという言葉は古典ギリシャにはなく、聖書ギリシャ語(コイネー)において初めて出て来る言葉です。言葉がなかったというのは、アガペーが示す愛の実践が行われていなかったことを意味します。それほど、アガペーは特別の意味を持った言葉です。ちなみにアガペーは、新約聖書に116回使用され、特にヨハネの福音書に37回用いられています。アガペーの動詞形の愛するはἀγαπω、アガパオ―で、新約聖書に143回用いられています。アガペーは主に神が人を愛する場合に用いられます。 

 

 「四種類の愛」 

 

ギリシャ語には神の愛を示すアガペー以外に、情念的で性的な愛を意味するエロース(ἒρως)、友情をしめすフィリア(φιλια)、家族愛を示すストルゲー(στοργἠ)があります。この中で、新約聖書で使われている愛はアガペーとフィリアだけです。フィリアもストルゲーも美しいことばですが、親しい関係や家族愛に限定されており、自然的な情愛を示しています。フイリアの動詞形はフイレオー(φιλἐω)、ストルゲーの動詞形はステルゲイン(στἐγειν)です。それに対してアガペーは敵をも愛する愛であり、無条件な愛です。このような愛は、人間からは生まれてこず、まさしく神の愛、キリストの愛といえるでしょう。聖書は、「神は愛です」(Ⅰヨハネの手紙4;8)と書いています。それでは、神の愛の四つの特徴について考えて見ます。 

 

 「神の愛の四つの特徴」 

 第一点は、犠牲の愛です。自分を肥え太らせる愛、自己実現の愛ではなく、自己を相手に与える愛です。神の私たちに対する愛は、ご自身の一人子を十字架につけるほどのものでした。聖書のエベレストと呼ばれ、尤も親しまれている箇所を紹介します。 

 「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びることなく永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3:16) 

  「人が自分のためにいのちを捨てること。これよりも大きな愛(アガペー)は誰も持ってはいません。」(ヨハネの福音書15:13) 

 この神の与える愛に意識的に異議を唱えた文学者がいます。有島武郎(1878~1923)です。彼は、「惜しみなく愛は奪う」という(1917年)小説を書き、その中で「経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代わりに奪う本能であり、放射するエネルギーである代わりに、吸引するエネルギーである」と述べています。彼にとって愛とは自己犠牲の愛ではなく、他者を自分の中に取り込み、他者を支配し、自己の欲望や本能、支配力を拡大していくものです。彼は、欲望や本能を制御するすべての拘束物を排除し、自己を太らせ、拡大していこうとします。利己的人間は、自己にのみ関心を持ち、与えることではなく、奪い取ることにのみ喜びを感じます。彼が確立しようとしている自我は、エゴイズムの自我です。慈善や人を助ける行為も、自分のため、自己実現のためなのです。 

そして、有島が言う「惜しみなく奪う愛」こそ、私たち人間が親子の間で、恋人に対して示している愛ではないでしょうか。この書物を書いた有島武郎は、1923年6月に「婦人公論」の記者で夫がいる女性と心中自殺しています。 

  第二点は、無条件の愛です。人間の愛は条件付きの愛です。相手が美人、美男子だからその人を愛する、相手がお金持ちだからその人を好きになる、相手がやさしいからその人を愛するというのは、条件付きの愛であり、結局報いを求めている愛です。しかし神の愛は無条件で、神に背を向け、神に反抗してきたものにも示される愛です。愛するに値するものを何も持たない者に示される愛です。 

 「しかし、私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛(アガペー)を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8) 

 第三点は、神の愛は変わらないという事です。結婚式はドイツ語でHochzeitと言います。hoch は高いという意味です。しかし、人間の愛は、かわりやすいものです。結婚する前は二人の愛は頂点に達したとしても、結婚して、幻滅し、愛が冷え、離婚するもしばしばです。 

文豪トルストイ(1828-1910)が書いた『アンナ・カレー二ナ』という有名な小説がありますが、貴族の婦人アンナには、政府高官でカレーニンという高名な夫がいましたが、若い魅力的な将校ブロンスキーという男性に惹かれて恋をします。社交界で、アンナ・カレーニナの不倫が問題となり、彼女はキャンダラスな女性というレッテルをはられます。彼女はブロンスキーを愛しますが、次第に恋人が自分を捨てて、別の女性と一緒になるのではないかと嫉妬と不安に駆られ、最後は駅に飛びつき、自殺してしまうのです。悲劇的な女性です。アンナ・カレーニナと同じ思いになった人々は多いのではないでしょうか。しかし、神の私たちに対する愛は変わらず、永遠に変わらないものです。 

 “女が、自分の乳のみ子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。見よ。私は手のひらにあなたを刻んだ“(イザヤ書49;15) 

 “たとえ山が移り、丘が動いても、私の真実の愛はあなたから移らず、私の平和の契約は動かない」。“(イザヤ54;10) 

第四点は、神の愛(アガペー)のイニシアティブを取られるのはいつも神ご自身です。私たちは自分を愛する者には愛を示しますが、なかなか自ら愛のイ二シアティブをとろうとしません。しかし、神はイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架につけ、ご自身の愛を示されました。クリスチャンとは、その神の愛に応える者です。 

 「神はその一人子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを与えてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、なだめのささげものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネの手紙4:9~10) 

このイエス・キリストの十字架の死を通して示された神の愛に触れ、是非この神の愛に応答してください。神の愛にどのように応答(response)するかは、私たちの責任(responsibility)です。 

 


 第十八回 宥めの供え物(propitiation,ὶλαστήριον,ヒラステーリオン) 

 

聖書が示す救い、つまり罪の赦しを示す言葉として、すでに第九回で「贖い」(リュートローシス、redemption)、第十回で義認(ディカイオオー、justification)、第十一回で和解(カタラゲー、reconciliation)、第十三回で新生(パリゲネシア、new born)について考えてきました。今回は、宥めのそなえもの(ὶλαστήριον,ヒラステーリオン、propitiatiomないしatonement)について考えてみます。なお英語のpropitiation は宥めるという意味ですが、atonement は「償う」という意味があります。ヒラステーリオンには、この二つの意味があります。神の怒りが宥められるためには、罪の償いがなされる必要があるのです。「ヒラステーリオン」は、動物の血が流されて、一時的に罪の赦しがなされていた旧約聖書の祭祀制度を用いて、イエス・キリストの十字架の犠牲の意味を理解するために重要な言葉です。 


「旧約聖書における宥(なだ)めの供え物」 

 

旧約聖書では、人間の罪が一時的に赦されるために子羊や子牛がいけにえとして捧げられ、祭壇の火で燃えつくされるという習慣がありました。それによって神の罪に対する怒りが宥められるというものです。しかし新約時代において、ほふられ、神の怒りを宥めて下さったお方は、神の子のイエス・キリストです。旧約の贖いの儀式において用いられていた「宥め」は、新約聖書においてはイエス・キリストにおいて実現します。この宥め(ヒラステーリオン)が新約聖書でどのように用いられているかを見てみましょう。なお宥めるの動詞は「ヒラスコマイ」(ὶλάσκομαι)です。 

 

 「新約聖書における宥めの供え物」 


「ヒラステーリオン」という言葉は、第一ヨハネの手紙で二度、ローマ人の手紙で一度用いられています。第一ヨハネの手紙4:10節では、「宥めの供え物」としてのイエス・キリストについて書いてあります。 

 「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物(ίλασμὸν,ヒラスモン)としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 

 またヨハネの第一の手紙の二章二節においては、「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけではなく、世全体の罪のための宥めのささげもの(ὶλασμὀς、ヒラスモス)です。」とあります。 

 つまり、神の怒りが宥められ、罪人である人間にあわれみと恵みが注がれるように、イエスは身代わりとして神の怒りを受けて下さったのです。 

また「ローマ人の手紙」では、以下のようにしるされてあります。 

「神は、この方を信仰によって受けるべき、血による宥めのささげもの(ίλαστήριον、ヒラステーリオン)として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで冒されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、御自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(ローマ書3:25~26) 

 ここには二つの真理が示されています。第一は、神がご自身の義、正しさをイエスの十字架の死を通して示された事、第二に、イエスを信じる者を義と認めてくださったこと、つまり罪を赦してくださっ 

たことです。 

 

  「贖いのふた」 

 

しかし、「ヒラステーリオン」には、もう一つの意味があります。「新約聖書ギリシャ語小辞典」では、贖いのふた、贖罪蓋という意味があります。幕屋には、聖所と至聖所があり、至聖所には契約の箱があり、その上に金の蓋が置いてて在り、その上にケルビムが翼をひろげて覆っています。まさに贖いのふたは、神が臨在されるところでした、 

 そして一年に一回行われる贖いの日には、大祭司が至聖所に入り、贖いの蓋に動物の血を注ぎ、民の罪の赦しがなされていました。へブル書9:3~5節には、以下のようにあります。 

 「また第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、墓の中には、マナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板がありました。また箱の上で、栄光のケルビムが「宥めの蓋」(ヒラステーリオン)をおおっていました。」 

ここで、ヒラステーリオンは「宥めの蓋」(新改訳2017)ないし「償いの座」(新共同訳聖書),あるいは「贖いの蓋」と訳されており、英語聖書NIV(new unternational version)ではmercy seat(恵みの座)と訳され 

ています。まさにイエス・キリストご自身が、「宥めの蓋」ないしmercy seatなのです。 

 旧約時代には、民の罪を赦すために、この「宥めの蓋」の上と前にいけにえの動物の血が幾度も注がれました。しかし神の御子イエス・キリストはただ一度だけ「宥めの供え物」となって血を流して下さり、罪の赦しをなしとげてくださいました。聖書は、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(へブル10:10)と語っています。「ただ一度だけ」(once for all)はこれで終わりという意味です。もはやこれ以上必要ないということです。イエス・キリストが罪の赦しを一度で完成された所に、旧約の動物の犠牲との違いがあります。 

 今日は「ヒラステーリオン」について学びましたが、少し難しかったかもしれません。しかし、この言葉は重要な言葉です。というのもこの言葉は、罪に対しては神の怒りが下されること、そしてその神の怒りをイエス・キリストが代わって受けられ、私たちひとりひとりに救いの道を開いて下さったことを、示しているからです。 


 第十九回 復活(άνλάστασις, アナスタシス、resurrection)

 「ギリシャ語の復活」

ギリシャ語の復活のことばは「アナスタシス」ですが、新約聖書で42回用いられており、アナは「再び」、ないし「上に」、スタシスは「起き上がる」の意味があります。『新約聖書第ギリシャ語小辞典』では、第一に倒れていた者が起き上がること、第二に、死者の復活、よみがえりの意味があります。ここでとりあげるのは、第二の意味です。特にイエス・キリストの復活について考えたいと思います。「アナスタシス」の動詞形は、よみがえるの「アニステーミ」(άνίστημι)で、108回用いられています。

 実は「復活」を意味する動詞には「ア二ステーミ」以外に「エゲイロー」(έγειρυω)があります。例えば第一コリント書15章3、4節には、パウロが最も大事なこととして伝えたことに、「キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと」が記されてありますが、ここではエゲイローの完了受動態の「エゲーゲルマイ」(έγήγρμαι)が用いられています。また使徒の働き2章32節には「神はこのイエスをよみがえらせました。わたしたちはみな証人です」には、「アニステーミ」のアオリスト時制(すでに起こったことで反復しない)が用いられています。

 「キリストの復活―他の宗教との違い」

キリスト教を他の宗教から区別するものは「復活」です。他の宗教の創始者の釈迦、孔子、ムハンマドも教典は残しましたが、死んでしまいました。ただイエスだけが、墓の中からよみがえられたのです。聡明なイギリスの法律家であるフランク・モリソンは、復活はかって人類に伝えられた最もばかげたでっちあげだと考え、反論を試みましたが、調べれば調べるほど復活が事実であることを確信し、当時ベストセラーになった書物『動いた墓石』という書物を書きました。
渋沢栄一は一九一七年に米国に行った時に、米国のデパート王のワナメーカーに教会の日曜学校に招待され、何か話すように依頼されたので、渋沢は、「私は孔子の教えを記した論語を毎日読んでいる。私は、儒教もキリスト教も同じであると思う」と語ったそうです。その時にワナメーカーは、涙を流して立ち上がり、次のように言いました。
 「私は儒教に対して心からの尊敬を表します。今東洋の紳士が、キリスト教も儒教も同じだと言われましたが、私は絶対に違うと思います。その間に根本的違いがあります。孔子は死んで葬られました。そしてそのまま眠っています。キリストも一度は死んで葬られました。けれども彼はよみがえったのです。三日目の朝によみがえったのです。彼の墓は、空になりました。キリストは今も生きています。そうです。現にこの部屋の中に、私たちの中におられます。」
そしてワナメーカーは、小さな聖書を取り上げて、「ここにイエスの言葉があります。これは生ける言葉です。私たちは生ける神のことばをこの書物の中に読むことができます。」と語りました。

「復活の信憑性」

それでは、イエスの復活の証拠はどこにあるのでしょうか?イエスの遺体は墓に葬むらましたが、日曜日には、もう遺体はなく、遺体を巻いた亜麻布だけがありました。誰かが、例えば弟子たちがイエスを盗んでいったという説もありますが、番兵が監視していたので難しかったと思います。それ以上に実際にイエス・キリストが復活した身体を弟子たちや500人以上の信者に現わされました。イエスの復活の証人がたくさんいるのです。裁判において有罪か無罪かを決める際に大事なのは信用できる証人です。証人の証拠が採用されて、事実が確定されます。
弟子たちが、願望のあまり、イエスが死んでいるにもかかわらず、復活したと嘘をついたと考える人々がいますが、神を畏れる弟子たちが嘘をついたとは考えられません。また弟子たちは、イエスの復活に出会って変えられ、生涯をかけてイエスに従う道を選びました。嘘であればそのような献身的行為は不可能だったでしょう。

「弟子たちの宣教―復活」

弟子たちは、復活されたイエスと会い、イエスはよみがえられたと宣べ伝えました。例えば、「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証し、大きな恵みが彼等全員の上にあった。」(使徒4:33)と記されてあります。またペテロは、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2:32)と語っています。弟子たちの福音宣教の原動力、そして中心はイエスの復活であったことがわかります。。

「復活の意味―5つのポイント」

イエス・キリストの復活は、私たちにとってどのような意味をもっているでしょうか。5つのポイントで考えてみたいと思います。
第一点は、復活を通してイエスが神の子であることが明らかに示されました。ローマ書には、「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ書1:4)とあります。
第二点は、イエスの復活は、神の前において信者が罪赦され、義とされたことを保証するものです。この点についてローマ書は、「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに、死にわたされ、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ書4:25)と記しています。
第三点は、イエス・キリストの復活により、キリストは、「死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されました。」(Ⅱテモテ1;10)復活は、イエスが死に勝利され、(Ⅱテモテ1:10)、死の力を滅ぼされた事を示しています。
第四点は、イエスの復活は、信者の復活のしるしです。聖書によれば、イエスの復活は、イエスを信じるクリスチャンの復活の初穂です。クリスチャンも、イエスが来られるときに復活する約束があたえられています。その復活の身体とは、栄光あるからだ、御霊のからだ、天上のからだ、朽ちないからだです。聖書は次のように約束しています。
「聞きなさい、私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることに なるのではなく、変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:51-52)
死者の復活はイエスの再臨の時に起こるので、復活と再臨は密接な関係にあります。聖書は死者の復活がなければ、イエスも復活されなかったと書き記しています。
最後に第五点として、イエスの復活は、イエスがいまも生きておられることを意味しています。クリスチャンが信じるのは、死なれたイエス・キリストではなく、よみがえって今も生きておられるイエス・キリストです。パウロは、「キリストがよみがえらなかったならば、私たちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」(Ⅰコリント15:14)と指摘しています。
是非、イエスの「十字架」と「復活」を信じて、福音を自分のものとしてください。


第二十一回 救い主(σωτήρ、ソーテール)

すでに私たちは、第七回でイエスが「キリスト」(χρστóς)であること、第八回でイエスが「主」(κύριος)であること、第十二回でイエスが「仲介者」(μεσιτης)であること、第十六回でイエスが「神の子」(υιος του θεου)であることを学びました。今日は、イエスが「救い主」(σοτηρ)であることを考えます。
 イエスがキリストであるという場合、そこに救い主という意味も含まれていますが、別にソーテールという言葉がイエス・キリストについて16回用いられています。この言葉は人間に対しては用いられていません。イエス・キリストと神についてだけ、「救い主」という言葉が用いられています。

 最も有名な聖書の箇所は、クリスマスの時に必ずといっていいほど読まれる次の聖句です。「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2:11)
またヨハネの福音書でサマリアの人々が、イエスを「救い主」として信じた記事が記されてあります。「彼らはその女に言った。もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(ヨハネの福音書4:42)

 また使徒の働きにおいては、「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主を送って下さいました。」(使徒の働き13;23)とあります。更にⅠヨハネの手紙では、「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを」見て、その証しをしています。」(Ⅰヨハネ4;14)とあります。
 救い主は、ただイエスおひとりです。
 それでは、イエスは何から私たちを救われる救い主でしょうか。ユダヤ人たちは、ローマの帝国支配からイスラエルを解放する政治的救済者と考えていました。しかし、新約聖書においては第一義的に神の裁きからの解放であり、罪の赦しを意味しています。イエスが、私たちの罪を負って十字架で死ぬことによって、罪の赦しの道が開かれました。

 もう一つは、将来的な救いで、イエスの再臨の時の信者の復活と栄化を指しています。例えばピリピ人への手紙においては、イエスの再臨について、「しかし私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待ち望んでいます。キリストは、万物を御自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3;20)とあります。またテトスへの手紙においては、「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むようにと教えています。」(テトスへの手紙2:13)と記されてあります。
ちなみに「救い」の名詞形はソーテリア(σωτηρίāα),動詞の救うはソーゼイン(σώζειν)です。例えば、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)とあります。
今日は、十字架につけられ、三日後に甦られたイエス・キリストが私たちの「救い主」であることを覚えてください。 

第二十回 再臨(Christ's second coming、παρουσία、パルーシア) 

「再臨のギリシャ語パルーシア」
」「再臨」のギリシャ語「パルーシャ」は、新約聖書では24回使用されていて、邦訳では、「来臨」、「来られる」、「到来」などと文脈に応じて異なった訳がなされています。パルーシャは、パラ(~と一緒に)とウーシア(存在)から成り、古典ギリシャ語では、「存在」、「出席」、「到着」を意味し、ヘレニズムのギリシャ語では、皇帝や高官の公式訪問に用います。「パルーシャ」は、新約聖書では王なるキリストが再び来られて、信仰者を救いの完成に入れることを意味します。例えば、「新改訳聖書2017」では、マタイの福音書24章27節には「人の子の到来(パルーシア)は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです」とパルーシアが到来と訳されています。また1コリント15章23節「しかしそれぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨(パルーシア)のときにキリストに属している人たちです。」と、パルーシアが「来臨」と訳されています。また1テサロニケ4章16節では「主ご自身は天から下って来られる(パウーシア)」と、パルーシアが「来られる」と訳されています。
「新約聖書における再臨の位置づけ」
内村鑑三という近代のキリスト教の指導者は、聖書全体を理解する上での再臨信仰の重要性を以下のように述べています。
「このキリストの再臨こそ、新約聖書の至る所に高唱する最大真理である。マタイ伝より黙示録に至るまで、聖書の中心的真理は再臨である。是を知って聖書は極めて首尾貫徹せる書となり、その興味は激増し、その解釈は最も容易となるのである。是を知って聖書研究の生命は無限に延びるのである。」
そして彼は、キリストの再臨を信じなければ、 聖書 のうるわしき語は、ことごとく無意味に帰するが、逆に再臨の光に照らされて聖書を読む時に、聖書の一句一句が皆躍動して、聖書の一貫性が理解できると主張しています。
「再臨の目的」
次にイエス」・キリストの再臨の目的について考えてみましょう。
再臨の目的は、第一はクリスチャンの救いの完成で、栄光のからだに変えられることです。パウロは、この時の事を、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」(ローマ書8:23)と書き記しています。魂の救いのみならず。身体が栄光の身体に変えられることによって救いが完成します。
第二は、神の支配が確立される神の国の実現です。黙示録には、「この世の国は私たちの主およびキリストのものとなった。王は永遠に支配される。」(黙示録11;15)と記されてあります。死やサタンが滅ぼされ、「大きな白い御座」(黙示録20:11)で不信者に対するさばきが行われた後、神の完全な支配が実現します。そこでは、「もはや死もなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)と記されてあります。
「再臨の準備」
再臨の準備の第一は、主がいつ来られてもいいように、目をさましていることです。クリスチャン生活自体が、主を待ち望む希望によって貫かれている必要があります。主を待ち望むことによって、日々の生きた緊張感が生まれてきます。
再臨の準備の第二は、聖い生活をして、主を待つことです。再臨は、花嫁なるクリスチャンが花婿であるイエスと出会う時なので、花婿にふさわしい花嫁となるように、つまりキリストに似せられていくように聖められていくことが大事です。1テサロニケ3章13節においては、「あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスが御自分のすべての聖徒たちと共に来られる(パルーシア)ときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」とあります。
再臨の準備の第三点は、「堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」(Ⅰコリント15;58)とあるように、日々主のために自らを捧げていくことです。
「マラナ・タ」
マラナ・タという言葉は、イエスの時代のクリスチャンたちが使っていた「主よ、来たりませ」というアラム語です。1コリント16章22節には、「主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ来てください。」とありますが、この「主よ来てください」がマラナ・タ(Μαπάνα θά)の訳です。現在でもクリスチャンたちの手紙の最後には「マラナ・タ」という言葉が付け加えられている場合が多くみられます。日本語で云えば「敬具」と同じ意味で使われています。それでは。 マラナ・タ 

 第二十一回 救い主(savior,σωτήρ、ソーテール)(2024.11.1)

すでに私たちは、第七回でイエスが「キリスト」(χρστóς)であること、第八回でイエスが「主」(κύριος)であること、第十二回でイエスが「仲介者」(μεσιτης)であること、第十六回でイエスが「神の子」(υιος του θεου)であることを学びました。今日は、イエスが「救い主」(σοτηρ)であることを考えます。
 イエスがキリストであるという場合、そこに救い主という意味も含まれていますが、別にソーテールという言葉がイエス・キリストについて16回用いられています。この言葉は人間に対しては用いられていません。イエス・キリストと神についてだけ、「救い主」という言葉が用いられています。

 最も有名な聖書の箇所は、クリスマスの時に必ずといっていいほど読まれる次の聖句です。「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2:11)
またヨハネの福音書でサマリアの人々が、イエスを「救い主」として信じた記事が記されてあります。「彼らはその女に言った。もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(ヨハネの福音書4:42)

 また使徒の働きにおいては、「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主を送って下さいました。」(使徒の働き13;23)とあります。更にⅠヨハネの手紙では、「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを」見て、その証しをしています。」(Ⅰヨハネ4;14)とあります。
 救い主は、ただイエスおひとりです。
 それでは、イエスは何から私たちを救われる救い主でしょうか。ユダヤ人たちは、ローマの帝国支配からイスラエルを解放する政治的救済者と考えていました。しかし、新約聖書においては第一義的に神の裁きからの解放であり、罪の赦しを意味しています。イエスが、私たちの罪を負って十字架で死ぬことによって、罪の赦しの道が開かれました。

 もう一つは、将来的な救いで、イエスの再臨の時の信者の復活と栄化を指しています。例えばピリピ人への手紙においては、イエスの再臨について、「しかし私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待ち望んでいます。キリストは、万物を御自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3;20)とあります。またテトスへの手紙においては、「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むようにと教えています。」(テトスへの手紙2:13)と記されてあります。
ちなみに「救い」の名詞形はソーテリア(σωτηρίāα),動詞の救うはソーゼイン(σώζειν)です。例えば、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)とあります。
今日は、十字架につけられ、三日後に甦られたイエス・キリストが私たちの「救い主」であることを覚えてください。 


第二十二回 奥義(mystery,μυστήρίον、ミュステ―リオン)

【奥義の定義】

 「奥義」という言葉は、新約聖書で27回使用されていますが、マタイ、マルコ、ルカの福音書に各一回づつ使用され、パウロの手紙で20回、黙示録で4回使用されています。奥義とはいったい何でしょうか。それは、ふつう一般に考えられるように神話とか神秘とは全く関係がありません。それは、旧約聖書では隠されていたことが、新約聖書において明らかに示されることを意味します。つまり神の救いの計画の全貌が、新約聖書において明らかにされることです。奥義として述べられていることを福音書とパウロの手紙に分けて考えて見ましょう。

【 福音書における奥義】

福音書で出てくる場合は、いづれも「神の国」(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア・トゥ-・セウー)の奥義です。マタイは、「神の国」ではなく「天の御国」という表現を用いています。キリストとともに、時が満ち、神の国=神の支配が到来しました。イエスは、神の国の奥義として、神の国がどのように成長するかを、種まきのたとえで語っておられます。(マタイ13:11、マルコ4:11、ルカ8:10)

【パウロ の書簡における奥義】

次にパウロの書簡に現れる神の「奥義」を五点に分けて考えてみましょう。
第一の最も重要な奥義はキリストです。パウロは、「世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義」について語り、「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。こも奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ書1:27)と語っています。またコロサイ書2章2節には「神の奥義であるキリスト」と記されています。キリストの全貌は旧約聖書において預言されていましたが、新約において覆いがとり除かれ、イエスの誕生、十字架の死、復活においてはっきりと明らかにされました。
第二の奥義は、キリストと教会との関係です。教会は旧約聖書では全く出てきません。それは、イエス・キリストの昇天後のペンテコステ(聖霊降臨)の結果として誕生しました。エペソ書5章においては、夫と妻の関係がキリストと教会との関係にたとえられて、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。——この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(エペソ書5:25、32)と書かれてあります。
第三の奥義は、異邦人にも救いがもたらされ、対立していたユダヤ人と異邦人がキリストにあって和解され、同じキリストのからだなる教会に属するようになるという神の計画です。この「キリストの奥義」について書かれてある箇所をエペソ人への手紙三章から引用します。
「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、
今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。
それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続者になり、
ともに同じからだにつらなって、ともに約束にあずかる者になるということで
す。」(エペソ書3:5〜6)
今まで紹介した神の奥義は、すでに実現したものですが、次の二つは将来実現するものです。
第四の奥義は、現在イエス・キリストを拒んでいるユダヤ人が終わりの日に民族的に悔い改め、イエスを受け入れて救われることです。
「兄弟たち、あなたがたが、自分を知恵ある者と考えないようにするために、この
奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエルの一部が頑なになったのは異
邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるので
す。」(ローマ書11:25〜26)
「異邦人の満ちる時」とは救われるべき予定された異邦人が皆救われて、異邦人に
対する神の計画が実現することを意味します。その後イスラエルに対する神の取り
扱いが始まります。
第五の奥義は、キリストが再臨される時、信者が栄光の身体に変えられるという神の救いの計画です。「聞きなさい、私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私達は変えられるのです。」(コリント第一の手紙15:51〜52)とあります。パウロは、この時を待ち望み、「私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」(ローマ書8:28)と語っています。

【パウロの使命ー神の奥義を伝えること】
パウロは、自分を「キリストのしもべ、神の奥義の管理者」(コリント第一の手紙4:1)
と述べています。彼は、明らかにされた神の奥義であるキリストを宣べ伝えることに全生涯を費やしました。彼は、この奥義であるキリストが再び覆われてしまうことには、我慢がなりませんでした。キリストこそ彼のいのちそのものでした。クリスチャンもパウロと同様、神の奥義の管理者、また伝達者であることを覚えたいと思います。 

 

第二十三回 恵み(grace, χάρίϛ,カリス) 

  「恵み」のギリシャ語カリスは、新約聖書で155回、そのうちパウロの手紙で87回(56%)使用されています。カリスの動詞形、つまり「恵む」は、カリゾマイ(χαρίζομαί)で、23回使われています。もともと古典ギリシャ語で、「恵み」とは、「親切」、「好意」、「魅力」などを意味し、聖書の「恵み」のように深い意味をもっていませんでした。同じχάρίϛ(カリス),という言葉を使っていても古典ギリシャ語と聖書のギリシャ語(コイネー)の意味は異なっています。「恵み」は、信仰において最も重要な概念です。というのも救いは、人間の努力や功績によって成立するものではなく、ただ神の恵みによって可能であるからです。 

 「恵みと報酬の違い」 

 一つの言葉を定義する際に最も効果的な方法は、反対語を思い浮かべることです。聖書では「恵み」の反対語として「報酬」(μισθος,ミソース)が挙げられています。ローマ人の手紙4章4~5節には、以下のように書かれています。 

 “働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払らわれるべきものとみなされます。しかし働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。” 

 ここでは、人が義とみとめられる、つまり救われるのは、報酬ではなく、恵みと語られてています。報酬は例えば労働に対する対価で、長時間働けば、それだけ賃金も増加します。しかし救いに関しては、善い行いに対する報酬ないし対価ではなく、ただ神の恵みです。善行を積めば、神に近くなると考えるのは根本的な間違いで、自分は何の良き行いができない者であることを認めて、ただ神の恵みにすがることが必要です。総じて「恵み」とは、受けるに値しない罪人に注がれた神の愛、価値なき者に与えられる神の愛です。 

  「恵みはイエス・キリストを通してくる。」 

 恵みは、イエス・キリストによって私たちに現わされました。「律法はモーセによって与えられ、恵み(カリス)とまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネの福音書1:17)まさに、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、罪の赦しを実現されたイエスこそ、私たちに対する神の恵みそのものです。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」(ローマ書3;24) 

「救いは、恵み+アルファ?」 

 ある人は、恵みだけで救われるのは虫が良すぎると考えます。恵みは大事だけれども、自分でも頑張って努力して救われることが必要であるというのです。それは、人間的にはとても聞こえがいいのですが、実は恵みの価値を否定し、キリストの十字架の完全性を否定する考えです。聖書には、「恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ書11;6)とあります。恵み+行いを救いの条件とすることは、福音の本質をゆがめるものですので、注意しましょう。 

 「恵みを受けたメフイボシェテ」 

 恵みの特徴を示しているのが旧約聖書に登場するメフイボシェテです。私の家内は三年前から飼っている猫にメフィという名前をつけています。フルネームは、メフィボシェテです。我が家に引き取られてきた時には、足が悪く、びっこを引いていました。実はこのメフイボシェテは、旧約聖書のサムエル記に登場するサウル王の息子の子の名前です。ダビデとの戦いで、サウルもヨナタンも死んでしまいますが、ダビデとヨナタンの契約によって、メフィボシェテはサウルの子孫であるにも殺されず、ダビデのあわれみによって、王と一緒に食事をする栄誉を与えられます。メフィボシェテになにか取り柄があったわけでもなく、利用価値のある実力や才能を備えていたわけではありません。それどころか、彼は足が悪く、歩けなかったのです。彼が、恵みを与えられたのは、ただヨナタンとダビデの契約によるものでした。恵みは、一時的なものではなく、契約に基づく客観的なものです。メフイボシェテとダビデの会話を紹介します。 

 「サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデの所に来て、ひれふして礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は言った。「はいあなたのしもべです。」ダビデは言った。「畏れることはない。私はあなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵み(ヘブル語でへセド)を施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。彼は礼をして言った。「いったい。このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」(Ⅱサムエル記9:6~8) 

 まさにダビデがメフィボシェテに施した恵みこそ、神がイエス・キリストの身代わりの犠牲のゆえに、私たちに注がれたものなのです。それは、新しい契約における神の恵みです。ちなみに旧約聖書の七十人訳ギリシャ語聖書では、「へセド」が、恵み「カリス」と訳されています。「へセド」は契約に基づく神の愛、神の恵みを意味する重要な言葉です。 

「パウロの経験」 

最後にパウロの経験を通して、神の恵みについて考えたいと思います。パウロはクリスチャンを迫害し、投獄するという大罪を神に対して犯していました。そのような返済不可能な罪の負債を負った自分のようなものを、神は恵みによって赦されたという感謝が、パウロの働きの原動力でした。彼は、晩年、次のように語っています。 

“私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ち溢れました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。”(Ⅰテモテ1:14~15) 

罪人のかしらであったパウロにとって救われる道は、ただイエスの十字架の贖いという神の恵みによるものでした。 

  「恵みの時代」 

聖書は、イエス・キリストが来られて現代までの時代を「恵みの時代」と言っています。私たちは特別の恵みの時代に生きているのです。 

“神はいわれます。「恵みの時に、私はあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。”(Ⅱコリント書6:2) 

 


第二十四回 時(time,καίρόσ,カイロス)

聖書では時を表すギリシャ語として καίρόσ,(カイロス)とχρόνυϛ(クロノス)があります。クロノスが、過去、現在、未来という機械的に継続して流れる時間を意味するのに対し、カイロスは好機、チャンス、特別な時、ないし神が定められた救いの時を意味します。カイロスは新約聖書で85回用いられています。カイロスの複数形はカイロイです。またクロノスが計量可能な物理的時間を意味するのに対し、カイロスは、クロノスの流れを断ち切る瞬間的で質的な時間を意味します。この他に、日、月、季節などを意味するώρα(ホーラー)があります。聖書の中で大事なのは、神の時、神の特別の計画の実現の時というカイロスの方です。それは救済史的な意味で、神の決定的な救いが行われる時を指します。例えばイエスは「時(カイロス)が満ち、神の国は近づいた」(マタイ1:15)と言われました。
更に、イエス・キリストの十字架の時がカイロスとして表現されています。例えばイエスは、「私の時(カイロス)はまだ来ていません」(ヨハネの福音書7:6) と語られました。逆にマタイ26:18では、「私の時(カイロス)は近づいた」とあります。更にパウロは、「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時(カイロス)に不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」(ローマ人の手紙5:6)と述べています。イエスの十字架と復活は、神が定められた救い、罪の赦しの実現の特別な時なのです。
またカイロスは、将来の終わりの日を指す場合にも用いられています。それは、神の定められた時だからです。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時(カイロス)に現わされるように用意されている救いをいただくのです。」(Ⅰペテロ1:5) ここではキリストの再臨の時が、カイロスとして表現されています。この意味での典型的な聖句としては、「キリストの現れを、定められた時(カイロス)にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一も主権者、王の王、主の主、—–この方に誉と永遠の支配がありますように。」(1テモテ6:15)があります。
またカイロスは、現在においても用いられています。現在は、救済史的に見れば、特別の定められた期間です。つまり、聖書では、キリストの初臨と再臨の期間は、「恵みの時」として表現されています。「恵みの時」というのは、「主の日」、つまり神の裁きの時が切迫しているからです。福音宣教は、「恵みの時」に行われる必要があります。「主の日」は、神の言葉を探しても見いだすことのできない「みことばの飢饉」の時だからです。(アモス書8:11)
「神は言われます。恵みの時(カイロス)に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助ける。見よ、今は恵みの時(カイロス)、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
「機会(カイロス)を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:16)
以上、私たちは、新約聖書におけるカイロスの重要な意味について考えてきました。神の救いの計画の実現の瞬間を意味するカイロスの重要性を知り、イエス・キリストの十字架の贖いという過去のカイロスに感謝し、イエス・キリストの再臨という将来のカイロスを待ち望むものとなりましょう。そして現在のカイロスである「恵の時」に福音を熱心に宣べ伝える者となりましょう。


 

第二十五回 幸いな(blessed , μακαρίοϛ,マカリオス)

普通私たちが幸福を意味する英語はhappiness を用い、幸いなという形容詞はhappyを用います。しかしhappyと関連する動詞happen はたまたま~するという偶然性を意味しています。したがってhappy はたまたま状況に応じて幸いであるだけで、困難な状況に置かれるとunhappyになるという偶然性が強いものです。
しかし聖書が示している幸福とは、一時的ではなく、永遠の幸福です。「幸い」という言葉が最も用いられているのが、山上の垂訓でのイエスの言葉で、七福と呼ばれているものです。その一つを紹介します。

「山上の垂訓」

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイの福音書5:3)。
 これは、自分が心の貧しいものであることを知っている者は幸いですという意味ですが、ここではhappy という言葉は用いておらず、blessed (祝福されている)が用いられています。ギリシャ語では、μακάρίοί(マカリオイ)です。他、山上の垂訓でマカリオイは、「悲しむ者は幸いです」(4節)、「柔和な者は幸いです」(5節)、「義に飢え渇く者は幸いです」(6節)、「あわれみ深い者は幸いです。(7節)、「心のきよい者は幸いです」(8節)、「平和をつくる者は幸いです。」(9節)、「義のために迫害されている者は幸いです」(10節)で用いられています。この文脈での「幸い」は、人間の心の状態というよりは、神によって喜ばれ、神によって祝福されるという、神との関係を意味しています。ー

「罪赦されている」

パウロは、ダビデの詩篇の言葉を引用し、幸いな人とは、神の前に義とされ、罪赦されている人と」、次のように言っています。
 「同じようにダビデも、行いに関わりなく、神が義とお認めになる人の幸い(blessedness,μακαρίσμόν)を、次のように言っています。『幸いなことよ。(blessed,μακάρίοί(不法を赦され、罪をおおわれた人たち、幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。』(ローマ書4:6~8)
パウロは、ここで詩篇32篇1~2節のダビデのことばを引用しています。

「主を待ち望むこと」

また聖書は主を待ち望むことが「幸い」であると述べています。
「祝福に満ちた(blessed,μακαρίαν)望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを(appearing,έπίφάνείαν)を待ち望むように教えています。」(テトスへの手紙2:13)
 なおこの「現れ」(έπίφάνείαν、エピファネイアン)は、テトス書以外に2テモテ4:1と4;8に用いられています。それは「来臨」(パル―シヤ)と同様に、主が再び来られることを意味しています。 



 



  


 

 

 

 

 

 

 

 

 



 


1.第一回 クリスチャン(christian, Χριστιανούς,クリスティアヌス)

 「クリスチャンとは何か」
 
クリスチャンとは一体どのような存在でしょうか。クリスチャンとクリスチャンではない人の違いとは何でしょうか。多くの人は、洗礼(バプテスマ)を受けているかどうかの違いと考えられると思います。洗礼が、クリスチャンかそうではないかの試金石と考えるのです。しかし、聖書は必ずしもそのように語ってはいません。洗礼を受けても、心からイエスを救い主として信じていなければ、クリスチャンとはいえないのです。洗礼を受けて、救われるわけではありません。逆に信じ、救われた人だけが洗礼を受けることができます。ここでは、クリスチャンといわれるために必要な二つのことについて考えて見たいと思います。
 
「信仰告白の必要性」

 第一点は、イエスに対する信仰告白です。信じて、告白することです。クリスチャンになるに際して、自分が信じている方を神と人の前に告白することは重要な意味を持っています。聖書には、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義とみとめられ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)と記されてあります。
それでは、何を信仰告白したらいいのでしょうか。そのことの答えとして、初代教会のクリスチャンたちが、迫害の中で自分たちがクリスチャンであることを示すために用いていた暗号の「魚(イクトウス)」の意味について考えてみたいと思います。

 「イクトゥス(魚)

初代教会においては、キリスト教に対する迫害や偏見が強い中で、クリスチャンと名 のることは危険でした。そこで彼らは、クリスチャン同志の暗号として、自分がクリスチャンであることを示すために、「魚」の絵を地面に書きました。
 ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846-1916)の小説『クォ・ヴァディス』には何度もその光景がでてきます。それではなぜ、魚(ギリシャ語でイクトゥス)でしょうか。『クォ・ヴァディス』の一節を紹介しましょう。これは、ローマの貴族ペテロニウスと哲学者を自称するキロンとの会話の部分です。

キロン 「あの女[リギア]は、キリスト教徒です。」「ご主人様、次の文章をギリシャ語で云って御覧なさい。イエス・キリスト、神の子、救い主」
ペテロニウス 「よろしい。では言おう。イエースース クリストス テウー ヒュイオス ソーテール、それがどうした。」
キロン 「今度は、そこにある単語の最初の字を一つづつ取って合わせて、単語を一つ造ってください。」
ペテロニウス 「イクトゥス」(ギリシャ語で魚)
キロン 「それです。魚がキリスト教のシンボルになったわけは。」
 上のAー1の画像を見て下さい。
(Iはイエス、Xはキリスト、Θは神、Υは子、Σは救い主のギリシャ語の頭文字)

  つまり、クリスチャンとは、「イクトゥス」、つまりイエスは、キリストであり、神の子であり、救い主であることを信じ、告白する者という意味があります。イエスは、旧約聖書が預言されていたキリスト(メシア)です。またイエスは、人間であると同時に、全く罪のない神の子です。そして私たちの罪を負って十字架にかけられ、よみがえられた救い主です。
皆さんは、上のA-2の写真に見られるように後ろに魚の絵が描かれた車やスクーターをみられたことがあるのではないでしょうか。それは、自分はクリスチャンであるという意思表示でもあります。 

「キリストに従う者」
 
ところで、クリスチャンにはもう一つの意味が込められています。信仰は、おのずと行動をもたらします。信仰無き行動は無益ですが、行動無き信仰も不十分です。信仰は、イエス・キリストを主として、従っていきたいという思いを私たちに引き起こします。 
新約聖書の「使徒の働き」は、「弟子たちは、アンティオケアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(11:26)と記されてあります。アンティオケアは、エルサレムと異なり、異邦人伝道の中心地であり、使徒パウロの三回にわたる伝道旅行は、アンティオケアから始まっています。日本語で「キリスト者」と訳されている箇所は、英語の聖書のNIV(new international version)では、christians,、ルター訳のドイツ語聖書でも、Christenが使われています。ギリシャ語の原語は、Χριστιανούς(クリスティアヌス)です。ここでは、クリスチヤンとはイエスの弟子で、イエスに自分の生涯をかけて従っていく者を意味しています。従うという場合、他の宗教のように釈迦が遺した仏典、ムハンマドが遺したクアラーン、孔子が遺した論語に従うという教えではなく、復活され、今も生きておられるイエス・キリストそのものに従うところに、聖書的信仰の核心があります。

「クリスティアンとはーまとめ」 
 
最後に、クリスチャンとは、何であるかをまとめてみましょう。クリスチャンであるかどうかは、洗礼を受けたか、親がクリスチャンの家に生まれたとか、あるいは教会に出席しているかどうかには全く関係がありません。クリスチャンとは、イエスがキリストであり、神の子として全く罪がないお方であるにもかかかわらず、私の罪を負って十字架にかけられ、三日後に復活された救い主であることを心で信じ、「告白」することです。洗礼(バプテスマ)は、その信仰告白を公に表すために神によって定められた尊い儀式です。しかし、洗礼という儀式に特別の効力を与えて、洗礼を受けることによって救われるという考えは、聖書に反するものです。 
そしてクリスチャンは、信じただけではなく、キリストの愛に対する応答として、自分の生涯を賭けて、復活されたイエスに従っていく責任と特権が与えられています。つまりクリスチャンは、イエス・キリストの弟子(μαθητής、マセテース)なのです。そしてイエス・キリストは、私たちの主権者、主(κύριος、キュリオス)であり、私たちが従うにあまりあるすばらしいお方です。 

 2 第二回「契約(covenant,διαθήκης、ディアセーケー)」

   

 

「聖書をどのように読むか」 

 

 聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻によって構成されています。私たちは、聖書をどのように読んだらいいでしょうか。約2000年前に書かれた古典の書として読まれる方もおられます。あるいは人間がどのように行動すべきかの道徳の書として読まれる方もおられるかもしれません。最初に聖書を読む人が、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイの福音書5章39節)というイエスの言葉に触れると、自分には到底できないと言って、聖書を読むのをやめてしまうこともあるでしょう。あるいは、聖書の中にイエス・キリストの偉大さに触れ、自分もイエスのようになりたいと思われる方もおられると思います。キリスト教は嫌いだけれど、イエスは好きだ、尊敬に値すると考えられる方も、少なからずおられます。キリスト教を徹底して攻撃したニーチェがそうでした。 

 私たちが聖書を正しく読むためには、それを「契約の書」として読むことがどうしても必要です。このことが理解されていると、聖書が示す「救い」の意味が明確になります。聖書が、新約聖書と旧約聖書と呼ばれるのはそれなりの根拠があります。 

 

 「二種類の契約」 

 

 「契約」という言葉自体は、私たちの日常生活に根差すものです。私たちは、家を借りるために売買契約を家主さんと結んだり、就職する時に雇用契約を結びます。自動車を運転している時に、たとえ事故を起こしても自動車保険に入っているという安心感があり、保険会社と契約します。私たちの住んでいる社会は「契約社会」であり、契約に基づく契約者の権利・義務がはっきりと明記されています。これは、契約の当事者が同じ平等の立場で取り結ぶ「契約」です。相手方と交渉して、自分に有利な条件に変えることもできます。 

 しかし聖書が示す「契約」は、これとは異なります。つまり同じ立場で行われる契約ではなく、神が人間に対して一方的に示す契約であって、人間はそれを受け容れるか、拒むかの二者択一しかありません。聖書の「契約」は、神の主権と神の一方的な恵みを現わしています。このことを、「契約」のギリシャ語に即して考えてみましょう。 

 

「ディアセーケー」 


新約聖書の「契約」のギリシャ語は(διαθήκης、ディアセーケー)です。この言葉は、新約聖書に33回、特にへブル書では17回、用いられています。この「ディアセーケー」は、へブル書の9章16節と17節には「遺言」と訳されてあります。実は、「ディアセーケー」には、財産の処分とか、遺言の意味があります。当時ギリシャ語世界では、人と人との間で結ばれる「契約」を表す言葉としてσυνθήκη(シュンセーケー)という言葉が用いられていました。しかし聖書記者は、新約聖書の「契約」を意味する言葉として、シュンセーケーではなく、一方的な契約を意味するディアセーケーという言葉をあてたのです。聖書の「契約」は神が一方的にその条件を定め、それを人間に呈示するように、遺言を受ける人は、遺言者が作成した遺言の内容を変更したり、自ら作成することは出来ず、遺言を受け容れるか、拒否するかのどちらかしかないのです。織田昭著『新約聖書ギリシャ語辞典』においては、「ディアセーケー」の意味として、「一方の主体的裁量や約束を他方が受け入れ服する形での裁定と受諾の関係」と説明されています。 

 これは、「新約聖書」という英語の言葉にNew Testament という言葉が用いられている 

理由でもあります。なぜnew covenant ないしnew contractのではないでしようか。それは、聖書は神が人間に対して一方的に恵みによって示したものであるTestamentという言葉に聖書の意味内容がはっきりと示されているからです。 

 

「新約聖書の契約の意味」 


それでは、神が人間的に恵みによって制定された新らしい契約とは一体何でしょうか。古い契約が更新されて新しい契約が示されました。聖書が私たちに示す「救い」=「罪の赦し」の契約が宣言されたのです。神が、私たちに示された契約は、イエス・キリストの血が十字架で流されることによって成立すし、私たちがそれを受け入れることによって成立する契約です。。 

 イエス・キリストは「最後の晩餐」において、「これは私の契約の血です。多くの人に流されるものです。」(マルコ14:24)と語られました。またコリント第一の手紙には、「この杯は、私の血による新しい契約です。」というイエスの言葉が示されています。 

新改訳聖書2017で「ディアセーケー」というギリシャ語が「遺言」と訳されているへブル書9章16、17節には、「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力をもちません」と記されてあります。神の救いの契約は、イエス・キリストの十字架の死によって、はじめて効力を持つのです。

  つまり神がたてられた新しい救いの計画は、神の子イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架で血を流し、その犠牲の血を見て、神が私たちの罪を赦し、イエスを信じる者に永遠のいのちを与えてくださるという約束です。 


「契約における条件」 

 

それでは、神の一方的な恵みの救いを受ける条件とは一体何でしょうか。神は、私たちに救いの条件として、何かを行為することを望んでおられません。滝に打たれたり、断食して禁欲生活をしたり、人を助けるボランティアをしたとしても、罪が清められ、赦されるわけではありません。私たちに求められていることは、ただイエスの血が私たちの罪を赦すために十字架上で流され、三日後に復活されたことを信じることだけです。これを、「信仰義認」、つまりキリストを信じる信仰によって神の前に義とされ、受け入れられると言います。契約ですから、神の恵みを拒むこともできます。しかしそれは、滅びの道を歩み続けることでもあります。神が恵みによって定められた契約に私たちがどのように反応するか、そこから人間の責任が生じてきます。信仰とは、神の圧倒的な恵みに応答することです。 

 私たちが心に刻むべきことは、神がご自身の一人子イエス・キリストを通して下された契約に忠実であり、決してその約束を反故にされないということです。聖書の神は、粗暴で専制君主のような神ではありません。神は、ご自身が立てられた契約に最後まで忠実であられる方です。人が、神は契約を履行されないのではないかと疑ってしまったら、契約は成り立ちません。聖書の契約や約束は、神に対する信頼があって、初めて自分の上に実現します。


「契約の効力の期間」 

 

 よく聞く質問ですが、イエス・キリストの十字架の出来事は、今から2000年以上のことなので、現代に生き私たちには関係ないというものです。しかし契約の効力について考えてみてください。人と人との間の契約も、一度契約行為が行われたら、それを解消しなければ、いつまでも続きます。契約は、それが立てられた時だけ効力を持つのではありません。神の私たちに対する契約もそうです。イエス・キリストの十字架の贖いを心から信じる者は罪赦され、救われるという神の約束は最後の審判が行われるイエス・キリストの再臨まで続くのです。聖書では、「永遠の契約」と記されてあります。 

 日本国憲法は1946年10月に制定され、1947年5月3日に施行されましたが、それ以来2023年に至るまで、約76年間、一度も改正されず、世代を超えて、日本国民に効力を持ち続けています。 

神がイエス・キリストの血によって打ち立てられた新しい契約は、今でも有効であり、それは、時間と空間を超えて全世界の人々に向けられています。今を生きる私たち一人一人に向けられています、是非、キリストの血の犠牲によって打ち立てられた神の恵みの契約に応答し、イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れてくださるようにお祈りしています。 

 

 “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子【イエス・キリスト】を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(ヨハネの福音書3:16) 


  

 3.   第三回「神(God、θε ό ς、テオス) 」

 

「聖書における神の翻訳の歴史」 

 

神は、聖書ではどのように翻訳されてきたのでしょうか。日本人で神を信じるという方は少なからずおられます。「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行法師(1118-1190)の短歌は、心打つものがあります。しかしその神のイメージは曖昧で漠然としていたり、日本の古来の神観に基ずく場合が一般的です。ここでは聖書の示す神観について考えてみましょう。 

  1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられてから、最初は「テオス」は、「大日」と訳されましたが、あまりも仏教用語に近いということで、その後、「ゼウス」そして「天主」という言葉が使われるようになりました、日本の城壁の「天守閣」は、「天主閣」ともいわれ、初めて天守閣を造ったのは、宣教師たちを保護した織田信長でした。 

 明治になると、プロテスタントの宣教師たちにより、「上帝」と訳するか「神」と訳するかの論争があり、次第に「上帝」から「神」という語に代わり、定着していき、今日にいたっています。 

 ここでは、聖書が示す「神」の特徴を、三つの点から考えてみましょう。 

 

 「神は創造主」 


第一番目は、神は創造主であるということです。日本人には世界の創造という考えはなく、偶然に進化によって生じたという考えが一般的です。しかし、旧約聖書の冒頭には、「はじめに神が天と地を創造された」と記されてあります。この箇所を読んで感動し、神を信じるようになったのが同志社大学の創設者新島襄(1843-1980)です。彼は、次のように言っています。 

 「漢文で簡潔に書かれた聖書に基づく歴史書で神による宇宙の創造という短い物語を読んだときほど、創造主が身近なものとして私の心に迫ってきたことはなかった。私は、私たちが住んでいるこの世界が神の見えざる手によって創造されたのであって、単なる偶然によるものでないことを知った。」 

  パウロもまたアテナイの人々に対して、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みになりません。-----私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです」(使徒の働き17:24,28)と述べています。神は一定の法則をもって世界を創造されたので、科学は神の痕跡を求めて法則を解明しようと努めてきました。 

  宇宙のようなマクロの世界、人間の身体の器官、細胞のようなミクロの世界においても 

そこに神の叡知とデザインが余すところなく示されています。。 

 例えば私たちの心臓は、ポンプのようなもので、筋肉の収縮によって血液を全身に送り出しています。動脈を通って酸素や栄養を各臓器に運び、また静脈を通って二酸化炭素やアンモニアなど不要な老廃物や有害物質を回収します。血液の量は、1分間に5リットル、1時間でペットボトル600本の血液を送り出します。心臓は、1分間に70回程度鼓動し、一日に10万回も拍動を続け、8トンの血液を送り出すと言われています。人生80年とすると29億4000万回、眠っていても鼓動し続けるのです。 

  血液は、血管をとおって流れますが、血管は毛細血管を入れると12万キロメートル、つまり地球を二周半回る長さになります。 

 こうした心臓が偶然に進化して生じたというより、神が叡知をもって心臓をデザインされ、人間を生かしておられると考えた方が自然ではないでしょうか。 

 万有引力を発見したニュートン(1643-1727)には下記のような逸話が伝わっています。
ニュートンは、機械職人に注文して、太陽系の精巧な模型を作らせました。ある日、無神論者の友人が訪ねて来て、その模型を見て感動し、ニュートンとの会話が始まります。
 

友人 「実にみごとな模型だね。誰が作ったんだい?」 

ニュートン 「誰でもない。」 

友人 「おいおい、僕の質問がわからなかったのかな。僕は、誰がこれを作ったのか        なと聞 い たんだよ。」 

ニュートン 「それは誰が作ったわけではない。いろいろなものが集まって、 そう な      ったのさ。」 

友人 「人をばかにするものじゃない。誰かが作ったに決まっているだろう。これだ 

            けのものを作るとは、かなりの腕前だよ。それは誰かと聞いているんだ。」 

ニュートン 「これは、偉大な太陽系を模して作った、単なる模型だ。この模型が設
               計者も  なく、ひとりにできたと言っても、君は信じない。ところが君はふ                だん、本  物の偉大な太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う、い                 ったいどう したら、そんな不統一な結論になりのかね?」 

 ニュートンとの会話を通して、友人は創造者の存在を確信したそうです。 

 

「神は唯一である」 


 第二番目に、神は唯一です。日本人の伝統的な神観は多神教です。日本の神社には、学問 の神様を祀った太宰府天満宮、無病息災の神を祀る伏見稲荷大社、縁結びの神を結ぶ出雲大 社などがあり、それぞれの神が、お参りする人に現世の御利益を与える役割をもっています。 日常に私たちが使う言葉、「野球の神様」、「料理の神様」、「サッカーの神様」、「経営の神様」 といった言葉にも、多神教の痕跡があります。 

 筆者は福岡県に住んでいた時、当時西鉄という球団が使用していた「平和台球場」に何回 か足を運んだ経験があります。当時、西鉄の黄金時代でしたが、鉄腕投手稲尾和久(1937- 2007)が試合に登場すると、「神様、仏様、稲尾様」というキャッチフレーズが聞こえてく るのです。今で言えば、「神様、仏様、イチロー様」というのでしょうか。神概念が人間の レベルに引き下げられる典型的な事例です。 

 多神教に共通していることは、その神が、人間や自然界の動植物に超越している神ではな く、まさに神によって創造された人間や動物(被造物)を神として祀っていることです。例 えば、徳川家康を神として祀る日光東照宮、豊臣秀吉を神として祀る富国神社、桓武天皇を 神として祀る平安神宮、国のために命をすてた戦没者を神として祀る靖国神社などが有名 です。創造者である超越的な神と、人間との間に質的な区別、ないし断絶が存在しないので す。 聖書は、「あなたには、私以外に、他の神々があってはならない」(出エジプト20:3) と唯一神を語っています。神以外のものを礼拝することは、偶像崇拝の罪なのです。 

   札幌農学校の時に聖書の神を信じた内村鑑三(1861-1930)は、唯一神について次のよう に言っています。 

 「神が一つであり、多数でないことは、私の小さな魂にとり、文字通り、喜ばしきおとず れでした。もはや東西南北の方位にいる四方の神々に、毎朝長い祈りを捧げる必要はなくなりました。道を通りすぎるたびに出会う神社に長い祈りを繰り返すことも、もうい らなくなりました。唯一神信仰は、私を新しい人間にしました。それほど、神が一つという考えは、私に元気を与えてくれました。新しい信仰による精神の自由は、私の心身に健全な影響を及ぼしました。」(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』 

 

「神は人格である」 

 

  第三番目に神は「人格」であることを強調したいと思います。パスカル(1623-16662)は、彼の回心を書き記した「メモリアル」において、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、 哲学者および学者の神ならず」と書き記しています。哲学者の神とは、第一原因とか最終目的とか、抽象的な概念であって、血がかよっていないものですが、聖書の神は、人格を持った神であり、それゆえに人間と人格的に交わることのできる存在です。哲学者の神は死んだ神ですが、聖書の神は生きていて、人間に語りかけ、交わることを望まれる神です。 

  通常、「人格」とは知・情・意を持っている存在のことを言います。神は全知な方であり、また愛しいつくしむ、そして罪には怒るという感情を持っており、また人間と世界、歴史を導き、救い出そうとする意志を持っておられます。人間は堕落の結果、不完全な知性、誤った感情、誤った道を選択する意思を持つちっぽけな,無力な存在ですが、人格をもっているが故に、神の声に聴き従い、神に帰り、神と交わることができます。そしてとりわけ私たちは、「神の愛」を知ることができます。 

  聖書は、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)と記しています。神は、ご自分の御子に私たちの罪を負わせ十字架につけるほどまでに、私たち一人一人を愛された神であるというのです。クリスチャンとは、イエスを救い主として信じ、罪赦され、神の愛といのちに生きる者とされている者のことです。 

 

「終わりに」 

 

   以上、私たちは、聖書の神について考えてきました。神は存在しないと思っておられる方々、神はいるかもしれないと漠然と思っておられる方々、そして日本の古来の伝統や風習によって神々からの御利益を求めておられる方々、一度、聖書の神について探求されたらいかがでしょうか。新しい発見があると思います。聖書は、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出されます。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と勧めています。神との出会いこそ私たちの人生を変える機会となります。 

 

参考文献 

 

柳父章「ゴッドは神か上帝か」(岩波現代文庫、2001年) 

三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのかーコペルニクスからホーキングまで』(ブルバックス、2018年) 


4. 第四回 「人間  (man,ἂνθρπος、アンスロポス)」
 

 「人間と動物の違い」

 

人間とは一体、どのような存在でしようか。ひとつの答えは、言葉を持っているかどうかです。私たちは、それぞれの母国語や習得した外国語で、同国人や外国人と会話し、考えを共有します。しかし動物は、言葉を持っていなかったとしても、言葉以外の方法によって、コミュニケーションをとっているのではないでしょうか。私の家には家内が飼っている「メフィ」という美人の猫がいますが、ニャオーと泣いたり、尻尾をふったりして、思いを伝えようとします。

 また人間と動物の違いは、「考える」ということにあるという人もいます。パスカルの『パンセ』に、「人間は考える葦である」という有名な言葉があります。水辺に咲く葦のように風が吹けば右に左になびいてしまうようなか弱い存在であるけれども、考えることができるという点に人間の尊厳があるというのです。動物は、本能的に行動しますが、人間はじっくり考えて選択しようとします。考えることに人間としての尊厳があるというのです。ですから、上からの命令に盲目的に服従して行動したり、周りの空気に同調することにあくせくしたり、動物のように本能的・衝動的に行動する人は、人間の尊厳を踏みにじっていると言うのです。

またある人は、人間は道具を発明し利用する工作人「ホモ・ファーブル」(homo faber)である点が、動物と異なると主張する人もいます。

それでは、聖書はこの点に関して、なんと言っているのでしょうか。

 

「霊的存在のとしての人間」 

 

聖書は、人間は神によって、神と交わる霊的な存在として創造されたと語っています。

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)

大地のちりが肉体的部分を示しているのに対して、「いのちの息」は、霊的な部分を表しています。神は人間に「いのちの息」を吹き込まれたので、人間は、霊的存在となりました。この点が、人間と動物が決定的に異なる点です。動物は、神と交わることは出来ません。神と交わることこそ、人間が霊的に生きている証左です。神との交わりを喪失した人間は、まさに「生きていても死んでいる状態」にあります。

 

 

「人間ー上を見て歩む存在」

 

「人間」のギリシャ語のἂνθρπος、はανα+θορευωの合成語ですが、αναは上を、θορευωを見るを意味しますので、人間は上を見上げて生きる存在なのです。1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故で死亡した歌手に坂本九(1941-1985)がいました。私は大学生の頃、悲しい時、落ち込んだときには、いつも坂本九の「上を向いて歩こう」を口ずさんだことを覚えています。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように

思い出す 春の日 一人ぼっちの夜」

また彼の歌には「見上げてごらん夜の星を」という歌があります。聖書では、見上げるお方は、創造者である神なのです。内村鑑三は、「続一日一生」のなかで、アンスロポスについて、次のように言っています。

「 キリスト信者は助けを天に仰ぐ。地に求めない。そのすべての希望は、神につながる。人にかかわらない。ゆえにそのならいとして、上を見て、下を見ない。人はもともと上を見る動物である。そのからだの構造が、上を見るようにできている。昔のギリシャ人がアントロポスと呼んだのはその故であるという。そして人が人たるの価値を自覚するに至る時に、人は目を下に向けることを止めて、上に向けるようになる。」(7月24日)

 

「霊、魂、からだ」

 

 テサロニケの手紙では、人間は「霊、魂、からだ」(Ⅰテサロニケ5:23)によって構成されているとあります。霊は、ギリシャ語で「プリューマ」、魂は「プシュケー」、からだは、「ソーマ」です。魂は、知・情・意という精神活動を担う部分です。一般に、人間は肉体と精神によって構成されるといわれますが、聖書はその上に「霊」―神と交わる部分―を置いています。

 

 「神のかたち(imago Dei)としての人間」

 

 聖書では、人間は「神のかたち」に造られたと言っています。

「神は、人を御自身のかたちとして創造された。神のかたちとして創造し、男と女に彼らを創造された、」(創世記1:27)

それでは「神のかたち」とは一体何でしょうか。それは神が霊であるように、人間も霊的存在として造られたことを意味します。また神が理性的存在であるように、人間も理性的に考えるように創造され、また神が愛であるように、人間も互いに愛し合って生きるように作られ、神が意思を持っておられるように、人間も自由意思を持って行動するように造られました。

 

「堕落による神のかたちの損傷」

 

しかし、アダムとエバの堕落によって罪が入り、人類はその罪の影響を受けて、神との交わりが断たれ、神に応答できなくなりました、また人間の理性は曇り、真理を認識できなくなり、また愛の人格は破壊され、自己中心的になり、そこに対立、戦争が生み出されてくるようになりました。つまり、人間の知・情・意思は、悪や罪によって支配されるようになったのです。

 しかし、「神のかたち」は、完全に破壊されたわけではありません。その痕跡は残っています。これはとても大事なことです。

 

「神のかたちの痕跡」

 

 人は神から離れるとむなしくなり、虚無感を感じ、神を意識的かつ無意識的に求めるようになります。パスカルが、人間には「神のかたちをした空洞がある」と書いた通りです。また人間が罪責感を持つのも、人間が道徳的存在として造られたからです。健全な良心を持っている人は、良心の呵責を経験します。人から愛されたい、人を愛したいと思うのも、神が愛であり、神が人間を愛し合って生きるように創造されたからです。


「神に帰ること」

 

人間が人間として真に生きるのは、神に帰り、神との生ける交わりを回復することが必要です。人間は、霊的存在ですので、神との交わりが回復されてはじめて、人間として生きることができます。キルケゴールというデンマークの哲学者は、人が神との交わりを回復することによって、「真の自己」を回復すると言っています。またロシアの哲学者ベルジェ―エフは、神を否定することは同時に、人間性を破壊することであると主張しています。またアウグスチヌスは、『告白』の中で、「あなた【神】は、私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憇うまで、安らぎを得ることは出来ないのです。」と述べています。今、神を見失った私たちに神が求めておられるのは、方向転換して、「神に帰りなさい」というメッセージです。神は、わたしたちの心の故郷です。

 

「仲介者イエス・キリスト」

 

神はすでに、私たちが神に帰ることができるために、イエス・キリストの十字架を通して、罪の赦しの道を開いてくださいました。罪人である人間は、イエス・キリストを信じる信仰によって、誰でも創造者である神のもとに帰り、真の人間になることができます。聖書は、キリストについて以下のように語っています。

“ キリストは自ら、十字架の上で、

 私たちの罪をその身に負われた。

 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。

 その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。

 あなたがたは羊のようにさまよっていた。

しかし今や、自分のたましいの牧者であり、

 監督者である方のもとに帰った。“(ペテロの第一の手紙2:24-25)

5   第五回「 罪(Sin,ἀμαπτία、ハマルティア) 」


聖書の中でもっとも重要ですが、同時に最も理解されていないのが罪という概念です。聖書のメッセージを聞かれた方が、「あなたは罪人です」と言われると、「そんなはずはない」と反感を露わにされるか、「みんな、同じだ、私だけではない」と開き直られるかどちらかです。しかし、この罪の問題の理解なくして、聖書の示す救いに与ることは出来ません。ここでは、罪の問題を4つのポイントから考えてみたいと思います。 

 

「 罪と犯罪は同じではない」 

 

  まず第一に聖書が語る罪は、法律を犯す犯罪と同一ではありません。それでは、罪と犯罪とはどのように異なるのでしょうか。犯罪は、法を侵害する行為です。赤信号を無視して運転すると、道路交通法違反で、処罰されます。あるいは、人を殺害すれば、殺人罪で逮捕され、起訴されます。犯罪は、人間の外側の行為のみを問題とするだけで、心の中に殺意を問題とすることはできません。もちろん量刑に関しては、殺意があったかどうかが調べられますが、殺人をおかしていなければ、殺意だけでは裁かれません。しかし、聖書が語る罪は、犯罪と異なり、人間の内面をも問題にします。 

 

「人間の心の中にあるもの」 

 

  したがって第二に、私たちの心の中に生じる殺意、嫉妬、情欲、悪意、不品行などが、罪の対象になります。日本では、2019年から始まったコロナ感染で、三密を避けるという政府の呼びかけの下に、マスクをして、密閉、密接、密集を避けることに注意が払われてきました。私も家内も4回ほどワクチンを打ちましたが、その甲斐なく感染してしまいました。私たちは外から何か悪いものが入ってこないか身構えますが、私たち自身の心の中にある病原菌には注意を払いません。聖書は次のように記しています。 

“イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹にはいり、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。これらのものが人をけがします。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」”(マタイの福音書15:16-20) 

 私たちの内にあるこうした悪いものは他人に容易に伝染し、きまずい関係、ある場合には公然とした対立を生み出します。国と国との関係においては戦争へと発展していきます。私たちは、自分の心の思いを他人に知られないように、隠そうと努力しますが、すべてを知っておられる全知の神の前には、隠しおおせることはできません。聖書は、私たちはこの罪の性質によって支配されていると語っています。自分ではどうすることもできないのです。人間は罪の奴隷なのです。 

 

「神の基準」 

 

 このように、心の中にある悪しき堕落した罪の性質は、聖書が語っている罪です。外側の犯罪は、自制できずに罪の思いが行為としてエスカレートしたものです。 

 第三のポイントとして、こうした人間の罪の性質、自分が汚れて腐敗しているという自覚は、聖なる神を基準として初めて理解できるものです。人を基準にして自分の状態を考えると、振り子のように揺れ動きます。比較する相手によって、「私はあいつよりましだ」と優越感を覚えたり、「あの人にはかなわない」と劣等感を覚えます。どんぐりの背比べですね。しかし、聖であり、義である神の基準からすれば、すべての人が神の基準に到達できない罪人です。 

 平屋の家と三回建の家があり、正面から見ると歴然とした高さの違いがありますが、飛行機から見れば、同じです。罪とは、神の基準に到達できないことです。 

 聖書は、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができない」(ローマ人への手紙3:23)とありますが、これは、神の栄光に達することができない、つまり神の基準を満たすことができないことを意味しています。もし私たちが大学入試の基準を満たせず、不合格になるならば、希望の大学には入学できません。同様に、神に基準に達しない罪人は「神の国」(天国)に入ることは出来ず、神に裁かれ、永遠の滅びに入ります。 

 旧約聖書でイザヤという預言者は、神の聖さに触れて、自分の罪を自覚しました。聖書は次のように語っています。 

”聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。 

その栄光は全地に満つ。-----私は言った。 

「ああ私は滅んでしまう。この私は唇の汚れたもので、 

唇の汚れた民の間に住んでいる。」“(イザヤ書6:3、5) 

 イザヤは外側の罪の行為をしたからではなく、聖なる神に触れて、自分の罪の性質に恐れおののいたのです。それでは、私たちが神の基準に到達できない原因は何でしょうか。実はここに最も大きな問題があります。第四のポイントは、私たちが神の基準に到達できないのは、私たちが創造主である神に背を向け、神から離れている、神との生ける交わりから切り離されているからだと聖書は語っています。 

 

「 罪ー的外れ」 

 

  罪とはギリシャ語でハマルティアと言います。的外れという意味です。本来歩むべき人生から逸脱し、道を踏み外していると言うのです。それは、神によって命を与えられ、愛されているにもかかわらず、人は神に背を向け、神から逃走している忘恩の徒だと言うのです。したがって的を射る生き方とは、神に帰り、神を中心とした生き方に180度転回することです。それは、自己を中心にした生き方から神を中心とした生き方に転換する点において、天動説から地動説への「コペルニクス的転回」と言える大転回です。人間が的を射た歩み、本来の人間としての歩みをするためには方向転換して神に帰らなければなりません。 

 

「神に帰る」 

 

 しかし、神に帰るためには、私たちの罪が赦されている必要があります。罪が神と私たちとの仕切りとなっているからです。私たちは自分の努力によって、罪を清算することはできません。私たちの罪が赦され、神に立ち帰るために、全く罪のない神の子イエス・キリストの身代わりの犠牲が必要でした。聖書は次のように語っています。 

「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。 

   それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。 

   その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。 

   あなたがたは羊のようにさまよっていた。 

   しかし今や、魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰ったのです。」 

   (1ペテロの手紙2:24-25) 

 

「神の前に義とされること」 

 

  聖書は、イエス・キリストの十字架によって罪赦されて、神に帰ることを、「義とされる」という言葉で説明しています。「神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを通して、価なしに義と認められるのです。」(ローマ書3:24) 

「イエス・キリストの贖い」とは、イエス・キリストが私たちの罪を負って身代わりとして死んで下さったこと、また罪の支配から私たちを神の支配へと買い戻してくださったことを意味します。なんとイエス・キリストを信じる人は、神の子供とされるのです。また義と認められること、つまり義認とは裁判用語で、罪が赦されて、無罪放免されることを意味します。しかしそれだけではありません。義とされたものは、キリスト・イエスによって完全であるかのようにみなされます。神は、私たちに義の衣を着せることによって、神の基準に到達したものとみなしてくださいます。それは以前ボロボロの着物を着ていた乞食が、今や神の子として立派な着物をまとっているかのようです。それは、神の一方的な恵みによるもので、私たちの側の努力を一切必要とせず、ただイエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。


6  第六回 「福音(dospel,εύαγγέλιον、エウアンゲリオン) 

 

「 福音ー良き知らせ」 

 

聖書は、「福音」(エウアンゲリオン)という言葉を、93回も記しており、福音はgood  news , 良き訪れを意味します。ギリシャ語のエウアンゲリオンのエウは、良いという意味で、アンゲリオンは知らせを意味します。聖書のメッセージは、福音にあるといっても過言ではありません。英語では小文字のgospel が「福音」を意味し、大文字のGospelは、「福音書」を意味しています。皆さんはアニメ作品の「エヴァンゲリオン」を知っておられると思います。それは、なんと福音を意味しています。もちろんアニメの「エヴァンゲリオン」は、聖書の言う福音を語っているわけではありませんが。 

今日は、聖書の「福音」について、三つのポイントから考えたいと思います。 

 第一点は、福音ー良き訪れの内容です。聖書のいう福音とは何でしょうか。第二点は、そのよきおとずれが他の人々に伝えられる必要があることです。第三点は、それは、信じられ必要があるということです。福音を聞いて、拒否することもできます。 

 

「福音の内容」 

 

パウロは、「私は福音を恥じとしません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる全ての人々に救いをもたらす神の力です。」(ローマ書1:16)と言っていますが、福音を聞き、信じることによって、救いを得ることができます。それでは、聖書が示す良き訪れとは一体何でしょうか。 

最初にイエスがキリストとして、救い主としてこの世界に生まれたことがgood news です。御使いは、羊飼いたちにこの喜びの訪れを語っています。 

「私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 

今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。 

この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10-11) 

次に、イエスの十字架と復活が福音の実質的な内容です。パウロは、次のように書いています。 

 「兄弟たち、わたしがあなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがた. は,その福音を受け入れて、その福音によって立っているのです。わたしがどのような ことばで福音を伝えたか、あなた方がしっかり覚えているなら、この福音によって救わ れます。そうでなければ、あなた方が信じたことは無駄になってしまいます。私があな た方に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キ リストは聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこ と、また3日目によみがえられたことです。(1コリント15:1-4) 

イエス・キリストがこの世界に誕生されただけではなく、私たち一人一人の罪を負って十字架にかかり、3日目によみがえって今も生きておられることが、good newsです。なぜなら、イエス・キリストを私たちの救い主と信じることによって、罪赦され、永遠のいのちが与えられるからです。 


「福音が伝えられること」 


第二に、福音ー良き知らせは、伝えられなければなりません。難病が治るような新薬が開発されても、それが患者に知らされなければ意味がありません。 

聖書には、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」(ローマ書10:15)と記されてあります。 

 私は、大学受験をした時に、電報で合格を知りました。当時、受験の結果は、合格者の受験番号が掲示板に貼り出されれるので、受験者はそれを見て、合格したか、不合格かを知ることができました。私は、当時、父親の仕事の関係で奈良にいましたので、東京まで見にいくことは大変な出費になりますので、当否を電報で伝えるアルバイトをしていた大学生に電報を依頼しました。電報が来て、開封した時、「花咲く」とあり、大喜びで、家族にも伝えたことがあります。幸いなことに「花散る」ではありませんでした。喜びの知らせは、自分に留まらず、伝染していくものです。 

 

 「福音が信じられること」 


 第三に、福音が伝えられた時に、それを信じるか、拒否するかの選択を迫られます。日本がポツダム宣言を受け入れたことで、1945年8月15日に太平洋戦争が終わりました。その終戦の知らせは、フイリピンやインドネシアで戦っていた兵士にも伝えられましたが、敵の仕業と思った兵士は、その情報を信じようとはしませんでした。グアム島で戦っていた横井庄一陸軍軍曹(1915〜1997)は、終戦の放送を聞いても、「私たちは敗戦を信じられず、相変わらず敵の襲撃を恐れてジャングルの中をさまよい続けたのです。長くとも十年待っておれば、必ず日本軍は力を盛り返してこのグアム島へも攻め寄せてくると固く信じておりました。」と述べています。横井さんが日本に帰還したのは1972年の2月でした。またフイリピンのルバング島で戦っていた小野田寛郎陸軍少尉(1922-2014) がフイリピンから帰国したのは、戦争が終わって29年も経過している1974年3月でした。 

 マルコの福音書には、冒頭に「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」(マルコ1:1)とあり、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)と勧められています。 どうぞ、イエスの十字架と復活を通して実現した福音を信じて、喜びに満たされ、新たな人生に入ってください。 

7 第七回 キリスト(Christ、Χρστός、クリストス) 

 

「イエス・キリスト」 


イエス・キリストは、大谷 翔平というように、姓と名前の関係ではなく、イエスこそがユダヤ人が待ちに待っていたキリストであることを指しています。それでは、キリストとはどういう意味なのでしょうか。クリストスというギリシャ語の言語は新約聖書に531回、パウロの書簡に383回用いられています。 

 

「キリストの意味」 

 

ギリシャ語のキリストは、ヘブル語のメシアの訳で、「油注がれた者」を意味します。旧約聖書で「油注がれ」、高い地位に就任したのは、大祭司、預言者、王でした。神によって選ばれた地位に就く時に、「油注ぎ」という儀式が行われます。 

大祭司は、神と人との間の仲介者で、人のために神にとりなしをする職務を持っています。また預言者とは神のことばを預かり、神の代理人として神のことばを語る人のことです。そして王とは、国民を支配する支配者を意味しています。旧約時代は、この三つの職務は、それぞれ異なった人々に割り当てられていましたが、イエスは、この三つの職務を全て一身に集中して持っておられる油注がれたキリストです。 

 

「イエスに対するユダヤ人の態度」 

 

旧約聖書、特にイザヤ書とエレミヤ書には、キリストが来られるというキリスト預言で満ちています。しかし、実際にイエスがメシア=キリストとしてこられた時、ユダヤ人たちはイエスがキリストであるとは信じないで、イエスを迫害しました。しかし信じた少数のユダヤ人もいました。特にエルサレムに住んでいたシメオンとアンナがそうでした。 

シメオンは幼児イエスを腕に抱きしめ、「主よ。今こそあなたは、お言葉通り、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを 。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」(ルカ2:29〜32)と狂気して喜んでいます。また女預言者で、夜も昼も神に仕えていたアンナは、「エルサレムの贖いを待ち望んでいた全ての人に、この幼子のことを語った。」(ルカ2:38)とあります。 

 

「二つのキリスト理解」 

 

しかし、なぜ多くのユダヤ人たちはイエスをキリストとして受け入れなかったのでしょうか。ユダヤ人たちのキリスト像は、当時のイエスの弟子たちも含めて、ユダヤ人をローマの圧政から解放する政治的王でした。ローマ帝国の植民地下にあったユダヤ人は強力な政治的支配者としての王を求めていたのです。確かにイザヤ書には、強力な支配者としてのキリスト預言が存在します。 

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その 王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえま で。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9:6〜7) 

しかし、イザヤ書にはもう一つのキリスト像があり、それは、私たちの罪を身代わりとして負う「苦難の僕」としての姿です。 

「しかし、彼は私たちのそむきのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒され た。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かっていった。 しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:5〜6) 

当時のユダヤ人たち、そして弟子のペテロでさえも、ユダヤ人の王としてのキリスト像を持っていたので、イエスが苦しみを受けて殺されることを語られた時に、それを信じようとしないばかりか、イエスをいさめ、「主よ。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(マタイ16:22)と、イエスの言葉を否定しています。師と弟子の立場が全く転換しています。 

しかし、御使いは、イエスが生まれるに際して、ヨセフに対して、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスと名づけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)と語っています。まさに罪からの救い主としてのキリスト像です。またイエスをキリストとして証するために遣わされた バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネの福音書1:29)と述べています。旧約時代においては、子羊がほふられ、血が流されて、一時的に罪の赦しがなされる儀式が行われていましたが、バプテスマのヨハネは、そのことを念頭において、イエスこそが十字架につけられ、血を流して、永久に罪の問題を解決してくださるキリストであると宣言しているのです。 

聖書では、罪の贖い主としてのキリスト像とユダヤ人の王としてのキリスト像は矛盾するものではありません。前者はイエスの初臨において実現し、後者はイエスが地上に再臨されて、「メシア王国」が実現する時に成就します。 


「神の子としてのキリスト像」 

 

ユダヤ人がイエスをキリストと認めなかった理由が実はもう一つありました。当時、キリストが来られることを待っていたユダヤ人たちは、キリストが人間であり、神の子、ないし神であると思ってはいませんでした。従って、大祭司が、イエスに「おまえは神の子キリストなのか答えよ」と迫り、イエスが「その通りです」と答えた時に、大祭司は衣を引き裂き、「この男は神を冒瀆した」(マタイの福音書26:63-65)と有罪判決を下したのです。 

他方、ペテロがイエスに対して、「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰告白した時に、イエスは喜ばれ、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」(マタイの福音書16:16-17)と語られました。 

イエスは、全く罪のない神の子だからこそ、罪人の罪を負って十字架にかかり、身代わりとして裁かれることのできる唯一のお方です。神の子イエス・キリストの犠牲の死によって、イエスを信じる人々の罪の赦しの道が開かれたのです。 

今日においてもイエスを神の子、ないし神であることを否定する人々がいます。統一教会、エホバの証人、モルモン教という新興宗教がそうです。また神の子イエスではなく、人間イエスを強調することによって、キリスト教を受け入れやすいようにする試みもあります。しかし聖書は、「御子【イエス・キリスト】は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」(ヘブル書1:3)と明確に語っています。100%人間であり、100%神であるイエス・キリスト、そこに聖書の奥義があります。 

 

「ペテロの信仰告白」 


最後に、イエスが復活される前には、イエスの十字架の死を否定していたペテロが、復活されたイエスと出会った後、ペテロ第一の手紙で語っていることを紹介して終わりたいと思います。 

「キリストは罪を犯したことがなく、 

その口には欺きもなかった。 

ののしられても、ののしり返さず、 

苦しめられても、脅すことをせず、 

正しくさばかれる方にお任せになった。 

キリストは自ら十字架の上で、 

私たちの罪をその身に負われた。 

それは、私たちが罪を離れ、 

義のために生きるため。 

その打ち傷のゆえに、あなた方はいやされた。 

あなた方は羊のようにさまよっていた。 

しかし今や、自分の魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰った。」 

(1ペテロの手紙2:22〜25) 

8   第八回 主(Lord,kύριος、キュリオス) 

 

「主であるイエス・キリスト」 

 

聖書では、イエスは救い主であると同時に主であると語っています。例えばペテロ第二の手紙2章20節では、「主であり、救い主であるイエス・キリスト」(IIペテロ2:20)とあります。イエスは、私たちの罪を負い、十字架にかかり、罪の赦しの道を開かれた救い主です。クリスチャンは、イエスを罪からの救い主として信じますが、それだけではなく「主」(kύριος)として従います。主とは政治用語ですが、支配者という意味です。つまり、私たちの人生を支配するお方です。旧約聖書では、「ヤーゥエ」(YAWH) ないし「アドナイ」という神を表わすヘブル語が、ギリシャ語では「キュリオス」と訳されてあります。「主」とは神を示す言葉でもありますので、イエスは神として全ての権威を持っておられる方です。 

新約聖書では、主イエス、ないし主イエス・キリストということばは、125回出てきます。イエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いを知っているからこそ、自分の人生を「主」に任せることができます。 

 

「 皇帝が主か、キリストが主か」 

 

ローマ書には、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神が死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです。」(ローマ書10:9)とあります。私たちは当時の時代的背景を考える必要があります。当時クリスチャンは、イエスを主として従うべきか、皇帝を主として従うべきか、二者択一を迫られていました。イエスを主と告白することは、迫害を受け、場合によっては殉教の危険性がありました。イエスを「主」として従うことは、イエスを神として告白することであり、自分の主権をイエス・キリストに明け渡すことでもあります。 

「夏目漱石のキリスト教批判」 

 

夏目漱石は、「断片」(一九〇五年十一月から一九〇六年夏までの断章)において、 神を信じることは、神の奴隷となることだといっています。 

「どうして神を信じないのか。自分を信じるので、神を信じないのである。全宇宙のうちに自己より尊きものはない。自分を尊いと思わないものは奴隷である。自分 を捨てて神に走る者は神の奴隷である。神の奴隷になるよりは、死んだ方がましで ある。」 

夏目漱石にとって、神なき個人主義の立場に立てば、自分をキリストの支配に従わせることは、キリストの奴隷になることであると思われたのです。自分こそ宇宙の中心でなければならないのです。しかし聖書は、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ書1:13、14)と記しています。救いとは、人生の中心が自分からキリストへ180度転回することです。主権の転換が起こるのです。 

 

「キリストを主として従う動機」 


キリストを主として従う動機は、神によって強制されて、脅されて、あるいは利得目的からおこなわれるものではありません。上記の聖書の言葉にあるように、キリストが私の罪のために十字架にかかり、命を捨てるほどまでに私を愛してくださったという、キリストの愛に対する感謝と応答から生み出されてきます。キリストは強制されてではなく、自発的、自主的な服従を喜ばれます。今日、キリストに従うことが理解されない、ないし誤って理解される原因は、神なき個人主義があたりまであると思われ、神のない人生に慣れきって、したい放題の自由を享受しているからではないでしょうか。今日、若い人の好きな言葉は「自由」であり、最も嫌いな言葉は「権威」ないし「従う」ことです。 

 

「 トマスの告白」 

 

トマスという弟子は疑い深い性質を持っていました。彼は、イエスがよみがえられたという他の弟子たちの証言を聞いても容易に信じませんでした。しかし、彼が墓を打ち破って復活されたイエスに出会った時に、トマスは「私の主 (kύριος)、私の神(θεός)」(ヨハネの福音書20:28)と告白しています。イエス・キリストは「主」であり、「神」です。イエス・キリストを救い主として信じることは、取りも直さず、「主」として従うことです。パウロは、ローマ人への手紙1章と16章中で、「すべての異邦人の中に『信仰の従順』をもたらす」(1:5,16:26)と福音宣教の目的について語っています。 

 

 

9.第九回 贖い(λὐτρωσις(リュートローシス),άπολύτρωσις(アポリュトローシス)、Redemption)


「贖いのギリシャ語と本来的意味」

聖書で「贖(あがな)う」という場合には、代価を払って買い取る、ないし解放するという意味があります。奴隷解放が、イメージとしてわかりやすいと思います。奴隷を主人から、身代金を払って解放するという意味です。
もちろん私たちは奴隷ではなく、自由人です。自分の選択や決断によって行動することができます。しかし聖書は、人間がいかに弱く、本能や欲望によって駆り立てられる存在であるかを示しています。とくに日本では、女性の盗撮をはじめ性的な被害が多発し、止まるところをしりません。政治家、高級官僚、教育者、警察官、会社員、大学生の性的な犯罪が話題にならない日はないほどです。理性も道徳も、面子も、性的衝動をコントロールできない程度にエスカレートしています。このことを聖書は、罪の奴隷と言っています。そのような罪の奴隷である私たちが、イエス・キリストの十字架の犠牲という代価が支払われて、罪の奴隷から解放され、真に自由とされることを贖いと言言います。
ギリシャ語のλὐτρωσις(リュトロオーシス)が贖うという名詞で、3回用いられ、リュトローマイが贖いを意味する動詞で3回用いられています。英語では、redemptionです。またリュローシスが強い意味を持つと、άπολύτρωσις(アポリュトローシス)という言葉が用いられます。これは、新約聖書で10回用いられ、身代金の支払いによってなされる解放、奴隷の買い戻しを意味します。
例えば、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義とさ認められるからです。」(ローマ3;24)の贖いにはアポリュトローシスが用いられています。
またコロサイ書の1:14節には、「この御子にあって、私たちは贖い、すなわち罪のゆるしを得ているのです。」とありますが、この贖いが、アポリュトローシスです。また贖う(アポリュオー)の動詞は、新約聖書で69回使用されています。

「奴隷からの解放」

奴隷という言葉は現在の自由な社会においては、違和感があるかもしれません。しかし人間は罪の奴隷です。罪によって縛られた無力な存在です。聖書の救いは、罪の奴隷から、キリストの奴隷へと主権が転換することを言います。聖書には、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する神の御支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:14)とあります。

「旧約聖書における贖い」

旧約聖書も、出エジプトにおけるユダヤ人の解放を、「贖い」という言葉で表現しています。
「わたしは主である。私はあなた方をエジプト の苦役から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきによってあなた方を贖う。私はあなた方を取ってわたしの民とし、わたしはあなた方の神となる。」(出エジプト6:6〜9)
ここでも主権の転換、解放の意味内容が示されています。またイザヤ書において神はユダヤ人のバビロン捕囚からの解放を念頭において、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43:1)と語られています。

ここで新約聖書の贖いについて大事なポイントを4点見てみましょう。

【第一のポイントー 贖いと償いとは異なる】

第1のポイントは、日本の日常語では、贖いという言葉は使わないので、償いと間違えてしまう方も少なからずおられます。償いとは罪を赦してもらうために何かをすることですが、贖いは、一方的な神の恵みにより、罪の奴隷から解放されることです。自分の力でどんなに頑張っても罪の支配から自分で自分を解放することはできません。

【第二のポイントー贖いは罪の赦しを含む】

第二のポイントは、贖いは、救いの文脈で用いられる場合、罪からの解放と同時に、罪の赦しを含んでいるということです。「この御子にあって私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」(コロサイ1:14)とあります。

【第三のポイントーイエス・キリストの血という代価の必要性】

贖いの第三のポイントとして、罪の奴隷から解放されるためには、「身代金」、「代価」が支払われる必要があります。代価が支払われることなくして、罪の赦し、そして罪からの解放はありません。「あなた方は、代価を払って買い取られたのです。(1コリント6:20) とある通りです。そしてその代価とはイエス・キリストの血です。

「ご承知のように、あなた方が先祖から伝わったむなしい生き方から解放されたのは、銀や 金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18〜19)

私たちの罪が赦され、罪から解放されるために支払われた代価は、全く罪のない神の子イエス・キリストです。神は、独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに私たち一人一人を愛してくださいました。いかに神が私たちを高価で尊いものとみなしておられるかの証明です。わたしたちは、自分にとって価値がないと思えるものには一銭もお金を使いたくありませんが、ものすごく価値あるものには、たとえ高額なお金を支払っても、また借金をしてでも購入するのではないでしょうか。同じように、神は独り子イエス・キリストを代価として支払うほどに、私たちを愛しておられます。

「第四のポイントー身体の贖い」

贖いの第四のポイントは、贖いが未来の意味において使用されている点です。聖書は、魂の救いという意味で「贖い」という言葉を使っていると同時に、将来イエス・キリストの再臨の時に、死者が復活し、朽ちない栄光の身体に変えられるという肉体的な意味でも「贖い」という言葉を用いています。パウロは、そのことをうめきつつ待ち望んでいました。

「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ書8:23)

主イエスが再び来られる時に、信者がよみがえり、罪のない栄光の身体に一瞬にして変えられることが、パウロだけではなく、すべてのクリスチャンの望みなのです。
「贖い」が代表的な事例ですが、聖書を読む時に、キーワードの意味を理解しておけば、聖書がもっと身近で、わかりやすいものとなります。是非救いの理解にとって最も大事な「贖い」の意味を理解してください。


10.第十回 義認(δικαιὀω,ディカイオオー、justification)

「義と認める」(δικαιὀω)という言葉は、新約聖書で39回使われ、特にローマ人への手紙で15回、ガラテヤ人への手紙で8 回用いられています。多くは、「義と認められる」、つまり義とされるという意味で受動態で用いられています。また義という名詞はδικαιοσύνη(ディカイオシュネー)で、91回使われています。それでは、この義認について、4つのポイントで考えてみましょう。まさに、この「義とされる」ことに目が開かれて、ルターの宗教改革が始まり、救いの真理が回復されたのです。「義とされる」ことは、「贖い」と同様、救いの中心的なキーワードです。

 「第一のポイントー義認は法廷用語」

法廷では、検察官が被告の罪を追及し、弁護人が弁護し、最後に裁判官が判決を下します。関係者や傍聴人は、どのような判決が下されるか、緊張して待っています。その時に無罪であるという判決が、「義とされる」という意味です。つまり無罪宣告です。
 私たちは、人生の総決算として、いつかは神の法廷に立ち、自分がしたことに対して説明責任(アカウンタビリティ)を果たさなければなりません。その時、無罪判決を受けるか、有罪判決を受けるかのどちらかです。本来、人間は罪人として有罪判決を受けて当然でした。ローマ人への手紙では、すべての人が罪の下にあり、「義人はいない、一人もいない」(ローマ3;10)、「全世界が神の裁きに服する」(ローマ3;19)と記されてあります。自分の力では自分の罪を清算できません。しかし神は、行いとは別の方法によって、罪人に無罪判決を下す道を開かれました。

 「第二のポイントー義認は信仰によって」

つまり、イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架にかかり、血を流して、代わりに裁かれて下さいました。私たちは、ただイエス・キリストに免じて、イエスを信じる信仰によって義とされると聖書は語っています。つまり「行いによる義」ではなく、「信仰による義」です。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ書3:28)とある通りです。この信仰による義の発見こそ、ルターの宗教改革の出発点でした。

「第三のポイントー神の恵み」

有罪判決を受けて当然なものが無罪判決を受けて義とされ、罪赦されるわけですから、それは神の一方的な恵みです。聖書は、「ただ神に恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに価なしに義と認められます。」(ローマ3:24) と語っています。この「価なしに」のギリシャ語はδωρεὰν(ドーレアン)でただを意味します。つまりこちらが何をしなくても、イエス・キリストを信じ、受け入れるだけで、罪赦され、義とされるのです。これが恵み(カリス)の意味です。「ただほど怖いものはない」と反論する人もいますが、神の恵みを感謝して受け入れるためには、神の前におけるへりくだりが必要です。プライドの強い人、神の前に白旗を挙げようとしない人は、恵みを恵みとして受け入れようとしません。自分は神や人から恵まれる存在ではないと呟くのです。以前の私がそうでした。それは自分の罪の深さにきずいていないからです。クリスチャンを迫害していたパウロは、自分の罪の大きさにもかかわらず、恵みによって救われた喜びを以下のように告白しています。

「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。キ リスト・イエスは罪人を救うために世に来られたということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテへの手紙1:15)

「第四のポイントー義認と神の義の関係」

実はイエスの十字架は、信じる者が神の前に義とされる恵みであると同時に神の義、つまり神の正しさを示しています。神の前に義とされると同時に神の聖さや正しさが現わされなければなりません。まさにイエスの十字架において神の愛と神の正しさが同時に示されています。「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハネの福音書1:17)とある通りです。
つまりイエスの十字架の死は罪を裁く神の聖さや正義の現れであり、同時に信じる者を義と認めてくださる神の愛の現れです。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公 にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。こうして神ご自身が義(ディカ イオシネース)であり、また、イエスを信じる者を義と御認めになるためなのです。」(ローマ人への手紙3:25-26)

「第五のポイントー義の衣を着せられる」

第五のポイントは、イエスを信じる人々は、罪赦されるだけではなく、キリストの義の衣を着せていただき、完全なるものとして神の前に立つことができることです。これには、新約聖書におけるたとえとして、ぼろぼろの服を纏って帰ってきた放蕩息子に父親が、「一番良い着物を持ってきて着させ」、子として受け入れたことに示されている真理です。これが、義とされた人が神の前に持っている立場です。いわば乞食が王子にされた立場です。ただ王子とされた乞食が、王子とされても状態において乞食の時の習慣を継続し、王子としてふさわしくないこともありますが、王子としての立場は変わらないのです。

 

第十一回 和解(καταλλαγή カタラゲー、reconciliation)


「和解のギリシャ語」

和解という聖書のキーワードは、すでに述べた「贖い」や「義認」と同様に、罪の赦しや救いを意味する言葉です。和解のギリシャ語の名詞は、カタラゲー、和解するの動詞は、καταλλσσω(カタラソー)です。受動態の和解させられるは、καταλλάσσειν(カタラセイン)です。和解という言葉は、パウロによって新約聖書で4回使用されています。和解するというのは、対立のない状態に戻す、敵を共に変えることを意味します。人間は神によって創造された時は、神との親しい交わりが有ったのですが、アダムとエバの罪によって、親しい関係が壊れ、人間は神に対して敵対関係になりました。この敵対関係をもとの親しい関係に変えるのが、和解です。聖書では、カタラソーに分離を意味する前置詞のapo が付き、意味を強める意味で΄αποκαλλασσω(アポカタラソー)という言葉も用いられています。

「和解をなされたお方」

 神と敵対関係にあった私たちを神と和解させて下さったお方はイエス・キリストです。イエスが、十字架上で私たちの罪を負って十字架で死なれ、血が流されることによって、和解がなしとげられました。私たちは、イエスを信じる信仰によって、神との正しい関係に回復されるのです。
「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解さ せていただいた私たちが御子の死によって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、今や私たちは和解させていただいたのです。」(ローマ書5:10,11) 
「和解」はドイツ語で、versöhnung といいますが、Sohn は息子、verは、~をするという意味なので、和解によって、私たちは「神の子」とされ、「ああおとうさん」といって、神の恵みの御座に大胆に近づくことができます。

 「和解のイニシャテーブをとられたお方」

神と人間の間にある敵対関係、つまり罪という壁は、人間が神に罪を犯すことによって生じたものですので、人間に責任があります。罪の赦しと和解を必要とするのは神ではなく、人間です。にもかかわらず、和解のイニシャティブを取られたのは神です。つまり、神は、ひとり子イエス・キリストの十字架の犠牲を通して、罪の赦しの道、救いの道を開いてくださいました。神との和解のために、私たちの側で何かをする必要はありません。もう和解の道は開かれています。私たちの側でなすべきことは、ただ、イエス・キリストを救い主として信じ、神の和解を心から受け入れるだけなのです。
「神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせ ず、和解のことばを私たちに委ねられました。——神は、罪を知らない方をわたしたちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあっ て神の義となるためです。」(Ⅱコリント18,19,21)
 「罪をしらない方」とはイエス・キリストのことです。全く罪のない神の子イエス・キリストが、私たちのために罪そのもとされたという驚くべき事実です。
 
「クリスチャンは和解の務めを委ねられている。」

聖書は、和解せられたクリスチャンは、まだ神様から遠く離れている魂をキリストに導くために、「和解のことば」を委ねられていると語っています。クリスチャンは、神から遣わされた使節、大使として、神にかわってキリストによる和解を伝えるのです。
「こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」(Ⅱコリント5:18-20) 
福音の根本は、失われた関係の回復にあります。和解は、人がキリストの愛に触れ、悔い改めて神に帰ることによって成立します。そこから神との生ける交わりが生まれてきます。

 

第十二回 仲介者(μεαίτης,メシテ―ス,mediator)

「仲介者」というギリシャ語である「メシテ―ス」は、新約聖書で6回用いられています。「中間に立ち、両者を結び合わせる人」という意味です。「新約聖書ギリシャ語小辞典」では、「間に立って執成す者」とあります。一般的には、調停者、仲裁人、仲保者、保証人という意味で用いられます。この仲介者を三つの観点から考えて見たいと思います。

 
「新しい契約の仲介者」

 神が、人間に対して立てられるのが「契約」です。聖書は、モーセが古い契約である律法の仲介者であったのに対し、イエス・キリストが「新しい契約」の仲介者であると語っています。契約を与えられる方は、神です。契約を受けるのは、人間です。そしてこの契約が実現する、つまり効力を持つためには、仲介者であるイエス・キリストの十字架の犠牲が必要です。
へブル書は、十字架で罪の贖いをなしてくださったイエス・キリストが、「新しい契約の仲介者」(へブル9;15)であると言われています。 
「キリストは新しい契約の仲介者(メシテ―ス)です。それは初めの契約の時の違反から贖いだすための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。」(へブル9:15)
初めの契約、古い契約は、律法です。しかし律法は、人間を罪に定めますが、救い出すことはできません。人を罪から解放し、永遠のいのちを与える新しい契約は、イエス・キリストが死に、十字架で血が流されることで、実現します。イエスが十字架で人間の罪を負って十字架にかけられるというイエスの仲介が、契新しい契約の実現において重要です。


「仲介者の意味―仲裁者、ないし調停者」

仲介者の意味は、双方の対立を和解する仲裁者という意味もあります。旧約聖書の七十人訳聖書では、9章33節に、「私たち二人の上に手を置く仲裁者(メシテ―ス)が私たちの間にはいません。」と記されています。仲裁は、敵同士を仲裁して友にすることです。人間間の場合に、敵対する双方に原因があり、喧嘩両成敗ということもありますが。神と人との関係においては、対立の原因は神ではなく、人間の罪にあります。
 「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、 聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1ー2)
 罪の問題が解決されないと、神と人との正しい関係は回復されませんが、仲裁者イエスによって罪の赦しがなされ、隔ての壁が打ち壊されます。仲介者に必要な条件は、神の事を知ると同時に、人間の苦悩や悲惨をも知り、あわれみを注ぐ人です。仲介者としてふさわしいお方は、100%神であり、また100%人間であるお方だけであり、それは、人としてこの地上にこられ、罪の贖いをなしとげられたイエス・キリストです。聖書は次のように語っています。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一です。神と人の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストはすべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時に、なされた証です。」(Ⅰテモテ2;5)


「仲介者の別の意味―保証人」

メシテ―スは、「保証人」という意味もあります。負債を保証するのが、メシテ―スです。銀行でお金を借りる時に、本人が返済できない時に、負債を本人に代わって支払うのが保証人です。今日の連帯保証人のようなものです。人間の世界では、連帯保証人になったばかりに、家屋敷を抵当に入れられるという悲劇が再三起こっています。しかしイエスは、自ら私たちの罪の負債をすべて、十字架の死によって、清算してくださった連帯保証人です。自分でどんなり努力しても罪という負債を返済できませんでしたが、代わってイエス・キリストがすべての負債を支払ってくださったのです。聖書は、「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘づけ」して取り除いてくださいました。」(コロサイ2:14)と語っています。
 皆さんは、イエスが十字架で語られた七つのことばを御存知でしょうか。そのうちの一つが債務の清算という意味をもっています。聖句を紹介しましょう。
 「イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして頭を垂れて霊をお渡しになった。」(ヨハネの福音書19;30)
この「完了した」というギリシャ語が、「τετελέσται、 テテレスタイ」ですが、罪の負債を「完済した」という意味でもあります。

以上私たちは「仲裁者」(メシテ―ス)の意味を、新しい契約の仲介者、対立する者の仲裁者、罪という負債をかわって清算された保証人という三つの視点から考えました。「仲介者」は、神と人の和解をなしとげてくださったお方です。この方を通して私たちは、創造者である生ける神に帰ることができます。


第十三回 新生(regereration,παλιγγενεσία,パリゲネシア)(2023.12) 

「新生のギリシャ語」

 この新生(παλaιγγενεσία,パリゲネシア)というギリシャ語は、πἀλιν(再び)とγἐνεσις(生まれる)から成っており、「新約聖書ギリシャ語小辞典」では、「キリストによって新しいいのちが生まれること」と説明されています。このギリシャ語は、テトス3章5節に使用されています。

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(新改訳第二版)

新改訳聖書2017は、パリゲネシアを文字通り「再生」と言語に忠実に訳していますが、私見によれば、内容に即して「新生」がわかりやすいと思います。なぜなら「再生」ということばで、日本人の中には輪廻転生を想起する人が多いからです。

「新しく生まれる、new born」

聖書では、新生を表現する際に別のギリシャ語を用いている箇所があります。それは新しい(καινός、カイノス)という形容詞をつけて、新しくうまれた者を表しています。英語ではよく知られているnew bornです。
最も有名な聖句は以下の通りです。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者(καίνη                       κτίσις、new creature)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリントの手紙5:17)
 ちなみに、新しいというギリシャ語には二つあり、カイノス(καινὀς)は質的に新しいことを意味し、ネオス(νέος)は時間的にあたらしいことを意味します。ほかにもカイノスは、「新しい契約」(Ⅰコリント11:25)や「新しい天と地」(Ⅱペテロの手紙3:13)で用いられています。

「ニコデモへのイエスの言葉」
最後に、イエスが語られたニコデモへの有名な言葉を考えみましょう。ニコデモはパリサイ人で、ユダヤ人議会のメンバーであったにもかかわらず、イエスのもとを訪ねました。イエスは、ニコデモに「まことに、まことにあなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません、」(ヨハネの福音書3:3)と語られました。また新しく生まれる方法について、「まことに、まことに、あなたに言います。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(同、3:5)と話されました。ここで「新しく生まれる」というギリシャ語には「上から」(ἀ'νωθεν,アノーセン)生まれるというギリシャ語が用いられています。人間の努力によってではなく、ただ神の御力によって新しく生まれるという意味が込められています。水と御霊によって生まれるとは、水が象徴する神のみことばと聖霊の働きによって人は、新生できるのです。
 ニコデモは、イエスが語られる真意が理解できませんでした。ですから彼は、「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」というちんぷんかんぷんな質問をしています。

 「新生の重要性」

新しく生まれる、新生することは、イエス・キリストを信じ、こころに受け入れた結果として生じます。努力して努力して自分を変えようとするのではなく、上からの神の働きによって新しい者としてつくりかえられるのです。アダムとエバが堕落し、人間が罪の性質を以て神に反逆しはじめてから、神は聖霊による再創造のみわざをなし続けておられます。

「聖書の言葉」
”しかし、この方(イエス・キリスト)を受け容れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのです。”(ヨハネの福音書1:12,13)




第十四回 神の国(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア・トゥ-・セウー) 


「新約聖書における神の国の記述」
  新約聖書では、「神の国」は68回用いられていて、ルカの福音書が32回、マルコの福音書が14回、マタイの福音書が4回、ヨハネの福音書が2回です。マタイの福音書では、「神の国」にかわって「天の御国」(kingdom of heaven)という言葉が33回用いられています。国のギリシャ語はバシレイアです。

「神の国の定義」
聖書では重要な言葉として「神の国」(マタイの福音書では「天の御国」(kingdom of heaven)があります。この「神の国」の定義を知ることが、決定的に重要です。この言葉は、政治的な用語です。例えば一つの国を思い起こして下さい。ドイツの憲法学者エリネックは、国家の三要素として、主権、国民、領土を挙げています。例えば日本の国家は、主権をもっており、領土、領空、領海を支配しており、そこには日本の国民が住んで居ます。「神の国」には、イエス・キリストという主権者がおられ、イエス・キリストを信じる人々によって構成され、目に見える、ないし目に見えない領域が存在します。大事なことは、イエス・キリストの主権が確立されているかどうかが大切なことです。『神の国』とは、神の支配と定義することができます。同時に「神の国」が、領域(マタイの福音書4:8)や国民(マルコの福音書3;24)の意味にも用いられています。

「目に見える神の国と目に見えない神の国」

マルコの福音書1章15節では、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と記されてあります。この「神の国」をユダヤ的なメシア思想の文脈で「千年王国=メシア王国」という目に見える王国と同一視する必要はありません。ユダヤ人にとって最も必要なことは、罪を悔い改め、イエス・キリストをメシア(救い主)として受け入れることでした。イエス・キリストを心の中に受け入れた時に、そこに「神の支配」、「神の国」が誕生します。それは目にみえない「神の国」です。たとえ罪が支配する滅びゆく世界の中にあっても、「神の国」は存在するのです。
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかとイエスに尋ねた時に、イエスは、「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20,21)と語られました。またイエスはユダヤの総督ピラトに対して、ご自身が王であることを認めつつも、「わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハネ18:36)と語られました。現在においても、この目に見えない「神の国」はイエス・キリストを信じる人々の心に打ち立てられているのです。

「神の国ー主、キリストの支配」
 聖書の中に、「あなたの口でイエスを主 (kύριος) と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ人への手紙10:9)と記されてあります。 すでに第八回「主」の所で書きましたが、初代教会においてクリスチャンは、イエスを主として従うべきか、皇帝を主として従うべきか、二者択一を迫られていました。イエスを主と告白することは、迫害を受け、場合によっては殉教の危険性がありました。イエスを「主」として従うことは、イエスを神として告白することであり、自分の主権をイエス・キリストに明け渡すことでもあり、そこに「神の国」が到来します。パウロは、人が救われる以前の状態と救われた後の状態について、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子の御支配(έξοσια,エクソシア、dominion)の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ書1;13,14)と書いています。すなわち救いとは、暗闇の力であるサタンの支配から解放されてキリストの支配、「神の国」に移されることなのです。
クリスチャンは二重国籍の持ち主です。日本人として日本の国籍を持っていますが、クリスチャンとしては天の国籍を持っている天国人です。パウロは、「私たちの国籍は天にあります。そこからイエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ人への手紙3;20)
と語っています。

「目に見える神の国」
 しかし、聖書は目に見える形で将来イエスが支配される「神の国」が地上に到来することを約束しています。それは、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシア王国(=千年王国)であり、彼らが自分たちの罪を民族的規模で悔い改め、イエスを救い主として受け入れ、イエスが再び来られる(再臨)ときに実現します。そしてその後に、世界が滅ぼされ、「新しい天と地」が到来し、そして永遠にキリストと父なる神の支配が続くのです。「神の国」は、イエスの地上再臨とともに完成します。
 ”この世の王国は、わたしたちの主と、そのキリストおものとなった。主は世々限りなく支配される。"(黙示録11:15)
 ただ神の前に自分の罪を悔い改め、キリストを「救い主」、「主」として受け入れるこなくして、自動的に「神の国」は到来しないことを覚えてください。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」とある通りです。

 

第十五回 永遠のいのち(everlasting life,ζωή αἰώωιος,ゾーエ―・アイオーニオス) 

 

「聖書における永遠のいのち」 

 

「永遠のいのち」という言葉は、新約聖書で43回使用されており、大半はヨハネの福音書の中にあります。なぜならヨハネは、ヨハネの福音書を書く目的を「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)と書いているからです。 

ちなみにここでいういのちは、「永遠のいのち」です。 

 

「二種類のいのち」 

 

聖書でいのちと訳されるギリシャ語には、肉体的いのちを意味する「ψυχή,プシュケー」と永遠のいのちを意味する「ζωή、ゾーエ―」があります。「プシュケー」は、魂と訳されることがありますが、基本的に衣食住による肉体的いのちを意味します。プシュケーが使われている有名な聖書のことばは、イエスの次のことばです。 

 「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのち(プシュケー)のことで心配 
   したり、何を着ようかとからだのことで心配するのはやめなさい。」(ルカの福音書12:21-22) 

 それに対して「ゾーエ―」は、肉体的、生物学的いのちではなく、永遠に続く神のいのち、質的に新しいいのちを意味しています。本来、人間が生まれながらに持っているいのちではありません。イエス自身が自分は「いのち」であると語られました。二つの聖書の箇所を紹介します。 

 「イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのち(ゾーエー)です。わたしを信じるも
   のは死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11:25) 

 「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのち(ゾーエ―)なのです。わたし
    を通してでなければ、だれも父のみもとにいくことはできません。」 

 

 「永遠のいのち」 

 

「いのち」に「永遠の」(アイオーニオス)が加えられると「永遠のいのち」となります。しかし、すでに「いのち」(ゾーエ)が永遠の性質をもっているので、「いのち」と「永遠のいのち」は同じものであると言ってもいいでしょう。永遠のいのちは、時間と対比されると永遠、人間性と対比されると神性を示しているので、「永遠のいのち」は、神ご自身のいのちを意味します。 

 「永遠のいのち」を誤解して永遠に続くいのちだけを理解すると大変なことになります。というのも自殺する人は、今の自分の苦しみや悩みから解放されたいと願って自分のいのちを断つからです。苦しみが永遠に続くことはまさしく地獄の苦しみ以外のなにものでもありません。永遠に続くいのちが、神のいのち、キリストのいのちであることが大事です。そこに愛があり、喜びがあり、希望があります。 

 

「永遠のいのちを受ける条件」 

 

それでは、どうしたら私たちは、神から、「永遠のいのち」を受け取ることができるでしょうか。それは人間が自分で努力して勝ち取るものではなく、神の恵みによって与えられるものです。この「永遠のいのち」こそ神が私たちに与えようとしておられるものです。 

 「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書 3;16) 

 このように、永遠のいのちを受ける条件は、ただイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れるだけです。「御子(イエス・キリスト)を信じる者は、永遠のいのちを持っている」(ヨハネ3;36)とある通りです。 

 

「永遠のいのちー神との交わり」 

 

同時に、イエスを救い主と信じ、永遠のいのち、神のいのちを受けたものは、神と御子イエス・キリストとのいのちの交わりを持つようになります。神のいのちを受けたものだけが、神とイエス・キリストとの親しい交わりを持つことができます。イエスは語られました。 

 「永遠のいのちは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネの福音書17;3) 

 ここで「知ること」「(γινώσκω,ギノスコー)とは、単に頭で知るとか、知識として知ることではなく、人格的な交わりを持つことを意味します。私たちは、ある講演会に出て、講演者が紹介されて、その人の経歴や業績を知りますが、本当の意味ではその人を知っていません。頭で知っていますが、心で知ってはいません。「知る」とは、体験的、人格的に知ることで、親しい人格的な交わりを意味します。イエス・キリストを信じた人は、神とキリストとの親しい関係に入るのです。 

 ヨハネは、「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネの手紙1:3)と喜びをもって語っています。イエス・キリストについて知るだけではなく、イエス・キリストを知ることが大事です。
 ちなみに、永遠のいのちを受け神のいのちを与えられることは、とりもなおさず、「神の国」に入ることと同じ意味です。 

 イエス・キリストを信じ、彼を心の中に受け入れた者は、罪が赦されるだけではなく、永遠のいのちを与えられ、永遠に神とキリストとの交わりに生きることができます。「永遠のいのち」は将来与えられるのではなく、現在すでに信じる者に与えられています。クリスチャンは、神のいのちによって生かされいる存在です。同時にクリスチャンは「永遠のいのち」を持っていることによって、将来イエス・キリストの再臨の時に、復活の栄光のからだに変えられ、永遠にキリストと共に住まうという望みを持つことができます。 

 是非、この「永遠のいのち」のすばらしさを理解し、それを求めてください。 

第十六回 神の子(son of God,ὀ υὶος του θεου,ホ ヒュイオス トゥー セウー)

 

 「イエスは神の御子」

「神の御子」という表現は、新約聖書に45回使用され、主に福音書に登場します。
「神の子」は、イエスに対して使用される場合、イエスが神性をもっておられ、父なる神に対して子なる神であることを示しています。
 イエスが「神の御子」であることの重要性は、イエスを単に人間としてしか見ない人が多いからです。イエスを人間としてしかとらえなければ、偉大な人格的な指導者や模範的人物としてのイエスを知ったとしても、人となられた神という事実、またイエス・キリストの十字架の贖いの意味を理解することができず、福音の真理が見失われてしまいます。聖書の中から、イエスが神の御子であることを示す表現を見てみましょう。

 まずは、ペテロの信仰告白です。
 “イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子(Υιος του Θεου)キリストです。」(マタイの福音書16:15-16)この答えにイエスは大変喜ばれました。
またマルコの福音書の冒頭には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコの福音書1:1)と記されています。この場合、神の子はメシア、キリストの称号でもあります。

 更に十字架につけられたイエスを目撃していた死刑執行人は「この方は本当に神の子であった。」(マルコ15:39)と告白しています。百人隊長はユダヤ人ではなくローマ人ですので、驚くべき告白です。ちなみに「神の子」の子は、英語でSon であって、Child ではありません。それは、イエスが子なる神であることを示しています。
 ヨハネの福音書はその執筆の目的をイエスが神の子キリストであることを知ることにあると述べています。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書20:31)

「旧約聖書における神の子の別の用法」

しかし、「神の子」という表現は、特に旧約聖書では、別の意味でも用いられています。例えば、「御使い」(創世記6:2)に対して用いられます。また選民イスラエルに対して、「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。」(ホセア書11:1)とあります。また聖書以外では、エジプト、バビロニア、ローマの皇帝が「神の子」と呼ばれていました。

「二種類の神の子の表現」

ここで大事なことは、イエスが神の子であり、100%神であるということと、信者が救われて神の子とされていることの違いです。例えばヨハネの福音書1章12節では、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。この時の「神の子ども」は、ギリシャ語で、τέκνα Θεοῦ、英語で children of God で、ヒュイオスとは異なるギリシャ語が用いられています。ヒュイオスというギリシャ語やson という英語は、イエス・キリストに対して用いられ、τἐκνον(テクノン)や英語の child は、クリスチャンに対して用いられます。イエスが神の子であることと、信者が神の子とされたことは決定的に異なることを表現しており、前者が神であるのに対して、後者はあくまでも人間なのです。イエス・キリストを救い主として受け入れたクリスチャンは、「神の子」として「アバ、父よ」と叫んで、親しく神と交わることができます。これも神と私たちの間にあった罪という障壁をイエス自身が十字架で取り除いてくださったおかげです。イエスが神の御子であることと、信じたクリスチャンが神の子とされていることの間には、大きな違いがあることを覚えておきましょう。

「神の子の相続財産」

 ある人は、人間はすべて例外なく神の子であると主張する方がおられます。しかし聖書はイエス・キリストを信じ、罪赦された者のみが子とされると言っています。子であることの特徴は相続財産を受け継ぐことができる権利が発生することです。神の子であることの証拠は、聖霊の証印を押されていることにあります。ローマ人の手紙八章には、「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子であることを証ししてくださいます」(ローマ8:116)とあり、またエペソ1章には、「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印をおされました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(エペソ1:13~14)と記されてあります。

 私は、自分の蔵書に古賀というはんこを押し、この本が私の所有物であることを示しますが、神は信じた者に聖霊を与えることによって、ないし聖霊の証印を押すことによって、神の子としてくださいました。そして神の子は、父なる神の相続財産を受け継ぐことができます。それは御国を受け継ぐことであり、天国へのパスポートが保証されるのです。そしてそれだけではなく、この地上に生かされている日々、父なる神と御子イエス・キリストとの親しい交わりに生きることができます。「私たちの交わりとは、御父、また御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネの手紙1;3)

 

第十七回 神の愛(love of God、ἀγάπη,アガペー) 

 

「新約聖書における神の愛」 

 

神の愛は、ギリシャ語でἀγάπη,アガペーと言います。皆様も聞かれたことがあるかと思います。このアガペーという言葉は古典ギリシャにはなく、聖書ギリシャ語(コイネー)において初めて出て来る言葉です。言葉がなかったというのは、アガペーが示す愛の実践が行われていなかったことを意味します。それほど、アガペーは特別の意味を持った言葉です。ちなみにアガペーは、新約聖書に116回使用され、特にヨハネの福音書に37回用いられています。アガペーの動詞形の愛するはἀγαπω、アガパオ―で、新約聖書に143回用いられています。アガペーは主に神が人を愛する場合に用いられます。 

 

 「四種類の愛」 

 

ギリシャ語には神の愛を示すアガペー以外に、情念的で性的な愛を意味するエロース(ἒρως)、友情をしめすフィリア(φιλια)、家族愛を示すストルゲー(στοργἠ)があります。この中で、新約聖書で使われている愛はアガペーとフィリアだけです。フィリアもストルゲーも美しいことばですが、親しい関係や家族愛に限定されており、自然的な情愛を示しています。フイリアの動詞形はフイレオー(φιλἐω)、ストルゲーの動詞形はステルゲイン(στἐγειν)です。それに対してアガペーは敵をも愛する愛であり、無条件な愛です。このような愛は、人間からは生まれてこず、まさしく神の愛、キリストの愛といえるでしょう。聖書は、「神は愛です」(Ⅰヨハネの手紙4;8)と書いています。それでは、神の愛の四つの特徴について考えて見ます。 

 

 「神の愛の四つの特徴」 

 第一点は、犠牲の愛です。自分を肥え太らせる愛、自己実現の愛ではなく、自己を相手に与える愛です。神の私たちに対する愛は、ご自身の一人子を十字架につけるほどのものでした。聖書のエベレストと呼ばれ、尤も親しまれている箇所を紹介します。 

 「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びることなく永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3:16) 

  「人が自分のためにいのちを捨てること。これよりも大きな愛(アガペー)は誰も持ってはいません。」(ヨハネの福音書15:13) 

 この神の与える愛に意識的に異議を唱えた文学者がいます。有島武郎(1878~1923)です。彼は、「惜しみなく愛は奪う」という(1917年)小説を書き、その中で「経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代わりに奪う本能であり、放射するエネルギーである代わりに、吸引するエネルギーである」と述べています。彼にとって愛とは自己犠牲の愛ではなく、他者を自分の中に取り込み、他者を支配し、自己の欲望や本能、支配力を拡大していくものです。彼は、欲望や本能を制御するすべての拘束物を排除し、自己を太らせ、拡大していこうとします。利己的人間は、自己にのみ関心を持ち、与えることではなく、奪い取ることにのみ喜びを感じます。彼が確立しようとしている自我は、エゴイズムの自我です。慈善や人を助ける行為も、自分のため、自己実現のためなのです。 

そして、有島が言う「惜しみなく奪う愛」こそ、私たち人間が親子の間で、恋人に対して示している愛ではないでしょうか。この書物を書いた有島武郎は、1923年6月に「婦人公論」の記者で夫がいる女性と心中自殺しています。 

  第二点は、無条件の愛です。人間の愛は条件付きの愛です。相手が美人、美男子だからその人を愛する、相手がお金持ちだからその人を好きになる、相手がやさしいからその人を愛するというのは、条件付きの愛であり、結局報いを求めている愛です。しかし神の愛は無条件で、神に背を向け、神に反抗してきたものにも示される愛です。愛するに値するものを何も持たない者に示される愛です。 

 「しかし、私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛(アガペー)を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8) 

 第三点は、神の愛は変わらないという事です。結婚式はドイツ語でHochzeitと言います。hoch は高いという意味です。しかし、人間の愛は、かわりやすいものです。結婚する前は二人の愛は頂点に達したとしても、結婚して、幻滅し、愛が冷え、離婚するもしばしばです。 

文豪トルストイ(1828-1910)が書いた『アンナ・カレー二ナ』という有名な小説がありますが、貴族の婦人アンナには、政府高官でカレーニンという高名な夫がいましたが、若い魅力的な将校ブロンスキーという男性に惹かれて恋をします。社交界で、アンナ・カレーニナの不倫が問題となり、彼女はキャンダラスな女性というレッテルをはられます。彼女はブロンスキーを愛しますが、次第に恋人が自分を捨てて、別の女性と一緒になるのではないかと嫉妬と不安に駆られ、最後は駅に飛びつき、自殺してしまうのです。悲劇的な女性です。アンナ・カレーニナと同じ思いになった人々は多いのではないでしょうか。しかし、神の私たちに対する愛は変わらず、永遠に変わらないものです。 

 “女が、自分の乳のみ子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。見よ。私は手のひらにあなたを刻んだ“(イザヤ書49;15) 

 “たとえ山が移り、丘が動いても、私の真実の愛はあなたから移らず、私の平和の契約は動かない」。“(イザヤ54;10) 

第四点は、神の愛(アガペー)のイニシアティブを取られるのはいつも神ご自身です。私たちは自分を愛する者には愛を示しますが、なかなか自ら愛のイ二シアティブをとろうとしません。しかし、神はイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架につけ、ご自身の愛を示されました。クリスチャンとは、その神の愛に応える者です。 

 「神はその一人子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを与えてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、なだめのささげものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネの手紙4:9~10) 

このイエス・キリストの十字架の死を通して示された神の愛に触れ、是非この神の愛に応答してください。神の愛にどのように応答(response)するかは、私たちの責任(responsibility)です。 

 


 第十八回 宥めの供え物(propitiation,ὶλαστήριον,ヒラステーリオン) 

 

聖書が示す救い、つまり罪の赦しを示す言葉として、すでに第九回で「贖い」(リュートローシス、redemption)、第十回で義認(ディカイオオー、justification)、第十一回で和解(カタラゲー、reconciliation)、第十三回で新生(パリゲネシア、new born)について考えてきました。今回は、宥めのそなえもの(ὶλαστήριον,ヒラステーリオン、propitiatiomないしatonement)について考えてみます。なお英語のpropitiation は宥めるという意味ですが、atonement は「償う」という意味があります。ヒラステーリオンには、この二つの意味があります。神の怒りが宥められるためには、罪の償いがなされる必要があるのです。「ヒラステーリオン」は、動物の血が流されて、一時的に罪の赦しがなされていた旧約聖書の祭祀制度を用いて、イエス・キリストの十字架の犠牲の意味を理解するために重要な言葉です。 


「旧約聖書における宥(なだ)めの供え物」 

 

旧約聖書では、人間の罪が一時的に赦されるために子羊や子牛がいけにえとして捧げられ、祭壇の火で燃えつくされるという習慣がありました。それによって神の罪に対する怒りが宥められるというものです。しかし新約時代において、ほふられ、神の怒りを宥めて下さったお方は、神の子のイエス・キリストです。旧約の贖いの儀式において用いられていた「宥め」は、新約聖書においてはイエス・キリストにおいて実現します。この宥め(ヒラステーリオン)が新約聖書でどのように用いられているかを見てみましょう。なお宥めるの動詞は「ヒラスコマイ」(ὶλάσκομαι)です。 

 

 「新約聖書における宥めの供え物」 


「ヒラステーリオン」という言葉は、第一ヨハネの手紙で二度、ローマ人の手紙で一度用いられています。第一ヨハネの手紙4:10節では、「宥めの供え物」としてのイエス・キリストについて書いてあります。 

 「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物(ίλασμὸν,ヒラスモン)としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 

 またヨハネの第一の手紙の二章二節においては、「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけではなく、世全体の罪のための宥めのささげもの(ὶλασμὀς、ヒラスモス)です。」とあります。 

 つまり、神の怒りが宥められ、罪人である人間にあわれみと恵みが注がれるように、イエスは身代わりとして神の怒りを受けて下さったのです。 

また「ローマ人の手紙」では、以下のようにしるされてあります。 

「神は、この方を信仰によって受けるべき、血による宥めのささげもの(ίλαστήριον、ヒラステーリオン)として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで冒されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、御自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(ローマ書3:25~26) 

 ここには二つの真理が示されています。第一は、神がご自身の義、正しさをイエスの十字架の死を通して示された事、第二に、イエスを信じる者を義と認めてくださったこと、つまり罪を赦してくださっ 

たことです。 

 

  「贖いのふた」 

 

しかし、「ヒラステーリオン」には、もう一つの意味があります。「新約聖書ギリシャ語小辞典」では、贖いのふた、贖罪蓋という意味があります。幕屋には、聖所と至聖所があり、至聖所には契約の箱があり、その上に金の蓋が置いてて在り、その上にケルビムが翼をひろげて覆っています。まさに贖いのふたは、神が臨在されるところでした、 

 そして一年に一回行われる贖いの日には、大祭司が至聖所に入り、贖いの蓋に動物の血を注ぎ、民の罪の赦しがなされていました。へブル書9:3~5節には、以下のようにあります。 

 「また第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、墓の中には、マナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板がありました。また箱の上で、栄光のケルビムが「宥めの蓋」(ヒラステーリオン)をおおっていました。」 

ここで、ヒラステーリオンは「宥めの蓋」(新改訳2017)ないし「償いの座」(新共同訳聖書),あるいは「贖いの蓋」と訳されており、英語聖書NIV(new unternational version)ではmercy seat(恵みの座)と訳され 

ています。まさにイエス・キリストご自身が、「宥めの蓋」ないしmercy seatなのです。 

 旧約時代には、民の罪を赦すために、この「宥めの蓋」の上と前にいけにえの動物の血が幾度も注がれました。しかし神の御子イエス・キリストはただ一度だけ「宥めの供え物」となって血を流して下さり、罪の赦しをなしとげてくださいました。聖書は、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(へブル10:10)と語っています。「ただ一度だけ」(once for all)はこれで終わりという意味です。もはやこれ以上必要ないということです。イエス・キリストが罪の赦しを一度で完成された所に、旧約の動物の犠牲との違いがあります。 

 今日は「ヒラステーリオン」について学びましたが、少し難しかったかもしれません。しかし、この言葉は重要な言葉です。というのもこの言葉は、罪に対しては神の怒りが下されること、そしてその神の怒りをイエス・キリストが代わって受けられ、私たちひとりひとりに救いの道を開いて下さったことを、示しているからです。 


 第十九回 復活(άνλάστασις, アナスタシス、resurrection)

 「ギリシャ語の復活」

ギリシャ語の復活のことばは「アナスタシス」ですが、新約聖書で42回用いられており、アナは「再び」、ないし「上に」、スタシスは「起き上がる」の意味があります。『新約聖書第ギリシャ語小辞典』では、第一に倒れていた者が起き上がること、第二に、死者の復活、よみがえりの意味があります。ここでとりあげるのは、第二の意味です。特にイエス・キリストの復活について考えたいと思います。「アナスタシス」の動詞形は、よみがえるの「アニステーミ」(άνίστημι)で、108回用いられています。

 実は「復活」を意味する動詞には「ア二ステーミ」以外に「エゲイロー」(έγειρυω)があります。例えば第一コリント書15章3、4節には、パウロが最も大事なこととして伝えたことに、「キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと」が記されてありますが、ここではエゲイローの完了受動態の「エゲーゲルマイ」(έγήγρμαι)が用いられています。また使徒の働き2章32節には「神はこのイエスをよみがえらせました。わたしたちはみな証人です」には、「アニステーミ」のアオリスト時制(すでに起こったことで反復しない)が用いられています。

 「キリストの復活―他の宗教との違い」

キリスト教を他の宗教から区別するものは「復活」です。他の宗教の創始者の釈迦、孔子、ムハンマドも教典は残しましたが、死んでしまいました。ただイエスだけが、墓の中からよみがえられたのです。聡明なイギリスの法律家であるフランク・モリソンは、復活はかって人類に伝えられた最もばかげたでっちあげだと考え、反論を試みましたが、調べれば調べるほど復活が事実であることを確信し、当時ベストセラーになった書物『動いた墓石』という書物を書きました。
渋沢栄一は一九一七年に米国に行った時に、米国のデパート王のワナメーカーに教会の日曜学校に招待され、何か話すように依頼されたので、渋沢は、「私は孔子の教えを記した論語を毎日読んでいる。私は、儒教もキリスト教も同じであると思う」と語ったそうです。その時にワナメーカーは、涙を流して立ち上がり、次のように言いました。
 「私は儒教に対して心からの尊敬を表します。今東洋の紳士が、キリスト教も儒教も同じだと言われましたが、私は絶対に違うと思います。その間に根本的違いがあります。孔子は死んで葬られました。そしてそのまま眠っています。キリストも一度は死んで葬られました。けれども彼はよみがえったのです。三日目の朝によみがえったのです。彼の墓は、空になりました。キリストは今も生きています。そうです。現にこの部屋の中に、私たちの中におられます。」
そしてワナメーカーは、小さな聖書を取り上げて、「ここにイエスの言葉があります。これは生ける言葉です。私たちは生ける神のことばをこの書物の中に読むことができます。」と語りました。

「復活の信憑性」

それでは、イエスの復活の証拠はどこにあるのでしょうか?イエスの遺体は墓に葬むらましたが、日曜日には、もう遺体はなく、遺体を巻いた亜麻布だけがありました。誰かが、例えば弟子たちがイエスを盗んでいったという説もありますが、番兵が監視していたので難しかったと思います。それ以上に実際にイエス・キリストが復活した身体を弟子たちや500人以上の信者に現わされました。イエスの復活の証人がたくさんいるのです。裁判において有罪か無罪かを決める際に大事なのは信用できる証人です。証人の証拠が採用されて、事実が確定されます。
弟子たちが、願望のあまり、イエスが死んでいるにもかかわらず、復活したと嘘をついたと考える人々がいますが、神を畏れる弟子たちが嘘をついたとは考えられません。また弟子たちは、イエスの復活に出会って変えられ、生涯をかけてイエスに従う道を選びました。嘘であればそのような献身的行為は不可能だったでしょう。

「弟子たちの宣教―復活」

弟子たちは、復活されたイエスと会い、イエスはよみがえられたと宣べ伝えました。例えば、「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証し、大きな恵みが彼等全員の上にあった。」(使徒4:33)と記されてあります。またペテロは、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2:32)と語っています。弟子たちの福音宣教の原動力、そして中心はイエスの復活であったことがわかります。。

「復活の意味―5つのポイント」

イエス・キリストの復活は、私たちにとってどのような意味をもっているでしょうか。5つのポイントで考えてみたいと思います。
第一点は、復活を通してイエスが神の子であることが明らかに示されました。ローマ書には、「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ書1:4)とあります。
第二点は、イエスの復活は、神の前において信者が罪赦され、義とされたことを保証するものです。この点についてローマ書は、「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに、死にわたされ、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ書4:25)と記しています。
第三点は、イエス・キリストの復活により、キリストは、「死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されました。」(Ⅱテモテ1;10)復活は、イエスが死に勝利され、(Ⅱテモテ1:10)、死の力を滅ぼされた事を示しています。
第四点は、イエスの復活は、信者の復活のしるしです。聖書によれば、イエスの復活は、イエスを信じるクリスチャンの復活の初穂です。クリスチャンも、イエスが来られるときに復活する約束があたえられています。その復活の身体とは、栄光あるからだ、御霊のからだ、天上のからだ、朽ちないからだです。聖書は次のように約束しています。
「聞きなさい、私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることに なるのではなく、変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:51-52)
死者の復活はイエスの再臨の時に起こるので、復活と再臨は密接な関係にあります。聖書は死者の復活がなければ、イエスも復活されなかったと書き記しています。
最後に第五点として、イエスの復活は、イエスがいまも生きておられることを意味しています。クリスチャンが信じるのは、死なれたイエス・キリストではなく、よみがえって今も生きておられるイエス・キリストです。パウロは、「キリストがよみがえらなかったならば、私たちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」(Ⅰコリント15:14)と指摘しています。
是非、イエスの「十字架」と「復活」を信じて、福音を自分のものとしてください。


第二十一回 救い主(σωτήρ、ソーテール)

すでに私たちは、第七回でイエスが「キリスト」(χρστóς)であること、第八回でイエスが「主」(κύριος)であること、第十二回でイエスが「仲介者」(μεσιτης)であること、第十六回でイエスが「神の子」(υιος του θεου)であることを学びました。今日は、イエスが「救い主」(σοτηρ)であることを考えます。
 イエスがキリストであるという場合、そこに救い主という意味も含まれていますが、別にソーテールという言葉がイエス・キリストについて16回用いられています。この言葉は人間に対しては用いられていません。イエス・キリストと神についてだけ、「救い主」という言葉が用いられています。

 最も有名な聖書の箇所は、クリスマスの時に必ずといっていいほど読まれる次の聖句です。「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2:11)
またヨハネの福音書でサマリアの人々が、イエスを「救い主」として信じた記事が記されてあります。「彼らはその女に言った。もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(ヨハネの福音書4:42)

 また使徒の働きにおいては、「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主を送って下さいました。」(使徒の働き13;23)とあります。更にⅠヨハネの手紙では、「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを」見て、その証しをしています。」(Ⅰヨハネ4;14)とあります。
 救い主は、ただイエスおひとりです。
 それでは、イエスは何から私たちを救われる救い主でしょうか。ユダヤ人たちは、ローマの帝国支配からイスラエルを解放する政治的救済者と考えていました。しかし、新約聖書においては第一義的に神の裁きからの解放であり、罪の赦しを意味しています。イエスが、私たちの罪を負って十字架で死ぬことによって、罪の赦しの道が開かれました。

 もう一つは、将来的な救いで、イエスの再臨の時の信者の復活と栄化を指しています。例えばピリピ人への手紙においては、イエスの再臨について、「しかし私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待ち望んでいます。キリストは、万物を御自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3;20)とあります。またテトスへの手紙においては、「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むようにと教えています。」(テトスへの手紙2:13)と記されてあります。
ちなみに「救い」の名詞形はソーテリア(σωτηρίāα),動詞の救うはソーゼイン(σώζειν)です。例えば、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)とあります。
今日は、十字架につけられ、三日後に甦られたイエス・キリストが私たちの「救い主」であることを覚えてください。 

第二十回 再臨(Christ's second coming、παρουσία、パルーシア) 

「再臨のギリシャ語パルーシア」
」「再臨」のギリシャ語「パルーシャ」は、新約聖書では24回使用されていて、邦訳では、「来臨」、「来られる」、「到来」などと文脈に応じて異なった訳がなされています。パルーシャは、パラ(~と一緒に)とウーシア(存在)から成り、古典ギリシャ語では、「存在」、「出席」、「到着」を意味し、ヘレニズムのギリシャ語では、皇帝や高官の公式訪問に用います。「パルーシャ」は、新約聖書では王なるキリストが再び来られて、信仰者を救いの完成に入れることを意味します。例えば、「新改訳聖書2017」では、マタイの福音書24章27節には「人の子の到来(パルーシア)は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです」とパルーシアが到来と訳されています。また1コリント15章23節「しかしそれぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨(パルーシア)のときにキリストに属している人たちです。」と、パルーシアが「来臨」と訳されています。また1テサロニケ4章16節では「主ご自身は天から下って来られる(パウーシア)」と、パルーシアが「来られる」と訳されています。
「新約聖書における再臨の位置づけ」
内村鑑三という近代のキリスト教の指導者は、聖書全体を理解する上での再臨信仰の重要性を以下のように述べています。
「このキリストの再臨こそ、新約聖書の至る所に高唱する最大真理である。マタイ伝より黙示録に至るまで、聖書の中心的真理は再臨である。是を知って聖書は極めて首尾貫徹せる書となり、その興味は激増し、その解釈は最も容易となるのである。是を知って聖書研究の生命は無限に延びるのである。」
そして彼は、キリストの再臨を信じなければ、 聖書 のうるわしき語は、ことごとく無意味に帰するが、逆に再臨の光に照らされて聖書を読む時に、聖書の一句一句が皆躍動して、聖書の一貫性が理解できると主張しています。
「再臨の目的」
次にイエス」・キリストの再臨の目的について考えてみましょう。
再臨の目的は、第一はクリスチャンの救いの完成で、栄光のからだに変えられることです。パウロは、この時の事を、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」(ローマ書8:23)と書き記しています。魂の救いのみならず。身体が栄光の身体に変えられることによって救いが完成します。
第二は、神の支配が確立される神の国の実現です。黙示録には、「この世の国は私たちの主およびキリストのものとなった。王は永遠に支配される。」(黙示録11;15)と記されてあります。死やサタンが滅ぼされ、「大きな白い御座」(黙示録20:11)で不信者に対するさばきが行われた後、神の完全な支配が実現します。そこでは、「もはや死もなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)と記されてあります。
「再臨の準備」
再臨の準備の第一は、主がいつ来られてもいいように、目をさましていることです。クリスチャン生活自体が、主を待ち望む希望によって貫かれている必要があります。主を待ち望むことによって、日々の生きた緊張感が生まれてきます。
再臨の準備の第二は、聖い生活をして、主を待つことです。再臨は、花嫁なるクリスチャンが花婿であるイエスと出会う時なので、花婿にふさわしい花嫁となるように、つまりキリストに似せられていくように聖められていくことが大事です。1テサロニケ3章13節においては、「あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスが御自分のすべての聖徒たちと共に来られる(パルーシア)ときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」とあります。
再臨の準備の第三点は、「堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」(Ⅰコリント15;58)とあるように、日々主のために自らを捧げていくことです。
「マラナ・タ」
マラナ・タという言葉は、イエスの時代のクリスチャンたちが使っていた「主よ、来たりませ」というアラム語です。1コリント16章22節には、「主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ来てください。」とありますが、この「主よ来てください」がマラナ・タ(Μαπάνα θά)の訳です。現在でもクリスチャンたちの手紙の最後には「マラナ・タ」という言葉が付け加えられている場合が多くみられます。日本語で云えば「敬具」と同じ意味で使われています。それでは。 マラナ・タ 

 第二十一回 救い主(savior,σωτήρ、ソーテール)(2024.11.1)

すでに私たちは、第七回でイエスが「キリスト」(χρστóς)であること、第八回でイエスが「主」(κύριος)であること、第十二回でイエスが「仲介者」(μεσιτης)であること、第十六回でイエスが「神の子」(υιος του θεου)であることを学びました。今日は、イエスが「救い主」(σοτηρ)であることを考えます。
 イエスがキリストであるという場合、そこに救い主という意味も含まれていますが、別にソーテールという言葉がイエス・キリストについて16回用いられています。この言葉は人間に対しては用いられていません。イエス・キリストと神についてだけ、「救い主」という言葉が用いられています。

 最も有名な聖書の箇所は、クリスマスの時に必ずといっていいほど読まれる次の聖句です。「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2:11)
またヨハネの福音書でサマリアの人々が、イエスを「救い主」として信じた記事が記されてあります。「彼らはその女に言った。もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(ヨハネの福音書4:42)

 また使徒の働きにおいては、「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主を送って下さいました。」(使徒の働き13;23)とあります。更にⅠヨハネの手紙では、「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを」見て、その証しをしています。」(Ⅰヨハネ4;14)とあります。
 救い主は、ただイエスおひとりです。
 それでは、イエスは何から私たちを救われる救い主でしょうか。ユダヤ人たちは、ローマの帝国支配からイスラエルを解放する政治的救済者と考えていました。しかし、新約聖書においては第一義的に神の裁きからの解放であり、罪の赦しを意味しています。イエスが、私たちの罪を負って十字架で死ぬことによって、罪の赦しの道が開かれました。

 もう一つは、将来的な救いで、イエスの再臨の時の信者の復活と栄化を指しています。例えばピリピ人への手紙においては、イエスの再臨について、「しかし私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待ち望んでいます。キリストは、万物を御自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3;20)とあります。またテトスへの手紙においては、「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むようにと教えています。」(テトスへの手紙2:13)と記されてあります。
ちなみに「救い」の名詞形はソーテリア(σωτηρίāα),動詞の救うはソーゼイン(σώζειν)です。例えば、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)とあります。
今日は、十字架につけられ、三日後に甦られたイエス・キリストが私たちの「救い主」であることを覚えてください。 


第二十二回 奥義(mystery,μυστήρίον、ミュステ―リオン)

【奥義の定義】

 「奥義」という言葉は、新約聖書で27回使用されていますが、マタイ、マルコ、ルカの福音書に各一回づつ使用され、パウロの手紙で20回、黙示録で4回使用されています。奥義とはいったい何でしょうか。それは、ふつう一般に考えられるように神話とか神秘とは全く関係がありません。それは、旧約聖書では隠されていたことが、新約聖書において明らかに示されることを意味します。つまり神の救いの計画の全貌が、新約聖書において明らかにされることです。奥義として述べられていることを福音書とパウロの手紙に分けて考えて見ましょう。

【 福音書における奥義】

福音書で出てくる場合は、いづれも「神の国」(kingdom of God、βασιλεία τοû θεοû, バシレイア・トゥ-・セウー)の奥義です。マタイは、「神の国」ではなく「天の御国」という表現を用いています。キリストとともに、時が満ち、神の国=神の支配が到来しました。イエスは、神の国の奥義として、神の国がどのように成長するかを、種まきのたとえで語っておられます。(マタイ13:11、マルコ4:11、ルカ8:10)

【パウロ の書簡における奥義】

次にパウロの書簡に現れる神の「奥義」を五点に分けて考えてみましょう。
第一の最も重要な奥義はキリストです。パウロは、「世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義」について語り、「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。こも奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ書1:27)と語っています。またコロサイ書2章2節には「神の奥義であるキリスト」と記されています。キリストの全貌は旧約聖書において預言されていましたが、新約において覆いがとり除かれ、イエスの誕生、十字架の死、復活においてはっきりと明らかにされました。
第二の奥義は、キリストと教会との関係です。教会は旧約聖書では全く出てきません。それは、イエス・キリストの昇天後のペンテコステ(聖霊降臨)の結果として誕生しました。エペソ書5章においては、夫と妻の関係がキリストと教会との関係にたとえられて、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。——この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(エペソ書5:25、32)と書かれてあります。
第三の奥義は、異邦人にも救いがもたらされ、対立していたユダヤ人と異邦人がキリストにあって和解され、同じキリストのからだなる教会に属するようになるという神の計画です。この「キリストの奥義」について書かれてある箇所をエペソ人への手紙三章から引用します。
「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、
今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。
それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続者になり、
ともに同じからだにつらなって、ともに約束にあずかる者になるということで
す。」(エペソ書3:5〜6)
今まで紹介した神の奥義は、すでに実現したものですが、次の二つは将来実現するものです。
第四の奥義は、現在イエス・キリストを拒んでいるユダヤ人が終わりの日に民族的に悔い改め、イエスを受け入れて救われることです。
「兄弟たち、あなたがたが、自分を知恵ある者と考えないようにするために、この
奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエルの一部が頑なになったのは異
邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるので
す。」(ローマ書11:25〜26)
「異邦人の満ちる時」とは救われるべき予定された異邦人が皆救われて、異邦人に
対する神の計画が実現することを意味します。その後イスラエルに対する神の取り
扱いが始まります。
第五の奥義は、キリストが再臨される時、信者が栄光の身体に変えられるという神の救いの計画です。「聞きなさい、私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私達は変えられるのです。」(コリント第一の手紙15:51〜52)とあります。パウロは、この時を待ち望み、「私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」(ローマ書8:28)と語っています。

【パウロの使命ー神の奥義を伝えること】
パウロは、自分を「キリストのしもべ、神の奥義の管理者」(コリント第一の手紙4:1)
と述べています。彼は、明らかにされた神の奥義であるキリストを宣べ伝えることに全生涯を費やしました。彼は、この奥義であるキリストが再び覆われてしまうことには、我慢がなりませんでした。キリストこそ彼のいのちそのものでした。クリスチャンもパウロと同様、神の奥義の管理者、また伝達者であることを覚えたいと思います。 

 

第二十三回 恵み(grace, χάρίϛ,カリス) 

  「恵み」のギリシャ語カリスは、新約聖書で155回、そのうちパウロの手紙で87回(56%)使用されています。カリスの動詞形、つまり「恵む」は、カリゾマイ(χαρίζομαί)で、23回使われています。もともと古典ギリシャ語で、「恵み」とは、「親切」、「好意」、「魅力」などを意味し、聖書の「恵み」のように深い意味をもっていませんでした。同じχάρίϛ(カリス),という言葉を使っていても古典ギリシャ語と聖書のギリシャ語(コイネー)の意味は異なっています。「恵み」は、信仰において最も重要な概念です。というのも救いは、人間の努力や功績によって成立するものではなく、ただ神の恵みによって可能であるからです。 

 「恵みと報酬の違い」 

 一つの言葉を定義する際に最も効果的な方法は、反対語を思い浮かべることです。聖書では「恵み」の反対語として「報酬」(μισθος,ミソース)が挙げられています。ローマ人の手紙4章4~5節には、以下のように書かれています。 

 “働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払らわれるべきものとみなされます。しかし働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。” 

 ここでは、人が義とみとめられる、つまり救われるのは、報酬ではなく、恵みと語られてています。報酬は例えば労働に対する対価で、長時間働けば、それだけ賃金も増加します。しかし救いに関しては、善い行いに対する報酬ないし対価ではなく、ただ神の恵みです。善行を積めば、神に近くなると考えるのは根本的な間違いで、自分は何の良き行いができない者であることを認めて、ただ神の恵みにすがることが必要です。総じて「恵み」とは、受けるに値しない罪人に注がれた神の愛、価値なき者に与えられる神の愛です。 

  「恵みはイエス・キリストを通してくる。」 

 恵みは、イエス・キリストによって私たちに現わされました。「律法はモーセによって与えられ、恵み(カリス)とまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネの福音書1:17)まさに、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、罪の赦しを実現されたイエスこそ、私たちに対する神の恵みそのものです。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」(ローマ書3;24) 

「救いは、恵み+アルファ?」 

 ある人は、恵みだけで救われるのは虫が良すぎると考えます。恵みは大事だけれども、自分でも頑張って努力して救われることが必要であるというのです。それは、人間的にはとても聞こえがいいのですが、実は恵みの価値を否定し、キリストの十字架の完全性を否定する考えです。聖書には、「恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ書11;6)とあります。恵み+行いを救いの条件とすることは、福音の本質をゆがめるものですので、注意しましょう。 

 「恵みを受けたメフイボシェテ」 

 恵みの特徴を示しているのが旧約聖書に登場するメフイボシェテです。私の家内は三年前から飼っている猫にメフィという名前をつけています。フルネームは、メフィボシェテです。我が家に引き取られてきた時には、足が悪く、びっこを引いていました。実はこのメフイボシェテは、旧約聖書のサムエル記に登場するサウル王の息子の子の名前です。ダビデとの戦いで、サウルもヨナタンも死んでしまいますが、ダビデとヨナタンの契約によって、メフィボシェテはサウルの子孫であるにも殺されず、ダビデのあわれみによって、王と一緒に食事をする栄誉を与えられます。メフィボシェテになにか取り柄があったわけでもなく、利用価値のある実力や才能を備えていたわけではありません。それどころか、彼は足が悪く、歩けなかったのです。彼が、恵みを与えられたのは、ただヨナタンとダビデの契約によるものでした。恵みは、一時的なものではなく、契約に基づく客観的なものです。メフイボシェテとダビデの会話を紹介します。 

 「サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデの所に来て、ひれふして礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は言った。「はいあなたのしもべです。」ダビデは言った。「畏れることはない。私はあなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵み(ヘブル語でへセド)を施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。彼は礼をして言った。「いったい。このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」(Ⅱサムエル記9:6~8) 

 まさにダビデがメフィボシェテに施した恵みこそ、神がイエス・キリストの身代わりの犠牲のゆえに、私たちに注がれたものなのです。それは、新しい契約における神の恵みです。ちなみに旧約聖書の七十人訳ギリシャ語聖書では、「へセド」が、恵み「カリス」と訳されています。「へセド」は契約に基づく神の愛、神の恵みを意味する重要な言葉です。 

「パウロの経験」 

最後にパウロの経験を通して、神の恵みについて考えたいと思います。パウロはクリスチャンを迫害し、投獄するという大罪を神に対して犯していました。そのような返済不可能な罪の負債を負った自分のようなものを、神は恵みによって赦されたという感謝が、パウロの働きの原動力でした。彼は、晩年、次のように語っています。 

“私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ち溢れました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。”(Ⅰテモテ1:14~15) 

罪人のかしらであったパウロにとって救われる道は、ただイエスの十字架の贖いという神の恵みによるものでした。 

  「恵みの時代」 

聖書は、イエス・キリストが来られて現代までの時代を「恵みの時代」と言っています。私たちは特別の恵みの時代に生きているのです。 

“神はいわれます。「恵みの時に、私はあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。”(Ⅱコリント書6:2) 

 


第二十四回 時(time,καίρόσ,カイロス)

聖書では時を表すギリシャ語として καίρόσ,(カイロス)とχρόνυϛ(クロノス)があります。クロノスが、過去、現在、未来という機械的に継続して流れる時間を意味するのに対し、カイロスは好機、チャンス、特別な時、ないし神が定められた救いの時を意味します。カイロスは新約聖書で85回用いられています。カイロスの複数形はカイロイです。またクロノスが計量可能な物理的時間を意味するのに対し、カイロスは、クロノスの流れを断ち切る瞬間的で質的な時間を意味します。この他に、日、月、季節などを意味するώρα(ホーラー)があります。聖書の中で大事なのは、神の時、神の特別の計画の実現の時というカイロスの方です。それは救済史的な意味で、神の決定的な救いが行われる時を指します。例えばイエスは「時(カイロス)が満ち、神の国は近づいた」(マタイ1:15)と言われました。
更に、イエス・キリストの十字架の時がカイロスとして表現されています。例えばイエスは、「私の時(カイロス)はまだ来ていません」(ヨハネの福音書7:6) と語られました。逆にマタイ26:18では、「私の時(カイロス)は近づいた」とあります。更にパウロは、「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時(カイロス)に不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」(ローマ人の手紙5:6)と述べています。イエスの十字架と復活は、神が定められた救い、罪の赦しの実現の特別な時なのです。
またカイロスは、将来の終わりの日を指す場合にも用いられています。それは、神の定められた時だからです。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時(カイロス)に現わされるように用意されている救いをいただくのです。」(Ⅰペテロ1:5) ここではキリストの再臨の時が、カイロスとして表現されています。この意味での典型的な聖句としては、「キリストの現れを、定められた時(カイロス)にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一も主権者、王の王、主の主、—–この方に誉と永遠の支配がありますように。」(1テモテ6:15)があります。
またカイロスは、現在においても用いられています。現在は、救済史的に見れば、特別の定められた期間です。つまり、聖書では、キリストの初臨と再臨の期間は、「恵みの時」として表現されています。「恵みの時」というのは、「主の日」、つまり神の裁きの時が切迫しているからです。福音宣教は、「恵みの時」に行われる必要があります。「主の日」は、神の言葉を探しても見いだすことのできない「みことばの飢饉」の時だからです。(アモス書8:11)
「神は言われます。恵みの時(カイロス)に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助ける。見よ、今は恵みの時(カイロス)、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
「機会(カイロス)を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:16)
以上、私たちは、新約聖書におけるカイロスの重要な意味について考えてきました。神の救いの計画の実現の瞬間を意味するカイロスの重要性を知り、イエス・キリストの十字架の贖いという過去のカイロスに感謝し、イエス・キリストの再臨という将来のカイロスを待ち望むものとなりましょう。そして現在のカイロスである「恵の時」に福音を熱心に宣べ伝える者となりましょう。


 

第二十五回 幸いな(blessed , μακαρίοϛ,マカリオス)

普通私たちが幸福を意味する英語はhappiness を用い、幸いなという形容詞はhappyを用います。しかしhappyと関連する動詞happen はたまたま~するという偶然性を意味しています。したがってhappy はたまたま状況に応じて幸いであるだけで、困難な状況に置かれるとunhappyになるという偶然性が強いものです。
しかし聖書が示している幸福とは、一時的ではなく、永遠の幸福です。「幸い」という言葉が最も用いられているのが、山上の垂訓でのイエスの言葉で、七福と呼ばれているものです。その一つを紹介します。

「山上の垂訓」

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイの福音書5:3)。
 これは、自分が心の貧しいものであることを知っている者は幸いですという意味ですが、ここではhappy という言葉は用いておらず、blessed (祝福されている)が用いられています。ギリシャ語では、μακάρίοί(マカリオイ)です。他、山上の垂訓でマカリオイは、「悲しむ者は幸いです」(4節)、「柔和な者は幸いです」(5節)、「義に飢え渇く者は幸いです」(6節)、「あわれみ深い者は幸いです。(7節)、「心のきよい者は幸いです」(8節)、「平和をつくる者は幸いです。」(9節)、「義のために迫害されている者は幸いです」(10節)で用いられています。この文脈での「幸い」は、人間の心の状態というよりは、神によって喜ばれ、神によって祝福されるという、神との関係を意味しています。ー

「罪赦されている」

パウロは、ダビデの詩篇の言葉を引用し、幸いな人とは、神の前に義とされ、罪赦されている人と」、次のように言っています。
 「同じようにダビデも、行いに関わりなく、神が義とお認めになる人の幸い(blessedness,μακαρίσμόν)を、次のように言っています。『幸いなことよ。(blessed,μακάρίοί(不法を赦され、罪をおおわれた人たち、幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。』(ローマ書4:6~8)
パウロは、ここで詩篇32篇1~2節のダビデのことばを引用しています。

「主を待ち望むこと」

また聖書は主を待ち望むことが「幸い」であると述べています。
「祝福に満ちた(blessed,μακαρίαν)望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを(appearing,έπίφάνείαν)を待ち望むように教えています。」(テトスへの手紙2:13)
 なおこの「現れ」(έπίφάνείαν、エピファネイアン)は、テトス書以外に2テモテ4:1と4;8に用いられています。それは「来臨」(パル―シヤ)と同様に、主が再び来られることを意味しています。

  

第二十六回 聖霊(holy spirit, Άγιο Πνεύμα 、 ‘ο Παρακλητος、 )

「聖霊についてのギリシャ語の言葉」
新約聖書では、聖霊を示すものとして「御霊」(プネウマ(πνεύμα)、「聖霊」(プネウマ・ハギオン、πνεύμα άγίον)そして「助け主(パラクレートス、παράκλητος)です。「御霊」は、霊に定冠詞をつけて神の霊を表示します。つまり τό πνεύμα、英語ではthe spiritです。霊「プネウマ」自体は、人間の霊もあるので、定冠詞をつけて区別する必要があります。
「新約聖書ギリシャ語辞典」では、「原則として御霊が一個のPerson として、またはDivine Person として言及される時には冠詞をつけ、御霊の作用や影響力や賜物に言及する時には、冠詞をつけない。」と説明されています。それに対して、霊に聖なるという形容詞がつくと「聖霊」と訳されています。基本的に「御霊」と「聖霊」は同一です。また聖霊が「助け主(パラクレートス)として表示されている箇所も存在します。イエスは、「私はあなたがあのために助け主を遣わします。」(ヨハネ16:7)と語られ、続けて「真理の御霊」ないし「御霊」と言い換えています。(ヨハネ16:13,14)なおこの言葉は、新約聖書で、ヨハネの福音書14:16、26、15:26、16:7〜8、1ヨハネの手紙2:11と5回だけ用いられています。「助け主」のギリシャ語パラクレートスのパラは、脇に、またかたわれらにを意味し、クレートスは、呼び出された者を意味します。弁護人、執り成す者、慰め主という意味です。つまり聖霊は、クリスチャンを助け、執り成し、慰め、助けたりする存在です。パラクレートスの動詞は、パラカレオ―(παρακαλω)で側に呼び出すという意味です。

「聖霊は、三位一体の神」

聖霊は、私たちの「助け主」とありますが、この言葉は正しく理解する必要があります。つまり創世記にあるようにエバがアダムの「助け手」(helper)(創世記2;20)であると同じ意味で「助け手」ではなく、「助け主」、つまり三位一体の神です。聖霊は、「永遠」、「全知」、「全能」、「聖さ」、「愛」といった神の属性をすべて持っておられます。聖霊は、三位一体の神の第三位格です。聖書には、「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」(マタイ28;19)とありますし、また「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたすべてとともにありますように」(Ⅱコリント13:13)と三つのものが一体のものとして記されています。なお「三位一体」(trinity)という言葉自体は聖書にはありません。

「聖霊は人格」

聖霊は単なる超自然的な力や影響力ではなく、人格です。人間は、物や自然的法則などとは交わりを持つことはできませんが、聖霊が人格であることより、交わりをもつことができます。それでは人格とは何でしょうか、人格には知・情・意志の特徴があり、理性的な認識を持ち、感情を持ち、また意志を持って行動する主体です。聖書には、「御霊は、すべてのことを、神の深みさえも探られる方です。(Ⅰコリント2:10)とありますし、人間の心の中をすべて知っておられる方です。また聖霊には感情があるので、パウロは無慈悲、憤り、怒り、ののしりをする人に対して、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30)と警告しています。。また聖霊は意志をもって人間を導かれる方ですので、「御霊は弱い私たちを 助けて下さいます。」(ローマ8:26)と記されてあります。また聖霊は、「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」(黙示録2:7)とあるように、私たちに語られ、交わりを持ちたいと願っておられます。以上、私たちは、聖霊が私たちにとっていかに身近な存在であるかを知ることができます。
それでは、具体的に聖霊の働きについて、信じる以前、信じた時、信じた後の信仰生活の三つにわけて考えていきます。

「聖霊の働き」

A 信じる以前
(1) 聖霊は、わたしたち人間に罪や裁きの現実を知らせます。聖霊の働きがなければ、人は自分の罪を自覚することはありません。イエスは。「その方【助け主】が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを認めさせます」(ヨハネ16;8)と語られました。罪や裁きを示されて、人は悔い改めに導かれます。
(2) 聖霊は、イエス・キリストの十字架の贖いの価値をさし示します。
B イエス・キリストを信じた時に
(1) 聖霊はイエスを信じた人に「新しい生まれ変わり」(新生)をもたらします。イエスはニコデモに「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と語られました。
(2) イエスを救い主として受け入れた信者は、聖霊の証印を押され、聖霊が内住します。エペソ書には、「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を信じて、それを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(エペソ1:13)と記されています。またローマ人への手紙においては、「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊の内にいるのです。キリストの御霊を持っていない人があれば、その人はキリストのものではありません。」(ローマ書8:9)と記されています。聖霊の証印が押されていることは、、神の子供であることの証拠です。
(3) 聖霊は信者が、神の子であることを証します。ローマ書では、「聖霊御自身が私たちの霊とともに、私たちが神の子供であることを証しして下さいます。」(ローマ書8:16)と記されています。
C. クリスチャンの信仰生活や教会の歩みについて
(1) 聖霊は、神の愛を感じるように信者を導きます。
“この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”(ローマ書5:5)神の愛を日々深く知ることによって、クリスチャンは信仰的に成熟し、キリストと一つに結びつけられていきます。
(2)聖霊は霊的真理を明らかにし、神の言葉を理解する力を与えます。
(3)聖霊は、信者を日々新しくします。 “私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿に変えられていきます。これはまさに、御霊の働きによるのです。” (Ⅱコリント3:18)高齢化社会において、パウロのように「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Ⅱコリンtト4:16)と言える人は御霊によって生きている人々です。
(4)聖霊は、クリスチャンの生活、教会の礼拝や奉仕において神の子を導きます。 “神の御霊に導かれる人はみな、神の子供です。((ローマ8:14)
(5)聖霊はクリスチャンが証をする力を与えます。 “私たちの福音は、ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたのです。” (テサロニケ1:5)
(6) 聖霊はクリスチャンのとりなしをします。 “同じように御霊も弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身がことばにならない呻きをもって、とりなしてくださるのです。”(ローマ8;26)

Ⅲ 聖霊について気をつけること

(1) 聖霊は、「助け主」であるが神です。ですから、エバがアダムの助け主として造られたと同じ意味において、聖霊は助け手ではありません。私たちが神である聖霊の導きに従うべきであって、聖霊が人間に従うのではありません。聖書は御霊によって歩むこと、導かれること、前進することを命じています。
(2) 「御霊は私の栄光を現わされます」(ヨハネ16:14)と語られたイエスのことばに、聖霊とイエスの関係が明らかにされています。。この関係が見失われると、イエスより聖霊が重んじられることとなります。(ローマ8;26)また礼拝の対象は、神とイエス・キリストであり、聖霊ではありません。したがって、礼拝の対象としてクリスチャンは神様、イエス様と言いますが、聖霊様とはいわないのです。
(3) 同時に聖霊の働きはみことばと矛盾したり、それから逸脱するものではありません。みことばと矛盾するような聖霊の働きは、聖霊の導きとはいえないものです。
(4) クリスチャンにとって聖霊はすでに内住しているので、もっと信仰的に元気になるために、外からから聖霊を再度受けることを追い求める必要はありません。聖霊は、内側から働かれるのです。異言を語ることや癒されことを聖霊を受けていることの証拠とすることは間違 いで、信仰生活を破壊します。そのような考えに基づいていたずらに異言やいやしを追い求めれば、個人 の健全な信仰生活も教会の秩序も脅かされることになります。聖書が完成している今日、異言は廃れたと考える方が健全です。 


第27回 良心(Conscience、συνειδησις,シュネイデーシス)

「良心の定義」

シュネイデーシスは、新約聖書で30回使用され、特にパウロの書簡に20回使用されています。この言葉は、シュン(共に)とイデイン(知る、見る)を組み合わせたものなので、共に知る、共に見る者を意味します。英語で良心は、conscienceと言いますが、やはりcon(共に)+science(知る)の組み合わせです。共に自分の傍にあって、自分の思いや行動を自分と共に見つめ、それを知っているのが良心です。人が悪い思いを抱き、悪い行動する時に、「それで本当にいいのか」とささやく良心の声があります。そこで良心の葛藤が生じてきます。
「新約聖書ギリシャ語小辞典」において、シュネイデーシスは、「善悪を見分ける生得的能力、自分の行ったことを心の中で無言のうちに証し続ける意識」と説明されています。
例えば、ローマ人への手紙2章15節には、ユダヤ人には律法が与えられているが、異邦人には「良心」が与えられているとして、「彼ら「異邦人)は律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明しあったりするのです。」とあります。良心は、「神が人に与えた番人(watchman)なのです。ただこの良心は麻痺したり、鈍化することもあります。テモテ第1の手紙では、「良心が麻痺した、偽りを語るものたちの偽善」(Ⅰテモテ4:2)と記されてあります。またパウロは「邪悪な良心」(ヘブル書10:22)に対して「健全な良心」(1テモテ1;5、1ペテロ3:21)を強調しています。

「生得の良心と聖霊に導かれた良心」

「生得の良心」は麻痺しやすいものですが、聖霊に導かれた良心は鋭く、神への奉仕へ導くものです。ヘブル書9:14には、「キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私達の良心を清めて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」とあります。したがって、単に「生得の良心」のみならず、聖霊によって聖別され、敏感にされた良心こそ、聖書の示す良心の働きであると言えます。「生得の良心」は逸脱したり、鈍感になったり、善を悪と取り違えたり、間違いやすいものです。パウロは、ローマ人の手紙9:1~2節で、「私の良心も、聖霊によって私に対して証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と同胞ユダヤ人に対する救霊の思いを告白しています。これは、聖霊によって導かれ、強められた良心です。パウロが使っている「良心」は、ローマ書2:15節に異邦人について語られる「生得の良心」を除けば、ほとんどの場合聖霊によって聖められ、強められた良心です。ある聖書注解者は、「良心は、神への義務に関して人間のこころにおける聖霊の証しである」と説明しています。一言で言えば、聖書における良心は、信仰の良心であり、神との交わりから生まれてくるのものです。


28回 聖徒(saints,ἁγίοί,ハギオイ)

「聖徒のあやまった理解」

聖書のなかで「聖徒」という言葉が出てくると、クリスチャンの中でも特別の聖なる存在と考える間違った理解があります。例えばカトリック教会で言われる「聖人」とは、「生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人」で、殉教もその中に含まれます。「聖人」の認定は、本人の死後厳密な手続きを経て行われ、聖ペテロ大聖堂で「列聖式」が行われます。例えば日本との関係ではフランシスコ・ザビエルや殉教した26聖人などが「聖人」として認定されています。「聖徒」をカトリックの言う「聖人」というイメージで理解すると、聖書の真意を理解することができません。ある高名な聖書注解者は、「聖徒という言葉ほど新約聖書の中で間違って理解されているものはない。辞書でさえも、聖徒を「生活の清さ」が公に認められた者」と定義しているほどである。」と書いています。

「聖なるの意味」

「聖徒」の聖なるという形容詞は、ギリシャ語で「ハギオス」と言いますが、これはこの世から分離されていることを意味します。聖書では、神が「聖なる」(ハギオス)と呼ばれています。例えば「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全農者。昔おられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示録4:8)に「ハギオス」が用いられています。ここでは「聖なる」は、罪や地上の腐敗から隔絶、分離されていることを意味します。
同時に、「聖徒」(ハギオイ)とは、キリストによって罪赦され、この地上の罪と死の支配から分離・解放されてキリストの支配に移されたものという意味で、すべてのクリスチャンを意味します。それは立場を示すものであり、どれだけ清められた生活をしているかという状態とは関係がありません。「聖徒」はパウロの手紙の中では42回も使用され、例えば「ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ」(ローマ書1;7),「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」(Ⅰコリント1:2)、「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを立て上げるためです。」(エペソ書4:12)などがそうです。「聖徒」、つまり「分離された者」はクリスチャンの立場を明瞭にしめす言葉なのです。それは、行いや業績によって得られるものではなく、ただ恵みによって得られるものです。なお分離という意味での聖なるという形容詞がつく事例は「聖徒」以外に「聖霊」、「聖所」などがあります。

「ハギオスとカサロス、聖いと清いの相違」

分離されていることを意味する「ハギオス」とは異なり、「清い」という心の状態を意味するギリシャ語としては、「カサロス」(καθαρόϛ)が用いられています。最も有名な言葉としては、例えば「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイ5:8、4:8)があります。更に、テモテの手紙では、「清い心」(Ⅰテモテ1:5,Ⅱテモテ2:22)、「清い良心」(1テモテ3:9、Ⅱテモテ1:3)の「清い」にカサロスが用いられています。

第29回 忍耐(perseverance,ὑπομονή,ヒュポモネー)

 前回取り上げた「聖徒」と同様に、意味内容を理解するのが難しいのが「忍耐」です。日本では朝のドラマで1983〜1984年におしん」が放映され、大人気になりましたが、そこでは忍耐とはどんな困難の中にあっても自力で耐え忍ぶことが奨励されました。私も小さいころ、祖母から「へこたれてはいけない」と何度も注意された経験があります。忍耐という漢字も、「忍んで耐える」と書きますので、そういうイメージを自然とかもしだすのです。しかし聖書が言っている。「忍耐」(ヒュポモネー)はそれとは全くことなります。

「忍耐(ヒュポモネー)に用いられ方」

忍耐は名詞として新約聖書で30回、動詞の忍耐する(ὑυπομένειν,ヒュポメネイン)は、15回用いられています。ここでは、「忍耐」を信仰と希望という言葉との関係でその意味内容を明らかにしたいと思います。
 第一は、忍耐は、「苦難」ないし「試練」 における信仰との関係で用いられています。例えば、パウロは、「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」(ローマ書5:3~4)と語り、コリントの兄弟姉妹に対して「あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています」。(Ⅱコリント1:4)と勧めています。忍耐とは、苦難に耐えることであることは間違いがありませんが、それは神の導きと支えに対する信頼があって初めて可能になるもので、ただひたすら耐え忍ぶこととは異なります。忍耐は信仰なくしては難しいのです。Ⅱコリント1:4節には「忍耐と信仰」とありました。ヤコブ書には、「信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。」(ヤコブ1:2~3)とあり、信仰と忍耐が不可分のものとして理解されています。忍耐とは、信仰の忍耐ともいうべきもので、主のみわざと介入を待ち望むものです。

第二に「忍耐」は希望と関係して用いられています。先行き不透明な状況でただ辛抱することとは異なります。すでに述べたローマ書(5;3~4)では、苦難→忍耐→練られた品性→希望という関係があり、忍耐は希望を生み出すものです。パウロは、ローマ書15:4で「それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。」と書き記しています。しかし同時に苦難に耐える力は、キリストに対する信仰や望みによって生み出されます。パウロは、「私たちの父である神の御前に、あなた方の信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐(ヒュポモネー)を たえず思い起こしているからです。」(1テサロニケ1:3)と記しています。

バークレーという聖書注解者は、「忍耐」について以下のように述べています。
「座って頭を垂れ、ことがふりかかるままにし、嵐が過ぎ去るまで受動的に耐えるのが忍耐ではない。—単に耐え忍ぶことではない。ただあきらめるのではなく、燃えるような希望を持って物事に耐える心、一か所にじっと耐える心である。終わりを待つ不屈の忍耐ではなく、夜明けを待つ輝く希望の忍耐である。—-苦痛の彼方に目標を見るがゆえに、最も激しい試練をも栄光へと変える徳である。」

 

第30回 交わり(fellowship,κοινωνία、コイノニア)

コイノニアというギリシャ語は、新約聖書で19回使用されており、ヨハネ第一の手紙で4回、パウロの手紙で13回、その他2回用いられています。この語は三つの文脈で使われています。

神とキリストとの垂直的な交わり

第一の文脈は、神とキリストとの垂直的な交わりです。例えば、「私たちの交わり(コイノニア)とは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」(第一ヨハネ1:3)とあります。この交わりとは、信者とイエス・キリストとの人格的な交わりです。それは、特別に親しい一体性を示しています。一コリント1:9節においては、「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わり(コイノニア)に入れられたのです。」とあります。
またキリストを信じ、従い、キリストの苦難を自分のものとして歩むとき、そこにキリストとの「交わり」があると言われています。例えば、「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にも与って(コイノニア)、キリストの死と同じ状態になり—–」(ピリピ3;10)とあります。パウロはピリピのクリスチャンに、「キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむこと」(ピりピ1;29)を勧めています。
更には、パンと杯に与る聖餐式(パン裂き集会)が象徴的にキリストとの交わりとみなされています。例えば、「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかる(コイノニア)ことではありませんか、私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかる(コイノニア)ことではありませんか。」(Ⅰコリント10:16)とあります。

クリスチャン同士の交わり

第二の文脈においては、このキリストとの垂直的な交わりが横におけるクリスチャン同士の交わりに発展します。初代教会のクリスチャンは、「いつも使徒たちの教えを守り、交わり(コイノニア)を持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒の働き2:42)と記されています。ここでの 「交わり」とは、互いに分かち合うことであり、現代の言葉で言えば「共存」ではなく、「共有」です。
この文脈の中で、「聖霊の交わり」という言葉が出てきます。これは聖霊の臨在や導きによる交わりであり、信者の交わりは、聖霊の働きによって可能となります。例えばパウロは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがらすべてとともにありますように。」(Ⅱコリント13:13)と祈っています。「聖霊の交わり」とは「聖霊による交わり」です。聖霊の働きによりクリスチャンは互いに交わりを持ち、一つとされていきます。例えば、パウロは、「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」(ピりピ2:1,2)と勧めています。交わりの極致は、聖霊の働きによって、心と思いが一つとされ、キリストを賛美・礼拝することにあります。

コイノニアは物質的な共有

第三に、コイノニアは物質的な共有を意味します。パウロは、エルサレムの貧しい聖徒のために、ピリピや他集会から集めた献金を送ることについて「交わり」という言葉を用いています。例えば、「マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの貧しい人たちのために、喜んで「援助」をすることにしたのです。」(ローマ書25:26、新改訳2017)とありますが「援助」にコイノニアというギリシャ語が使われています。困っている人々に手を差し伸べることは、「交わり」の行為であり、困難や苦しみを共にすることです。またパウロは、「聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかる」(第2コリント8;4)と書いていますが、この「あずかる」と訳されたギリシャ語がコイノニアです。

パートナーシップ

第四に「交わり」にはパートナーシップという意味がありますが、聖書はクリスチャンがパートナーとするにふさわしくない相手について記しています。特に結婚や会社の共同経営という密接な関係にある場合がそうです。例えば、「不信者と、つりあわないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関係があるでしょう。光と闇に何の交わり(コイノニア)があるでしょう。キリストベリアルに何の調和があるでしょう、信者と不信者が何を共有しているでしょう、」(第2コリント6;14~15)とあり、不信者と交わりをもつべきではないことが記されてあります。ここでの交わりとは、単に会話をしたり、一緒に行動することではなく、くびきをともにし、一体となることを意味しています。
以上コイノニアの意味を四つに限定して考えました。この言葉に様々な意味が込められていることがわかります。是非、神とキリストとの「交わり」(コイノニア)を求めてください。キリストはあなたとの「交わり」求めておられます。 












 



  


 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

「研究・講演日程,刊行書籍、献本書籍」




2025年

【1】研究・講演日程

4/22(土)P.M.14:00~17:00  政治思想読書会(WEB)の合評会
 古賀敬太著『近代日本プロテスタント史の政治思想ー内村鑑三、植村正久、海老名弾正の足跡』(風行社、2024年)

評者 出原政雄氏(同志社大学名誉教授)、樋口騰迪氏(大阪大学教授)

6/22 (土) P.M.14:00~ 17:00

「内村鑑三セミナー」
講演タイトル「内村鑑三王の再臨論と大正デモクラシー」
場所:立教大学池袋キャンパス 

 6/27(金)   P.M.15:10~16:40
  「同社大学法学部の『政治思想の源流』の招待授業
講演タイトル「旧約聖書の政治思想」

場所:同志社大学今出川キャンパス良心館

8/13(水) P.M.14:00~15:00  
研究発表:「C・シュミットの民主主義論」

主催:同志社大学人文研第6研究会(民主主義研究会)

場所;同志社大学琵琶湖リトリートセンター

10/13(月) P.M.13:00~16:30
講演タイトル 「キリスト者と戦争ー内村鑑三と矢内原忠雄の戦争観と行動」
第一回 「内村鑑三の戦争観と行動」
第二回「矢内原忠雄の戦争観と行動」
主催:布施キリスト集会
場所:東大阪文化創造館(近鉄電車奈良線、八戸の里駅下車5分)


11/22(土)P.M.14:00~16:00

講演「戦前と戦後における矢内原忠雄の天皇制論」

            ー天皇制論と民主主義の相克ー
場所;今井館 聖書講堂
主催:無教会研修所(JR山手線駒込駅南口より徒歩11分)

後 援:今井館教友会


【3】献本書籍


7月
Ⅰ 田中将人『平等とは何かー運、格差、能力主義を問い直す』(中公新書、2025年3月)
”富や権力の偏り、少数支配を超えられるか、ロールズ、サンデル、ピケティらの熱き議論をたどり、現状打破の道筋を示す。”(本の帯より)

Ⅱハンナ・アーレント『人間の条件』(千葉眞訳、筑摩書房、2025年)
”「私たちが実際に行っていること」は何か。労働(labour)、仕事(work)、」活動(action)という三つの行為様式によって人間の条件を考察した著者の代表作”(本の帯より」)


9月 

 Ⅰ 鉢野正樹「カントの本源的契約の社会理論と国家理論への展開」(『金沢法学』,第66巻第1号、2023,7)

”カントの本源的契約=結合契約によって社会が構成され、そこから国家の統治が行われる。著者は、カントの『道徳形而上学原論』に基づいて、国家のよって立つ三つの原理として人間としての自由、国民としての平等、市民としての独立を挙げている。

 Ⅱ 牧野雅彦『平和の再建ー安達峰一郎と戦間期日本外交』(東京大学出版会、2025年8月)
  ”世界の良心と称賛されたアジア人初のPCU所長を務めた安達峰一郎を中心に、戦間期日本外交の光と影を描き出す。”
(本の帯より)
Ⅲ 千葉眞様より
 『思想ー資本主義と民主主義』(2025年9月号NO1217)
 この中に千葉眞「民主主義の危機とその再生への隘路」所収

Ⅳ 松本彩花『独裁と喝采ーカール・シュミット民主主義論の成立』(慶応義塾大学出版会、2025年9月)

”20世紀最大の論争的政治思想家カール・シュミットの民主主義論を精緻に検討する。彼の主権論、同質性、「人民の意志」概念などを分析し、現代の民主主義理解に与える示唆と限界を探る注目の書。”
(本の帯より)

Ⅴ 寺島俊穂様より

 長谷川テル研究会編『長谷川テル著作集ー中国で帆船活動したエスぺランティスト』(三和書籍、2025年9月)

”テルが憎んだのは戦争そのものだった。反戦平和のために戦ったテルの原動力とは?著作とともに振り返る。”(本の帯より)”長谷川テルの作品群は単価、小説、論説、散文詩、評論、翻訳など多分野にわたり、執筆時期では一九三一~三七年の日本時代と一九三七~四五年の中国時代に分かれる。










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