自分固有の人生を断行する。
先日開催されたお話会に参加してくれたカップルから「知り合いが北新地で小料理屋をやっているからご一緒しませんか」とご連絡をいただいた。奥様が「主催者の人が坂爪さんのことをボロクソに言っていますよ」と教えてくださり、文面を見せてくれようとしたが断った。嫌われる人からはしっかり嫌われるのが流儀である。アンチの人々はウジのように湧き出すが、彼らは私のことが大好きだから逐一記事をチェックして「今日の◯◯がキモい!!」と報告をしてくる。嫌い嫌いと言いながら、欠かさず記事をチェックしている。どんだけ好きなのだ俺を。俺はお前をもう見ない。
私と揉める人にはモテてきた形跡がない。異性から優しくされた形跡がないから、全体的に卑屈で「何かをしてもらって当たり前」と思っていて、してもらえなかったことに対する呪詛を吐き続ける。モテてこなかった人たちが振り撒く害はやばい。最初は熱烈な好意を向けてくるが、都合が悪くなると呪う。好意の向け方が恩着せがましく、頼んでもいないことを勝手にやって「こんなにやってあげたのに」と怒り出す。不満と脂肪を溜め込み、醜く太るか惨めに痩せる。自分のことで精一杯で、他人の話を聞けない。努力次第でいくらでも可愛くなれる要素はあるのだが、現実を受け入れる余裕がないために、すべてが呪詛になる。
破壊衝動を手懐けて輝く。奥様は「長年ムカついていた相手に喧嘩をふっかけたが無視された」と言った。喧嘩をしたい。だが、喧嘩にならない。そんなあなたは挑発のスキルを磨こう。私には五歳年上の姉がいる。幼少期から姉による英才教育を受けた私は「挑発はするものであって乗るものではない」と叩き込まれた。中途半端な挑発ではあなたはあなたの世界を生きているのねでスルーされる。相手の血を湧かせて肉を踊らせるためには、深く突き刺す必要がある。キリストも「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである」と言っている。真剣と真剣による抱き合い心中。人間関係とは、本来、命のやり取りなのである。
途中から小料理屋の女将さんも会話に加わった。さすが小料理屋の女将である。凄まじい色気の持ち主であった。色気とは悪の希釈であり、毒の薫香である。悪のない人間はつまらない。毒のない人間は薬にもならない。女将は言った。私も七割くらいはありのままに生きているつもりですが、残りの三割は発酵していますよと。そうなのだ。残りの三割が色気になるのであって、全部を出したら色気も何もない。ありのまま生きる教の信者たちは、ありのまま生きるが故に、色気がない。悪がないから、悪だらけになる。毒がないから、毒だらけになる。綺麗なことしか言えない人は、綺麗ではない。綺麗なままでいたいと思う人は、綺麗ではない。綺麗事ばかりの、偽善者になる。
悪人になる勇気のない者は、善人にもなれない。世俗的な幸福や世俗的な成功に惑わされて、自分固有の人生を断行することができない。他人の目線を伺って、正解を求めて彷徨うゾンビになる。何にもならなくていい。未完でもいい。中途挫折でもいい。犬死にしても野垂れ死にしてもいい。自分の生き方を誰かに決めてもらわない。誰かに聞かない。誰かに求めない。誰かに期待しない。自分固有の人生を断行する。そう思えばこそ、縦横無尽に大暴れをすることができる。キリストも「私は、火を投げ込むために来たのだ」と言っている。ハートの奥底で燻り続ける炎を「ちゃんとしなくちゃ」などと言った小利口さんワードで鎮火してはならない。小さくまとまるな。大きく燃えろ。退屈を焼き払え。生命燃焼こそが人生だ。
おおまかな予定
10月2日(木)大阪府大阪市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


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