なるほど、現代国語の記号選択問題で、「作中人物の気持ちを選べ」といった問題の扱い方は確かに難しい(論説文でもそういう要素はもちろんあるが、小説やそれにまつわる問題はなおのこと「なぜこれではダメなのか」とおいう疑問が生じやすい)。動画の中で説明されているように、話の流れ(文脈)的にはウになる。というのも、「父親=大人が「馬鹿」という漢字を知らないという状況は極めて想定しづらい」という一種の共通前提(常識・予測)が成り立つからだ。よって、「もし仮にそのような前提が成立しえない展開であるなら、読者を納得させるためにそういう伏線を張っているはずで、そのような記述がないわけだから、『普通に』読んでいいはずだ」となるわけだが、その常識や予測さえ、(その時代の)識字率などにも左右されるわけで、別に自明ではないのだから。
とはいえ、こういう話をしだすとキリがないし、そんな風にしてあれもOKこれもOKとしてたら、読解という観点で言えば単に「自分がこう読んだんだからこれで正しいはず」なんて妄想自己中人間を量産するだけなので、「どれも正解です!」としない教え方自体は正しいと言える(まあその辺の議論が様々あるから、「実用的文章の読解」なるものが大学入試の共通テストでまで出題される=高校でやることを実質的に強制するようになっているんだろうけど)。
言ってしまえば、「正解か不正解か」という二項対立的な問いにするから、100%の正解か100%の誤りかという話になって先のような問題が生じる訳だが、要は「どれが最も確からしいか」という蓋然性の話をしているだけだよ、とすればいいのではないか(ちなみに言っておくなら、このように物事を蓋然性を軸にグラデーションで理解するというのは、人文科学であれ自然科学であれ通用する、極めて重要な世界認識の方法である)。そしてやや刺激の強い事例にはなるが、話を聞かずに飛躍・激昂するクレーマーやネットのコミュニケーションの事例を反面教師として並置し、「こういう風にならないために、文章の流れから可能性の高い相手の主張や心情を推論する練習は必要なんですよ」と明確に生徒たちに示した方がよいのではないだろうか?
いやそもそも、なぜ現代日本語の文章を学校で読解し、テストに答えなければならないのか、生徒はそれすら理解していないのではないか?少なくとも小学生や中学生の頃の私はそうだった。つまり、やれと言われたからそうするというような、いわば自動機械のような心持ちであったと言えよう。そしてもしそうでなければ、果たして5年生頃に意味も提示されず教えられた副詞と連体詞の違いなど、無意味に感じ過ぎて発狂していたんではないかと思うwまあ全ての教育内容に意味づけをするなんて、膨大な時間がかかるし土台無理な話ではあるので程度問題だが(ちなみに以前『算数文章題が解けない子どもたち』を紹介したが、そこで問題になっているのは計算力というよりむしろ、読解力・情報処理能力に絡む認知キャパシティであった。そしてこれがある以上、本を読む習慣がある生徒、またはそういう子を生み出しやすい読書環境が整っている家が、相対的に良い成績を取りやすい環境と相関するという話にもなる)。
とまあ一応の解決策を提案した上で、今回取り上げられた事例に関連して自分が想起したのは、『自閉症の子は津軽弁を話さない』という本の紹介で触れた文章の解釈におけるASDの方の特徴だった。元の記事から引用すると以下の通り。
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ここで述べたのは、「問題に解答する」という視点で見た場合、それを判断する材料が文中に与えられていると考えるのが妥当で(解なし・別解ありは想定から除外)、すると「今も付き合っているか」に対する答えとしてより蓋然性が高いのは②という返答になる。まあ要はそういうメタ視点の元で解答するのが賢明だという話なわけだが、ここでもやはり「文章を読む上での情報処理とは別のお約束」が関わってくる点は見逃せない(なお、メタ視点の件も常に良き効果をもたらす訳ではなく、動画で触れられている「話し合った結果、紋切り型の当たり障りのない良い事」しか発表で出てこないという指摘は、単に前提知識の不足だけでなく、学校のオフィシャルな発表なのだから良識的なことを言わ「ねばらない」とメタ視点で空気を読んでいることも想定されるからだ)。
これは狭い範囲で言えば、「国語の問題で解答者が相対するのは作者ではなく、作問者である」というテーゼになるわけだが(ゆえに「作者はそんなこんなことを考えていない」という齟齬も起こる)、より一般化すると、語用論の基盤を作ったグライスの述べた「会話の公準」や「協調の原理」(有意なコミュニケーションを成立させるためにお互いが協力し合うことを前提とする)、そしてそれを前提とするがゆえに成立する含意(言外の意味)と読み取りなどにもつながるだろう。
例えば「今何時ですか?」という問いに対し、仮に「13時24分50秒」と答えたら、恐らく相手はたじろぐだろう。文法としては言うまでもなく、「時刻を答える」という点では必ずしも間違っていないが、問いのフレームの曖昧さに対して、あまりに詳細すぎる答えだからだ。これは外国においての会話で「今どこに住んでいますか?」との問いに「日本です」と返答するのは成立する場合も多いだろうが(まあ住んでいますかならどちらかと言えば地名の方が自然な気もするが)、逆に日本での会話で「今どこに住んでいますか?」という問いに「日本です」と答えたら、やはり文法的には何ら誤りはないが、しかし明らかに的を外したような反応をされることは必至だろう。コミュニケーションというものは、このように幾重にも渡る領域と前提の上で、あたかも氷山の一角のようにして成り立つ、非常に高度な作法なのである(日本語のハイコンテクストな空気読み文化に慣れていると、ついそういったことを失念しがちだが)。
とここまで書いてくると、「何を当たり前のことを小難しく書いとんねん」と突っ込みが入りそうだが、その感覚は正しいと同時に間違っている。「正しい」というのは、できる人にとっては(ほぼ)意識せず自然にできていることであるし、逆に意識し過ぎると逆にぎこちなくなってしまう類のものであるからだ(こう考えてみると、価値観が多様化して共通前提の領域が縮小していく社会では、コミュニケーションや読解の難易度が上がり、先に触れたASDの方のような解釈のスタンスが自然に増えることが想定される。あるいは想像をたくましくするならば、現代日本において発達障害と診断される人が増えているのは、診断基準の明確化や受診など社会的認知の進展によるものと考えられる一方、価値観の多様化に伴う不可避的な現象の一つではないか、とも思えてしまうところである。しかしこれは、複数の国を比較対照して同じ傾向が観察されることが確認されない限り、ただの無責任な印象論に過ぎないのでは、ここでは単なる印象論のレベルにとどめておきたい)。
ではなぜ「間違っている」のかと言うと、自分がわざわざ指摘するまでもないほど、急速に社会の価値観の多様化・複雑化が進み、共通前提もまた急速に消失していっているからである。これは人・物・金が急速に移動する現代社会(グローバル化・情報化社会)ではある意味当然のことであって、北朝鮮やトルクメニスタンのようなよほどの強権的体制にでもならない限り、押しとどめるのは不可能な趨勢である(その意味で「江戸時代への回帰」みたいな発想は愚昧の極みなわけだが)。これは何か大きな話をしているように思われるかもしれないが、例えば
のような動画を取り上げても良い。何が言いたいのかと言うと、例えば1980年代や1990年代であれば、(特に地方では)触れられるテレビ番組やゲーム、音楽などのコンテンツもごくごく限られていて、それは一種の抑圧機能を持った一方で、共通の世界観としてライドしやすかった。しかし、2010年代や2020年代で、果たしてこのような共通前提がどれほど多く、そして広く共有されているかを考えてみるといいだろう。つまり触れられるコンテンツの幅が爆発的に広がったがゆえに、その消費傾向も消費スピードも大きく変わり、もはやかつてのような共通前提とそれをテコにしたコミュニケーションの成立は難しくなっていることが理解されるだろう(ちなみにこのような分断化がコミュニケーションコストを上げ、それがAIの「進化」とも相まって対人コミュニケーションからの退却を促し、さらにコミュニケーションスキルが低下する人間が増えていく=人間の「劣化」が起こる、というのが縷々述べていることだ)。
話を戻そう。
よって、これからさらに価値観の多様化・複雑化が進んで社会の分断も進んでいくわけだが、その状況を踏まえた時に、冒頭の国語の解答で述べられたような「一般的に考えて~はありえないでしょ」という発想法・教授法がどこまで通じるかが常に問い直されることになるだろう。それはすなわち、「文章を論理的に読むってどういうこと?」というテーマであったり、「この文章から読み取れることから答えを出すとするなら、どういう視点で答えを選んでいけばいい?」などなど、鑑賞以前のレベルの話をわかりやすく浸透させていくことがスタートラインになるのではないか(自然に生活していれば、そもそも活字を読む機会がどんどん減るような環境にいる点も考慮する必要がある)?
あるいは、古典教育の授業において、原文講読よりも周辺情報の理解が圧倒的に優先度が高い(そうでなければそもそも何のために勉強しているかも興味を沸かせることもおよそ困難)というのは繰り返し主張している通りだが、かかる状況を踏まえると、現代国語の読解においてすら、周辺情報を念入りに教えた上で、その文章に取り組ませることを徹底すべきなのかもしれない(もちろん、その上で生徒の反応が十人十色になるのは想定の範囲内である)。
このような段階まで話が到った時に、具体的な事例の一つとして、改めて「ごんぎつねが読めない小学生」について考えることになるだろう。すなわち、「それは本当に読解力(だけ)の問題なのか」と。少なくとも、作者が想定したような状況と違う読みをそれなりに多くの生徒がした(グループ発表を行った)ということは、それなりの過程があったはずである。どのような根拠で、そういう行動だと解釈したのか?それを紐解いていく上で、私たちが自明と思う行動や行事を彼・彼女らは同じように感得していたのか・いなかったのか、あるいは作中人物の感情からそのような行動は不自然だというフィルターがかかったのか・かからなかったのか、そういった点が明らかになるはずである(念のため付け加えておくが、これは生徒の解釈を全肯定せよという話では全くない)。
卑しくも教育である以上、「なぜ今回の教材は目的としたような反応が得られなかったのか」を考える(そして次に活かす)べきであって、間違っても「この文章をこんな風に誤読するなんて終わってるなw」と上から目線で嘲笑することではないだろう、という話である(これも付け加えておくが、分量を調整した宿題を期日までにやらなかった等の怠惰にまつわる話なら別だ。しかし、今回のごんぎつねに対する生徒理解はそういう類のものではないだろう)。
今回は現代国語の読解問題の正解を設定することの難しさ、という動画から話を始めてみたが、価値観が多様化・複雑化して共通前提が通じにくくなっている社会においては、国語の教授法についても、根本的にその見直す必要があるのではないか、と述べつつこの稿を終えたい。