谷口功一『立法者・性・文明 境界の法哲学』(白水社)【今月の一冊】

2023年10月28日12時00分

性同一性障害特例法の原点、そして現状への違和感

『立法者・性・文明 境界の法哲学』(白水社)

『立法者・性・文明 境界の法哲学』(白水社)

 ゾンビにショッピング・モール、そしてなによりスナック。そうしたトピックで著者になじんできた読者からすれば、本書『立法者・性・文明』は少し意外な構成に感じるかもしれない。ゾンビ論にもつながっていく「文明」パートはともかくも、「立法者」そして「性」とはいったいどういうことなのか。(河野有理・法政大学法学部教授)

 だが、本書を読み進めた読者は、このうち中央に位置する「性」こそが著者の学問をその初発において規定したいわば原点であることを徐々に理解していくことになる。とりわけ性同一性障害特例法の立法運動に(おそらく相当に深く)関わった経験のドキュメントとして読める第五章は、紛れもなく本書のコアであろう。

 特例法の制定、それは言うまでもなくマイノリティーの権利獲得運動であり、歴史的には(本書の言い回しを借りるなら)公民権運動以来の「今日に至るまで長く延びる権利獲得運動の隊列」(166ページ)に連なることを意味する。これまた周知のごとく、同法は先日の最高裁判決を受けて再び世論の注目を浴び、今後も、「トランスジェンダー問題」の一焦点として激しい攻防戦が同法を最前線として戦われることになるだろう。

 今回の判決をめぐる構図に明らかなように、保守派はもとより、上記「問題」にさおさす側にも同法に不満を持つ者は多い。だが、そうした側にとっても、特例法の存在をスタートラインとして議論を戦わせること自体がある種の僥倖(ぎょうこう)であることは、認めざるを得ないはずである。第五章で示唆されているように、特例法の制定は決して既定路線などではなかった。そして同性婚が今なおまさにそうであるように、性別違和を持つ当事者の戸籍変更要求を門前払いし続ける日本社会の(あったかもしれない)20年を想像することはさしたる難事ではない。そうした想像を反実仮想にしたのは、分厚い壁に穴をうがつがごとき当事者の努力と、著者を含む運動側のクレバーな戦略(政治的資源の有効な投入先の選択)、そしてマキャベリのいわゆるfortunaと思わず形容したくなるような、ある種の「偶然」の賜物(たまもの)であった。

 しかし、この運動経験は(意外なことに)著者にとって苦い余韻を残すものとなった。運動経験に並行してあるいはそれを反すうしながら書かれた第四章は、フェミニズムのさまざまな潮流についてリベラリズムを合わせ鏡にしながら、その意義と難点を検討している。現代でも通用する見事な整理(そのこと自体からもこの20年間はフェミニズムにとって理論よりも実践・実装の季節であったことが痛感される)の背後に、詩的言語を駆使しながら社会の「意味秩序」を一挙に変革しようとするフェミニズムの一部潮流への強い違和感が透けて見えることを見逃すべきではないだろう。理念をうたうことに急なあまり、現実に可能なもののうちの最善を選択するという姿勢を、むしろ不純な妥協や裏切りとして糾弾するという心理の力学が種々の「運動」をむしばんでいくことは珍しくない。想像をたくましくすれば、著者の運動経験の余韻を苦いものにしたのは、上記のような思想潮流とそれがはらむ心理の力学との遭遇だったのではないか。

 かくして運動経験の余韻は、哲学者である著者によって、社会の抽象的な意味秩序の一挙改変を目指す変革者ではなく、現実を実際に規定する法・制度の漸進的改革を志向するアクターとしての「立法者」をめぐる法哲学的関心へと結実していくことになる。社会には実にさまざまな議論や要望が存在する。しかし、それらのうちで、権威を帯びた拘束力のある決定として選択されるものは必ず公共性の狭い回路(議会)を通らねばならない。それこそがわれわれの生きるデモクラシーの鉄則である。そして公共性の狭い回路を通過するにはさまざまなお作法にのっとらなければならないと同時に、選好や信念、時には世界観さえ異なる他党派の人間を説得し、同意を取り付けなくてはならない。本書の第一章・第二章もまた、かつて特例法という形で「公共性の狭い回路」を通過した「立法者」としての著者を、「哲学者」としての著者が解説するというある意味まことに奇特なドキュメントとして読むことが可能なのである。

 かつて著者がゾンビ本を翻訳した時、評者はそれが現代の先進諸国に共通の移民問題に届く射程を持っていることになんとも不明なことに気づかなかった。スナックについても、それが人口縮減社会における共同性の問題や、コロナ禍における移動の制限と営業の自由の制限というホットトピックとじかに結び付く問題だと察することはできなかった。著者の言を額面通りに信じるなら、著者自身においても当初はそうであったようである。ここから分かるのは、著者における「問題」を感知する嗅覚の鋭さ、ある種の「引き」の強さであろう。本書の中心である「性」も同様である。20年の時を経て、かつて著者が掘り進み、照らし出した穴をいま私たちは改めて前にしている。著者の20年前の採掘作業が、明らかに「芯を食って」いたことに驚きながら。
(2023年10月28日掲載)
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