アンケートSS「レクイエムはもう、聞こえない」
レクイエムが、まだ耳の奥底で響いている気がする。
あの日、あの青空の下で――大切な人のために弾いた、最後の曲。
時間は確実に進んでいるはずなのに……まるで螺旋のように、同じ場所をぐるぐると……。
僕たちは、日々の生活を繰り返している。
「おはよう、トルタ」
二階の寝室からリビングに降りると、パンの焼ける香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
「おはよう、クリス」
朝食の用意がちょうど終わったところだったみたいで、トルタはパンの籠と料理の載った皿を机に運びながら、続けて尋ねた。
「今日は、音楽教室の日だっけ?」
「うん。授業は午後からだけど、色々準備があるから、十時には教室に行く予定」
「お昼は戻ってくる? それとも、届ける?」
「戻ってこようかな」
「じゃ、お昼ご飯を用意して待ってるね」
彼女の葬儀から……短いのか、長いのか、それすら意識できないくらいの時間が経ってから、僕たちは結婚した。
子どもの頃、トルタと共に通った音楽教室の恩師が高齢を理由に引退したのを機に、彼の教室を引き継いだ。職場の近くに借りた、古びた古民家で二人暮らしを始められたのは、週に数回の講師の仕事以外にも、ピオーヴァ音楽学院時代の伝手があったからだった。貴族の子弟への個人レッスンや細々とした作曲、編曲などの仕事をもらい、周りに助けられながらも、なんとか生活が回るようになった。
「それじゃ、いってきます。トルタ」
朝食を終え、授業で使う楽譜の整理など家で出来る作業をしていると、すぐに教室へ向かう時間になった。
「はい、いってらっしゃい」
すでに昼食の準備に取りかかっているのか、トルタは振り返ってオーブンの前で軽く手を振る。肩にかかった髪が、ふわりと弾んだ。料理をするとき、トルタは髪を結ばない。それは、彼女を強く思い出させたけど、言及したことは、まだ一度もない。
もう一度、小さな声でいってきます、と呟くと、玄関のドアを開けた。青く澄み渡った空を見上げ、春の訪れを予感させるような生温い空気を思い切り吸い込む。
それが、僕たちの日常だった。
夕方になり、音楽教室での仕事を終えて家に戻ると、トルタはまだ帰っていないみたいだった。
かつてアリエッタが通っていたパン屋で、トルタは今働いている。学院に通う間も、故郷に戻る度に手伝っていたため、仕事にもすぐに慣れ、今ではいくつかの種類のパンを焼くのを任されているらしい。
朝の仕込みの代わりに、夜遅くまで働くこともあって、今日はその日のようだった。
テーブルの上に置かれたメモには、夕食の献立と、僕でも出来る簡単な調理の仕込み方法が書かれていた。材料を切り分け、オーブンのプレートに乗せれば、後は焼くだけ。そこまで仕込んで、ほっと一息吐く。思えば、パンも焼ける大きなオーブンがあることが、この古民家を借りる大きな理由の一つだった。年季の入った鉄の扉には、長い時間をかけて刻まれた傷と汚れがあり、なぜだか僕は、そこに暖かみを感じていた。
そんなお気に入りのオーブンから離れ、リビングの椅子に腰を下ろす。ひんやりとした革の感触が腰を包む。がらんとしたリビングは、春の陽気とは裏腹に、肌寒くもあった。
二人で暮らすには、少しだけ広い家。
僕とトルタの、帰るべき場所。
置き時計が奏でる歯車の音が、空虚に響く。
僕は……。
僕たちは、ここから一歩も動けずにいた。
***
ある日曜日の夜。
急遽入った貴族の生徒の個人レッスンのために、少し遠出した。家に帰る頃には日も落ち、トルタもすでに家に戻っている時間だった。玄関脇の郵便受けの蓋が開いていて、それを直そうと近づくと、一通の封筒が中に入っているのが見えた。
何気なく手に取り、差出人を確認しようとする手が止まる。
息が詰まり、心臓が早鐘のように高鳴った。
懐かしさと、幸福感と――罪悪感。
見慣れたその封筒は……ピオーヴァでの三年間の記憶を、まざまざと思い出させる。アルに……アリエッタに託された、あの封筒だった。
その場から一歩も動けず、表に書かれた文字を読むこともできず、僕は立ちすくんでいた。
ドアが開き、トルタが顔を出す。
「あ、やっぱり帰ってた。どうしたの? 家に入らないの?」
そう言ったトルタの顔がこわばった。僕の手にある封筒に視線が向いている。
「……それ」
「……うん」
真実は、なんてことのない、ただの偶然だった。
安価でありふれた、どこにでも売っている市販のレターセットに過ぎない。
送り主は、学院時代の師、コーデル先生。内容はピオーヴァの講師にならないか、という誘いだった。学生時代はずいぶんとお世話になったし、今でもこうして一生徒の心配までしてくれる。尊敬すべき師で、その気持ちは嬉しくもあったけど。
「断るの?」
「うん。もうここで生徒も出来たし、彼らにとって、僕は先生だからね」
といっても、音楽教室の生徒はまだ二人だけ。個人レッスンも、コンサートや試験直前の最後の調整に呼ばれるくらいだ。
「そっか、そうだよね。コーデル先生なら、きっとそっちのほうが喜んでくれると思う」
トルタの言う通り、先生なら、きっとそう言うだろう。
夕食の後、断りとお礼を兼ねた手紙をしたため、封蝋で閉じる。
それは、変わらない日常に、わずかに訪れた変化だった。
気づくと、あの三年の日々に、記憶が囚われていた。
あの時とは違って雲一つない夜空だったけど、僕は自分でもよく分からないまま窓の外を眺めていた。
アルからの手紙。
フォーニとの、週に一度のアンサンブル。
学院で過ごした時間。
雨。
真っ赤な郵便ポスト。
嘘。
「……クリス?」
気づくと、僕の頬は濡れていた。
隣に寄り添うトルタが、顎を伝って落ちそうになった涙を、白くて細い指で拭う。
「ああ……ごめん。少し、思い出してた」
フォーニのことは、トルタに話したことはない。トルタなら、話せば信じてもらえるような気もしていたけど、そうはしなかった。あれは……あの一時は、夢のようなもので、きっと僕の心の中だけで完結している、思い出だった。
「……手紙のこと?」
「うん。それだけじゃないけど」
「……聞いても良い?」
「そうだね……良いけど、その前に、アンサンブルしよっか」
不安そうな表情を浮かべていたトルタが、目を見開いて驚く。
学院を卒業してから、トルタは一度も、歌っていない。そのことについて、僕たちは一度も話し合わなかった。
そうするべきだとか、そうしたいとか……感情的な理由でそうなったわけじゃなく。
ただ、自然と……そうなった。
「日曜日の夜にね……よく、フォルテールを弾いてたんだ」
――音の妖精とアンサンブルしてたんだ。
「どうかな?」
「……日曜日の夜に? クリスが? ほんとに?」
「ほんと」
「……嘘っぽいけど、信じてあげる」
「ありがと。それじゃ、フォルテールを用意するね」
「ずいぶん歌ってないけど……私、歌えるかな」
「大丈夫。誰も聞いてないから」
「あ、ひどい! クリスだって、先生になったからって、学院時代ほど真面目にフォルテール弾いてないでしょ?」
トルタは頬を膨らませながら、それでも軽く発声練習を始めた。
この辺りは民家もまばらだったし、隣の家までの距離も遠い。この家も、古いとはいえ造りはしっかりしていて壁も厚いから、音がもれることを気にする必要はない。
僕は、手早く組み立てたフォルテールの前に立ち、鍵盤に指を乗せる。
耳の奥ではまだあの日のレクイエムが鳴り響いていたけど……それをかき消すように、新たに浮かんできたのは、トルタと卒業演奏でアンサンブルした、あの曲だった。
最初の一音を弾くと、トルタの顔に、安堵とも、悲しみともつかない表情が浮かぶ。
僕は、そんなトルタの横顔を、美しいと思い、同時に、愛おしいと思った。
次の日の朝、僕は二通の手紙をポストに投函し、日々の生活に戻る。
週に一度のアンサンブルと、週に一度の手紙のやりとりが、僕たちの日常に加わった。
***
二人の生活に終わりが訪れたのは、それから一年が経った頃だった。
僕はそれを、彼女からの手紙で知った。
クリス。
あなたに伝えなければいけないことがあります。
こんなに大事なことを、手紙で伝えるのを許してね。
彼女からの手紙は、そんな風に始まった。
その手紙は、いつもよりもずっと長く、まとまりがなかった。
僕とトルタの出会いから――つまり、隣の家に生まれて、一緒に育った、生まれてから今までの、全ての出来事。
音楽教室に通い始めた頃の話。
アルが一緒には通わなくなったこと。
三人で食べた、パンの美味しさ。
僕は知らなかった、アルのこと。
学院での生活。
彼女がついた、いくつかの優しい嘘。
僕の――僕たちの、人生のすべて。
そして最後に、これからのこと。
彼女のお腹に宿った、新しい命のこと。
慌てて顔を上げると、手紙を読みふける僕の横で、トルタが微笑んでいた。
「ねえ、クリス……どう、思う?」
僕は無言で、彼女を抱きしめる。言葉が必要ないと思ったわけじゃない。身体中から溢れてしまいそうな感情を表す言葉が、どこにも見つからなかったから。
「……トルタ」
「なに?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
くすっと笑いながら、彼女は付け加えた
「でも、何に対してのありがとうなの?」
「ぜんぶ」
「ん?」
「今までの、ぜんぶ……僕の人生と、君の人生の……すべてに」
「……クリスにしては、すいぶんロマンチックな言い方」
「……そうかな?」
「そうだよ」
もう一度、優しく抱きしめて、それから僕は彼女に口づけをした。
***
人生で最も長い手紙をもらってからの半年は、驚くべき速さで過ぎていく。
お互いの両親から送られてくる、新しい家具や、子ども用品。友人……といっても、僕には一人しかいないけど、彼からの祝いの花と言葉。トルタの友人も、時々顔を出しては、なにやら楽しそうに話し込んでいた。
日に日に大きくなるお腹と、それ以上に美しくなっていくトルタの顔を見るのは、幸せというほかない。
季節が巡って、再び迎えた春の、ある日曜日のことだった。
その日は、僕の唯一の友人が、なんの前触れもなく顔を出した、珍しい一日だった。
「よう。久しぶりだな、クリス」
「久しぶり、アーシノ」
数年の空白を感じさせない、何気ないやりとり。
ドアを開けて、彼の顔を見た瞬間、まるで学生に戻ったかのような錯覚に陥った。
結婚式は、お互いの家族だけの小さな式を挙げただけで、学院を卒業してから、彼に会うのは初めてだった。
「年季は入ってるが、いい家だな」
「ああ、気に入ってるよ」
アーシノをリビングに通し、紅茶を淹れる。母やトルタに教ってからずいぶんと時間も経ち、手慣れたものだ。
「いただくよ」
優雅な所作で紅茶を一口飲み、アーシノは笑った。
「お前がついに、父親か。手紙が来た時には、ずいぶんと驚いたものだ」
どこか皮肉っぽさを残しつつも、心からの笑顔が懐かしい。
「僕も驚いてるよ」
「いや、お前に手紙を書くなんて気の使い方が出来るってことにだよ」
「そう? 学院に通ってた時は、毎週のように書いてたけどね」
「は? お前が? 誰に?」
どう答えれば良いのか、少し迷う質問だった。あの手紙は、アリエッタに向けたものだった。でも……。
「っと……それはいい。トルティニタは?」
アーシノは、全てを察したのか、唐突に話題を変える。
「今は病院。ああ、どこか悪いわけじゃなくて、ただの定期検診だから安心して」
「そうか。残念だが……そのほうが、らしいな」
「らしい?」
「お祝いの言葉だけ、伝えてくれればそれでいい」
「それは伝えるけど……アーシノとトルタって、結構仲が良かったように見えたんだけど、違った?」
「違うな。どこをどう見ればそうなるんだか。まあ、あえて悪いとも言わないが」
アーシノがあの時の僕やトルタの事情をある程度知っていたことは、トルタからの手紙で聞いている。
二人が秘密を共有する仲だったのは確かで、少し妬ける気もするけど……そう言った僕に、トルタが心の底から嫌そうな顔をしたのは、今となっては笑い話だった。
「ところで今日は、近くまで来る用事でもあったの?」
「いや、本当にお前に会いに来ただけだよ」
「驚いた」
アーシノは僕の、唯一の友人――少しうぬぼれても構わないのなら、親友と言っても良い。でも、休日に進んで会いに来るような関係ではなかったし、そういう意味では、普通の親友というのとも少し違った。
「いくつか、聞きたいことがあってな」
「僕に?」
「ああ。コーデル先生から、ピオーヴァに来ないかって手紙、来ただろ?」
「来てたね。残念だけど、断らせてもらったよ」
「音楽教室……だったか?」
「うん。まだ生徒の数は少ないけど、それなりにやっていけてるよ」
「クリスが教師とはな……なんとなく想像はつくが……まあ、似合っちゃいるか」
「褒め言葉として受け取っておくよ。ということは、コーデル先生に会ったの?」
「ああ、最近、ピオーヴァに戻ってきたんだ。その辺の話、誰かから聞いたか?」
「いや、全然。しばらく、街を離れてたってことだけ」
「詳しくは……やめておこう。先生に、こってりと絞られたからな」
それ以上は聞かれても答えない、という姿勢を見せるアーシノに、さっきの礼の代わりとばかりに、話を逸らす。
「そういうアーシノこそ、先生から誘われてないの?」
「残念ながら、俺にはその資格がない」
「ということは、誘われてはいるんだ」
「音楽は趣味の範疇に留めておくよ」
「詩は?」
「……そっちも、だな」
「でも、止めないんだね? それなら良かった」
「お前……やっぱり教師に向いてるよ」
「そう? 言われたのは初めてだと思うけど」
「言う必要がなかったんだろ。って、なんでこんな話をしてるんだ、俺たちは」
「聞かれたからね。それで? 他にも質問があるんでしょ」
アーシノは、すっかり冷え切った紅茶を一口啜り、ただの軽口のように、さりげなく続けた。
「父親になるって、どうなんだ?」
「どうって……」
「ああ、真面目に答えなくていい。お前の顔を見て、なんとなく察するよ」
「アーシノには、どう見えた?」
「幸せそうに見える」
「うん、幸せだよ」
「ならいい。答えとしては充分だ。さて……と」
アーシノは椅子から立ち上がり、にやりと笑った。
「トルティニタが戻ってくる前に、退散するとするかな」
「あと一時間もすれば戻ってくると思うけど……」
「いや、これでいい」
アーシノの顔に、いつもと違う笑みが浮かんだ。そうすると、彼の目尻にかすかに皺が寄る。学院にいたころと変わっていないように見えたけど、僕たちもそれなりには、年を取っていくものらしい。
「僕からも質問していい?」
「どうぞ」
「ひょっとして、アーシノにも良い人が出来た?」
「そりゃ、わかるよな……少々複雑だが、そう考えている人はいる」
「そっか、おめでとう」
「……ありがとう、クリス」
アーシノは晴れやかな顔で一礼すると、あっさりと帰っていった。
***
「アーシノが来たの?」
「うん。トルティニタによろしくってさ」
「そうなんだ」
病院から帰ってきたトルタは、肩掛けの鞄を机の上に置くと、ゆっくりとした動きで椅子に腰を下ろした。
「トルタに会いたがってたよ」
「嘘ね」
「……嘘だけど、普通、ちょっとは信じない? あれから結構時間も経ってるんだし。アーシノも、大人になってたよ」
「それはそうなんだろうけどね。会わないほうが、私とアーシノらしいし」
トルタの答えに、思わず笑いがこぼれた。
「アーシノも同じこと言ってたよ。気が合うね」
呆れたような、嫌がるようなトルタに、再び笑う。
「あ、そういえばアーシノも、近々結婚するかもしれないって」
「えっ!? 嘘!?」
「これはほんと」
「私たちの知ってる人?」
「それは聞かなかった。ファルさんかとも思ったけど、それならそういうはずだし」
「ふーん……そう、アーシノがね……」
よほど感慨深かったのか、しばらく唸っていたトルタだったけど、アーシノの話はこれくらいにして、話を本題に戻す。
「それで、検査の結果はどうだった?」
「順調だって」
トルタはお腹を優しい手つきで撫でながら、お腹の子に話しかけるようにそう言った。
「男の子かな? ……それとも、女の子かな? クリスはどっちだと思う?」
生まれてみるまでは分からないことだけど、想像したことはある。
男の子だったら、今は広すぎるこの家が、狭く感じられるくらいに元気な子になりそうな気もする。
女の子だったら――
「どっちだとしても、僕は嬉しいな。ただ、元気に生まれてくれれば、それで」
「想像するのが楽しいのに」
そう言って、再びお腹を手で撫でる。
僕は彼女の後ろに立って、背中から二人を抱きしめた。首元に顔を埋めると、後ろでくくった彼女の髪が、優しく頬をくすぐる。
「名前はどうしよう? 男の子だったら?」
「気が早いね。男の子だったら、フォルテなんてどう?」
「大きくなりそう」
「それは、いいね」
「……じゃあ、女の子だったら?」
ある、一つの名前が思い浮かんだけど、僕はその名前を、口にはしなかった。
トルタもきっと、同じ名前を思い浮かべていたはずだったけど……。
でも、その名前は、つけないだろう。
もう一度彼女の首に顔を沈め、その香りを胸一杯に吸い込む。
そういえば、最近トルタが髪を下ろさなくなったな……と、ふと思った。
***
それから約二ヶ月後。
家族が増えた我が家は、嵐のような時間を過ごしていた。
生まれたのは女の子で、名前は、クレッシェンテ。
音楽用語で、だんだん大きく。
三日月のように、少しずつ大きくなるように。
成長する、あるいは増えていく――という意味と、願いを込めて。
初めて僕からその名前を聞いたトルタは、少し不満そうだった。
僕たちが失ってしまったものを、ぴったりと埋めてくれるはずのその名前は、ふさわしくないと、僕は思う。
「かわいい子」
「この子」
「私たちの子」
トルタはクレッシェンテを、多くの場合、そう呼んだ。
我が子に触れる手は、聖母のように慈愛に満ち、微笑みかける顔と声には、愛が満ちていた。
再び時は流れ、クレッシェンテは一歳になった。
クレッシェンテは、よく笑い、よく動く子だった。
ベビーベッドから抜けだし、絨毯を敷きつめた床を、驚くほどの速さで動き回る。
僕がだっこすると、たいていは大泣きして、シャツの首元を涎と涙でぐちゃぐちゃにしてくれた。
見かねたトルタが僕から取り上げると、クレッシェンテはとたんに、言葉にならない声で笑うのだった。
そんな、僕たちの新たな日常の中の、ある日曜日の夜のこと。
僕とトルタの、毎週欠かすことなく続けてきた、アンサンブルの時間。
機嫌が良いのか、おとなしく僕にだっこされたままのクレッシェンテが、目の前に置かれたフォルテールに手を伸ばす。
危ないからと手を止める間もなく、彼女の小さな手が、鍵盤を押した。
その瞬間、プアァ――という、気の抜けた音が、部屋に響きわたる。
「え? 今の……」
楽譜を片手に、後ろに立っていたトルタが、僕たちの顔を覗き込む。
クレッシェンテはよほど楽しかったのか、続けて鍵盤を、両手でばんばんと叩く度に、フォルテールからは楽しげな音色が飛び出す。
「この子は……天才かもしれない」
思わず、率直な感想が口をついた。この子には、紛れもなくフォルテールの才能がある。
ゆくゆくは、世界に名前を響かせる大音楽家か。あるいは……パン屋さんでも、花屋さんでも構わない。
成長した彼女が自分の意思で選ぶのなら、どんな道だろうとも、僕たちは応援するだけだ。
「だ……う?」
クレッシェンテが振り返って僕の顔を見つめる。
それはまるで、早くアンサンブルを聴かせてくれ、と言わんばかりに。
「トルタ、アンサンブルを、始めようか」
「……うん」
トルタは、僕の腕からクレッシェンテを受け取ると、涙で濡れた顔を押しつけるように、彼女の柔らかなお腹に埋めた。
「クレッシェンテ……クレス……」
そうして、クレッシェンテの名前を、何度も、何度も呼び続けた。
「くぇ……しゅ?」
最初の言葉は、パパかマンマが良かったな、なんてぼんやり思いながらも、自然と視界が涙でぼやける。
トルタは、クレッシェンテの名前をひとしきり呼んだ後、彼女をベビーベッドまで連れていって、寝かせようとした。元気いっぱいの僕たちの子は、柵に手をかけて立ち上がり、ゆっさゆっさとベッドを盛大に揺らす。
「この子は、音楽が好きなのかな。なら、聴かせてあげなくちゃね」
「……うん。聴いててね、クレッシェンテ」
今、この瞬間に演奏する曲は、心の中で決まっていた。
僕とトルタを結びつけてくれた曲。
卒業演奏で、彼女が歌った、あの歌を。
耳の奥で鳴り続けていたレクイエムは、もう聞こえなくなっていた。
魂を鎮めるその歌は、亡くなった人のためだけではなく、残された人のためのものでもある。
愛する人を失った痛みと悲しみを。
ぽっかりと開いてしまった穴を。
癒やすための歌。
そして、もう一つ。
僕たちに必要だったもの。
そのための時間は、今、終わった。
(おわり)
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