アンケートSS「ある恋の終わり」
「それじゃあ、最後に。みんな、音楽は好き?」
クリス先生は、私たちの自己紹介が終わった後、そう尋ねた。
正直に言うと、音楽にそれほど興味があるわけじゃなかった。長い間お休みしていた音楽教室が再開したのをきっかけに、幼馴染みのドナートが見学だけでもしようって誘ってくれたから、一緒についてきただけ。歌うことは嫌いじゃないけど、みんなの前で歌うのは恥ずかしい。とくに、歌がうまいってみんなから言われてる、彼の前では。
「どうかな? ドナートくん」
隣で、大好きです、と胸を張って答える彼の横顔を見ながら、私はぼんやりと、嘘でも好きって言ったほうがいいのかな? なんて考えていた。
「ミーナさんはどう?」
突然名前を呼ばれて、とっさに出た言葉は――
「あ、えっと……わかんない」
いくら私が子どもだっていっても、ずいぶんと失礼なことを言ってしまったのはわかる。でも先生は、大人の人が私たちによくするような、穏やかで優しい笑顔で言った。
「そっか。それなら、まずは音楽を好きになることから始めよう」
なんとなく、私は先生のその言葉が気に入った。
その時、ふわりとパンの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
お腹がクゥ、と鳴ってしまって、隣に座る幼馴染みの男の子に聞かれてしまってはいないかと、それだけが心配だった。
***
数年前。この町唯一の音楽教室と、その先生といえば、大きな身体と、白くてたっぷりとしたお髭のおじいちゃんだった。
授業は厳しいけど、ずっと前には貴族のお抱えの音楽教師だったっていうくらい、実はすごい人だったらしい。なんでも、あのピオーヴァ音楽学院に通うことになった生徒を二人も育てたとかなんとかで、その頃町では一番の噂になった。そのすぐ後に先生は身体を壊してしまって、それからずっとお休みになってしまった。
そして今。
先生の教え子で、ピオーヴァに通っていたという若い男の先生が戻ってきてしばらくすると、教室を引き継いで新たに生徒を募集することになったのだった。
私は幼馴染みのドナートと一緒にその音楽教室に通うことになって、これが最初の授業。
「本当は一人一人の実力に合わせて違う授業にしたほうがいいんだろうけど……先生は一人しかいないし、まだみんなが何ができるかも先生は知らないから、今日は好きな歌を歌うことにしようかな」
先生はそう言うと、かの有名なフォルテールを組み立て始める。
なんでも、フォルテールは魔力のない人にはぜったいに演奏できないという、不思議な楽器らしい。弾ければ音楽家としての道は約束されているといってもいいほどで、誰もが羨む才能なんだという。
この国で一番有名な音楽の学校、ピオーヴァ音楽学院に通っていたこととか。魔導奏器フォルテールを弾ける才能があることとか。今目の前で、のほほんとした雰囲気で楽器を組み立てている、若い男の先生が、そんな凄い人にはぜんぜん見えない。
私は椅子に座りなおしながら、改めて教室を見渡す。
壁はきちんと防音ができる(と、ドナートが教えてくれた)ふわふわした謎の素材で覆われていたけど、大きめな窓がいくつもあるおかげで、教室全体はすごく明るかった。窓のガラスは二重になっていて、音はほとんどもれないんだそうだ。それに、周りは畑ばっかりで、少し離れた場所にパン屋さんがあるだけだったから、うるさくしても怒る人はいないだろう。
教室の前のほうは、一段高くなっていて、大きなグランドピアノが一台置いてある。クリス先生は、その横にフォルテールの台を組み立て終わって、今は鍵盤を押しながら、小さな音を出して何かを確かめているところだった。
教室の後ろ、一段下の私たちがいる場所には、数脚の椅子が並べられている。
私とドナート、そして子どものための音楽教室にしては、ちょっと大人すぎるお姉さんの三人が、その椅子に座っていた。
長い髪を後ろでまとめたそのお姉さんは、私が見ていることに気付くと、にっこりと笑って話しかけてくれた。
「初めての授業って、緊張しちゃうよね」
「う、うん。ちょっとだけど」
「ミーナちゃん、だったかな? 今おいくつなの?」
「今年で十歳……お姉さんは?」
「私は二十歳になったところかな」
やっぱり、という感じで、お姉さんは思っていたよりもずっと年上だった。
ちょうど、私の倍。
「お姉さんも、初めての授業? やっぱり緊張しますか?」
「ううん。私は、もう少し長いかな。クリスの……えっとクリス先生の音楽教室が始まってから、初めての生徒だから」
「そうなの? でも、まだ再開してから一ヶ月も経ってないよ? 私とドナートが初めての生徒だって聞いてたけど」
私たちの会話を横で聞いていたのか、ドナートが会話に入ってくる。
「俺、知ってます。先生の奥さんですよね? 名前は……えっと」
「アリエッタ。そう、私、先生の奥さんなの。それで、音楽教室の最初の生徒さん」
アリエッタさんは、そう言ってふわりと笑った。
なんていうか、すごく幸せそうな顔だった。
でも……先生の奥さんで、最初の生徒だっていうことは……。
最初にアリエッタさんが聞いてきた時にはほとんど感じていなかったのに、急に緊張してくるのを感じる。
ドナートの家は、お母さんが昔歌手を目指していたとかで、彼の家の前を通ると、夕食のチーズの焼ける良い匂いと共に、いつも陽気な歌声が聞こえてきていた。そんなお母さんと一緒に歌っていた彼の歌は、町で一番だと噂されている。
そして、あのピオーヴァに通っていたクリス先生の奥さんで、この音楽教室の最初の生徒となれば……。
私の歌が、この中で一番下手なのはしょうがない。ドナートはそんなことで笑うような男の子じゃないことは知っていたけど、それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。
私の緊張がピークに達したのとほぼ同時に、クリス先生の準備が終わり、こちらに振り返った。
「さて、それじゃあ始めよう。ひとりずつ、好きな曲を教えてくれるかな」
ドナートは、たぶんお母さんから教えてもらったんだろう、オペラの有名な曲を。
私はそんな立派な曲は知らなかったから、少し俯きながら、少し前に、隣町に住んでる従姉妹が鼻歌で歌ってた、流行の歌の名前を言った。
アリエッタさんが、少し悩んでから出した答えは、誰でも知ってる有名な童謡だった。
「うん、楽譜は全部ありそうだね」
先生は、年季の入った棚からいくつかの楽譜を抜き出し、私たちに渡した。
「ただ、ミーナさんの曲の楽譜は一冊しかないから、申し訳ないけど、三人で一緒に見てね」
「はい!」
と元気よく答えるドナート。
私は、好きな曲だと言ったものの、実はよく知らない曲だったし、いきなり歌える自信もない。
「あ、あの……」
「はい、ミーナさん。どうしました?」
「好きな曲って言われたけど、実は歌ったことなくて……」
「大丈夫。アル……アリエッタさんも初めての曲だから、最初は練習してからにするよ」
「あ、ありがとうございます」
「童謡は、みんな歌えるかな? 発声練習もかねて、最初はそれに。ミーナさんの曲は、少し練習してから。ドナートくんの曲は……ちょっと難しめだから、お手本としてドナートくんに歌ってもらうことにしよう」
そう言って、先生はフォルテールの前に座った。
先生が鍵盤に指を乗せ、最初の和音が教室に流れると、空気が変わったような気がした。
どこがどう変わったのか、私にはうまく言えそうになかったけど、思わず背筋がぴんと伸びてしまうような、綺麗で、澄んだ音色だった。
歌詞は、完全に覚えている。小さな頃から何度となく歌ってきた、お遊戯のような歌だったはずなのに、この時は、まるで別の歌のように聞こえた。
自然と、口から声が発せられる。
先生のフォルテールの音色に乗せて、ただの言葉だと思っていた歌詞が、風景を伴って目の前に広がるようだった。
歌の題材となっている、プリムラの花の、色や、匂い。満開の花畑の中で、寝転がって見上げた、空の高さ。
気が付くと歌は終わっていて、私は感動していた。
フォルテールってすごい。
ドナートはきらきらした目で先生を見つめていたけど、私も同じだったかもしれない。
ふと振り返って、アリエッタさんのほうを見ると、彼女の瞳には、それ以上の、もっと深い感情が浮かんでいるように、私には思えた。
なんとなく、本当になんとなくだけど……アリエッタさんは、恋をしているんだと、そう思った。
結婚している人にそんな感想をもつなんて、どうかしてると自分でも思ったけど、そこはそれ。
女の勘というやつで、私は確信した。
「うん、いいね。じゃあ、次はもっと大きな声で歌ってみよう。お腹から声を出す、なんてよく言われるけど、今は難しいことは抜きにして、とにかく大きな声をだす。それだけ意識してみようか」
再び、先生が鍵盤に指を落とす。
さっきよりも、もっと鮮明にフォルテールの音が聞こえるような気がする。
そして、隣で歌うドナートの声も――
いや、ちょっと待って。
幼馴染みの、声変わりもしていない高くて澄んだ声よりも、反対側から聞こえてくる、不思議な音色に惑わされる。
さっきは自分の声にかきけされてしまっていて聞こえなかった、アリエッタさんの歌声は……。
「は~な~の~~~いろ~~~~」
控えめに言って、変。
音は微妙にずれていて、それなのにリズムは正確で、まるで歌が上手な人がわざと下手に歌っているような、そんな違和感。
ドキドキしながらなんとか歌い終わると、クリス先生は、満面の笑みを浮かべて拍手をした。
「はい、アリエッタさん。大きな声が出ていて大変素晴らしかったです。ミーナさんとドナートくんは、もう少し頑張りましょう」
「は、はい」
と、同時に私とドナートが答える。
「次の曲にいく? それとも、もう少しこの曲を歌ってみる? みんなの意見は?」
「私は、もう少しこの曲を歌いたいです!」
アリエッタさんが、元気よく答える。
ドナートが私の顔色を窺うように、ちらりとこちらを見た。
それがなんだかおかしくて、私も元気よく答えた。
「私も、もう少しこの曲が歌いたいです」
「じゃ、じゃあ俺も」
それから何回か、私たちは、懐かしくも麗しい童謡を歌った。
下手な歌を聞かれたらどうしようかとか、そんな気持ちはまったくなくなっていた。
大きな声を出して、誰かと一緒に歌う。それだけで、楽しかった。
「次の曲に行く前に、少し休憩にしよう」
先生が飲み物を取りに教室から出て行くと、それについていくように、アリエッタさんが立ち上がる。
「二人とも、お腹は空いてる? 良かったらパンをもってくるけど」
「あ、あのパン……ですか?」
「あの?」
「見学に来た時の……」
「ああ、うん。そうだよ。あの時と種類は違うけど、どれもうちの自信のパンだから、前に食べたのが気に入ってくれたなら、きっとこっちも気に入ると思うよ」
あの時、教室に漂ったパンの匂いと、一度奥に入って戻ってきた先生がくれたパンの美味しさが、この音楽教室に入ることを決めた、一つの大きな理由でもあった。
先生は、新しくできた近くのパン屋から届けてもらったものだと説明し、これからも定期的に届くらしいことを、仄めかして言ったのだった。
「それなら、ぜひお願いします! ドナートも、美味しいって言ってたよね」
「え、あ、はい」
「良かった。それじゃ、ちょっと待っててね」
そう言って、アリエッタさんはそそくさと教室を出て行った。
残された私たちは、顔を見合わせてから、少し笑った。
「フォルテールって、すごいね」
「ミーナもそう思った?」
「うん、ピアノとは全然違ったね。私、ずっと似たようなものだと思ってた」
「俺、一度だけピオーヴァに旅行に行ったことがあっただろ?」
「三年くらい前だっけ」
「そうそう。その時、初めて小劇場でフォルテニストの演奏を聞いたんだけど……」
「やっぱり、すごかった?」
「……すごかった。って、今まで思ってたけど……」
「ん? 今まで?」
「クリス先生のフォルテールは、また、ちょっと違うっていうか……」
「そうなの?」
「うん。どこが違うのか、俺にもよくわからないけど……とにかくすごい、と思う」
音楽に関しては、ドナートは私よりも遙か先にいるはずだ。そんな彼が、わからないけどすごい、って、私とほとんど変わらない感想を抱いた。
ということはやっぱり、クリス先生のフォルテールは、すごいんだろう。
「なんだか、心が温かくなるような……幸せな気分になるよね、フォルテールの音って。でも、それだけじゃなくて……」
私は、それ以上の言葉を思いつけなかった。幸せな気持ちになったのは本当なのに、なぜか、涙が出そうになっていて。
「……うん。クリス先生のフォルテールは、そうだと俺も思う」
少し俯きながら、子ども用の楽譜にドナートは目を落としながら、そう呟いた。
その時、クリス先生が教室に戻ってくる。
手には、アイスティーのなみなみと入ったグラス。
「お待たせ。二人とも、どうぞ」
私たちはそれを受け取り、少し熱くなっていた身体を冷やすために、一気にのどに押し込んだ。
それとほぼ同時に、あの懐かしいパンの香りが鼻腔をくすぐる。
息を切らして教室に飛び込んできたアリエッタさんは、手編みの籠から紙ナプキンに包まれたパンの包みを、まずはクリス先生に手渡した。そして、私とドナートに。
「ちょうど焼きたてだったから、急いで戻ってきちゃった」
そう言って笑うアリエッタさんの顔は、大人の女性というよりも、やっぱり恋する女の子みたいに見える。
「お客さんはどうだった?」
パンをほおばりながら、クリス先生がアリエッタさんに尋ねる。
「今日は多いらしくて、早く手伝ってって言われちゃった。食べ終わったら、少し抜けるね」
「わかった。教室は夜遅くまで開けてるから、時間ができたら、戻ってきていいからね」
そう言うクリス先生の顔は、ぜんぜん先生らしくなくて、それがなんだかおかしい。
聞けば、近くにできたばかりのパン屋さんは、アリエッタさんと、彼女のお母さんのお店なんだそう。
小さい頃からパン屋さんになるのが夢だったアリエッタさんは、近くのパン屋さんで何年も働きながら修行を積んで、お母さんの助けを借りながら、小さいお店を始めたんだとか。
音楽教室は、パン屋さんがお休みの日と、お客さんが少ない日に半休をとっての参加になるから、私やドナートとずっと一緒には習えないらしい。
それが少し残念ではあったけど、代わりにこんなに美味しいパンが食べられるなら、音楽教室に通う意味は、大いにあった。
「えっと……あんまりたくさん食べると、これからの授業にも差し支えるし、ほどほどに。余ったのは持って帰っていいから」
三個目のパンをドナートが手に取ったところで、クリス先生がそう言って、授業は再開された。
私が選んだ流行の歌の練習は、それなりに時間がかかった。
歌詞は、遠く離れた恋人を想って歌ったもので、少し気恥ずかしかったけど、すぐ隣で、真面目な顔で歌うドナートを意識していたせいも、あったかもしれない。
聞くのも初めてだったドナートと鼻歌を聴いただけの私、二人ともそれなりに歌えるようになると、次は彼の選んだ曲の練習になった。
私は、少し疲れたのもあって、ドナートの指定したオペラの曲はお休みさせてもらった。
椅子に座って、ドナートの歌声を聞いていると、じんわりと胸が熱くなる。
この音楽教室に通うことになった、もう一つの……一番大きなきっかけ。
さっき歌った恋の歌の歌詞が、リフレインする。
ドナートの歌声と、クリス先生のフォルテールの音色を聞きながら、私はそっと目を閉じた。
きっと、この日のことを、私はずっと忘れないだろう。
そんな予感がしていた。
***
クリス先生の音楽教室に通い始めて、二年が経った。
私とドナートは、週に三回のレッスンを一度も休むことなく、気付けば古株になっていた。
三年後に、ピオーヴァ音楽学院の入試試験を受けてみないか、という話もあったけど、今の私はまだ、決められていない。
「ミーナ、来週の課題曲の音取りは終わった?」
「ううん、まだ。家だと、どうしてもね。大きな声も出せないし」
「じゃあ、今日も残る?」
「そうするつもり。ドナートは?」
「俺は……どうしようかな。だいたい終わってるし、家の手伝いもあるから」
先週までの課題だった楽譜を鞄に詰めながら、ドナートは立ち上がった。
彼の視線の先には、片付けられる前の、クリス先生のフォルテール。
私は、ドナートがフォルテールに向ける送る視線の意味を、知っている。
彼は、フォルテールが弾きたかったのだ。
でも……。
「じゃ、お先に、ミーナ。帰る時間が遅くなるようだったら、迎えに来るからな」
「ありがと。でも、それほど遅くはならないように気をつける」
「お前の気をつけるは、あてにならないからなぁ」
苦笑いを浮かべながら、ドナートは教室を出て行く。
私は、なんとなくクリス先生のフォルテールに向かって歩き出し、椅子に座った。
鍵盤に指を置く。そのまま押し込んでみるが、鍵盤はカコン、と小さな音を立てて沈み込んだだけだった。
私には、フォルテールの才能がない。それは、別に不幸でも、不運でも、不満でもない。
ただ、あの日――クリス先生のフォルテールを、目を輝かせて聞いていたドナートにも、その才能がなかったのが、悲しかった。
私は、歌が好きだ。ドナートもそれは一緒のはずで、だからこそ、この音楽教室を続けている。
そのはずだった。
もう一度、フォルテールの鍵盤を押し込み、やっぱり音が出ないことに安心して、私は立ち上がった。
「あら? ミーナは今日も居残り?」
アリエッタさんが、教室に顔を出したのは、そんな時だった。
クリス先生の音楽教室は、先生の実力には見合わないくらいに、ゆったりとした空気感で、そのせいか――あるいはそのおかげか。町の音楽が好きな子どもたちの憩いの場のような、そんな雰囲気の教室だ。プロを目指そうとするなら、隣町の貴族の子弟が数多く在籍しているという音楽教室に行くのが共通の認識になっている。生徒数はクリス先生ひとりで見られる人数、十人を超えたことはなく、一年満たずに辞めていく生徒も多い。
ただ、辞めていく生徒は夢破れてではなく、音楽を十分に楽しんだからだと、みんな言った。
自分が楽しめる範囲で。
子どもと一緒に楽しく歌えるようになったから。
私はこの教室が好きだったし、アリエッタさんの作るパンも好きだった。
生徒を信頼し、遅くまで教室を自由に使わせてくれる先生のことも。
窓からこぼれる教室の光を見つけると、パンを籠一杯に詰めて、生徒の様子を見に来てくれる、教室の最初の生徒のことも。
そして――
「ミーナお姉ちゃん、また遅くまで練習してるの? お姉ちゃんは、プロになるの?」
「うーん、どうだろ。まだ決めてないなぁ」
「お姉ちゃんなら、ぜったいにプロになれるよ」
舌っ足らずで、覚えたばかりのプロという言葉を繰り返すクレッシェンテちゃんは、この教室の最も新しい生徒だ。
二番目の古株であり、いわば姉弟子でもある私を慕ってくれる、可愛い後輩。
歌の実力は、まだまだ未知数だったけど、あんなに楽しそうに歌う子が、上手くならないわけがない。
「ドナートお兄ちゃんは? もう帰ったの?」
「うん、さっきね」
「もー、お兄ちゃんはダメだなぁ。お歌を歌うのって、こんなに楽しいのに」
そう言って、彼女は覚え立ての歌を高らかに歌う。まだ音程は覚束ないが、クリス先生なら「大きな声が出ていて素晴らしいね」ってきっと言ってくれるような、楽しげな歌声だ。
「ドナートは、お家の仕事のお手伝いもあるからね」
「家具屋さん?」
「そう。椅子とかテーブルとか、お家に必要なものを作ってる、大事なお仕事なんだよ」
「それは……大事」
歌を止めて、うんうんと頷く。
「それよりも、クレッシェンテちゃんのほうが、プロに向いてると思うけどなぁ。そのへんはどうなの?」
結果的に話を逸らすことになってしまったが、私は本心からそう尋ねた。
「うーん、どうだろ。クレスはまだ、そういうのはいいかなぁ?」
さっきの私の口調を真似して、クレッシェンテちゃんが首を傾げる。
「どうして?」
「楽しく歌うのが一番だから。ね、お母さん」
「そうだね。お父さんもそう言ってるし、お母さんもそう思うな」
アリエッタさんが、彼女の頭を撫でながら同意する。
「あ、ミーナ、お腹空いてる?」
言いながら、籠を持ち上げるアリエッタさん。
「アリエッタさんって、私のこと絶対食いしん坊だと思ってますよね?」
「どうだろう? ただ、私、ミーナが美味しそうにパンを食べてくれるのを見るのが好きだから、つい持ってきちゃうの。お腹が減ってないなら、持って帰る?」
「いえ、今いただきます。あと一時間くらいは、ここに残るつもりですから」
「そう? なら、スープも温めてこようかな。いるよね?」
「……よろしくお願いします」
「うん、じゃあ待っててね。クレッシェンテのこともよろしく」
クレッシェンテちゃんと、しばらく歌を歌っていると、クリス先生が教室に顔を出す。フォルテールは、基本的に高価な楽器だし、出しっ放しにすること自体があり得ないのだけど、先生は結構そういうことをやらかす。フォルテールの片付けが終わると、先生は教室の壁に打ち付けられたコルクのボードまで歩いて行き、ポケットから何かを取り出した。
そのコルクボードには、生徒の出席表や課題の日程、連絡事項などが貼られている。
その片隅に、複数の絵はがきが貼られている一角があった。
描かれているのは、聞いたこともないような遠い異国の情景だったり、私でも知っている観光の名所だったり、多彩な風景で彩られている。
一年に、一枚ずつ増えていくのに気付いたのはつい最近のことだったけど、私はその一角を眺めるのが好きだった。
先生の手には、予想通り新しい絵はがきが握られていて、先生はそれを丁寧にボードに貼ると、しばらくそれを見つめていた。
「ミーナお姉ちゃん、クレスも見たい」
「はいはい、おててをあげて」
バンザイの姿勢になったクレッシェンテちゃんを抱き上げて、私もボードに近づく。
新しく加えられた絵はがきには、美しい湖と、それに反射する雪景色の山が映し出されていた。
「クリス先生。これは、どこなんですか?」
「これは、まだ調べてないからわからないかな」
これは? まだ?
そんな些細な言葉遣いに、ちょっとした違和感を覚える。
「ああ、ええっと……こっちの絵はがきは、遠い、遠い、西にある国のものだね」
そう言って先生が指さした絵はがきには、大きな滝の描かれていた。
「へえ、ずいぶん遠くなんですね」
「クレスもよく見たい! お姉ちゃん」
「はいはい」
クレッシェンテちゃんをだっこしたまま、一歩近づく。
先生は絵はがきにのせられた油絵の具の、些細な凹凸をなぞるように指で優しく触れていて、そんな私たちには気付かないようだった。
私は、そんな先生の横顔を、そっと見つめた。
なぜか、私は先生のフォルテールの音を、鮮明に思い出していた。
あの日、初めてクリス先生のフォルテールを聴いた時の感動と。
泣き出したくなるような、言葉に出来ない感情を。
「きれいだねぇ、お父さん」
先生は、クレッシェンテちゃんの言葉にはっとしたように顔を向け、それから、とびきりの笑顔で答えた。
「うん、とても綺麗だね」
***
それからまた、三年が経ち、私は人生の岐路に立っていた。
ピオーヴァ音楽学院に入るのか、町に残って別の道を探すのか。
おそらく、幸せなことなんだろうけど……私には、迷うだけの資格があった。
何度かピオーヴァにも旅行し、プロの演奏も何度も耳にして、自覚した。
年に何度か行われる、入学の予行で行われる演奏会にも参加し、認められもした。
私は、歌が好きだ。
多分、他の何よりも。
「ミーナ?」
ドナートが、いつの間にか私の背後に立ち、視線の先――窓の外を見て続けた。
「ああ、雪か。このぶんだと、積もりそうだな」
「……そうだね。かなり積もるかも」
今、雪が降っていることに初めて気付いた私は、知らぬ間に止めていた呼吸を再開し、大きく息を吐いた。
「今日で、終わりなんだな」
ドナートは、この五年間で溜まった楽譜を、その厚さを確かめるように、両手で握りしめて言った。
前期中等教育を終えた私たちは、永らくお世話になった音楽教室を同時に卒業し、これからの道を歩んでいく。
「ミーナは、どうする?」
ドナートは、後期中等教育の学校には進まずに、実家の家業を継ぐことを決めたようだった。
私はというと、未だに迷っている。
「今日はまだ、ここに残る。片付けもしてないしね」
「ずっと外ばっか眺めてるからだろ」
私から離れると、呆れたように彼は言って、鞄を肩にかけた。
「俺は先に帰るからな。遅くなるようなら、迎えに来るぞ」
「ありがと」
それ以上の言葉を続けられず、窓の外の雪を見つめ続けていた。
背後でドアの閉まる音がしてからしばらく、私は振り返ることもできずに立ち尽くす。その一瞬で入り込んだ外気が、肌を冷たく撫でる。
もう一度、大きなため息がこぼれた。
ドナートの質問に込められた、もう一つの意味の答えを、私はまだ出せていない。
これからどうするのか。
どうしたいのか。
この雪が積もり、それもいずれ解けて消えるように、この疑問も消えてくれないか、とも思う。
そんな時――私はよく、あの絵はがきを眺める。
毎年一枚ずつ増えていく、あの絵はがきを。
クリス先生のフォルテールの音が、鮮やかに脳裏に蘇る。
その余韻に浸りながら、私はもう一度、最初から絵はがきを見直していく。
最初は、遠い遠い国の風景。
一番新しいものには、私でも知っている有名な観光地、隣国の滝の絵が描かれていた。
毎年、絵はがきに描かれる風景が近づいているような、そんな気がする。
先生かアリエッタさんのどちらかに、これを送っている誰かが、まるで近くにいるような。
――そんな。
そんな感傷を切り裂くように、再び肌を冷気が撫でた。
振り返ると、静かに開けられたドアから、女性が顔をのぞかせていた。
「すみません。ここって、クリス・ヴェルティンの音楽教室……ですよね?」
「あ、はい。見学の方ですか? お子さんとか、あ……ぜんぜん大人の方でも歓迎してますけど、生徒さんは子どものほうが多いので」
「ううん、えっと……なんて言えばいいんだろう。先生の、古くからの知り合いで……」
「そうなんですね、失礼しました。どうぞ、中に入ってください。そこだと寒いでしょうし。ああ、えっと私はここの生徒で、どうぞっていうのも変ですけど」
「ありがとう。では、お邪魔させてください」
女性は丁寧にそう言って、教室に入る。後ろ手に大きなキャリーバッグを引いていて、旅の帰りのようにも見えた。
その顔がはっきりと見えるにつれて、改めて思う。彼女の顔が、アリエッタさんに似ていることに。
「あの、ひょっとして、アリエッタさんの……」
「ああ、うん。そう。私はトルティニタ。アルの妹なの」
「は、初めまして。私はミーナです。ここが始まった頃からの生徒で……だからその、鍵とかも借りてまして、決して怪しい者では……」
「ふふ。大丈夫。私にも覚えがあるから。昔、ここの生徒だったこともあるのよ? クリスが先生になる前の先生の時だけど」
「そうだったんですね」
「それで、クリスたちがここで音楽教室をやってるって聞いて、窓から光が見えたから、つい顔を出しちゃって……」
「それなら、すぐに呼んできます」
「ああ、いいのいいの。しばらくここを見ていたいし」
言いながら、トルティニタさんはコートを脱ぎ、頭に少し残っていた雪を手で払った。
その横顔は、アリエッタさんに本当によく似ていた。
「雪、まだ残ってる?」
「い、いえ。もう大丈夫です。それより、コートをお預かりしますね」
不躾に見続けてしまったのを恥じて、コートを受け取る。
「ありがとう。少し、見て回ってもいい?」
「もちろんです。私は、片付けが終わったら帰りますが――でも多分、クリス先生かアリエッタさんが顔を出すはずです」
トルティニタさんは、それには答えずに、微笑んだだけだった。
頭の中に浮かび上がった疑問はいくつもあったが、一つだけ、確信していることがある。
あの絵はがきの差出人は、トルティニタさんだ。
なぜ、五年間もの長い間、旅に出ていたのか。なぜ、クリス先生やアリエッタさんは、彼女のことを一度も話さなかったのか。
その疑問に対する答えは、おそらく絶対に出てこないだろう。
懐かしそうに、ゆっくりとした歩調で教室を歩くトルティニタさん。
私は、急に行き場のない焦りを感じて、慌てて片付けを済ませる。
「あの、私はもう出ますけど、アリエッタさんに声だけかけてみようと……思うんですけど……」
いいですか? と、意味のないはずの問いかけを飲み込む。彼女は、再び微笑んだだけだった。
私は、鞄をひっつかんで外に出ると、少し先に見えるパン屋の光に向かって走り出す。
寒さは感じなかった。
「アリエッタさん!」
お店はとっくに閉店していたから、裏口のドアを開け、中に向かって叫ぶ。
「アリエッタさん!」
明日の仕込み中だったのか、アリエッタさんが奥から粉まみれのエプロン姿で顔を出す。
「どうしたの? ああ、鍵を返しに来てくれた? いつでも構わないのに」
「えっと……そうじゃなくて、あの……クリス先生と、アリエッタさんに、お客様が……」
「お客様?」
なぜか、息が止まったかのように、言葉が出なかった。
それでも、絞り出すように、彼女の名前を告げる。
「……トルティニタさん」
大きく見開かれた、彼女の瞳の紅彩が揺らぎ、光を乱反射するように、輝きを増した。
頬を、透明な液体が伝う。
私は、それ以上アリエッタさんのことを見ていられなくて、ドアを出て走り出した。
雪に反射する電灯の明かりに、目をチカチカとした。
息につまり、呼吸が出来なくなるほど走った後、私はようやく立ち止まる。
汗が止まらず、私は天を向いてあえいだ。
雪が、そんな私の頬を、優しく冷やしてくれた。
呼吸を整え、家に向かって歩き出す。
家までは、ドナートが心配するように少しの距離があるが、今の気分にはちょうどいい。
十分ほど歩いて、家まであとわずかとなった時、ポケットに入れた手が、渡しそびれた鍵に触れた。
「ああ、もう……こんな時に……」
そこでようやく落ち着いた私は、鍵を返すくらいなんてことない、と思い直す。
家族との五年ぶりの再会に、感極まって涙を流すことくらい、誰にでもある。
なんで私はあの時、あんなに慌てて走り出してしまったのか。その理由は、いくら考えて見ても見当も付かない。
長い旅に出ていた家族が、ただ戻ってきただけで――それは特別なことなんだろうけど、それ以上の意味はない。
そう思い直して、私は長年通い慣れた道を辿り、音楽教室に踵を返した。
その、見慣れたドアの前で、私は立ち尽くすことになる。
音楽が、聞こえてきた。
クリス先生の、聞き慣れたフォルテールの音。
アリエッタさんの、まだまだ発展途中の歌声。
そして、彼女の声によく似た、美しい、歌声も。
とつぜん、涙が溢れてきて、止まらなくなる。
この感情が、どこから来るのか、到底理解が及ばない。
ただただ、止まらない涙を、手で押さえつけながら、私の口から嗚咽がこぼれ出る。
「よかった……ほんとうに、よかった……」
私はドアの前に倒れ込むようにして、泣き続けていた。
どのくらいの時間、そうしていたのかわからない。
ふと、私に降り積もる雪を払いのける手が、頭と肩に触れた。
「お前、こんな時間まで何やってるんだ?」
「……ドナート」
「あんまり遅いから迎えに来た……って、泣いてるのか?」
いつしか、あの音楽は止まっていた。
窓からは、まだ光がこぼれでている。
「……ううん、なんでもない」
鼻をすすり、何事も無かったように立ち上がる。
「なんでもないって……はぁ、まあいい。とにかく、帰るぞ」
「……うん、ありがと」
この瞬間のことを、彼に話す気はなかった。
言っても、きっと信じてはもらえないだろうし、あの音楽を――あるいは音楽とはいえない何かを聞くことができたのが、幸せなのかどうなのか、今の私には判断がつかなかった。
「ねえ、ドナート」
「何?」
「私、ピオーヴァに行く」
ずっと感じていた迷いは、嘘のように晴れていた。
私は、今聴いたこの音楽のことを、一生忘れない。
いつだったか、同じように思ったこともあった。
けど、今はもう、ほとんど忘れてしまっていた。
ドナートの、声変わり前の歌声よりも、その後の歌声をずっと聴いていたから。
「そうか……がんばれよ」
その、聞き慣れた声で。
優しいテノールの声で。
彼は私のほうを見ずに、そう言った。
恋をしていた。
ずっと、ずっと。
そして今、ある一つの恋が終わったことを、私は知った。
(おわり)
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