アンケートSS「妖精の歌と、最後のアンサンブル」
十二月某日。
卒業演奏のパートナーを決めることもできないまま迎えた、ナターレの前週。
学院に向かおうと朝の準備を始めた僕に、フォーニが、突然こんなことを言い出した。
「もうクリスだけには任せてられない! 私がパートナーを決めてあげる!」
「……どういうこと?」
机の上で羽をぱたぱたさせながらも、その勢いは止まらない。
「学院に、私もついていくってこと!」
胸を張って、背筋をピンと伸ばし、フォーニは誇らしげだ。
「……それで?」
「えーっと……トルタの他の候補の女の子って、名前なんだっけ? フォ……ファル? と、リセ……だっけ?」
「合ってる。けど……どうするつもりなの?」
「私が直接会って、一番クリスにふさわしい女の子を選んであげる! というわけで……はいっ!」
「……………………」
僕に学院まで運べと両手を掲げ、無言のまま立ち尽くすフォーニに、ついに僕も折れた。
この時期までパートナーを決められなかった負い目と。
ほんの少しだけ、何かが変わるような予感がして。
***
「ここに来るのも、久しぶりー」
校舎へと続く並木道を歩いていると、肩の上のフォーニが呟く。
妖精だから濡れるのもあまり気にならないのか、雨を気にする様子もない。
フォーニがここに来たのは数回だけで、最後に来たのは確か……二年生の優秀な声楽科の生徒を集めたコンサートが、学院のホールで開かれた時のことだった。僕とフォーニは、トルタの歌だけ聴いてすぐに外に出てしまったけど、ファルさん、ファルシータ=フォーセットの名前も、中にはあったような気がする。
「最初は誰にする? クリスが選んでいいよ」
フォーニはそう言うけど、選べるほどの選択肢はない。トルタは、木曜日の午後は早めに帰ることが多いから除外するとして。ファルさんはいつもの練習室にいるはずだし、リセと会うことが多かったのも木曜日だった。
「コーデル先生の講義に出た後になるけど、最初はファルさんかな。リセとは……会えるかどうかは分からないけど、旧校舎に顔を出すだけ出してみる?」
「うん。じゃあ、それで」
楽し気なフォーニに、半ば呆れながらも、連れてきて良かったと思った。
「それで、パートナーはどうした? まさか、まだ決まってないなどと言うつもりはないだろうな」
レッスン室では、いつにも増して、難しい顔をしたコーデル先生が出迎えてくれた。
「今日こそは、聞かせてもらわなければレッスンも終わらないし、帰らせもしないぞ」
「その件ですが……」
ちらっと、肩のフォーニに視線を向ける。
「全員に会えたら、今日中に私が決めてあげるから、安心して」
安心できる要素は一つもなかった。トルタは今日は予定があるはずだし、リセに至っては会える保証もない。
「えっと……今日、決めるということで、良いでしょうか?」
「ほう? 今日、と期日をはっきりと言葉にしたのは初めてだな。詳しく聞かせてもらおうか」
一度口にしてしまったからには、このまま続けるしかない。
「……今日はこれから、パートナーになるかもしれない人達と、最後に合わせてみようかと」
「口から出任せで、引き延ばそうとしているわけではなさそうだな」
どちらかと言えば、口から出任せに近かったけど……フォーニの提案に乗ったのは、僕の判断だ。
「ええ、そのつもりです」
「それなら、今日のレッスンは中止にしよう」
「え? いいんですか?」
「……嬉しそうな顔をするな。どの道、曲とパートナーを決めない限り、これ以上の練習にあまり意味はない。それに、トルティニタは午後から予定があるんだろう? この時期、声楽科は個人練習ばかりのはずだから、今から誘えば間に合うだろう」
「それは、確かにそうだと思いますけど……どうしてトルタの予定を先生が……」
「教師だからな。かわいい生徒のことなら、おおよそのことは知っている」
「かわいいだって、クリス」
静かに話を聞いてたフォーニが口を挟む。僕が答えられないと知っていて、からかう機会を逃さないようだ。
「かわいいかどうかは置いておいて。それなら、すぐに探しに行きます」
「決まったら戻ってこい。私は夜までここにいる」
「……ありがとうございます」
決まらなかったら……などとは口が裂けても言えなかった。
ふと、フォーニに視線を向けると。
「いってきます、コーデル先生!」
と、決意を新たに、肩の上で立ち上がっていた。
このまま音の妖精に任せてみるのも良いかなと、彼女の笑顔を見ながら、そう思った。
***
トルタとのアンサンブルは順調に、というよりも、なんの問題もなく終わった。もう何年も……それこそ、音楽を始めた頃から、幾度となく合わせてきた二人。学院に入ってからは機会が減ったけど、十二月に入ってからは、何度か合わせていた曲だった。
「ふぅ……お疲れ。なんか新鮮だね。お昼前にクリスとアンサンブルなんて」
含みのある笑みを浮かべながら、トルタは楽譜を置いて、椅子に座った。
トルタとの練習は午後からが多いし、休日に練習する必要があるときは、いつもお昼ご飯の後だったからの言葉に違いない。
「これが最初で最後になる予定だから、新鮮さを思う存分堪能してくれて良いよ」
コーデル先生と先ほどしたやりとりについては、すでに話してある。今日中にあと二人と会う必要があるとトルタも分かっているせいか、練習を開始してからまだ一時間も経っていない。
「で、どうだった?」
トルタの問いかけに、フォルテールの上という特等席で僕たちのアンサンブルを聴いていたフォーニが答える。
「やっぱり、トルタの歌は上手だね~。クリスのフォルテールとも、ばっちり合ってるし。今のところ、最有力候補かな?」
トルタには、当然フォーニの声は聞こえていない。答えを待つトルタに、代わりに僕が答えた。
「……最有力候補なのは、間違いないよ」
と、音の妖精が言っています。
「それはそれは、光栄なことだけど……他の二人って? ファルさんと、誰?」
「ファルさんのことは話したけど、リセのことは話してなかったっけ? 声楽科の一年生の女の子なんだけど」
「それは聴いてない……一年生? 大丈夫なの?」
三年間の学院生活において、もっとも大事な卒業演奏のパートナーに、一年生を選ぶような生徒はいない。トルタがそう考えるのも当然だ。何より、リセが受けてくれる保証などなく、彼女の性格から考えれば、断られる可能性のほうがよほど高い。
それなのに――。
「任せて、トルタ。私がちゃんと決めてあげるから」
このままフォーニに任せてみよう、と決めたのは僕だ。
最後まで、つきあう覚悟はできていた。
「大丈夫だよ。トルタ、ありがとう」
「どういたしまして。決まったら、ちゃんと教えるのよ?」
「わかってる。それじゃ、そろそろ行くよ」
「うん、またね」
「またねー、トルタ」
***
続いて、ファルさんの歌声を聞いたフォーニは――
「すごく綺麗で、良い声だね。すごくたくさん練習してるのが分かる……」
と、ぽつりと呟くだけだった。
努力家で、きっと誰よりも向上心の高いファルさんをフォーニがそう評したのは、意外ではなかった。僕も、同じように感じていたから。
「いかがでしょう。私の歌はクリスさんのお眼鏡にかないましたか?」
完璧な笑みを浮かべながら、ファルさんが首を傾げる。
フォーニは、それ以上彼女の問いに答えることはなく、俯いていた。
「こんなことを改めて言うのは逆に失礼かもしれないけど、ファルさんの歌声は、とても美しいと思います」
「ありがとうございます、クリスさん。結果は、また後でお伺いします。そういうお話でしたよね?」
「すみません……失礼なお願いをしていますよね」
「いえ、卒業演奏ですから、当然のことですよ。ただ、そろそろ私もパートナーを決めなければならないので、今日中に答えをいただければ助かります」
「それは――」
こちらを向いたフォーニが、真剣な面持ちで頷く。
「はい。必ず、今日中に」
「あ、急かすつもりはないんです。別のお話もありますし、断られても大丈夫です……ですが、お待ちしていますね」
そう言って、ファルさんは、見覚えのある優しい笑顔で僕を見送ってくれた。
***
旧校舎へ向かう道。
あれから口数が少なくなったフォーニに合わせるように、僕も話すのを控えていたけど、思い切って尋ねてみた。
「さっきは、あまり話しかけてこなかったけど、フォーニの考えだと、ファルさんはダメ……だった?」
「……そうじゃないよ……」
「……」
「二人のアンサンブルは、卒業演奏で、すごく評価されると思う」
「そう……かもね」
「けど、それが良いことなのか、私には分からない」
「良いこと?」
「……ううん、なんでもない。ただの私の感想。クリスが良いと思うなら、たぶんそれが一番だと思う」
「フォーニが決めてくれるんじゃなかったの?」
「え? あ……そうだった」
フォーニは、びっくりしたような顔をしたのも一瞬、すぐにいつもの元気な笑顔で続ける。
「それじゃ、最後の一人、いってみよー!」
「……会えるかどうかも、微妙なところだけどね」
「会えなかったら、どうなるの?」
「……それを僕に聞く?」
「コーデル先生に、怒られる?」
「それだけならまだ良い方だと思うよ。強制的にパートナーが決められて、そのために朝から晩まで毎日練習させられて……」
そうなる可能性は、非常に高かったけど。
「休日も何もなく、日曜日のアンサンブルをする気力も残らず……」
「え、えぇ!?」
「それでも、パートナーが自分で決められなかった僕にとっては最良の結果になるんだろうなぁ……ってことだけは、予想できる」
「良い……先生なんだね」
「それは、本当にそうだと思う。僕みたいな生徒を、最後まで諦めずに見てくれるしね」
「そんな先生のためにも、パートナーを決めなくちゃね」
「頼んだよ、フォーニ。君の手にかかってる」
そんな雑談をしていると、ようやく旧校舎に着いた。
懐かしさを感じる埃の匂い。暖かみのある木の廊下を歩いて、リセと初めて出会った教室に向かった。
彼女と出会ったのは、たった二度だけ。
どちらも、ほとんど偶然といえる出会いだった。
その日の夜、フォーニにリセのことを話したのは、何故だったんだろう? 彼女が僕のパートナー候補になるなんて、考えてもいなかったのに。
でもその会話があって、フォーニの中では彼女も、立派な僕の候補になっていたらしい。
「待ってる間、アンサンブルでもしようか」
フォルテールを組み立て、鍵盤に指を置く。
「用意はいい?」
「うん!」
演奏するのは、いつもの曲。
僕がピオーヴァに来てから、ほとんど全ての時間を一緒に過ごしてきた音の妖精にとって、大事な曲。
そのつもりはなかったけど、フォルテールを奏でている時に僕が思い出していたのは、この三年間の日々だった。
楽しかったことも、悲しかったことも、生きている限り、普通に感じることすべて。
最後の和音に名残惜しさすら感じる、大切な時間が終わった。
教室を満たしていた、最後の音が消えた後……僕とフォーニは、顔を見合わせて笑った。
「今のは……なんだ?」
いつまでも浸っていたいような、優しい余韻を壊す鋭い声に、僕たちは振り返る。
リセを待つため、開け放っていたドアの前に立っていたのは、コーデル先生とリセだった。
「誰が歌っていた?」
怪訝な表情を浮かべる先生の、その問いの本当の意味に気づくのに、ほんの少し時間が必要だった。
こんな場所で何をしている? と聞かれたのなら理解もできる。
「今の、聞こえたんですか? ……彼女の歌声が?」
「クリス……いったい、何を言っている?」
「お願いです、答えてください!」
僕の鬼気迫る問いかけに、戸惑いながらコーデル先生が答えた。
「……君のフォルテールに合わせ、誰かが歌っているのが聞こえた。だが、この教室には君以外には誰も……」
「そうか……聞こえたんですね」
ただの思い込みだったんだろうか? フォーニの歌声が聞こえないというのは。
いや、それも違う気がする。
フォルテールの上に座って、こちらを不安そうに見上げるフォーニの姿は、たぶん見えていない。
学院に何度かフォーニを連れてきた時も、彼女の声が聞こえている人はいなかった。
「ねえ……クリス」
「フォーニ、ちょっと待って」
「……うん」
どうして二人がここにいるのかとか、そんな些細なことはどうでもよかった。
「コーデル先生、それにリセ……今の声は、聞こえましたか?」
戸惑うように、首を振るリセ。
コーデル先生は、目を細めて、それからリセと同じように、首を横に振った。
「クリス。君が何を言っているか見当もつかないが、誰かの声は聞こえなかった。これでいいか? それなら、私の質問にも答えてもらおう。さっき歌っていたのは、誰だ?」
心臓が、早鐘のように鼓動を打ち、息が苦しい。
僕は、縋るようにフォーニに尋ねた。
「話しても、いいかな?」
「ん? どういうことだ?」
僕の呟きが聞こえたのか、コーデル先生が当然の疑問を口にする。
「……ダメ」
フォーニの返答は、短かった。
「なぜ?」
「……ダメだよ、クリス。私は……いずれ、消えちゃうから」
「それじゃ答えになってないよ。フォーニの歌声が、もしみんなにも聞こえるなら……」
聞こえるのなら? 僕はどうしたい? いや、どうするべきだ?
フォーニのために、何ができる?
「………………」
フォーニの長い沈黙を、僕は自分勝手に……でも、彼女に対する最大の敬意と愛をもって、肯定と捉えた。
「コーデル先生、少し、長い話になりますけど、聞いてもらえますか?」
「……いいだろう。話してみろ」
リセは、先生と僕の間で何度も視線を彷徨わせてはいたけど、部屋から出て行くつもりはないらしく、僕にとっては好都合だった。
フォーニも、それ以上僕を止めようとはしなかった。
どこから話そうか迷っていると、新たな来訪者に再び場が混迷する。
「コーデル先生と……誰? いったいここで、何をしてるの? ……クリス」
と言ったのは、トルタ。
「リセ……それにコーデル先生。トルタさんも合わせれば、クリスさんのパートナー候補が全員揃っているみたいですけど、これは?」
続いてファルさん。
コーデル先生にフォーニの歌声が聞こえたと分かったときに、これ以上混乱することはないかと思っていたけど……。
「最初から、話します。信じられないかもしれないし、今日、このことがなかったら、彼女は僕の心の中だけに存在しているのかもって思っていたかもしれない……そんな話だけど……」
僕は、最初から最後まで、正直に皆に話した。
初めてフォーニと出会った時のこと。
それからの日々。
そして、今。
彼女の歌声が、僕以外の誰かに聞こえたこと。
「これが、全てです。最後に、これからもう一度フォーニとアンサンブルをします。それを聞いて、それから、もう一度僕から話をさせてください。これからのこと、そしてフォーニのことを」
もう一度、あの曲を弾く。
心の中は、ぐちゃぐちゃだった。
何をこめて、鍵盤を弾けば良いのか分からない。
彼女の歌声と、こちらを見つめる彼女の眼差しと、リズムに合わせて動く、美しい羽と。
それだけを瞳に映して、僕はフォルテールを弾ききった。
そして、アンサンブルを聴いてくれた四人の顔を、順番に見つめる。
その顔を見れば、フォーニの歌声が彼女たちに届いたことが、理解できた。
誰も、一言も発しないまま、時が過ぎる。
そんな沈黙を、最初に破ったのはファルさんだった。
「信じられない……と言いたいところですけど、確かに……私にも聞こえました。素晴らしい……歌声が」
「本当ですか!?」
「ええ。同じく歌を歌う者としては、悔しいくらいに、素敵な歌でした」
「……トルタ?」
「聞こえた……それに……」
「それに?」
「ううん、なんでもない……分からないことが多すぎて……」
「そう……だよね。でも、聞こえたんだ……良かった」
そこに、リセがおずおずと付け加える。
「私にも、聞こえました……とても、綺麗な……」
「やっぱり……」
僕が続けて何かを言う前に、それを制するようにファルさんが話し出す。
「でも、それでどうするつもりなんですか? クリスさんは。卒業演奏のパートナーを選ぶのが、目的だったのでは?」
「ええ、そうです。だから――」
「と、少し説教臭い話をさせてもらおうかと思っていましたが、止めておきましょう。どうやらクリスさんの心は、すでに決まっているようですから」
「ファルさん……」
「リセ、私たちは退散しましょう。これ以上ここにいても、何か出来ることはないようですし……あなたは最初から、クリスさんのパートナー候補でもなかったんでしょう?」
「あ、えっと……はい。そうです、ファルシータさん」
「というわけで、私たちはここまでにしたいのですが、よろしいですか? クリスさん」
これ以上、ファルさんに出来ることはない……というのは、確かに彼女の言う通りかもしれない。僕の心は、すでに決まっているというのも、多分。
「クリスさん、私はあなたの考えを否定はしません。例えそれが、認められなかったとしても。応援はしています。本当に……心から。だからこそ、今日のことは誰にも言いません。リセも、それでいい?」
「は、はい。あの……失礼します……」
ファルさんに連れられるように、リセと彼女は教室を出て行った。
おそらく、二人は知り合いだったんだろう。どういう繋がりで、どんな関係だったのか。少しだけ気にはなったけど、それ以上の問題が、今僕とフォーニの前には山積みだった。
「それで、コーデル先生」
今、この場において、一言もしゃべっていなかったのは、先生とフォーニだけだった。
フォーニは、歌っていた時とは別人のように、沈んだ顔をしている。話したいことはたくさんあったけど、それは帰ってからもできる。
だから今は――
「先生!」
「……わかってる。今、考えているところだ。少し、時間が欲しい」
先生は、そう言ったきり目を閉じて、深い思考に沈んでいるようだった。
「ねえ、クリス」
再び訪れた沈黙に、僕の質問に答えたきり黙ったままだったトルタが話しかけてきた。
「……なに?」
「そこにいるの? その、フォーニが……」
トルタの視線はフォーニからは少しずれていたけど、僕は頷いた。彼女は震える手をフォーニの近くにさしのべ、指先がフォーニに触れようとしたが……。
「トルタの肩に、乗せてもらっていい?」
フォーニはふわりと宙に浮かんで、僕を振り返ってそう尋ねた。
僕は言われた通り、トルタの肩に彼女を乗せてやる。当然トルタには理解できないみたいだったけど、じっと動かずに、僕が動くのを見つめていた。
「ねえ、トルタ――」
僕に聞こえたのは、そこまでだった。
フォーニは、トルタの耳に顔を近づけて、二言、三言、続けて何かを囁く。
トルタの表情が目まぐるしく変わる。
これ以上聞き耳を立てるのはフォーニに対しての裏切りのような気がして、僕は視線をコーデル先生に戻した。
「先生」
大きなため息をついて、それから先生は、意を決したように目を開けた。
「ファルシータの言葉ではないが、どうやら君の意思は、固いようだな」
「……そんなにわかりやすいですか?」
「それもあったのは否定しないが……あの歌を聴けば、ある程度は……な」
「歌を?」
「時に音楽は、言葉よりも雄弁に語る。誰の言葉だったか……まあ、それはいい。しかし現実問題として、君の決定について諸手を挙げて賛成するわけにもいかない。これでも教師だからな」
「それって、関係あるんですか?」
「あるに決まってる。下手をすれば、卒業も危ういぞ。とはいえ……君のことだ、卒業など出来なくても構わないと言うかもしれないがな」
「……ええ、そうですね」
「だからこそ、しかるべき手順を踏んで、しかるべき対応をするべきだ、と私は考えている。私の生徒が不利益を被るのを、ただ指をくわえて見えているだけなのは、性に合わない」
「しかるべき対応というのは?」
先生は、真剣なような、あるいは怒っているかのような表情を浮かべていたけど、もう一度大きなため息をついたあと、にやりと笑って言った。
「なに、私が多少泥を被ることになるだけだ。こうなったら、最後まで面倒をみてやろう。かわいい生徒のためにな」
コーデル先生は、それ以上答えてくれなかった。
フォルテールを片付け、旧校舎の外に出た頃には、すっかり日も暮れていた。
フォーニは僕の肩の上に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、やっぱり無言だった。
「それじゃクリス。私は……一人で帰るけど……その……応援してるね。フォーニとのこと」
トルタは少しだけすっきりした顔をして、
フォーニと何を話したのか、おそらく僕は、一生知ることは出来ないだろう。でも、それで良かったのだと思う。
ほんの少し前まで、フォーニの歌声だけでなく、声が僕以外に聞こえるとは思っていなかったのに、今は違う。
フォーニの声はトルタに届いていたし、それにはきっと、意味がある。
「ありがとう、トルタ」
トルタを見送り、残されたのはフォーニと僕と、コーデル先生だけになった。
「それでは先生、僕も――」
そう言いかけたところ、先生の眼鏡の奥の瞳が、光った気がした。
「まさか、帰るつもりじゃないだろうな? 言いたいことは山ほどあるが、それよりもまずは練習だ。あと卒業演奏までの役一ヶ月、休む時間があるとは思わないことだな」
***
それからの日々は、瞬く間に過ぎていった。
フォーニの声は、先生には依然として聞こえないようだったが、それで練習の手を緩めるようなこともなく。
僕が無駄にしてしまった時間を取り戻すように。
先生は僕とフォーニのアンサンブルに、ほとんどつきっきりでつきあってくれたのだった。
そして、卒業演奏の当日。
僕とフォーニの演奏は、観客達の大きな拍手と、それ以上の戸惑いによって幕を閉じた。
演奏が終わり、舞台の脇に戻った時には、直前に笑顔で送り出してくれた先生の姿はなかった。
後で聞いた話によると、生徒からの申告の確認を取らずに卒業演奏の壇上に上げた、ということで監督不行き届きの責任をとり、学院での教職を辞任するという話にまでなりそうになったとのことだった。
それを知った僕が抗議するよりも早く、処分が取り消しになったのは、僕とフォーニの演奏が学院の上の人達の間でも、物議をかもしたからだったかもしれない。
同時に僕の卒業も認められたが、音楽の世界で生きていく道――ただ携わるだけでなく、フォルテール奏者として大成する道は、閉ざされたと言っても過言ではなかっただろう。
コーデル先生も処分は免れたものの、学院内での地位は、おそらく大きく下がったに違いない。
僕とフォーニの、最後の願いを叶えてくれたがために。
そして、卒業式を迎えた日の、午後。
僕に話しかける生徒は、アーシノとトルタ以外にはいなかった。
アーシノはいつも通り、何事もなかったかのように、またな、と言って。
トルタは、僕と、フォーニがいる辺りの間で視線を彷徨わせながら、故郷の街でまた話しましょう、と言って。
二人と別れた後、僕は待っていた。
「トルティニタやアーシノと帰らなかったのか?」
待っていた人の声に振り返る。
「コーデル先生、ありがとうございました」
深々とお辞儀をする。肩の上のフォーニが、慌ててしがみつくのを助けて、もう一度肩の上に乗せる。
そんな僕のおかしな動きを眺めながら、先生は笑った。
「そこにいるんだな。信じていなかったわけではないが、今は、心から信じられるよ。フォーニのことを」
「……先生」
「処分のことなら気にするな。生徒の意思を尊重するのも教師の仕事だ。というよりも、表だって何か処分を受けたわけではないし、驚くほど今まで通りだよ、こちらは」
「本当に……良かったです」
「私はよく、人の心には疎い……と、言われていた。子どもの頃からな」
突然、先生が全く予想にもしないことを話し出す。
「だが、音楽を通じてなら、それよりもう少しだけ、理解できると思っている」
先生はフォーニの方に手を伸ばし、その指先が、確かにフォーニに触れた。
「心残りは、もうないか?」
僕ではなく、フォーニに向かって話しかける。
「うん、もう充分だよ」
フォーニの答えが、聞こえたのか……聞こえなかったのか。
それは分からなかったけど、僕にとっても、それで充分だった。
「フォーニ、それにコーデル先生……ありがとう」
「うん。ありがと、クリス。そして――さよなら」
フォーニは、僕の頬に最後にキスをして、それから唐突に、ふっと消えた。
それが、僕とフォーニの最後の会話だ。
心のどこかで、僕もわかっていた。
フォーニが、これで消えてしまうことを。
彼女をここに、ピオーヴァに、僕の元に――留めていた何かが、消えてしまったから。
「ありがとう、フォーニ」
この一ヶ月は、それを受け入れるための一ヶ月だったのかもしれない。
僕はそれを、フォーニの歌を通じて知った。
雨が、涙を洗い流すように降り続けている。
コーデル先生と僕は、フォーニがいたはずの場所を、ずっと見つめていた。
***
僕は再び、雨の街へと戻ってきた。
フォーニと僕を救ってくれた、恩師と会うために。
――故郷で暇をしているのなら、講師にならないか?
コーデル先生からの手紙には、あの卒業演奏の思い出がたくさん綴られていた。
フォーニの歌声が、いかに素晴らしかったかとか。
最後の一ヶ月、三人で練習した時間が、学生時代を思い出して楽しかったこととか。
そんな他愛もない話。
手紙の端の文字が、滲んでいた箇所もあった。
僕にも、覚えがある。
こらえきれずにこぼれた涙が、文字の上に落ちることがあることを。
まさにその時も、そうだった。
新たに滲んだ手紙の、最後の行にはこう書いてあった。
――その気があるなら、戻ってこい。
その言葉を頼りに、僕はここまで来た。
あの三年間で、数え切れないほど叩いたレッスン室のドアを、再びノックする。
「入れ」
開いたドアの隙間からこぼれる、厳しくも、優しい声。
コーデル先生は、今までに見た、どんな彼女よりも優しい顔で僕に言った。
「おかえり、クリス」
僕は黙ったまま頷いて、涙が床に落ちていくのに任せた。
(おわり)
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