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18年間の人生グラフ

壮絶な人生を送ってきた人はたくさんいて、そんな経験から希望を与えるとかわたしにはできないし、そんな資格は無い
ただ今のわたしが作られたのは間違いなくこれまでの過去があるからで、これまで出会った人のお陰で生きれてるから、良くも悪くもエキサイティングだった今までの人生を今タイムカプセルみたいに綴っておきたくて、文字に起こすことにした
辛い記憶も誰にも話せなかった話もあるけど、それすらどうにか物語の一部にしてエンタメに昇華しなきゃ生きてこれなかったんだと思う
これは全てノンフィクションだから、多少過激で生々しい部分があっても許してほしい   人生は大体グロい
(わたしはわたしの人生に誇りを持ってるので、辛かった、だけでは終わらせないしお涙頂戴な所もないよ♡)

友達とか知り合いに見られたら困るくらい赤裸々に書いてるから有料公開か下書きにしておこうと思ったけど、大好きな人に公開しようと言われたので普通に公開します・・・!同い年くらいの病んでる人には届いて欲しいけど、友達には届いて欲しくなさすぎる!

中国の怖すぎる幼稚園

私は小さい時から転勤族で記憶にあるだけで4個保育園に行ってるんだけど、2歳から4歳くらいまでは親の仕事の都合で中国の幼稚園に行った。日本ならまだひらがなも書けない歳だと思うけど、当たり前のように宿題とかテストみたいなのがあった。さすが学歴社会の国、中国。

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熟語を覚えたり音読する宿題

テストの成績が良い子はおでこにカボチャのシールを貼られるから、帰りにおでこにシール着いてる子がいるとあの子頭良いんだ〜みたいな感じだった。私はたまに貼られてた。早朝から広場でダンスがあって朝弱いから毎日のように遅刻してた、あの音楽マジ嫌いだったな。日中は授業的なのがあって、放課後は幼稚園の地下でクソ怖い先生にバレエを習う。股ちぎれるだろみたいな高さのバレエバー?があって、先生が来るまで激痛に耐えながらそこに足掛けて待つ。私はかなり先生達に可愛がられてたらしいけど普通に問題児だったから結構怒られてたと思う。怒られる時は骸骨の模型とかとにかく不気味な物が置いてあるベランダに追い出されて、反省するまでそこに居ろみたいな感じ。めちゃくちゃ怖かった。今思うと、小さい時から親に怒られる時にトイレに閉じ込められて反省するまで出るなって言われてたのは、中国文化なのかなと思う。幼稚園のトイレには出席番号が振られたコップ専用棚があって、トイレに入ったら自分のコップに入ってるお茶を飲まなきゃ行けない謎ルールだった。

日本に来てからも保育園を転々とした。遅刻癖が治らず、学芸会でやるブレーメンの音楽隊の役割を決める大事な日の朝にも遅刻したせいで、死んでもやりたくなかったロバ役に強制決定した。衣装からしてあれは完全にイノシシだった。仲良い女の子はみんなネコ役で悔しかった。

それと、色んな名作映画を子供でもわかるように話してくれた大好きな先生が卒園アルバムに「これからもどきどき・わくわくすることを見つけようね」って書いてたのは今でも忘れてない。物心がついて映画を見るようになってから、あの先生が言ってた話だ…!って感動した事が何回かある。先生、会いたいよ〜!

小児性愛者の東大卒2代目パパと離れ、借金二千万の高卒3代目パパと会う

ここから少し話が重くなる。私の実父は重度の鬱病で、私が生まれてすぐに離婚したから顔は見た事がない。今生きてるのかも、何してるのかも分からない。優しい人だったらしいけど、まだ幼い私をベランダから投げようとして母親は離婚を決めたらしい。

そこからしばらくシングルマザーで中国やら田舎のおばあちゃん家やらで過ごした後、私が5歳くらいの時に母親は19歳歳上の東大法学部卒のお金持ちと結婚した。その人は六本木のサラリーマンで、休日には遠い公園とか博物館とか映画とか裁判の傍聴にも連れて行ってくれた。ミャンマーは昔ビルマだったとか、パナマ運河が開通してから大西洋から直接太平洋に行けるようになったとか、道にある車道と歩道を分けるボタンみたいな目印は境界標って呼ぶとか、死刑執行のボタンは3つあって誰が押したか分からなくなってるとか、とにかく色々なことを教えてくれた。ローマの休日、モダンタイムス、サウンドオブミュージック、ショーシャンクの空にみたいな名作を一緒に見たりした。本当に良いお父さんだった。小学校に入ってからは途中まで毎日一緒に通学してくれた。でも父方の叔母さんと母親はクソ仲悪くて、家族で集まると毎回口喧嘩してて見るに堪えなくて泣いてた。大人なんだから謝れば良いのにと思ってた。

私が小3の頃、事件が起こる。父方の祖父が母親をホテルニューオータニに呼び出した。祖父は母親に、「こんな事を言うのは情けないが、息子と離婚して欲しい。」と言った。戸惑った母親が理由を聞くと、「息子の行動を見てる限り凛ちゃんのことを性的に見てるに違いない。凛ちゃんを守る為にも別れてやって欲しい。」そんな訳ないと思いつつも母親は、思い返すと小学3年生にもなった私と一緒にお風呂に入ったり、色々な事が前から引っかかっていたらしく、その日に離婚を決めた。※頭おかしいだろ!祖父は、「家もお金も全て用意するから、今夜逃げなさい。凛ちゃんの安全は私が守るから。」と言ってくれた。翌日母親は、早朝から荷物をまとめて家を出る準備をした。何も知らない私に、火事だから荷物まとめて逃げるよ!ってあまりに無理やりな嘘をついて叩き起した。いやいや、火事なら荷物まとめてる場合じゃなくない?避難しないとだよね?とか言っても全然聞いてくれず、そのまま荷物をまとめて母親と家を出た。あのまま一緒に過ごしていたら私は父から性被害に遭っていたかもしれないから、あの時に助けてくれた祖父には感謝してもしきれないと思う。けれど、実際のところ祖父は母親の事を性的に見ていた。なんと息子と離婚させて自分の愛人にしようとしていた。親子揃ってヤバい奴だった。

突然父と別れて引っ越す事になった理由も分からないまま時間が過ぎて、それっきりあのお父さんとはもう会える事はなかった。いや、一度だけ会った。引っ越して1年くらい経った時、私はそのお父さんにストーカーされていて、放課後に突然声を掛けられた。 「凛ちゃん。お父さんの電話番号覚えてる?」私は、本当に本当に会いたかったから嬉しくて仕方がなかったけど、その時にはもう既に母親には新しい婚約者が居た。妹もお腹の中に居たけど、何となく言わないでおいた。お父さんのことはずっと好きで会いたくて、本当はいっぱい話したいことがあった。でも母親が決めた事だからきっと何か相当な事があったんだろうと思って、無駄なことは喋らないでおこうと思った。「覚えてるよ、090ー〇〇〇…だよね。私は元気だから大丈夫だよ。」とだけ言ってガンダで走って家に帰った。まあ、そのストーカーしてたお父さんには元祖父が探偵を付けてたらしく、通学路の一角でお父さんと言葉を交わしたほんの一瞬もパシャパシャと写真に撮られていたらしい。この一連の事情を知ったのは15歳の誕生日だったけど、当時は何も知らないのによくあの環境の変化を受け入れられたよなと思う。まあ全然受け入れられてなかったけど。なんでもうお父さんと会えないのかとか、聞けなかった。

新しいお父さんは母親の仕事仲間で、Facebookで出会ったらしい。高卒で関西弁でちょっとヤンキーっぽくて、借金が2000万あった。借金とか知ったのは割と最近だけど、当時から少し生活が貧しくなった実感はあった。マセガキすぎてご飯屋さんで赤飯が出てきた時、「なんでいつもみたいに金箔乗ってないの?」とか言っちゃってた。引越し先のマンションのベランダで今日からここがお家だよってたかいたかいして貰った時、住宅街と学校とニトリくらいしか見えなくて、全然違う場所に来ちゃった、と思った。転校先の小学校は前の小学校とは対照的で、それまでは都内有数のかなり育ち良い系小学校(岸田文雄の母校)だったのに、転入先は都内だけどかなり田舎で1学年10クラスとかあるマンモス校だった。

黒板に初めて書く苗字を書いて挨拶した。めちゃくちゃチヤホヤされて、転校初日にクラス中の子が私の机の前に来て友達になろう、友達になろう、って言ってきて、一人ずつ対応するのがダルすぎて、「別に友達になるのって許可制じゃないから、みんなもう友達だよ(笑)」みたいな冷たい事言っちゃった。ちょうどこの頃から尖り出してきて、学校のシステムとか世界の不条理に疑問を持つようになってた。小3の掃除の時間、「指示待ち人間多すぎて効率悪くなっちゃってるよね」って友達に言ったら?みたいな顔された。尖りすぎ。
拭いた床が汚れるという理由で上履きを脱いで雑巾がけしなきゃ行けなくて、足の裏が濡れるのが嫌だった私は上履きは履いたまま後ろに下がりながら雑巾がけすれば良くないですか?って先生に物申した。そしたら何故か帰りの会で皆から拍手を浴びて、担任の先生に凛さんの上履きはこんなに綺麗です✨みたいなこと言われて見せびらかされて、その日から掃除のやり方が変わった。

前は毎日習い事で忙しくて放課後に友達と会う事はほぼなかったのに、転校してからは友達と遊ぶことくらいしかすることがなくて、田舎育ちの子は皆明るくて運動神経が良くて私の知らない遊びをたくさん知っていた。ここで小6まで過ごしたお陰で、今でも連絡を取り合う友達が何人もできた。桜蔭行く子もいれば、少年院行ったやつとかもいたけど。

ミュージカル子役時代、配信者で稼いだ時代

小2くらいの時に親の勧めで演技を習い始めて、セントラル子供タレントっていう神木隆之介とか大橋のぞみとか出身の事務所に入った。当時は同じ事務所の石井萌々果ちゃんっていう嵐の相葉くんと共演してた子が売れてて、結構憧れてた。今有名な畑芽育ちゃんも同じ事務所で、たまに遭遇して可愛いなーと思ってた。

小3くらいからアニーとかミュージカル系の子役を輩出してるクラスに移ってそこそこ楽しくやってたけど、本気で子役として売れたいとかはなかったし小4くらいで辞めた。私はドラマのエキストラか教育ビデオくらいしか出れなかったけど、一緒にレッスンを受けてた仲良かった子はそのまま子役を続けて、石原さとみの幼少期役とかやってて凄かった。

ハエが出てくるインド映画の試写会に同じ事務所の子達で出る事になって、なんかの流れで中村獅童の顔面にスプレーを噴射したりした。

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ニコニコしてる私、目ちっさ

あと、小4くらいから親が少し仕事で携わってたライブ配信のアプリでお金を稼いだりしてた。イチナナとか。ライブ配信は月に何時間ってノルマがあって、達成すると一定量お給料が貰えるシステムだったはず。確か当時はニコニコ全盛期ではないけど踊ってみたとか流行ってて、りりりちゃん大好きだった私はハッピーシンセサイザとか金曜日のおはようとかヒビカセとかハッピーハロウィンとか踊りまくってた。たまにらららコッペパンとか流しながらお喋り配信とかして、数十人とかしか見てなかったけど投げ銭してくれる人はいっぱいいた。キモいリスナーもいたし、仲良かった配信者の人が後に逮捕されたりとかもしたけど。当時人気だった配信者の人達と新年オフ会的なので会って、渋谷のカラオケで皆で女々しくてとか歌った。マジでなんでか分かんないけどキッズモデルのファッションショーとかも出るようになった。

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高校生のお兄さんお姉さん達とやってた
ダンスボーカルユニット
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キッズファッションショーもどき

何のイベントか忘れたけど、モデルの人が集まってダンスとかランウェイをするクラブみたいな所でお兄さんお姉さんに超可愛がられて、洋楽のノリ方とかを教わった。この時期にEDMとか好きになった。小学校時代はずっとこの日が人生で1番楽しかったって思ってた。大人にチヤホヤされるのが嬉しくて渋ハロとかも小2くらいから行ってた。

思えばこの時(小4くらい)にTwitterを始めて小松菜奈を好きになってOrangestarを聴くようになって、浅野いにおに出会った。インターネットには私の知らない世界が広がっていてどんどんのめり込んだ。でも学校での素朴で古典的な遊びと両立してたお陰でインターネット廃人にはならなかった。

中学受験を決め、恩師と出会う

小学校は公立の小中一貫でそのまま中学に上がれたけど、何となく治安も悪いしもっと良い所に行きたいと思って中学受験を親にお願いした。もちろん私の家は受験なんて縁のない家庭で知識があまりにも無かったから、親の受験とも言われる中学受験には悪戦苦闘した。SAPIXとかに入れる学力は無かったから小5の夏に家庭教師を始めた。45歳くらいの男の先生だった。この先生が本当に素晴らしい人で、私の人格形成に大きく影響を与えた一人だった。学校や家で教えてくれない大切な事を沢山教えてくれた。大統領の息子とかも教えた事があるっぽい人だった。それまで人並みにしか勉強をやって来なかった私は、算数とか社会とかが本当に出来なくてもちろん長時間勉強した事もなくて、全然計画通り行かなかった。飽きっぽい私の為に毎回美味しいお菓子を机に置いて、たまに雑談もしながら授業をしてくれた。ベルギーチョコとか高めのお菓子もくれたのに、私は味が濃すぎます…とか言って生意気に断ってた。

方程式は〇と×じゃなくてxとyで教えてくれたし、等差数列の一般項は初めの数+(数− 1) × 差とかじゃなくてa_n = a₁ + (n-1)dって教えてくれた。先生は、まともに本を読んだ事がない私にミヒャエル・エンデのモモをお勧めしてくれて、私が書いた感想文一行一行に花丸をつけてくれた。1番好きな本になった。ただ勉強面だけじゃなくて私の人間的な成長を願って色々な事を話してくれたのが嬉しかった。

先生はよく正義の話をしてくれた。もしホロコーストの時代にユダヤ人の友達に家で匿ってくれ、とお願いされて、ナチス軍が家に来た時、嘘をつかずにどうやってその友達を守る?先生は、「ここにユダヤ人はいる。けれどあなたには渡さない。これが正義」って教えてくれた。戦うことが正義なんだ、と思った。優しさは弱さじゃない、優しさこそ強さだ、っていつも言ってた。ここで私の今の正義感ならぬ正義観が生まれて、常に優しくいれば先生みたいになれる、と思い始めた。私はお父さんと会えなくなってから本当に寂しくて、何も知らない受験競争の世界に足を踏み入れてしまって、不安だらけだった。それでも先生は凛さんを小学生としてじゃなく一人の大人として、人間として接したい、と言ってくれた。そんな事誰にも言われたこと無くて、とにかく嬉しかった。新しい若いお父さんの事は母親の彼氏くらいにしか思えなくて、お父さんとも呼びたくなかったから、私はこの先生に依存した。お父さん代わりの存在だった。小3からインターネットに入り浸っていたせいで小5で厨二病が来て、色んなストレスでリスカとかもするようになった。

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親に反抗して、大荒れのロフトベッド

もう何もかも嫌になりましたって内容の手紙を渡した時には長文で手紙を返してくれて、リスカ痕に気付いてもその場で言わずにゆっくり話を聞いてくれた。病んでる時にはバイクに乗ってパフェでも食べに行こうか、と言ってくれた。バイクは怖いから嫌だ、って断った事は今でも後悔してる。行けばよかった。あんな青春ないよ。私の事をいつも心配してくれて、私の親には連絡先を教えていなかったのに私にだけ連絡先を教えてくれた。それからずっと電話帳に登録してたのに、間違えて全消ししちゃってからもう連絡手段が途絶えた。また会いたい。

小さい頃からあまり料理が得意じゃなかった母親は小学校も中学も高校も朝ごはんとかお弁当とか全然作らないし、もちろん勉強も教えられないから、友達の家はああなのにこうなのに、って思うことがありすぎて喧嘩が増えた。リスカがバレた時は、普通リスカって腕の内側にやる物だし構って欲しいのバレバレだよ、みたいな事を言われた。自殺しようとして何回も家のベランダから飛び降りようと思ったけど、やっぱり怖くて出来なかった。母親には、死にたいなら死ねば良いじゃん、1人くらい死んでも何も世界変わんないよ(笑)って言われた。その一言で私は余計に誰からも必要とされていない、と思うようになってしまった。

小5の時にたまたま親のハメ撮りを見てしまってから人生が壊れた。新しいお父さんとの見た事ない母親の姿を見て心が苦しくなった。何個も動画があったから全ては見てないけど、当時の私にはそれが楽しそうに見えなくて、拷問されてるようにしか見えなかった。元彼との手紙とか、誰?みたいな人とのキス写真とか、見たくもない母親の女の姿を見るのが嫌だった。中学に上がる頃にもそういうことはあったけど、不仲よりマシだと思って見て見ぬフリをした。母親も毒親育ちだから色々と仕方がないのは分かっているし、今となっては愛されてないんじゃなくてただ不器用で子育てに不慣れなだけってわかるけど、それでも当時小学生の私にとっては、唯一の母親だから色々と期待してしまってた。

模試の日に母親と喧嘩して受験会場まで行けなかったり1月にドラクエにハマったりしたけど、結局何とか志望校には合格した。先生は超優秀で数々の生徒を名門中学に合格させてきた実績があるのに、私は勉強サボるし頭悪いせいで小6の時に最初に思ってた志望校とは20くらい偏差値下げたけど、先生は合格を聞いて泣いて喜んでくれた。初めてのセーラー服、初めての電車通学にワクワクしてた。

底辺女子校に入学  

晴れて中学生になった。地元の公立中とは違って制服が可愛くて校舎が広くて購買も食堂もあって最高だった。結構真面目に授業聞いてたしテスト勉強もしてたけど、中1から問題児クラスに配属されて校則はバカ厳しかったから色々怒られた。

体育の時間に皆が話聞かなすぎて先生がブチギレて、学年主任とか5人くらい先生が来て説教された後、体育の先生の前に1列に並んで1人ずつ謝りなさいって事になった。「すね毛ばっか抜いててすいませんでした」「喋っててすいませんでした」とか言いながら許されたら右、やり直しならもう1回並び直す感じで、許された生徒はその先生の背後からやり直しの私達に「頑張れ頑張れ‼️」みたいなうざいジェスチャーで笑わせてきてそれ見て笑って無限ループ、みたいなこともあった。

放課後居残れる制度があって、19時になると食堂が消灯するから消灯した瞬間に鬼ごっこを始めるのがルーティンだった。ある日いつも通りやってたら副校長が食堂に入って来て、「何年何組何番?(説教が始まるお決まり文句)」って言われたけど、暗闇でお互い顔見えないから普通に誰も名乗り出なくて、明日の朝までに名乗らなかったら保護者呼ぶって言われた。

お宅の子は発達障害だと思いますって担任に言われてた天才問題児の友達がこのピンチを救った。「居残ってる生徒のファイル(タイムカードみたいなシステムだった)ごと抜き取って帰ればそもそもうちら存在しない事になるくね?」その子はファイルを抜きに行って他の私達は門を出た。しかも暗闇で説教されてた時に一人の子がスクバの中でインライ始めてた(スマホ禁止だからバレたらスマホ1ヶ月没収なのに)から、その説教中継を見てた校内に居残ってた友達が「先生あっちいたよ!」とか教えてくれた。全員のファインプレーで先生に遭遇せず帰れたし、後日も呼び出されなかった。

部活はソフトテニス部に入った。仮入部の時にボールを住宅街まで飛ばしちゃって才能あるよとか言われて、練習も楽しかったから入った。あと高1のボーイッシュな先輩が好きで憧れてた。上下関係は厳しかったけど中1から試合が沢山できる部活だったから普通にテニスが上達した。都大会も何回か出れて、対戦相手がサーブミスしまくるザコだったお陰でベスト8になった。ワロタ。夏休みの合宿は5泊6日でご飯がとにかく多くて、残したら先輩に怒られるしパセリまで食べなきゃいけなかった。ガチで苦しい顔してる友達を見て友達の分のご飯も食べてあげてた。なのに宿舎からコートまで1km走らなきゃで、持久走学年ビリだった私は(物理的に)先輩に背中押されながら何とか走ったけど、朝から友達の分の目玉焼き3個とか食べてたせいで着いた時には試合ができる顔ではなかった。中1はこんな感じで割と青春してた。

ダークサイドと化した地元で怖い先輩に可愛がられる

中学入学と同時に引っ越して学校も変わったから小学校の子達と一切会わなくなっちゃって、中2になって久々に皆がいる田舎戻って遊ぼうって事で懐かしの公園で集まった。

私達にとっては公園に行けば誰かがいるみたいな感じで思い出の場所だったんだけど、久々に帰ったら煙草とか吸ってスピーカー大音量で流してるヤンキー達が溜まってた。「は?ウチらの溜まり場って今こんな汚染されてんの?」って言ったら「そう最近〇〇中の奴らが占領してんだよね」「マジだるいよね〜」「いやあんま凛大きい声で言わないで、ガチ怖いからアイツら」って友達に言われた。でもそのヤンキー軍団の中に元々仲良かった小学校の子がいて(別人級にグレてた)その子経由でヤンキー達にちょっと認知され始めた。気付いたら私はそっちのヤンキーグループと絡むようになって、HIPHOPとかラップもそこで一気に詳しくなった。
(AKー69、ANARCHY、舐達麻、JPTHEWAVY、AKLO、REALーT、KOHH、AMBR、OZworld、775、Red Eye、¥ellow Bucks、kZm、変態紳士クラブ、TOM、dodo、SALU、ZORN、韻マンとかが流行ってたかな)

軟骨もあけたし色んな不良文化も学んだ。煙草の銘柄とか、先輩には常にお疲れ様ですって挨拶するとか、恋人居る人はチャリとかバイクで2ケツ3ケツする時に異性を乗せないとかそれくらいだけど。みんな警察の事をサツとかポリとかマッポとか意味不明なワードで呼んでた。ケツ持ち(何かあった時に責任取る係)の先輩は鑑別所行ってたけどマジで優しくて皆のお父さんみたいで好きだった。私がしばらく行かなくてもいつでも来いよ!押忍!とか言ってくれた。彼氏も好きな人も出来なかったけど酔った先輩にキスされてひ〜みたいな事はあった。その界隈の人達はすぐ喧嘩するしすぐbad入るしすぐ付き合うしすぐ別れるけど、全員思った事ハッキリ言うから清々しくて面白かった。

あとこいつらの好きな所は女に優しい所で、男同士だと暴力とか脅迫とか当たり前なんだけど女の子には手を出さないのが暗黙のルールだった。女相手でも「お前焼きな」とか言うけど実際に痛い目に遭うことはなかった。しかも私は遠くから来てるから仮に目付けられても怖くなかったし、普通に中2の時は結構顔が可愛くて怖そうな先輩にも一瞬で好かれた。帰りはたとえ初対面の人でもチャリとかバイクで駅まで送ってくれた。パト鬼?ポリ鬼?名前は忘れたけど、チャリとかバイクで警察から逃げる鬼ごっことかもした。女は男達の持ってる煙草を回収してゼンリー見ながらコンビニ前とかで応援しつつ男達は全力で逃げ回ってた。
〇区と〇区があそこのモール前で集団喧嘩する決戦の日みたいなのもあった。友達が面白半分で見に行ったら床に血がついてたのを目撃してた。

冬に家帰りたくなくて高1の女の先輩の家に泊まらせて貰った。一緒にtiktokとか撮ってたら、ブルーベリー味のiQOS吸いながら「あたし妊娠しちゃったかもしんないんだよね」とか言われて、避妊が読めない私は「委任?してないんすか?」とか言った。帰りが遅くなる日が続いたせいで、ある日は家に入れて貰えなくて制服のままマンションのロビーで寝て朝は警備員さんに起こされてそのまま学校行ってた。スマホも何回も解約されたし中2でキッズケータイになったりした。初めてスマホ解約された時はマジで世界の終わりみたいな気持ちになるけど、何回もされるともう全然冷静に受け入れられるようになる。学校に行けば友達がいるし友達のスマホとかPCでインスタ入れたし。本当に人間って慣れるもんで、例えば私の親はよくうっかり鍵を閉めて家を出るんだけど帰りが遅いから鍵を持ってない私は家に入れない、みたいな事がよくあって、小1の時は普通に家のドアの前で宿題やってランドセル枕にして寝てたし、何回もされると全然動じなくなってた。話を戻す。中3の春休みから自粛が始まって段々集まりには行かなくなって、成績はガタ落ちしたけど中3も何とか成績上位者のクラスにいれたから中学の仲良い友達とは離れずに済んだ。

家出と入院

中2の冬、親の仕事の都合と妹を育てる環境とかも考えて引っ越す事になった。11月の夜、急に車で物件を見に行く事になった。何故かわかんないけど急かされて、ほぼ外出ないからそのままの格好でいいから!とか言われてスマホも持たずに半袖半ズボンの部屋着のまま車に乗り込んだ。物件を見終わって先に親が車に戻って、私は遠くからゆっくりついて行って車に戻ろうとすると、さっきまで停めてあった車が無かった。

同じ場所で10分くらい待っても全然来なかった。私は完全に、あ、捨てられたんだ、と思った。初めての土地でこうやって置き去りにする作戦か、と思った。普通そんな思考になるはずがないと思うんだけど、当時の私はそれ以外考えられなかったし、自力で家に帰ろうとかもなかった。自分から家出とか道で怒られて置いてかれるとかは何回かあったけど、今回は車で知らない土地に連れてこられたせいで完全に親の意図だと思った。そっちがその気ならやってやるよと思って、とりあえず近くの公園で2時間くらい時間を潰したけど、冬の強風の夜に半袖半ズボンは寒すぎたから、コンビニのイートインスペースで時間を潰した。なんかもうお腹痛いしうつ伏せで泣いた。隣に座ってたお姉さん達が鬼滅の一番くじを開封してキャーキャーやってて、その隣にお爺さんが一人で居たっぽかった。お姉さんたちが「この子大丈夫ですかね…?」みたいな事をお爺さんに聞いて、「さっきからずっと泣いてる。」みたいな事をボソッと言ってたのが聞こえた。2時間とかイートインいると、流石に店員さんも心配してカイロと飲み物をくれた。本当にありがとう。でも多分既に外でずっと座り込んでたし腹痛と吐き気がエグくて唸ってたら店員さんが救急車を呼んでくれた。初めての救急車デビュー。絶対体は救急車なんて呼ぶレベルじゃなかったと思うけど、結構死を覚悟するレベルの腹痛ではあった。慈恵医大に運ばれて3日くらい入院した。点滴とか色々やってすぐ体調は良くなったけど、家に帰りたくなさすぎて色んな人に助けてよ〜‬т тって顔してた。病室には毎日のように色んな人が入ってきた。医師の佐藤です、看護師の木村です、ソーシャルワーカーの鈴木です、みたいな。もう何人もの人が私の話を聞いたり様子を見てくれたりした。看護師さんがまた怖くなったり嫌なことがあったらいつでもここに電話かけてねって病院の電話番号を渡してくれた。この件がきっかけでしばらく児相にもお世話になった。親は全然置き去りにするつもりじゃなかった、って言ってたけど、じゃあどういうつもりだったのかは知らない。捜索願も別に出してなかったし私を探しに行ったりもしてなかったっぽい。退院して最初は親に心配されたけど、その後は救急車乗るのだって金がかかんだぞって言われた。そうだよね。私の命はいくらなんだろう。

理不尽教師に反発し、高校受験する

中2くらいから学校の先生には殺意湧いてて、校則も厳しいし反省文書けとか教祖の像の前で謝れとか頭おかしいしやってらんねーとは思ってたけど、中3の体育祭から決定的に流れが変わった。予行練習である子がダンスの振り付けをミスっただけで怒鳴りつけられて学年全員の前で見せしめにされた。炎天下の中、私のクラスだけ5時間くらい外で練習させられて体調不良で早退する子もいた。小さい事で怒られまくってクラスの子達が「私のせいでまたやり直しになってごめんね」とか言いながら皆で泣きながら練習した。私は見てられなくて、「なんでそういうやり方でしか教えられないんですか?」とか言って先生に刃向かってたら、学年一怖いダンス部顧問のババアにピアスがバレて耳引っ張られながら前に出されて、「お前のせいで学年全員に迷惑かかってんだから全員に謝れ」「もう明日から学校来んな」「高校の推薦も取り消すぞ」とか言われて、は〜い♪と思って翌日から山口のおばあちゃん家に遊びに行った。

前々から教師の指導方法が体罰じゃないかって親からのクレームはあったけど、体育祭の時期にそれがピークに達した。私の親も先生のやり方は酷いから学校行かなくて良いんじゃねって言ってくれた。友達とは常に、こんな牢獄高3までキツくね?とか言ってたけどこの日をきっかけにマジで辞めてやるわと思った。私の学年の先生がハズレだったせいで、高校受験する子とか通信に移る子とか15人くらい居た(大学附属の中高一貫では有り得ない人数だと思う)。

11月に今から高校受験はできるのかどうか塾に相談に行って結果入塾して、12月に退学届を出した。(高校を変える為にはまず退学しなきゃ行けなくて、高校落ちたらやっぱり内部進学とかは無理だった)私立なら3科目で受験できる事を知った。志望校はとにかく中学と真逆な所が良いと思って、校則が緩くて共学でグローバルな感じで〜って言ったらここしかないね、って中学受験の時に最初に志望してた偏差値全然足りなかった高校(の姉妹校)を出された。死ぬ気でやれば行けるって言われた。なんかもう本当に教師に人格否定されすぎて見返したくて結構勉強した。入試まで2ヶ月半とかしか無かったからやるしかなかった。12月1日の修学旅行を目一杯楽しんで、その翌日から本格的に受験モードに入った。

1度も受かりそうだと思った事は無かったけど、やれる事はやったからこれで落ちたらそういう運命だと思った。奇跡的に受かった。数学は全然ボロボロだったけど英語の長文がたまたま知ってる内容が出て少し手応えがあった。それでも普通に採点ミスか何かの間違いだと思ったけど、本当に嬉しかった。

受かった後は中学のZoom授業に乱入して挙手したりコメントしたりして、皆の代わりに先生に怒られるようなことをした。同じく高校受験した友達と遅刻で学校行って、出来るだけの校則違反をしまくった。何を言われても「いやでも学校辞めるんで(笑)」の一言で論破できた。

まあ実際入ると周りは見た事ないくらい優秀だったからついて行くのはめちゃくちゃ大変だったんだけど、中学の時みたいな校則や先生達の縛りからは解放された。でも中学の子達とあそこまで仲良くなれたのは間違いなく先生がうざかったからだった。“一緒にクソみたいな学校生活耐え抜こうな、いつかは脱獄しような”的な強い絆があった。新しく入った高校の先生は皆良い人過ぎて、先生の悪口も先生のモノマネも生まれなくて、生徒もみんな良い子で勉強できるからなんか中学の友達程は仲良くなれなかった。あと帰国子女ばっかでセレブが多くてシンプルに話が合う子が少なかった。劣等感は常にあったけど、新しい世界を知れたから入って良かったとは思う。

塾の男にストーカーされて塾辞める

高校受験の時に入った個別塾で出会った2個上の男と一瞬付き合った。まず中3の冬は毎日朝8時から夜22時まで自習室にいたから、この人毎日いるなみたいな感じで必然的にいつメンを認知するようになってた。

ある日、授業の先生が香水臭すぎて先生を変更したくて、変更できるとは聞いてたけど実際変えたらその先生にバレるのかなとか思って勇気を出せずに受付の前で芋ってたら、180cmくらいのいつも自習室で会う陽キャ男が「何してんの?先生呼ぶ?」って言って先生呼んでくれたのが最初の出会い。彼は受付で先生とよくタメ語で喋ってるのをよく見かけてた。その後先生待ちの時間で、「ありがとうございます…!てか何歳なんですか?いつも自習室いますよね」とか言ったら、「え…?!高2だよ。そうそう」とか言われた。
その数日後、自習室で勉強してる時に急に消しゴム拾ってくれたかと思ったらなんかメッセージが書かれた紙を筆箱に入れられた。

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理系の男って皆この字だよな

いやこんな漫画みたいな事してくる人いるんや、と思いつつ、私も先生を呼んでくれたのは助かったし喋れて嬉しかったからこれにお返しを書いた。でもなんか、それまでただの顔見知りだったのに喋っちゃうとよっ友みたいになって勉強集中出来なそうだったから、その日からいつもと違う自習室で勉強するようにしてたのに、こっちの自習室に来てまで渡されたから完全に避けてるのバレたわと思った。

私は、「中3の〇〇です。あの時はありがとうございました!私は12月から受験勉強を始めて死ぬ気でやらないとなので、あえて視界から外してました…笑 いつも長時間勉強凄いと思います」的なお返しを書いて渡した。そしたらまた付箋を渡された。いや喋れよ。

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またね~

予備校あるあるだと思うんだけど、お昼とか空きコマの時間は近くのコンビニに皆行くから、そこで塾の人と遭遇するみたいな事がよくあって、その時にまた彼に話しかけられたりして、1ヶ月くらいで仲良くなっていった。たまに数学を教えて貰ったりもした。休日にスタバで一緒に勉強する事になって、一緒に勉強していくうちになんか結構好きムーブされて、ある日は疲れた時に私の肩に寄っかかってきたりした。あざといと思ったけど、彼は国立の医学部志望で数学がバカみたいに出来て、面白い本とかも読んでて結構尊敬してたから好きになった。てか学ランのせいだと思う、背高くて学ランなだけでクソかっこよく見えてた。

毎日その人に負けたくなくて勉強を頑張ったから、高校受験は完全にその人のお陰で合格できた。どっかのカフェの「Fresh is best and that is true of pasta」って書いてあるメニューの和訳を彼が出来なくて私だけ出来た時は嬉しかった。中3にしては凄いと思う。( ※be true of = 当てはまる、というイディオムなので、新鮮さが1番、そしてそれはパスタにも当てはまるという意味)合格した後も高校のえげつない授業進度について行く為に塾を続けて、ずっと受けてみたかったスパルタの英語の先生(彼の担当でもある)の担当になった。

高1の4月とかに彼に告白されて付き合って、塾終わりにちょっと遊ぶようになった。映画館行って手繋いでカラオケでキスとかして平和に過ごした。ある日、私の中学の友達(生徒会長)も私の影響で同じ塾入る事になった。私は彼と仲良いとは言ったけど付き合ってるとかは言ってなくて、その子も勉強熱心な子だったからたまに彼に勉強を教えて貰ってた。でも私は中学とは全く違う国際色強めな共学に入ったことで、毎日刺激があったから彼の事とか結構どうでも良くなってた。英語が話せて運動出来る先輩の方がかっこいいし。毎日褒めてくれる友達や先輩のおかげで英語への憧れとモチベーションがとてつもなくあった。

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あまりに帰国子女な先輩

高1の6月には、彼からのLINEとか電話もめんどくさくなってきてて、小さい事に嫉妬されるのもだるかった。自習室に行く頻度も減ったから彼と会う事も少なくなった。そんな時、友達からその塾の近くのしゃぶ葉で彼と私の友達(生徒会長)が2人で居たってタレコミがあった。そんなはずがないと思って詳しく聞いたらガチっぽくて、なんか2人とも一気に嫌いになった。その友達は凛ちゃんと〇〇君を応援してるよ♡みたいな事を常に言ってたし。とりあえず彼の事も好きじゃなかったし別れようって言った。その数週間後には別の私の中学の友達と寝落ち電話してたみたいな噂も聞いた。なんならその子も入れた3人でIKEAに行ったとかも聞いた。二股してた彼よりも今まで仲良くしてきたあの超真面目ちゃん生徒会長の友達が当たり前のように人の男を取ってたのが信じられなかったけど、性格は良い子だったからもし認めて謝罪されたら許してまた仲良くしたいと思ってた。でもその子に問い詰めたらめっちゃ開き直ってた。実際どこまでしたとか知らないけど呆れて全員ブロった。今思うと彼と付き合ってる事を隠した私が悪い。

何も知らない彼は急に凛と音信不通になった!って私の友達に急に連絡してきて、授業に来ない日は鬼電が来たりして余計にキモかった。それ以降、彼の顔も彼がしてきた行動全てが無理になって塾に行く度に彼を見ると吐き気がした。ある日彼に塾で個室のブースの中まで入って喋りかけられたのが怖すぎて、その後のスパルタの英語の先生の授業中に号泣しちゃった。先生には理由は言えないけど悲しい事があった、とだけ言った。その帰りに彼に泣き顔を見られて最悪だった。しかも、彼がその後その英語の先生に「なんで凛泣いてたの?」って聞いたらしくて、先生は「私がスパルタすぎて泣いちゃった」って咄嗟に誤魔化したらしい。気を利かせてくれたつもりなんだろうけど私はそれが許せなくて、涙が止まらなかったのはアイツのせいなのに、先生に怒られたごときで泣くような奴だと思われたのがマジで腹が立った。

10月になっても彼に粘着されてて、塾帰りストーカーされまくってマジで怖くて塾を辞めた。先生の事は本当に大好きだったから悔しかったけど。街中でアイツに似た高身長マッシュを見ると心臓が止まりそうで過呼吸になるくらいトラウマになった。今思うと全然酷い事されてない気がするけど、あの時の私はマジで彼が恐怖そのものだった。あんなに真面目で勉強出来る奴が平気でそんな事するんだ、って普通に人間不信になった。

好きな人が歩けなくなる

高1にTwitterで音垢を始めて、ライブとかフェスに頻繁に行くようになった。夏頃に音垢に擬態してるアニメアイコンの21歳の男と出会って、最初から猛アタックされた。ガチの出会い厨じゃなくてネタでそういうムーブしてると思ってたから当然会おうとしなかったけど、高2の時そいつが本当に会わないと死ぬとか言い出して、話す限り悪い人じゃなかったから近所の交番の近くで会った。初対面なのにいきなり私の髪の毛食べようとしたり手繋いでこようとして恋人みたいな距離でドン引きしたけど、なんか想像通りのキモさでちょっと好きになってしまった。私も私で頭がおかしい。リアコ相手に奇行をしちゃう感じが面白いと思ってしまった。

磨けば光る陰キャオタクみたいな顔の理系で、放っておいたら自殺しそうで、声はうみべの女の子の時の青木柚みたいな感じのメンヘラだった。一緒に心中したいとか凛になら殺されたいとか一緒の墓に入りたいとか漫画みたいな事言ってた。それから毎日のようにLINEするようになって、歯磨きするだけで褒めてくれるし、私は塩対応でも相手は毎日好き好き言ってきた。結婚も同棲もしたいとか言われて流石に軽率すぎると思ったけど、まあ不器用なオタクなりのアピールなんだろうなと思ってしまった。結婚ってワードを出される度に無責任な事言うなって毎回ブチ切れてたはいたけど。

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日常茶飯事LINE

高校生を狙う成人男性は頭がおかしいのは分かっていたけど、付き合おうとかホテルに行こうとかは無かったし、ただ楽しく話せて純粋に愛してくれているギバー男だと思った。話が面白いのはもちろん、毎日可愛い可愛い好き好き愛してるだから、自己肯定感は自然と高くなって居心地が良かった。女子校では友達の誕生日0時ぴったりに長文で誕生日を祝う風習があるって言ったら誰にも負けたくないって言って私の誕生日には2000字くらいの怪文書を送ってきた。出会った時から可哀想オーラが滲み出ていて、孤独そうで、それでも健気に愛を伝えてくれるこの人の事は理解してあげたい、大切にしたいと思ってしまった。この年の差で付き合うのはキモイから高校卒業して私が好きだったら私から告白するねみたいな事を言った。というか、相手が高校生に手を出すキモい成人男性、になって欲しくなかったから。

3回目くらいに会った時、満喫でゴールデンカムイを読むことになった。私は満喫が個室なのを知らなくて普通に金カム目当てで行ったけど、個室で案の定襲われた。脱がされそうになって蹴りまくった。でも既に出会って1年経っててそれまでそういう誘いは一度も無かったし体目的とは思えなくてキスだけした。2時間くらい。それでも不信感は募ってモヤモヤしてた。

そんな時に彼は難病になった。心配させたくなかったみたいでしばらく教えてくれなかったけど、神経系の病気で手足の末端から徐々に麻痺してくるやつだった。満喫の時には今にもコケそうな歩き方だったけど、その後は杖になって、半年後には車椅子になっていた。箸をまともに持てなくなって、車椅子になってからはご飯屋を探す時も段差があるだけで入れなかった。余計に、何もしてあげられない私は支える事しかできないと思って、今まで冷たくしたり愛情表現を返してあげなかった事を後悔した。病状を詳しく知らなかった時、私は良くなるのを待ってるから会うのは治療が終わってからで良いよみたいな事を言ったら、「なんで治ると思ってんの?治らないから、そういう事二度と言うな」ってキレられた。本人は空気が重くなるから絶対に病気の経過は報告したくないって言ってて、でも私としては詳しい事も分からないのに会う約束なんて立てられないし、治療を優先して欲しくてすれ違いが起きるようになった。彼は入退院を繰り返していたけど、どのくらい病気が酷いのかもずっと分からなかった。あまりに状況が重くて、彼に酷い事を言われても彼を傷付けた私が悪いんだと思い込んで、彼の理解者になろうとした。完全に盲目だった。周りの友達には誰にも言えなかった。だからベテランちに相談した。ベテランちこと青松輝は、本当に優しい。優しい人、好き。

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そいつの性格が一変して学歴詐称・性犯罪が判明、やっと目を覚ます

難病だから自分は幸せに出来ないかもしれないみたいな事を言われて少しずつLINEも来なくなって、本当にしんどかった。相手が難病で私は受験生というお互いにとってストレスフルな状態で余計に関係が悪化した。病気になってから彼は、モラハラ発言が増えた。というか何を言っても地雷を踏むようになった。「今週の金ロー見てないのは人外だわ」って冗談ぽく言っちゃって、それ以降俺は人外だからとか、すぐ障害者バカにしてるだろとか俺は人権ないもんねとか言うようになった。自分がそう信じたいだけかもしれないけど、明らかに病気になってから人格が変わってしまった。それから車椅子だから遠くに行けない、前みたいな外デートが出来ないって言うから、ビジネスホテルのデイユースで一緒に時間を過ごした。何回か襲われた。(一応言及しておくと、彼は車椅子ユーザーでありつつ立ったり補助付きでゆっくり歩く事はできる)でも完全には体は許さなかった。半分、許したけど。きっともう、情で付き合ってるだけで本当にその人の事が好きではなかったんだと思う。この人には私がいなきゃだめだみたいな。あと単純にステロイドで太ってきてて顔が全然変わってた。モラハラされる度に私は謝ってスルーし続けていたけど、たまに正論で返すと彼は必死に謝ってきた。きっと彼は、私がそれまでずっと優しく居たから何を言っても大丈夫だと安心しきっていて、そんな私に離れられるのが怖かったんだと思う。この頃にやっと初めて友達にふわっと彼のことを話した。友達には、「それ、グルーミングじゃん」って言われた。

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Wikipedia引用

私はやっと目が覚めた。調べれば調べるほど、私のことが書かれていた。もちろん病気の事があるから、余計に状況は複雑だったんだけど、そのせいで客観視出来ずにいて自分が被害者だなんて微塵も思っていなかった。いつも可哀想なのは、彼の方だったから。性的暴行じゃなくて彼なりの愛だと思ってしまってた。

そんな時に、彼に消されたサブ垢のアイコンが知らない女に変わっていた。彼と共通の先輩友人いわくそのアイコンは最近付き合い出した元カノで、それに加え裏で私の悪口も言ってたらしい。でもその共通の先輩友人も結構だるくて、彼が私の悪口を言ったとか元カノと付き合いだしたとかは教えてくれたのに、詳細までは凛ちゃんが傷付くから言えないとか言って、体裁を保とうとしていた。彼より私を選んで教えてくれた事に歓喜していたのに、実際は全然彼サイドだった。後日、本人に問い詰めたらあれはインフルエンサーで拾い画だからとか言って嘘に嘘を重ねて誤魔化しながらまだ私と関係を続けようとしてきた事に呆れた。私が怒っても泣いても無駄だったから、落ち着いて諭した。

まあ付き合っていないと言いつつ事実交際ではあったけど、もう好きじゃなかったし浮気するなとかは言う資格はなくて、ただ人として彼の事は好きだったから恋人じゃなくてもずっと味方で居たくて、人として間違った事はしないで欲しかった。悪いことすんなって言ってんじゃないの、ダサいことすんなって言ってんの。と思った。裏で悪口を言うとか、元カノとヤッた話を周りに言いふらすとか、ダサすぎて。あいつは医学部再受験の為に勉強してたけど、勉強なんかより大切な事を忘れていた。何より私の容姿も性格も裏では悪く言っていたのが許せなかった。私が夏に埋没した時、彼は誰よりも褒めてくれたけど、私が彼のモラハラ発言に説教して以降、偽物の二重の女は無理とか散々な事言いふらしてた。そういうダサい所を全て挙げた。人に敬意を払わなかったら尊敬どころか誰からも相手にされなくなるとか、寂しいならお金を払って合法的にセックスすれば良いのに、女の子を傷付けるやり方で寂しさを紛らわすのはダサいとか。でも彼の良い所を知ってるから、もう付き合うとか絶対に無理だけどこれまでの事は全部許すよって言って、保護観察状態にした。彼はその後、友達に凛が優しすぎて泣いてる、元カノより大事にするべきだった、みたいなLINEを送っていた。

しかしちょっと時間が経つとやっぱりイライラしてきた。甘やかしすぎた。私はもっと彼に深い傷を付けて縁を切るべきだった。それにほぼ浮気?二股?状態で付き合いだした何も知らない元カノが可哀想だと思って、勇気を出してDMした。彼の事はどうでもいいからこれ以上傷付く女の子が増えて欲しくなかった。「初めまして、高3の凛です。今は〇〇さんとは絶縁しているけど、もし〇〇さんの彼女さんだとしたら、話したいことがあります。」的なDMを送った。そしたら元カノさんも虚言や女関係に勘づいてたらしく、本人にクソブチ切れてくれた。私彼の実家知ってるから凸る?って言ってくれた。あと、普通に犯罪だから警察に行こうって言ってくれた。私は全部これまでの事は許してるし大事にしたくなかったからそれはしないって言ったけど、その数日後、元カノさんにまた別の未成年の女の子から私が送ったのと似たようなDMが届いた。

そこで初めて、彼は何人もTwitterで未成年の子に手を出してた説が浮上した。他にも被害者がいるかもしれないと思うと、正式に手を出された私が戦わなきゃ、みたいに思った。グルーミングは立派な性犯罪だから。私は塾の帰りに交番に寄って、事情を話して犯罪になるかどうかを聞いてみた。詳しく聞きたいから署に来て欲しいと言われて、3時間くらい女の警察官に事細かくされた事を話した。親にも絶対に言いたくなかったけど、どこかの女の子の為になるなら、と思って比較的言いやすかった父親に全て話した。証拠があって民事で訴えられたら300万くらい取れる内容だったらしい。でももう数年数ヶ月前の話で証拠もなくて、それは叶わなかった。元カノさんとはその件でしばらく連絡を取って、一緒にどうしたらあいつに復讐できるかだけを考えてた。もちろんめちゃくちゃ愚痴ったりもした。

そこで判明したのは、彼は慶應の薬学部ではなくFランに通っていた事、飯田橋で一人暮らしはしてなくて埼玉の実家に住んでいた事、創価2世だった事、だった。病気になってから転部するとか再受験するとかは聞いてたから、埼玉の実家に戻って地元の大学に編入したかと思ってたけど、元カノさんとの話を照らし合わせると全然辻褄が合わなかった。もうとにかく虚言癖だった。あらゆるコンプが凄くてプライドが高くて私にはめちゃくちゃ見栄を張っていた。元カノさんの記憶を頼りにGoogleビューで実家を探すと、公明党のポスターといつも着てた服がベランダに干されてるのが見えて、二人で爆笑した。創価学会の信者だったのはびっくりしたけど、思い返すと神社を通っても鳥居は絶対にくぐらなかったし、初詣も行った事がなくて、私が「そうかそうか、創価学会」とか言ってふざけた事を言った時は反応がピリついてた。宗教の話は異常に嫌ってたから、科学的な事しか信じないタイプなのかなと思ってたけど、2世だと聞いて納得した。多分、幼い頃から嫌々宗教を押し付けられてたんだと思う。

彼の実家に私の父親が凸った時、彼の親は普通なら私の息子が?!ってなるはずなのに、「なるほどなるほど事情は分かりました、ですが事実確認をして第三者を通して話さないと分かりませんので…」みたいな落ち着いたロボットみたいな対応だった。息子がやらかした割に落ち着きすぎていた。初犯じゃねーなこいつ、と思った。事実確認の為に彼・彼の母親・私・私の父親でインターコンチネンタルの一角で話す事になってたが、当日逃げられた。炙るぞマジで。

何度か手続きの為に警察に行って、話を聞いた刑事のお兄さんとか警察の人とかは皆私よりブチ切れてくれてて、生活安全課の女の警察官は涙を流して話を聞いてくれた。優しい刑事のお兄さんが、凛さんは一生背負うかもしれない傷を負ったのに、相手は何も人生変わってないんだよ、嫌な事されたら、蹴っても殴ってもいいんだよって言ってくれた。警察のセリフでは無いけど、嬉しかった。でも結局復讐が出来たのかは分からないし、親に心配と迷惑をかけて終わりだったから、話さない方が良かったかもしれないとも思った。所詮、関わった自分が悪いのだから。親の前で愛着障害気味な所を露呈させただけだった。

大学受験、8kg痩せる

10月くらいから彼からのモラハラに苦しめられてはいたものの、どんなに嫌な事を言われても逃げるように勉強を頑張ってたし、出会った時から勉強モチベとしてこいつを利用するだけして、絶対に勉強に支障が出ないようにする、と決めていた。特に酷い事を言われた翌日は休み時間も友達と話さずに勉強するくらいだった。それでも全然冬にはメンブレしまくってて、塾では先生が黒板を書いてる間に精神薬を飲んで落ち着かせるレベルだったし、あっちょっと目が痛くて・・・とか言って嘘みたいな誤魔化し方で泣いたりもしてた。

それでも11月に受けた推薦当日はこれ以上ないくらい手応えがあって、誰よりもキラキラした表情でペンを置いた。これで落ちたら採点官の目が腐ってると思って合否が出るまでの1週間はアンナチュラルとか見てた。結局、採点官の目は腐ってた。人材登用ミス乙。対あり。なんか信じられかったけど、あの時期はもう不合格よりも悲しい事がありすぎて全然落ち込む暇がなかった。ここまで不幸が続くともはや上がるだけすぎて有難いと思った。まず私のクラスで推薦を受ける人は5人くらいしかいなくて、私が受ける前に推薦を受けた友達は次々と合格していったから私も受かってるでしょみたいな流れだった。合否を見てから学校に行って、クラスの皆の前で推薦落ちました〜!私の人生やっと始まったわ〜!!って明るく宣言して、みんな、いぇ〜〜…ええええ??マジ?!みたいな反応だった。でも皆優しくて、やっぱ凛は一般でうちらと受かる運命なんだよなwとか国立志望の子はこちらの世界へようこそ^^とか言ってくれた。今思うと辛すぎるだろあれ。普通に地獄の中にあっただろ。

1月の始業式の日は、周りは共通テストやばいね〜頑張ろうね〜みたいな雰囲気だったのに、まともに睡眠も取れず学校でも親と弁護士と連絡を取ってた私は、1人だけ全く受験に向き合えていないことに悲しくなった。受験が終わってから色々と事を進めようとも言ってたけど、私は彼を放置する事で今にも他の女の子が性被害に遭ってるかもしれないんだから早く解決して終わりたいと思ってた。てかそもそもあんな状況で勉強なんて集中できてなかったし。

親とかTwitterの人には、辛かったね、とかも言われたけど、必ずその後にはまあでも今は勉強に集中しな!みたいな事言われて、かなりムカついてしまった。偽善的かもしれないが私は小さい頃から人の為に行動するタイプで、それが正しいと思って生きてきて、彼に優しくしたせいでこんな目に遭って、他の女の子の為に裁判でも示談でも良いから始末してやると思ってやってきたのに、その大事にしてきた私のイデオロギーが外側から否定された気がして、悲しかった。そんな風には思って言ってないだろうけど、私だって楽しく勉強して受験を終わらせて今頃大学生になりたかったし、できることはやったし、勉強1番でやってきたのに。どうしたら良かったんだろう、とばっかり自分を責めた。

これを言うと本当に偽善者過ぎるとは思うけど、本当に人の為にしか頑張れない体質なのは事実で、特に大学受験みたいに自分の為に勉強するとか本当に無理だった。友達に勉強を教える為とか、好きな人も頑張ってるからとか、先生や親が喜ぶからとか、そういう理由でしか勉強が出来なかった。なんか大学はこれまでの受験より人の為になれてる感がなかった気がする。私が勉強をサボっても誰も困らないなみたいな。全て、負け犬の遠吠えだけど。

結局全然起き上がれない日々が続いて、予期不安(またあのパニックが起きたらどうしようみたいなやつ)がヤバくて受験には行けなかった、というか直前まで行くか悩んで、辞めた。この日のために3年間を捧げたから本気で悔しかったけど、逃げてしまった。こだわりと志望度が高すぎて有り得ない事に私立1校しか出願してなかったから、ぬるっと浪人が決まった。同じ大学を受ける友達のLINEは最初は平然を装って返してたけど、受験日が近付くとしばらく見れなかった。周りは前を向いて頑張ろうとしてる中、私だけ受験戦争から離脱した罪悪感で死にそうだった。卒業式に友達には受験できなかった事を伝えて、それまでに健康になろうと思った。168cmで元々52kgだったけど、44kgになった。体調が悪いから病院に行かなきゃいけないのに体調が悪いから病院に行けない、みたいな日々だった。

卒業式に行くことを目標に、主治医(親友)に助けて貰いながら毎日何とか生活をした。毎日朝起きたら報告して、窓開けたら報告して、今日はこれを目標にやろうとか、今日は〇〇にご飯食べに行って、美味しかったかどうか教えて、とか。本当に1日1日生き延びる為のアドバイスをくれた。大好き。大体受験終わったかな…?ってタイミングで友達に一応LINEした。本当に皆優しかった。

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やさしすぎる
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ううう
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ありがとう

卒業式に向けて髪をレイヤーカットにしてまつパにも行って、何とか卒業式には行けた。皆が本当に優しかった。二次会の大人数カラオケは行けなかったけど、友達と二人で海の近くでご飯食べて解散した。卒業してからも比較的体調は良くなったけど、全然回復とは言えなかった。

精神科(閉鎖病棟)に入院してちょっと大丈夫になる

3月はたまに友達と会いながら好きに過ごした。でも4月になっても体重は戻らなくて勉強に戻れそうにもなかった。本当に憂鬱で結構自暴自棄だった。そんな時、父が留学に行ったら?と言ってくれた。

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軽いな

元々私は日本の大学が向いてないと思ってて、受験当日の成績だけで決まる感じとか、偏差値の序列がある感じとか、そのシステムが本当に嫌いだった。大学はもっと、学びたい事とか立地とか近所のラーメン屋の軒数とかで決めるべきだと思ってた。高1まではアメリカの大学に行きたくて、実際に大学を見に行ったり課外活動とかボランティアもやったけどTOEFLの勉強が大変すぎて英語が嫌いになりそうだったし学費も高すぎて海外大は諦めた。でもいつかは海外に行きたいと思ってた。それに、アメリカに行って銃殺されるよりも日本で自殺する可能性の方が高いと思った。私は結構新しい環境も楽しめるし、めっちゃええやん留学!と思って、すぐに行けそうな所を調べて、留学エージェントみたいなやつと契約して、ビザが即取れるという理由で約1ヶ月後にカナダの綺麗な田舎に行く事になった。最高な旅にして、英語力も精神力も鍛えて健康になって帰ってくる!と思った。でもホームステイ先の家がまさかのヒンドゥー系のビーガンで牛と豚は食べない家だった。もっと痩せちゃうやん。でもワクワクしかなかった。

しかし人生はそう上手くいかなかった。出発3日前の23時頃、わたしは母親と口論になって家を出て、自殺未遂をした。本当にただの衝動だった。家を出る前にとりあえず遺書を殴り書きして(愛してる、愛してる、とかしか書いてなかったと思う)父親に今までありがとうとだけLINEしてTwitterにみんな愛してる、と呟いた。結構冷静になれるタイミングあったはずなのになれなかった。薬は少し飲んだけどODとかせずシラフのままで気付いたら海に入ってた。私の家は海が近いのと、溺死した人は苦しみながらも亡くなる寸前は「気持ちいいなあ…」と思いながら死ぬ、と言うのを聞いたことがあったから入水に抵抗はなかった。あまりに突発的すぎて、自殺する人ってこうやって死ぬんだ、とか思った。

水が首まで浸かったくらいの時に、大丈夫ですか?って言ってくれた人がいたけど答えられなかった。ああ、こういう人がすごいすごいって警察から表彰されて、英雄になって人命を救うんだ、私は何も救われていないのに、と思った。意識が朦朧としてるうちに通行人に通報された。実際救助してくれた救急隊の人は全身が濡れるのに海の深い所まで助けに来てくれて、「 俺も寒いからさ(笑)こっち来てよ!」って手を掴んでくれて、その手が凄く凄く暖かくてびっくりした。海から出ると10人も20人も警察とか救急の人がいて、もう完全に生きてるのに、大丈夫なのに、なんでこんなに大人数なの?もっと致命的な人の所に行って他の仕事に当たってよ!と思った。悔しかった。ごめん、ごめん、しか言えなかった。

救急車に乗った時点で、入院が決まった時点で、ただ生きてても死んでても変わらないような人間1人のお世話代がかかることが決まって、まだ人生が続くことが決まっちゃって、本当に絶望した。今まで恵まれた人生だったとは思うけど、やっぱり私は身勝手で自己中だからどこへ行っても死ぬ理由を探してて、生きる理由とかあんまないと思ってるから余計、今が死ぬ時なんだって思って、今ならもうどうなってもいいんじゃないかって、それまで抱えてた生きづらさと息苦しさを晴らしてくれる解決策がハッキリ見えた気になった。それが、あの日の夜だった。死なない為に留学を決めたのに、あと一歩、間に合わなかった。

救急車の中の記憶は誰かが人定提供してあげて、とか言ってたくらいしかない。またもや慈恵医大に運ばれて2日くらい救急入院した。何回も採血とか点滴とかやられてよく分からない心電図シールみたいなやつ付いてた。色んな看護師さんに「今日退院したい、明日フライトだから」って言っても「今日は無理、明日様子見てからね」としか言われなくて、体も良くなって今が正常なのにいつまでも異常者扱いやめてくれよとか思った。精神科医に「もう(未遂)やらないでね」とか言われて、お前に何がわかんだよと思った。でも患者の気持ちがわかる人間は精神科医になれないな、と思った。

退院の時は母親が迎えに来てくれて一緒に家に帰った。家に着くまでも着いてからも一切口を聞いてくれなくて、スマホの中身も全部見られてて、スマホどこ?って聞いてももう無いよ、しか言われなかった。ごめん、とか言っても全然無駄でフル無視で、父親だけはわかってくれるんじゃないかと思って父親と話したいって母親に言ったら、電話でスピーカーなら良いよとか言われて、繋いで、「迷惑かけてごめん」って言ったら、「は?もうお前そういうのいいよ、切るね」しか言われなくて、余計死にたくなった。この希死念慮は死ぬまで永遠に肯定されることはないんだと思った。いや絶対、親にはめちゃくちゃ愛されてる。私だけが愛されてない気がしてるだけ。なんて親不孝なんだ、と思った。でも死にたい気持ちは変わらなかった。

翌日も家を出ようとして親に警察呼ばれて、数時間部屋の中に警察が居座ってた。私の様子を見てこれはもう入院レベルですねって話になった。後日家の近くの精神科に行って入院出来そうな病院があったらする事になって、2日くらいで入院先が見つかった。

閉鎖病棟だったけど、私の病院は割と開放的な印象だった。檻みたいなのは無かったし拘束もなかった。最初の1週間は保護室で過ごした。保護室は隔離室とも呼ばれて、自傷・他害の可能性のある重度の患者が入る部屋。二十扉でデカイ磨りガラスっぽい窓が1個ついてて、マットレス1個と水筒が1つ。ナースコールはないから看護師さんを呼びたい時は天井のカメラとモニターに向かって叫ぶか手を振るしかない。トイレはギリカメラに映らない場所に仕切られてある。部屋は何も持ち込めないし殺風景な部屋でマジで悪い事した気分だった。自傷・他害を防ぐためにスプーンとか水筒もぷにぷにで離乳食用の食器みたいだった。

24時間の監視体制はしんどかったけど、特に変な行動はしなかったから1週間で普通の病室に移ることが出来た。日中は保護室とか病室とは別にホール(机、椅子、テレビ、本、卓球台、折り紙、ピアノとかがある場所)に出る事が出来て、そこで他の患者さんと喋ったり割と好きな事して時間が過ごせる感じだった。ホールに出ると色んな患者さんがいたけど、私の病棟は青年期病棟で10代が多かったから修学旅行とか合宿みたいな雰囲気だった。

ホールに出た初日に病棟の長みたいな21歳の男にやっほー。よろしく。とか言われて、お風呂場はあっちで洗濯機はあっちとか色々教えて貰った。基本私は単独行動を貫いてて、何で皆心に闇を抱えてるのを知りながらあんなに修学旅行の夜みたいにワイワイできるんだろう…と思ってたけど、1ヶ月もいるとなると流石に話しかけられるか喋りかけたくなって、顔見知りが徐々に増えた。摂食障害の人もいれば統合失調症とか解離性みたいな人も居たと思うけど、大体皆ピアスバチバチでリスカしまくってる感じだった。

しばらくすると作業療法(OT)が始まるけど、先輩患者さんが「俺ナチュラルガーデン取ったけどマジ楽しいよ」「私誰も取らない音楽鑑賞取っちゃって本当つまんない」とか言ってて、そんな大学の履修登録みたいに選べるのか、と思った。私は、絵と書道と革細工のOTに参加した。

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大人の塗り絵(地味に時間がかかる)
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書道(何て読むかわからないお手本ばかりでした)
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革細工(もっと茶色い感じかと思ったでしょ?)

入院して2週間くらい経った時、摂食障害で2個上?のイコラブファンの女の可愛い先輩と仲良くなって、先輩は大学とか韓国語の勉強をしてて、私は英語の勉強を再開してたからよく一緒にホールで勉強してくれた。優しかった;;OTも被ってたから一緒に喋りながら作業したりしてくれた。たまに先輩患者さん達と集まって人狼とかUNOとか初めてやるカードゲームとかもやった。先輩に今日はイコラブがCDTV出るから19時にテレビ集合ね!とか言われて一緒に見たり、皆でMステとかも見たりもした。でも大体人と喋った翌日は疲弊して病室から出れなくなってた。基本私は病室で友達とLINEするか本読むか絵書くかして、ホールではピアノで椎名林檎弾いてた。夜は英語で日記を書いて電話室で音読したりもしてた。

誰かが退院する時、皆が出口までお見送りして、またね〜ばいば〜い!!みたいなのをやるノリがあって、スタバのバイトが卒業する時みたいだなとか思いながら冷笑してたけど、自分が退院する時には一緒に勉強してくれてたあの女の先輩がぴょんぴょん飛びながらばいば〜〜い!!!って見送りに来てくれて、なにこれ、泣いちゃうよ、と思った。私も手を振りながらがんばってね〜〜!!とか言ってたし。連絡先交換は禁止だったけど、自分の連絡先だけでも書いて渡しておけばよかった。今だからそう思うだけだけど。あの時に喋ってくれた患者さんたちが、どんな人生を送ってるか知りたい。元気にしてるかな。学校とか仕事とか行けてんのかな。

〜振り返り〜
ここまで読んでくれた人いるのかな。いたら嬉しいな、わたしの人生に興味を持ってくれてありがとう。ずっと私の居場所はここじゃない感があって、違う世界を見てみたくて、それなりにもがいて自分の居場所を探してきた。それでもまだまだわからない!これが世界ならクソだろ世の中、虚しい、悲しい、バカらしい、殺したい、愛したい、アイツになりたい、私の今まではそんな事だらけだったけど、私はこれからも私のまま大人になりたい。強くなりたい。色々諦めることもあるけど、生きることだけは諦めたくないなとは思ってる。思ってるだけだけど。わたし、がんばれ!世界で1番大好きだよ、今までの伏線回収、楽しみだね

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18年間の人生グラフ |凛
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